2016年8月29日月曜日

「学的関心」をリストアップしました

自分の過去を振り返って結局最も強く「学的関心」を抱いてきたテーマをリストアップしました。今後日々変動するものと思われます。

現代思想としての組織神学
弁証法神学の問題点
ファン・ルーラーの人と神学
キリスト教と「人間嫌い」
インターネット時代の教会
倫理と宗教の関係

主語を省略する訓練をしているつもりです

内容とは関係ありません
前にも書いたことがありますが、そもそも私がブログとSNSを始めた最初で最大の「動機」は、ファン・ルーラーの翻訳をしていく中で、それが「日本語にならないこと」を苦にして、どうしたら「日本語」になるかを模索するために、「日本語」を書く訓練をしようと思ったことです。

オランダ語でもドイツ語でも英語でも基本的に、命令形以外はすべての文章に「主語」はあるわけですよね。ik benとかIch binとかI amとか。それを全部「私は」「私は」「私は」と主語をつけて訳していくのが「厳密な訳」ではあると思うのですが、そういう文章は「日本語」らしくない。

そのあたりで悩み始めて、主語をできるだけ省略して文章を短く切り詰め、歯切れのよいリズムをどうやって作っていくかを求める場としてブログとSNSを使いはじめた次第です。金谷武洋氏の『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)という本はよく読み、ずいぶん影響を受けました。

なんでいまこんなことを書いているのかといえば、私が書く文章に「具体的経験の一般化」をしばしば読み取られる方がおられるので、原因を考えてみた結果、それは私が「主語を省略した文章」を書くからではないかと思い至り、それは私が意図的にしていることですよ、と釈明しているといったところです。

それでも注意深くお読みいただけるなら意外と私は脇固めしながら書いているところがあり、「思うに」とか「と感じる」とか、これは一般化ではなくあくまでも主観的な私見であるということが分かるように書いているつもりです。日本語の動詞がギリシア語のように格変化すればいいのですが、しないので。

2016年8月28日日曜日

神が全力であなたを救う(千葉北総教会)

日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市)
◎礼拝後は、流しそうめん、スイカ割り、かき氷、スーパーボールすくい(画像なし)でたいへん盛り上がりました!
流しそうめん!
スイカ割り!
かき氷!
フィリピの信徒への手紙1・15~20

関口 康(日本基督教団教務教師)

「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと説に願い、希望しています。」

千葉北総教会の皆さま、おはようございます。今日は貴教会の礼拝にお招きいただき、ありがとうございます。また、先日は高校生たちの教会訪問を喜んで受け入れていただき、感謝いたします。

千葉県に住むようになって12年と5ヶ月となります。最初は松戸市内の教会の牧師として来ました。そして今年4月に日本基督教団の教務教師になり、高校で聖書を教えるようになりました。今年は私にとって激変の年となりましたが、周りの人の目で見るとあまりそんなふうに見えないようです。

と言いますのは、日本基督教団は私の古巣だからです。教師たちの中に大勢知り合いがいます。その人たちからすれば、私は昔から何も変わっていないようです。

貴教会の大串眞先生は東京神学大学の先輩です。在学期間が重なっています。大串先生の最初の任地の宿毛栄光教会(高知県宿毛市)と同じ四国教区高知分区の南国教会(高知県南国市)が私の牧師としての出発点です。そのような関係です。

またもう一点、どうしても紹介させていただきたいのは、大串先生のおくさまのお父上の香西民雄(こうざいたみお)先生が、私が卒業した岡山朝日高等学校で化学を教えていただいた恩師であるということです。

香西先生は無教会派の熱心なキリスト者です。私が高校を卒業してすぐに東京神学大学に入学することを高校3年の夏休みに決心し、それをクラス担任に伝えたところ、「わし(私)のような凡人には指導できません。勝手にせられえ(しなさい)」と見放されてしまったのですが、香西先生ともう一人おられたキリスト者の先生のお二人は、私の決意を喜んでくださり、応援してくださいました。

その私にとって高校時代最大の恩師の娘さんと大串先生がご結婚なさることを知って驚いたことを、まるで昨日のことのように覚えています。

そのようなわけで、今年4月に西千葉教会で開催された千葉支区総会で「新人教師」のご挨拶をさせていただいたときの雰囲気は、「はじめまして」というよりは「ただいま帰りました」「お帰りなさい」というもので、なんとも複雑な心境であったことを正直に告白しておきます。

さて、今日は貴教会が毎月1度(第4週)に行っておられる「伝道礼拝」とのことで、教会訪問をさせていただいた高校生たちにも案内はがきをお送りいただいたとのこと、ありがとうございます。高校生には私からも、ぜひ続けて千葉北総教会の礼拝に出席するようにと、勧めさせていただきます。

今日の聖書の箇所は新約聖書のフィリピの信徒への手紙1章15節から20節までです。この箇所に書かれていることは「伝道礼拝」という場にふさわしくない内容かもしれませんが、あえて選ばせていただきました。

なぜふさわしくないかもしれないと思うかといえば、「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいる」(15節)というようなことが、書かれているからです。ショックを受ける方がおられるかもしれません。「ねたみ」や「争い」というのは、人間の心の中の最もネガティヴで醜い感情だからです。

この感情を抱いているときのわたしたちは、表情までおかしくなっています。はたから見て分かる。心の奥底に隠し通すことが難しい、とても厄介な感情です。そのような最もネガティヴで醜い感情を抱き、しかもそれが「動機」であるというような仕方で「キリストを宣べ伝える」人がいるということが鋭く指摘されているのがこの箇所です。

それは明らかに不健全で「不純な動機」(17節)です。そうでない人もいるということも書かれていますが、やはり気になるのは、だんぜん不健全な人のほうです。健全な人のことは、あまり気になりません。

しかし「キリストを宣べ伝えること」は、明らかに健全な行為として言われていることです。この手紙を書いた使徒パウロが、自分の人生を賭けて、まさに命がけで、全力で取り組んできたことです。不健全なことに自分の命を献げる人はいないとは言えません。それはとても恐ろしいことです。

しかし、「キリストを宣べ伝えること」は、不健全な行為ではありません。人生に行き詰まりを感じている人、悩みを抱え、助けを求めている人に真の救い主イエス・キリストの存在を知らせ、この方に依り頼んで生きることの意味を教え、その喜びと安心の中で生きる人々の人生に現実に寄り添うことです。それが不健全なことであるはずはありません。

しかし、その健全な行為をする人の中に、ねたみや争いというような不健全な動機を持っている人がいると言い切られているのですから、穏やかではありません。そういう人が何人か混ざっているが、ほとんどの人はそうでないという意味かどうかは分かりません。指摘されているのは、そういう人がいる、現実に存在する、ということだけです。

しかし、そのことを指摘したうえでパウロは、それがどうしたと言っています。「動機」など問題ではないと言っています。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知されているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)。

この箇所の論点とは食い違うことかもしれませんが、「動機を問題にすること」については、わたしたちの身に覚えがあることがあるのではないかと思います。

たとえばキリスト教学校の生徒たちが教会訪問をさせていただくことです。もし彼らに「動機」を問うなら、「学校が行けと言ったから」「成績や卒業や進学に関係するから」と答えるでしょう。

しかし、教会はどうでしょうか。そういう「動機」を不純とみなして、彼らを教会から締め出すでしょうか。そんなことをしていいでしょうか。

今日の箇所に書かれていることとそれは話が全く違うと思われるかもしれません。パウロが書いているのは「教会に来る人の動機」ではなく「キリストを宣べ伝える人の動機」である。教会に来る人にはそれぞれ複雑な事情がある。人に言えない動機を抱えてくるのは当然である。しかしキリストを宣べ伝える人ともあろう存在が不健全で不純な動機を持っているようでは困る。そういう人間は徹底的に排除すべきである、と思われるかもしれません。

しかし、この箇所にパウロが書いているのは、そちらのほうです。「キリストを宣べ伝える人の動機」のほうです。それがたとえ不純なものであっても、「それがなんであろう」、何の問題もないと言っています。

そのようにパウロ自身が書いているわけではありませんが、人が心に抱く「動機」など毎日変わるものだと彼自身も考えている可能性があります。「ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます」(15節)というのも、二種類の人がいるという話ではなく、同じひとりの人の中で日々変動する心の状態を言っているのかもしれません。

わたしたちの身に覚えがないでしょうか。「若いころは、もっと純粋だった。でも、だんだん変わってきた。教会に行くたびに、あの人が出世した、あの人の子どもさんが立派な学校に入った、あの人は幸せそうだ、というようなことばかり気になる。私はちっとも変わらないし、嫌なことばかり。ああ悔しい、今に見ておれ」。

そういう「ねたみ」や「争い」の感情にとらわれて教会の中で競争心を燃やすようになれば、パウロがその存在を鋭く指摘している「不純な動機の伝道者」と大差ありません。しかし、パウロは「動機は問題ではない」と言ってくれています。「キリストを宣べ伝える動機」が問題でないなら、「教会に通う動機」はもっと問題ではありません。

再び学校の話をさせていただきます。日本のキリスト教学校には「キリスト者推薦入試制度」があります。その中に「洗礼を受けていること」を推薦条件に挙げている学校があります。高校生にとって大学入試は人生の一大事です。わらをもすがる思いです。その中で「推薦を受けるために洗礼を受けたい」という動機を抱く生徒が現われるかもしれません。

しかし、教会はどうでしょうか。「そんな不純な動機では困る」と断り、門前払いするでしょうか。そもそもそれは「不純な動機」でしょうか。大学入試は人生の一大事なのです。

みなさんにお考えいただきたいのは、もしそういう高校生がパウロ牧師のもとを訪ねて自分の願いを打ち明けたとき、どのように答えてくれるでしょうかということです。

「動機が不純な人間は教会に来るな」と言うでしょうか。言わないのではないでしょうか。「キリストを宣べ伝える動機」でさえ「そんなことは問題ではない」と言ってくれるパウロ牧師です。「全く問題ない。きみの人生だ。ぜひ洗礼を受けなさい」と言ってくれるのではないでしょうか。

「動機」は毎日変わります。人の心は移ろいやすい。昨日考えていたことと、今日考えていることと、明日考えるであろうことは全く違います。就職でも、あるいは結婚でも、最初の動機と今の動機は同じでしょうか、そんなことはありえない。

今日の聖書の箇所の主旨から遠く離れてしまっているかもしれません。しかし、今日私がお伝えしたいと最も願ったのは、今申し上げていることです。

パウロが「動機は問題ではない」とする理由が書かれています。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(19~20節)。

どうしてこれが理由になるのかを説明するのは難しいことです。かろうじて分かるのは、キリストが宣べ伝えられていることがとにかく大事であるということだけです。それが「わたしの救い」になるとパウロが言っていますが、彼自身の自己満足を言いたいのではありません。

「わたしの身によって」とは、どんな動機であれ、教会の伝道活動が続けられていることが分かればそれで救われた思いになるパウロの身によって、です。この私を見て、私と共にキリストを信じ、礼拝する人々が増えていきますように、というパウロの祈りがここにあります。

パウロの祈りを裏書きしている彼の信仰は、突き詰めて言えば、教会の伝道活動は日々変動する人間の思いや動機に左右されるものではない、ということです。

人の思いではなく、神の思い、神の御心、神のご計画によるものだ、ということです。

人の思いを超えて働く神は、人の心の奥底に潜む「不純な動機」さえお用いになって、助けを求める人に救いの言葉を届け、救うために全力を尽くしてくださる方である、ということです。

もし「動機」を問われるなら、今日の説教者である私の心が純粋かどうかも問われることになりますが、さて、どうでしょう。笑ってごまかさなくてはならない面がないかどうか。あまり深く追及しないでください。私も誰のことも追い詰めません。「動機」は問いません。すべては神がご存じです。

千葉北総教会のみなさんのため、大串先生ご一家のために、これからもお祈りさせていただきます。私のため、また高校生たちのために、どうかお祈りください。よろしくお願いいたします。

(2016年8月28日、日本基督教団千葉北総教会伝道礼拝)

2016年8月27日土曜日

「ナニ閥」でもない面々が集まるからこそ各自一生懸命考える

千葉県道4号(千葉竜ヶ崎線)にて
そう。ひとつ自分の悪いくせに気づく。「○○を~~と理解できない人は相手にしない」ということがなかなかできない。「これこれな人は相手にしない」ということが。基本どんな人も相手にしてしまう。これが良くないのだろう。「これこれな人を相手にして」良い結果になったためしはない。でもそれが。

「学閥」という字の読み方を忘れそうになるほど(これはウソ)そういうのと無縁の半生を送ってきたが(これは事実)、そういうのから自由に生きていくには、とにかく自分で勉強し、自分の頭で考えることをやめないでいるしかない。最初の色が抜けないなら、自分で別のところに動いて混ぜちゃえばいい。

考えてみれば、幸か不幸かこれまで私に影響を及ぼしてきた教師たち(とくに学校と教会の教師たち)は、いろいろ混ざっている人ばかりだった。その人たちの中ですでに混ざっていて、その混ざっている複数の人たちから学ぶ私の中でもっと混ざる。純血とか正統とかそれが何なのか全く分からなくなるほど。

それがかつては嫌だった。他人を嫌がったわけではない。カオスの中で耐えられるほどの自分を持ちえていないと感じるその自分が嫌だった。自分の身に余ろうと「サウルの鎧」を手に入れるほうがましだと思った。自分を守るためだったのかと言われればそのとおり。自分以外のだれが自分を守ってくれたか。

まあ、今書いたことは掘り始めると長くなるので置いておこう。すでにその人たちの中でいろいろ混ざっている複数の人たちに教えられてきた以上、私の中でもっと混ざるのは当然だ。人のせいにしたいのではない。学閥フリーな生き方を求めている方がおられるなら何かの参考になるのではないかと思うだけだ。

「ナニ閥」から意図的に外れるような生き方を選べば、自分の人事や将来に不安が生じるのは避けられない、かもしれない。でも、「ナニ閥」で生きている「先生」職の人ほどつまらない存在はいない。自分の頭で考えていないことがありあり伝わってくるようなことを舌先三寸ですらすら言えてしまっている。

いま書いていることに結論なんかは初めから無いので、突然終わっても問題はない。ただ、「ナニ閥」にも属さないことを苦にしている方々への希望のメッセージになればと願ってはいる。面白い人は周囲が放っておかない(たぶん)。真に面白ければ。グレートな人の茶坊主は面白くない。見るからにイタイ。

心底幸いなことだが、勤務校の聖書科(宗教科)の先生がたが基本みんな混ざっている。マザリン(というカシスリキュールがあるそうで)と呼ばせてもらいたいくらいの混ざり具合なのが素晴らしい。「ナニ閥」でもない面々が集まるからこそ各自一生懸命考える。「頭を使わない先生」なんて概念矛盾だよ。

2016年8月26日金曜日

百学連環における退屈な存在

本日(8月26日金曜日)午前6時40分の首都圏の空模様
西周が考案したとされる「百学連環」という秀逸な訳語をその後の日本の哲学者が採用せず「エンチュクロペディー」などとまるで単に素人読者を追い払いたいだけかのようなほぼ意味不明のカタカナ語を使うようになったのはもったいないと思える。「百学連環」をよみがえらせて済む問題ではなさそうだが。

もちろん「百学連環」はいかにも翻訳調ではあろう。だが、エンチュクロペディー(エンサイクロペディア)の「サイクル」の要素を端的な熟語できっちり言えている。天才の仕事だと思う。そう、百学は「連環」している。孤立して自給自足している学などは存在せず、相互に関連しあい、循環しあっている。

主導権争いはあろう。という言い方をすると悪意に満ちた争いのことだけになってしまうかもしれないが、私が思うのは「指揮者のいないオーケストラは成り立ちそうにない」ということだけだ。しかし、息継ぎなしに同時に言わなければならないのは「指揮者だけのオーケストラは存在しない」ということだ。

大先輩の先生(地歴科)とのおしゃべりで「なぜ教会は一夫一婦制を言うのか」と問われたので「聖書の神が嫉妬深い神だからではないか」と答えたら「なるほど、聖書の神は他の神よりまじめすぎて人気がない退屈な神だもんね」と返ってきて面白かった。その場しのぎのチャラチャラした神ではないのだよ。

楽器というものを一切使えない人間で、現実のオーケストラに参加したことがないので、現実の指揮者の実像は知らない(知りたいという願いはないし、実例紹介を求めてもいない)。強さ、厳しさ、激しさは不可欠である気がする。だが、謙遜のかけらもない破壊者タイプの人に務まる役目ではない気もする。

キリスト教学校の「アイデンティティ教科」ないし「ハブ教科」を改めてめざす必要が生じているかもしれない「聖書科」(文科省的な呼称では「宗教科」)は果たして他の教科と同等の意味の「教科」なのかという問いは、潜在的にも顕在的にもあるし、かなり根深い。最近ずっと考えているのはその問題だ。

いま思いついたばかりのたとえを用いていえば、キリスト教学校にとって「聖書科(宗教科)」は、それの停止をもって生命活動の終焉の一指標とされる心臓のような存在なのか、それともある意味それとは全く対極のようである盲腸(実は重要な役割があるらしいという説を最近読んだ)のような存在なのか。

どちらでも構わないのではないかという心境に実は近づいている。心臓でも盲腸でも。なんらかのつながりさえあれば。心配しているのではない。つながりは必ずある。「聖書科(宗教科)」が現代の学校教育の「百学連環」の内部にとどまれているかどうかは怪しいが、全くの無駄骨だなどとは全く感じない。

全体の連携や循環をストップさせず、むしろできるだけそれを活発かつ円滑にするような役割が「聖書科(宗教科)」にあればいいと思うし、意外に(意外に)大切だと思う。風の吹き去るもみがらのごとき存在とか言うと叱られるだろうか。地味で目立たない退屈な存在であるほうが聖書の神に近い気がする。

2016年8月25日木曜日

向いているか向いていないかは自分には分からない

紙カップはすすいでお茶を飲むために再利用
昨日と今日は中学生と保護者対象の「学校見学体験会」だった。私は校内美化とチャペル受付と誘導案内。誇張なく非常に多くの見学者。受験者増の予感。「ぜひ本校をお選びください!」心からそう願っている。

今日は17時30分帰宅。通勤路(往復44キロ)が途中2箇所(国道16号の船橋市小室と八千代市米本)で渋滞するので困っていたところ、もっと早く着ける道を発見。今日初めて往復。往復53キロであると分かる。早さをとるか燃費をとるか。

相談を受けたという言い方は当てはまらないが、キリスト教を大学で勉強してみたいと言う。そういうニードであれば首都圏なら圧倒的に立教さんのキリスト教学科さんがいちばんいいと思うと即答した。同様のニードは潜在的にけっこうあると思うので立教さんにはもっと門戸を広げていただきたい気がする。

そうでない人をどうこう言う意図で書くのではないが、私は自分の子どもの進路の問題が解決し、それぞれの道を進んでくれているので、そのあたりの問題に関して以前より発言しやすくなっている。結局自分の子どもの話なのね、それ親の欲目だよね、という見方をされる危険性が減ったというか無くなった。

2016年8月23日火曜日

「受容史研究の一次資料」としての「読者の書き込み」

昨日届いた岩波文庫版ジンメル『哲学の根本問題』(初版)に書き込みがあろうと保存状態がどうだろうと全く気にならないし、かえって興味がわくのは、哲学や神学に関して「日本における(翻訳を経た)それの受容史」という関心を私が常に強く抱いていることと関係があることに、今朝ふと気付かされた。

「受容史」は端的に面白い。組織神学において私が知っている先行例は、カール・バルトの神学が、たとえばオランダの教会に、あるいは南アフリカの教会に、日本の教会にどのような経緯で受容されたかを追っていくものである。改革派神学のアメリカ教会への受容の歴史を追ったものも、何冊か持っている。

「受容史」の研究には、思想の内容だけでなく、それを持ち運んだ形式である「本」の現物を見たり触ったりすることが不可欠だ。「こんなぼろっちい紙が使われていたのか」とか「こういう読みづらい活字や字体が使われていたのか」とか、読者がどういう反応をしてどういう書き込みをしたのかは興味大だ。

(左)勝田守一・玉井茂訳(1938年)、(右)生松敬三訳(1978年)

2016年8月22日月曜日

雨ニモマケズ風ニモマケズ

私の夏休みは昨日終わり、今日から出勤となりましたが、さっそく1時間早退しました。毎日1錠服用している血圧降下剤の残錠が無くなり、続きをもらう必要が生じました。台風9号直撃中の帰宅でしたが、なんとか無事にクリニックにたどり着きました。

クリニックの待合室で「台風9号上陸」のニュース
台風9号直撃中、血圧降下剤を薬局で受け取り、帰宅したところ、最近ヤフオクで落札した岩波文庫版のジンメル『哲学の根本問題』(初版)が届いていました。出品時に手違いがあったと出品者からお詫びの切手同封。とても恐縮。ありがとうございます。

岩波文庫版ジンメル『哲学の根本問題』(初版)

伝道礼拝のご案内

親愛なる各位

来週日曜日(2016年8月28日)、日本基督教団千葉北総教会の「伝道礼拝」で説教のご奉仕をさせていただきます。とても親切で素晴らしい教会です。心をこめてご奉仕いたします。どなたもぜひお集まりください。

(2016年8月22日、関口記す)

日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市)

「日本基督教団千葉北総教会 伝道礼拝」ご案内

日時 2016年8月28日(日)午前10時30分~11時45分

場所 日本基督教団千葉北総教会(大串眞牧師)

住所 千葉県印西市草深天王脇1139-7(〒270-1337)

説教 「神が全力であなたを救う」関口康(日本基督教団教務教師)

聖書 フィリピの信徒への手紙1章15~20節

【告知!】

礼拝後「そうめん流し、スイカ割り、かき氷、スーパーボールすくい」が行われます!

◎アクセス等は千葉北総教会の公式ホームページをご覧ください。

「日本基督教団千葉北総教会」公式ホームページアドレス
http://hokuso-church.la.coocan.jp/

2016年8月21日日曜日

夏のまぼろし

私の夏休みは今日で終わり。結局どこにも行きませんでした。ずっと書斎に引きこもっていました。せめて最終日の記念にと思い、今日阿佐谷東教会で説教させていただいた帰りに近くを通った東京スカイツリーを撮りました。中に入ったことはありません。

東京スカイツリー
今日は阿佐谷東教会で説教させていただいた帰りに浅草も通りましたが、車で走り抜けただけです。多くの人々で賑わっていましたし、人力車に乗って楽しんでいる人もいました。私にはガソリンエンジンで動く車がありますので、人力車には乗らないです。

浅草付近
「今年の夏休みはどこにも行かなかった」と書きましたが、そもそも旅行が得意でないので、今年に始まった話ではありません。山も海も街も外国も行きませんでしたので、夏休み最終日の記念に書斎のベランダから富士山と東京スカイツリーを撮りました。

東京スカイツリーと富士山
今年の夏休みはイベントにもキャンプにも花火大会にも行かなかったし、と書こうとしたら、窓の外に突然巨大な花火が打ち上がったので驚きました。借家から1キロしか離れていない麗澤大学(千葉県柏市光ヶ丘)の花火大会でした。麗澤さんありがとう!

麗澤大学の花火
他の人に無関係なことなのでしつこく書かないでいますが、今年の夏休みの最大の出来事は「ガーネット・クロウさんに魅了されたこと」。毎日朝から深夜までユーチューブで視聴していました。それが私の引きこもりの「原因」なのか「結果」なのかは現在調査中です。Vo中村さんだけでなく、みんないい!

神は世界を傲慢から救う(阿佐谷東教会)

日本基督教団阿佐谷東教会(東京都杉並区阿佐谷北5-13-2)
コリントの信徒への手紙一1章26~31節

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあがたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

阿佐谷東教会の皆さま、はじめまして。私はいま、千葉県八千代市にある日本基督教団関係学校である高校で聖書を教えています。日本基督教団教務教師の関口康と申します。今日はどうかよろしくお願いいたします。

なぜ私が今日、講壇に立たせていただいているのか。そのことを最初にお話しすることで自己紹介とさせていただきます。私は貴教会牧師の坂下道朗先生の東京神学大学の後輩です。いわばそれだけです。坂下先生からご連絡いただいたのは5月の半ばです。

しかし、その日から今日までの3ヶ月間、坂下先生と直接お目にかかる機会がついぞありませんでした。メールのやりとりだけでした。坂下先生とお会いしたのは27年くらい前です。それから一度もお目にかかっていません。

しかも、坂下先生は東京都内にご実家がおありで、東京神学大学にはご自宅から通っておられました。私は学生寮で6年間過ごしました。寮生と通学生は仲が悪いわけではありませんが、実はあまり接点がありません。

あともう一つ付け加えますと、私は1990年4月に日本基督教団の教師になりましたが、その7年後の1997年から昨年末(2015年12月末)までの19年間は、別の教派の教師をしていました。そして、この春に転入試験を受けて教団に戻ってきた人間です。

このことを言いますと必ず出てくる質問は、なぜ日本基督教団を出たのか、なぜ戻ってきたのかということですが、その質問にはっきり答えることができない人間です。転入試験で面接があり、その場にずらりと並んだ教師検定委員からその質問を受けましたが、そのときもはっきり答えることができませんでした。それで通してくださった教師検定委員会の皆さまに感謝しています。

日本基督教団が嫌になったから出て行ったとか、行った先の教派が嫌になったから教団に戻ってきたとか、そのようなことは考えたこともありません。自分の感情に任せて行動したつもりはありません。そのことはどうかご信頼いただきたく願っております。

私の話が長くなりました。申し訳ございません。先ほど司会者の方に朗読していただいたコリントの信徒への手紙一の1章26節から31節までを説明し、メッセージを述べさせていただきます。

最近の聖書学者たちは、新約聖書のいわゆるパウロ書簡の中のいくつかは、パウロが書いたものではなく、パウロの名前を借りた別の人が書いたものであるというようなことを盛んに議論する傾向にありますので、だんだん自信がなくなります。しかし、今日お読みしましたこの手紙のこの箇所は、使徒パウロが書きました。そのことを自信をもって堂々と宣言いたします。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい」(26節a)とあります。この訳で間違ってはいませんが、ずいぶん柔らかくなっています。「思い起こしてみなさい」は「見る」という言葉です。「召された」は「呼ばれる」です。声をかけられることです。私は坂下先生を通して神から今日の説教をするようにと命ぜられました。それと同じ意味です。何かの働きにつきなさい、この仕事をしなさいと、声をかけていただくことです。

そのときのことを「思い起こしてみなさい」と言われています。その意味は「見なさい」です。もう少し強く言えば「直視しなさい」です。直視するのは、その頃の自分自身のぶざまな姿です。なぜぶざまなのか。初めは何も知りません。どうすればよいかが分かりません。思い出すのも恥ずかしい。そのぶざまな姿です。

しかも、パウロが書いているのはキリスト者の信仰の問題であり、教会生活の問題です。「召された」は「呼ばれた」です。呼んだのは神さまです。「わたしに従いなさい」という、神の声なき声です。その神の声を、聖書を通して、教会を通して、説教を通して聴き、神に従うことを決心し、約束しました。キリスト者の過去には必ずそういう日があります。その日のことを思い起こしてみなさい。そのときの自分の姿を直視しなさい、と言われています。

それによって思い出される自分たちの姿はどのようなものでしょうか。それが次に書かれています。「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません」(26節b)。

この「人間的に見て」も直訳すれば「肉によれば」です。「肉」(サルクス)という言葉が使われています。人間存在を構成する肉体です。その「肉」が「人間」という意味になります。べつに悪い意味ではありません。肉は汚らわしいから人間も汚らわしいという意味ではありません。

パウロが言いたいことは、はっきりしています。「わたしに従いなさい」と神からお呼びがかかり、その声に従うことを決心し、約束したときの自分自身の姿を思い出しなさい。目をそらさないで直視しなさいということです。

そして、ここに時間の次元がかかわってきます。時間的な過去の自分を思い出すことが求められています。今より若かった頃の自分の姿です。当時はまだ「知恵」も「能力」もあった。そういうことを皆さんは覚えているでしょう。忘れたとは言わせません。そのようにパウロは言おうとしています。また「家柄」というのは、自分の努力で得るものというよりは、親から譲られるものです。

しかし、思い出してみてください。あなたがたが神から召されたとき、「知恵」や「能力」や「家柄」のようなことが問われましたか、そんなことは問われませんでしたよねと、パウロは言おうとしています。そういうことが入会の条件ではなかったですよねと。あなたは「知恵」があり、「能力」があり、「家柄」もいい。そういうあなたにはぜひ教会に来てください。そうでない人はお断りいたします、などとは言われませんでしたよねと。

なぜそういうことを言われなかったのかといえば、教会はそういうことを問題にする団体ではないからです。そういうことが条件で入れるか入れないかが決まるような団体は「教会」ではありません。

そして、それは神のお考えだったのだということを、次にパウロは述べています。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(27~28節)。

教会とはまさにそういう存在なのだということをパウロが言おうとしています。はっきり言いますと、世間的な目で見れば、教会は無学で、無知で、無力で、無意味な人たちがかき集められたような存在なのだと。はっきり言い過ぎでしょうか。

しかし、それこそが神の意図なのだとパウロは言おうとしています。それが神の御心であり、神のご計画です。そういう教会を作ることを、神がお求めになったのです。それは何のためでしょうか。神がなぜ教会を無学で、無知で、無力で、無意味な人の集まりにしたのでしょうか。パウロが記しているその理由は「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」(29節)です。

すなわち、その理由とは、世間的な価値判断の中で傲慢になっている人たちに対して神御自身が戦いを挑み、抗議するためです。そして傲慢な人に恥をかいてもらうためです。それによって神御自身が傲慢な人に「ちょっと、そこのあなた、もっと謙遜になってくださいよ」と言うためです。パウロが言おうとしていることは、そういうことです。

しかし、その教会も変質していきます。教会は世間から隔絶されて立っているわけではありません。たえず交流がありますので、明確な区別はできません。パウロがこのようなことを書いているのも、こういうことをわざわざ書かなければならないほどの変質がコリント教会の中に起こっていたからであると思われます。

だからといって、教会が世間と全く同じになってしまって、教会の中で、知恵や知識、能力、家柄の競争が始まってしまうなら、そういうことに欠けや引け目を感じている人々は、教会の中でも居場所を失ってしまいます。そのうち「私には生きている意味も価値もない」と言って絶望する人々が出てくることになります。

こういうことを言いますと、熾烈な競争の中に絶えず身を置いている方々から、「教会だけが特別ではない。甘えるな」と叱られてしまうかもしれません。しかし、そういう方々には申し訳ありませんが、もし教会までもがそのような「世知辛い」場所になってしまうなら、どこにも行き場がなくなるし、居場所がなくなる人々が必ず出てくるでしょう、ということは言わせていただきます。

もちろんそうは言いましても、教会が「世知辛い」ところであるかぎりは、世間と大差ありません。教会の中で競争しあっているようでは。私が過去に牧師として働いた教会で出会った人々の中には、「教会に来て本当によかったです。こんなに安心できるところは他にありません」とおっしゃる方が何人もおられました。そういう場所がわたしたちの人生の中に確保されていることが大切です。

そのような場所があることが、わたしたちにとって、たとえどんなことがあっても失望しないで生きていくことができる、希望の根拠になります。知恵も能力も家柄も、そのこと自体が問われることがない、そのこと自体で競争しあうことがない、そのような場所があるとしたら、それが「教会」です。

わたしたちの教会がこれまで以上にそのような教会になっていくにはどうしたらよいのかについては、私は何も言いません。もう時間切れです。あとのことは坂下先生にお任せいたします。

(2016年8月21日、日本基督教団阿佐谷東教会主日礼拝)

2016年8月20日土曜日

美味しい焼肉弁当をごちそうになりました

昨日と今日、「請われて」アルバイトに行きました。1月から3月まで勤めた建設会社でブログ作り、スキャナー設定、公式書類ひながた作り、OSアップデート等をお手伝いしました。美味しい焼肉弁当をごちそうになりました。ありがとうございました。
とても美味しかった焼肉弁当

半世紀の半生記の反省期

今年の夏休みは「一に反省、二に反省、三四がなくて、五に反省」。ただただひとり部屋に引きこもって過去と向き合っています。ブログのアクセス数が上がっている理由はさっぱり分かりませんが、過去20年のネット歴、8年半のブログ歴で初めてです。


半世紀の半生記を綴った自己紹介

2016年8月19日金曜日

「歴史的資料」が見つかりました!

「東京神学大学学科履修表(学部)」(1987年後期)
探せば出てくるものですね。私の東京神学大学学部4年後期(つまり卒業時)の履修表(成績表)。当時の履修学科の「体系」が分かります。もちろん本当は私の当時の成績が書かれていますが消しました。成績がよかったことを自慢するようでしたので笑。

この「歴史的資料」に基づいて昨日ブログにアップした私の自己紹介の文章を以下のように訂正しておきました。

関口 康 自己紹介
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/p/blog-page_17.html

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(以下、訂正版)

東京神学大学で履修した講義は以下のとおり(記憶が誤っている点は後日訂正)
「Ⅰ 一般教育科目」
・第1類
 国文学 川 鎮郎
 哲 学 近藤勝彦
 倫理学 岡野昌雄
 心理学 三永恭平
・第2類
 法 学 最上敏樹
 社会思想史 梅津順一
 宗教社会学 大西直樹 
・第3類
 物理学 原島 鮮
 精神医学 赤星 進
・第4類
 キリスト教通論 北森嘉蔵
 聖書通論Ⅰ 左近 淑
 聖書通論Ⅱ 松永希久夫
 聖書歴史(旧約)左近 淑
 聖書歴史(新約)山内 眞
「B 外国語科目」
 英 語Ⅰ ゴードン・レーマン
 英語実践 ゴードン・レーマン
 ドイツ語Ⅰ 近藤勝彦
 ドイツ語Ⅱ 加藤常昭
「C 保健体育科目」
 保健講義
 体育実技
「Ⅱ 基礎教育科目」
 神学通論 熊澤義宣
「Ⅲ 教職課程」
 教育原理
 教育心理学
 宗教科教育法
 道徳教育の研究
 教育実習(聖学院高等学校で実施)
「Ⅳ 専門科目」
〈A 聖書神学〉
 旧約緒論 左近 淑
 旧約神学 船水衛司
 ヒブル語 未履修
 ギリシア語 平野 保
 新約緒論 松永希久夫
 新約釈義 竹森満佐一
 新約神学 平野 保
 新約原典講読 平野 保
 神学書講読(英)ゴードン・レーマン
 神学書講読(独)川村輝典
〈B 組織神学〉
 組織神学Ⅰ(教義学)大木英夫
 組織神学Ⅱ(倫理学)佐藤敏夫
 組織神学Ⅲ(弁証学)大木英夫
 神学書講読(英)大木英夫
 神学書講読(独)熊澤義宣
〈C 歴史神学〉
 教会史Ⅰ(古代教会)徳善義和
 教会史Ⅱ(中世教会)徳善義和
 教会史Ⅲ(宗教改革)徳善義和
 教会史Ⅳ(近代教会)ヘンリー・フレンチ
 教会史Ⅴ(日本教会)鵜沼裕子
 宗教史Ⅰ デイヴィッド・リード
 アメリカ教会史 古屋安雄
 英国教会史 八代 崇
〈D 実践神学〉
 実践神学概論 加藤常昭
 キリスト教教育概論 小林公一
 牧会心理学 三永恭平
〈G 学部演習〉
 組織神学 近藤勝彦
 歴史神学 赤木善光
「大学院博士課程前期課程科目」
 説教学 山口隆康
 牧会学 山口隆康
 礼拝学 竹森満佐一
 組織神学演習 大木英夫
 修士論文指導演習 近藤勝彦
など

久しぶりにアルバイトに行きました

今日(2016年8月19日金曜日)は久しぶりにアルバイトをしてきました。1月から3月までの無職期間にお世話になった建設関係の会社から「請われて」行ってきました。お昼にごちそうになったお弁当が美味しかったので、記念写真をアップします。
美味しかった久しぶりのアルバイト先でごちそうになったお弁当

2016年8月18日木曜日

ブログに「自己紹介」ページを新設しました

実家周辺の現在の景色(2016年2月撮影)
夏休みにしかできないことをと思い、過去50年余の人生を回顧し、時系列順に並べました。あれもこれもときりがないので、とりあえずの公開です。人の前で誇れることは何もありませんが、主の前に恥じるところはありません。

【1965年】

岡山県岡山市に生まれる(11月16日)
自宅は岡山市南部の児島湾干拓によって造成された新興住宅地の一角
両親が所属していた日本基督教団岡山聖心教会(岡山市)に生後まもなく通いはじめる

続きは「自己紹介」ページで

2016年8月17日水曜日

「分かりやすい説教」の落とし穴

この角度はジャンプ台のようだ
出るかレジェンドの新記録
意図的といえば意図的であるが、私の説教へのほめ言葉として「ギリシア語も神学用語も専門用語も出てこない(ので良い)」というのがある。ほめていただけるのはうれしいことだが、そのように言ってくださる方がこれまで聴いてこられた説教はどういうのだったのだろうと、やや心配になる場面でもある。

たしかに私はそういう言葉を意図的に避けている。いばるわけではないが、そういう知識がないわけではない。しかし説教を専門用語で埋め尽くしてどうするという思いが強くある。英語を全く知らない人に英英辞典を読めと言っているのと大差ないではないか。それを読むための辞典がさらに必要ではないか。

もちろん、専門用語を用いる以外に事柄に即して「正確に」語るすべが無い場合はあるし、少なくない。だれが言ったか「神」は「神」以外の概念で正確に説明できそうにない。例の「存在の類比」(analogia entis)を用いて「神」は「エンペラー」のような存在だとやるとファシズムになる。

「とにかく分かりやすくあれ」という考えは危険な面をもつ。それはティリッヒが「神は霊なり」はGod is MindともGod is intellectとも訳せないし、ヘーゲルの精神現象学はPhenomenology of the Mindとは訳されなかったと言っていることに通じる。

しかしそのことと、説教原稿をギリシア語と神学用語と専門用語で埋め尽くすのを是とすることとを我々は区別しなくてはならないということは直感的には分かる。後者は端的に怠慢を意味する。説教の本来の目的であるギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)を怠っている。あるいは衒学。

説教における衒学の問題は、これはこれで深刻で厄介ではある。需要と供給のバランスがとれている場合すらあるし少なくない。知的好奇心が常に刺激されるようでないかぎり食指が動かないタイプの人はいるので、そのニードを満たすには衒学系説教は有効である。平易な説教は聴くに値しないというわけだ。

するともしかして理想的な説教とは、ギリシア語と神学用語と専門用語で埋め尽くされているようでないが、「神」が「神」以外の概念に置き換えられていない点で事柄に即して「正確」であり、かつギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)に果敢に取り組んでいるようなそれかもしれない。

しかし説教において最も難しいのは、ギャップの橋渡し(Bridging the Gaps)をどうするかだ。「救い主が人の身代わりに犠牲として死したこと」を今の人に「分かりやすく」説明する。たとえば「それは我々が救い主を見習って人の身代わりに犠牲として死すべきことを意味する」とやる。

あるいはそうでなく、「それは、我々の身代わりに犠牲として死した救い主とまるで同じような姿で我々の身代わりに犠牲として死した人々を、我々の救い主を我々が礼拝するのと同じような思いで崇敬することを意味する」などとやる。これでもうほぼ論理的に分かりにくくなっているが、分かる人は分かる。

私は今、それでいいのか?(いいわけがない!)と強い疑問符をつけたいがために書いている。ならばお前に別の解決策があるのかと問われても、まだその十分な答えがないままであるが、内心にわいてくるのはやや憤りに近いほどの拒絶感だ。いずれにせよ人の犠牲死への美化が起こっていると思えるからだ。

というあたりまでを深夜から未明にかけて、書斎の座椅子にすわったまま何度も寝落ちながら考えていた。その先が続かないのだが。何も見えていないわけではない。字にすることに心理的抵抗が起こり、いつもそこで止まってしまうという意味で。眼前の厚い壁に行く手を阻まれていると感じるという意味で。

2016年8月16日火曜日

タイムマシンよどこへ行く

楽しい会合でした
昨日は久しぶりに電車に乗った。新御茶ノ水駅から旧御茶ノ水駅(そんな駅名はないです)に乗り換えた。新旧の切り替えは緊張の瞬間だ。車内放送で「ゲームアプリをご利用の際は周りのお客さまのご迷惑にならないようにご注意ください」とアナウンス。私も気を付けなくちゃとガラケーの画面を確認した。

久しぶりに電車に乗ると緊張することがもう一つある。残金を確認せず改札を通ろうとすると通れるときと通れないときがある。通れないときは悲惨だ。頑丈なバーでブロックされ、「チャージしてください」という音声とチャイムが鳴り続け、後ろの人の舌打ち音が追い討ちをかける。昨日は。いや書かない。

久しぶりの電車に乗って出かけ、目的地の最寄り駅に無事到着した。駅ビルは様変わりしていたが、駅前商店街の雰囲気は30年前とあまり変わっていない。変わっていないと言えば今日の私の格好は何だ。喪服。学校も毎日喪服。夏休みも喪服。汎用性高すぎ。いつも同じ服のザッカーバーグと呼んでほしい。

久しぶりの電車で出かけた先での昨夜の会合は、楽しかった。おいしいごちそうをいただきながらいろいろ話し込んでいるうちに、借家の最寄り駅まで帰ってくれる電車に乗り遅れた。7キロ歩いた。この距離を歩くのも久しぶりだった。帰宅後まもなく夜が明けた。やっと本格的に夏休みらしいことができた。

2016年8月15日月曜日

世界の中心で「学問とは何か」をさけぶ(セカチュー)

長い長い暗闇のトンネル
私の夏休み5日目。といっても昨日は教会の礼拝で説教させていただきましたので、原稿作成と演述(私は馴染めない言葉づかいです)に費やした時間は休みなのかどうなのか。それはまあいいや。今日は自分の寝具(毛布など)の洗濯をしています。家事に費やす時間は休みなのかどうか。それもまあいいや。

批判は学問にとって大事だと思うが、あまりにも限られた少人数の集団の中でそれをするとすぐ騒ぎになるし、どれほど匿名性を確保しようとしても各方面の責任者や興味本位の人が特定作業を開始するし、通報義務があるかのように本人や「主だった人たち」に伝える。別件で尋問され生活基盤を剥奪される。

めったに名指しで人を批判しないのは、遠慮しているのでも恐れているのでもない。日本の思想風土がそうだとまで言ってよいかどうか分からないが、人格(persona)とわざ(opera)の区別が十分認識されていないところで批判を行うと、まるで人格攻撃をしているかのように誤解されるからだ。

書かずもがなではあるが、「○○氏の考えは間違っている」は「○○氏批判」ではなく「の考え批判」なのである。この区別を十分にしてもらえない思想風土の中で、批判活動は難しい。早い話、○○氏にその考えを改めてもらいたいと言いたいだけであって、○○氏の存在を否定しているのでもなんでもない。

まあただ全く分からないわけでもない。学問というのは長い長い暗闇のトンネルの中で孤独を味わい、そのトンネルをやっと抜けても待ち受けているのは無理難題ばかりで、自分のあとに残せる新しい認識はわずか。批判なんかされた日には人格否定されたときと同然の激憤を覚えることになるのかもしれない。

でも、なんていうか、それに耐えてこその学問だろ、とも思う。その意味では本当はもっと名指しで、または本人を前にして批判してあげるほうがいいのかもしれない。「この集団をだめにしたのはあなたの思想ですよ」と。そろそろそういう時期が来ているのかもしれない。心して準備しなくちゃ。勉強勉強。

でも今日はまもなくお出かけ。やっと夏休みらしいことを(おいそれ何度言った)。一人を除く全員が歳上なので「旧友」と言ってよいかどうか微妙だが、そういうところ。「懐かしい」かどうかも微妙。すべて微妙。「来るな」と思われていそうだけど行く。家族には「終電までには帰ります」と伝えてある。

2016年8月14日日曜日

友達を作りなさい(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)
ルカによる福音書16章8~9節

「主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」

今日の説教のタイトルは、先ほど司会者の方に朗読していただいた聖書の箇所からそのまま引用したものです。イエス・キリストのお言葉です。しかし「友達を作りなさい」という言い方はいかにも居丈高な響きがあるような気がしましたので、タイトルを決めるときに迷いましたが、思い切って付けました。

しかしそれ以上に、この箇所を選ばせていただくこと自体に大いに迷いがありました。なぜ迷ったかはお分かりいただけると思います。たとえたとえ話であるとはいえ、わたしたちの救い主イエス・キリストともあろう方が、犯罪者とまでは言えないかもしれないとしても、明らかに「不正を犯した」人のことを引き合いに出した上で、そういう人をほめるようなことをおっしゃっているからです。

これは大問題です。とんでもないことです。一緒くたにしてよいかどうかは分かりませんが、首相経験者が「ナチスに学べ」と言って大問題になりました。大問題になって当然です。もちろんイエスさまは犯罪や不正そのものを肯定しておられるのではありません。そんなことをすればイエスさまの教えはすべて台無しになってしまいます。しかし、イエスさまは今日の箇所で「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というような、ほとんど確実に誤解を招くようなことをおっしゃっています。

私はいま「誤解」と言いました。本当に誤解かどうかはよくよく考える必要があります。よくよく考え、よくよく説明すれば、イエスさまが不正そのものを肯定しているのではないということを理解していただけるだろうと私は確信しています。しかし、お忙しい方々や、イエスさまに敵意や反発を持っている方々にはそういう説明を聴いていただけないので、誤解されたままになってしまいます。

なぜこれでイエスさまが不正そのものを肯定していることにはならないかといえば、イエスさまは富の本質を言っておられるからです。富と不正は切り離すことがきわめて難しい関係にあるということです。不正から完全に切り離された純粋な富などはどこにも存在しないということです。しかし、それは富そのものが犯罪や不正であるという意味ではありません。お金そのものが汚いという意味ではありません。お金が汚いのではなく、お金を扱う人間の心が汚いのです。

流通しないお金に価値はありません。全く使われることのない死蔵金はまさにただの紙切れであり、ただの金属片です。富は流通してこそ価値があります。人の手から人の手へと渡されてこそ、初めて意味を持ちます。そして、そうしている間に罪や不正が紛れ込んできます。紛れ込むのは当然であると言っているのではありません。罪や不正を肯定する意味では全くありません。それがまるで当然のことであるかのように言って、市民権を与えるようなことをしてはいけません。

しかし、断じてそういう意味ではないとしても、だからといって富と不正が完全に無関係になることはないとイエスさまが考えておられることは間違いありません。それが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とイエスさまがおっしゃっていることの前半の「不正にまみれた富で」の意味です。

しかし、この御言葉でイエスさまがおっしゃっていることの主旨は、後半の「友達を作りなさい」のほうです。そして、その「友達を作る」ための手段として「不正にまみれた富」を用いなさいとおっしゃっているわけです。しかしその意味は、友達を作るために用いる富は「不正にまみれた富」だけであって、不正にまみれていない富は友達を作るために用いてはいけませんというような意味ではありません。それは支離滅裂です。まるで冗談です。もちろんそういう意味ではありません。

だからこそ私が先ほど説明させていただいたことが意味を持つと思います。不正にまみれていないような富はこの世には存在しないのです。すべての富が不正にまみれているのです。なので、イエスさまの話を曲解して、不正にまみれた富は友達を作るために使ってよいが、不正にまみれていない富は友達を作るために使ってはいけないというような詭弁を弄することはできないのです。

それはともかくイエスさまのおっしゃっていることの主旨は「友達を作りなさい」ということです。それははっきりしています。しかも「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっています。つまり、友達を作ることと、そのためにお金を使うこととを明確に関連づけておっしゃっています。

このようなことをイエスさまからはっきり言われると、あるいはこのようなことが聖書に書かれているのを読むと驚く人は多いはずです。「イエスさまも結局お金ですか。教会も宗教も結局お金ですか」と言われてしまうでしょう。さまざまな批判や反発を受けることになるでしょう。そのことをイエスさまはご覚悟のうえでおっしゃっています。

しかし私はいま、いくらか大げさな言い方をしています。大雑把に言っているところもあります。お金にかかわる問題はとてもデリケートな問題ですので、できるかぎり丁寧に話す必要があります。私が誤解されるのを最も恐れているのは、イエスさまが「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっていることを、言葉の順序を逆にして「友達を作るために不正にまみれた富を使いなさい」と言い直しても同じかどうかという点です。

それはどういうことかといえば、イエスさまがおっしゃっていることを「友達を作るためにお金を使うのは当然だ」と言い直し、「お金を使わないで友達などできるはずがない」と言い直し、「あなたはケチだから友達ができないのだ」と言い直す。イエスさまのおっしゃっていることを、そのような話へと変換することが可能かどうかということです。

皆さんはいかがでしょうか。もちろん私はいま、みなさん自身はどのようにお考えになりますかと問いたくて、このような挑戦的な言い方をしています。友達を作るために全くお金を使わないような人に友達などできるはずがないと、そのように思われるでしょうか。そして友達作りのために大事なのは結局お金だと。どんなにきれいごとを言おうとも結局この世はお金だと。

そういう価値観、そういう人生観、世界観をイエスさまが教えておられるでしょうか。イエスさまがそのことを肯定しておられるでしょうか。この箇所を読んで、イエスさまはわたしたちの味方だ、わたしたちの現実をよく分かっておられる、親近感がわく、というような話をしてしまってよいのでしょうか。私が問うているのはそのことです。

私の結論を言わせていただけば、それは違います。そんなことをイエスさまはおっしゃっていません。お金など使わなくても友達はできます。かえって「金の切れ目が縁の切れ目」というような関係になってしまっている相手は「友達」ではありません。少なくとも関係が対等ではありません。常にどこか必ず上下の関係であり、支配・非支配の関係なのであって、言葉の健全な意味での「友達」ではありません。

ですから、私はこの箇所に書かれていることをそういう話にしてしまわないほうがよいと考えます。お金を使うかどうかそのこと自体は、実は重要ではありません。重要なのは「友達を作ること」です。そのために手段を選ぶ必要はなく、どんな卑怯な手を使おうと、不正を働こうと一向に構わないので、とにかく「友達」を作りなさい、という意味ではありません。そんなふうにして作った関係の相手は「友達」でも何でもないです。それは話がおかしすぎます。冷静に考えれば分かることです。

たとえ話の中身に入るのが後回しになりました。ある金持ちに一人の管理人がいました。その管理人が主人の財産を無駄使いしていたというわけです。これがすでに「不正」です。そのことを主人に告げ口する人がいました。それで主人は管理人を解雇することにし、もう仕事を任せておけないので会計報告書を提出するようにと、管理人に命じました。

すると管理人は、自分は土を掘る体力もないし、物乞いをするのは恥ずかしくて嫌だと考えました。それで思いついたのが、主人のお金を貸した相手をひとりひとり呼んで、それぞれが借りているお金の金額を書き換えなさいと言い、主人に黙って割り引いてあげたというわけです。それぞれの負担を軽くしてあげたわけです。そのようにして多くの人に恩を売っておけば、主人が自分から仕事を取り上げたとき、その人たちが自分を助けてくれるだろうと考え、実行したというわけです。

お金を借りていた側の人々は、もちろん大喜びです。命乞いをしたいと思っていた人々が、まさに命を助けられた思いだったでしょう。そのようなことをした管理人のやり方を、主人が誰から教えてもらったかは分かりませんが、とにかく知る。内緒だったはずですが、また告げ口する人がいたのでしょう。しかし、そのことを知った主人が、その管理人のやり方をほめたというのです。

その後どうなったかは分かりません。管理人のやり方をほめた。いいぞ、よくやったと。それでもこの主人はこの管理人を解雇したのか、それとも解雇せずにそのまま仕事を続けさせたのか。それは分かりません。

しかし、分かることがあります。それは、この主人がこの管理人のどこをほめたのかです。それははっきりしています。この管理人がお金というものの本質をよく知り、その使い方をよく知っているという点です。この点を主人がほめたのです。

無駄使いはしてしまうタイプです。お金儲けは得意ではありません。お金を減らすことはできても、増やすことができません。どんどん良い商品を生み出して、たくさんお客さんを増やして、がんがんものを売るというようなタイプではありません。その意味では商売にも営業にも向いていません。

収入が増えないのに給料ばかりとります。会社にとっては迷惑な存在です。家にいればひたすら浪費するタイプです。「ごはんできました。お風呂わきました」と呼んでもらうまで何もしません。ずっと自分の部屋に引きこもっているか、テレビを見ながら寝そべっているタイプです。

しかし、そういうことは全くできなくても、できることがあります。人の負担を軽くしてあげることができます。お金だけの話ではないです。だれかに対して自分から貸している、貸しがあるようなところを、許してあげることはできます。「返さなくていいよ」と言ってあげることができます。

それで感謝してもらうことはできます。貸した借りたの緊張関係を解消できます。そういう方法で仲間を増やすことができます。この管理人はそういうことができた人です。もちろんそのことを自分のお金でない主人のお金でしているところは問題ですが、ある意味で最もお金の使い方を知っている人です。

たとえば親子の関係はどうでしょうか。親は子どもの育成と教育のために莫大なお金を使います。それは親子の間の貸し借りの関係でしょうか。そのように考える子どもたちは当然います。さんざん世話になった親なのだから、恩返ししなくてはならないと。

そのように要求する親もいます。言葉や態度で要求しなくても、親の心の中に少しでもその要求があれば、子どもたちは必ず拘束されます。身動きがとれません。もし親子の関係が貸し借りの関係であるならば、子どもが親から借りていないものは何一つないからです。

もし「返せ」と言われるなら、返さなければならないわけですが、そこから先は親子の関係というよりも、ほとんど主人としもべの関係、あるいは雇い主と従業員の関係になってしまうと思います。

夫婦の関係はどうでしょうか。難しい要素は、もちろんたくさんあります。もともとは赤の他人でしたので。しかし、夫婦の関係は、貸し借りの関係でしょうか。

親子でも夫婦でもない人々との関係にまで視野を広げていくと、同じように考えるのは難しいかもしれません。しかし、教会はどうでしょうか。牧師と教会員との関係、あるいは教会員同士の関係は、貸し借りの関係でしょうか。そういう要素もたくさんあると思いますが、それだけでしょうか。

神と教会の関係はどうでしょうか。神とわたしたちひとりひとりの関係はどうでしょうか。それは貸し借りの関係でしょうか。「神さまに貸してやった。でも、私の思い通りにならないから返してくれ」というような話になるでしょうか。

もちろんいろんな考え方やいろんな立場があると思いますので、一概には言えません。ただ今日の箇所で重要なことは、イエスさまが教えておられるのは「友達の作り方」である、ということです。その意味をよく考える必要があります。

私にとっても他人事ではありません。今は学校で聖書を教える仕事をさせていただいていますが、有期の採用ですのでいつまで続けさせていただけるかは分かりません。教会の牧師の仕事を探していますが、なかなか見つかりません。しかし、土を掘る力はないし、物乞いするのは恥ずかしい。この不正な管理人は私自身の姿です。「土を掘れよ、物乞いをしろよ」と言われてしまうかもしれません。悠長なことを言っている場合ではありません。

それで私が、不正を働いてでも、と考えているわけではありませんので、どうかご安心ください。そのような不正は決して働いておりませんので、ご信頼してください。

残念ながら、がんがん稼ぐというようなタイプではありません。「がんがん稼ぐ牧師」とか「どんどん儲ける教師」というのは、どこか言葉の矛盾を感じてしまいます。しかし、人の負担を軽くするためのアイデアや方法なら、いろいろ思いつきます。提案し、実行できます。そういう面でお役に立てるようになれればいいなと願っています。

最後は私の話になって申し訳ありません。しかし、これは私だけではなく、私と同じくらいの世代の多くの牧師たちが同じように抱えている悩みでもあります。ぜひお祈りいただきたく願っています。

(2016年8月14日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)

2016年8月13日土曜日

「1Q87年」の回想

私も夏休みなので愛車でちょっと出かけてきます。と言いたいところですが空想のみ。中古車店の前を通るたびに、80年代後半の東京で私が乗っていたこのデザインの(エンジンはこれではない)赤のシルビアがないかと、いまだに目が探してしまいます。

1987年(21歳)当時の愛車だった赤のシルビアターボ(のミニカー)
卒論に悩む顔(1987年8月、21歳、北海道の摩周湖をバックに)
何年か前にブログで公開しましたが、今のプロフ画像と同じ1987年、21歳で書いた私の卒論がこれです(脚注は後日)。なのでプロフ画像は「卒論に悩む顔」です。


あれ、不覚にも今まで気付かなかった。1987年(大学4年、21歳)にティリッヒについて書いた卒論に「神律的相互関係」なんてことを私が書いているぞ。これ明らかにファン・ルーラーの概念だよ。何から引用したんだっけ。脚注を後回しにしているうちに手書きの原稿が引越し荷物に紛れてしまった。

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1987年10月1日木曜日

【パウル・ティリッヒにおける霊的現臨と主体性の問題(1987年)】

関口 康(東京神学大学4年)

序論

最近になって、パウル・ティリッヒの思想的発展は人間の主体性の宗教的再構築への関心によって動機づけられていた、ということが解明された。ティリッヒが再構築しようとした主体性とは、自立的主体を超え、それを、またその文化世界を神的な存在の根柢の上に再生させるような人間の主体性である。

そのことはティリッヒが現代における神律的文化の再建を目指して戦っている格闘の一側面にちがいない。ティリッヒは、われわれが継承してきた思想的伝統が唯名論的であることを問題視し、それが、世界観において、自然主義か超自然主義かといういずれにも満足しえない二者択一をせまるものであると考える。

自然主義か超自然主義かという二者択一は、彼にとって、啓示および自然的諸法則の侵害としての奇蹟についての超自然主義的観点への抵抗の道か、それとも自己充足的限定性としての自然主義的世界観への抵抗の道かという二者択一を意味し、両者ともティリッヒの神律概念にとって不適合である。トンプソンによると、ティリッヒの確信は「自然主義と超自然主義とのこの二分法は、唯名論的伝統固有のアンティノミーから生じるところの誤謬である」ということである。このアンティノミーを乗り越えることがティリッヒの神学的課題である。

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夏休みだからこそできること

拙ブログの右サイドバーに「プロフィール」を設けました
Facebookでお友達になってくださっている方々おひとりおひとりをお祈りに覚えるために、不定期ながらお友達リストをめくって見ることにしていますが、私のお友達のほぼ半数の方が「牧師」で、たいへん失礼ながら男女比は概数で「男性:女性=4:1」です。独特の雰囲気ありがとうございます。

拙ブログの右サイドバーにノークリックでご覧いただける「プロフィール」を設けました。どなたがおっしゃったか「ブログは名刺代わり、SNSは名刺交換の場」だそうで。そのとおりだと思います。というわけで皆さまどうかよろしくお願いいたします。

今の私がネット(ブログ、SNS)でしていることはダビデのあれだなと、何年も前から自覚しつつ、その箇所を開いて確認することなく、過去の記憶に頼るままでいましたが、いま新共同訳聖書で確認したら「狂態」(サムエル記上21章16節)と訳されていました。なかなかの名訳だと思いました。

明日(2016年8月14日日曜日)は日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区)で説教させていただきます。8月21日(日)は日本基督教団阿佐谷東教会(東京都杉並区)、8月28日(日)日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市)で説教です。お招きいただきありがとうございます!


2016年8月12日金曜日

夏休みの「優雅な」過ごし方

うわ、まずい。たわんでいる。初めて気づいた。ついに時間との勝負という局面へと移行した。人類の知的遺産を将来に受け渡すための闘いだな。そのために必要なのは、強靭な意志と、頑丈な本棚と、本と一緒に寝ても大丈夫なだけの広さの書斎のようだ。

「知の重さ」で本棚がたわんでいることに気づき
やっと夏休みらしいことを。久々に家族で外食。JR南柏駅すぐの「横浜家系ラーメン 二代目肉そば屋」。この店は私は初めて。基本形の肉そば(並)を細麺で注文。並盛りでこのボリューム。暑い夏の夜にがっつり系。元気になりました。ありがとう。

「肉そば」で元気になり
夏休みらしいことといえば、朝起きて夜休むまで、書斎(寝室兼用)にいるときはずっとガーネット・クロウさんをユーチューブ(公式チャンネル)で視聴している件を挙げることができる。涼しい風が吹き込んでくれるので、昨日も今日もエアコン要らず。

ガーネット・クロウさんにいやされる
それにしても、電子メールという発明は人類の生のあり方を根本から変えたのではないかと、改めてなんとなく(明確な根拠がないまま)考えさせられる。はがきであれ手紙であれ、あれほど書くのが苦手だったのに、年に千の単位のやりとりを始めるとは。

電子メールは人類の生をどう変えたか



ネットつながりの皆さんへの感謝とお願い

テーカンネ社のアップルティをホットでいただきました(8月11日)
すみません、岡山弁ツイートはとりあえず終了します。岡山弁や方言そのものが悪いという意味ではありませんが、極力誤解を招かないように論理的に考えて書くことには向かないようだと、実際に試してみて分かるものがありました。私の夏休みは昨日から始まったばかりですが、もう真顔です。平常モード。

私はふだんは岡山弁は全く出てきません。ゼロ歳から18歳まで岡山の外にほとんど出ませんでしたが、その後は逆に岡山に帰らず(均せば年に3日位)33年目。それに、岡山を離れてから東京、高知、福岡、神戸、山梨、千葉と移動しましたので、どこの方言にも馴染むまでに至らず、今日を迎えています。

それで結局ずっと、「汎用性が高い」というか「無難な」というか「教科書どおりっぽい」というかの東京系の言葉を使ってきました(「標準語」と言うと怒り出す人たちへの配慮からまわりくどい言い方になっています)。岡山弁になるのは実家に帰ったときだけです。家の戸をくぐるとスイッチが入ります。

「使うことはありえない」と思いながら26年前に取得した教員免許と、「戻ることはありえない」と思いながら19年前に離脱した教団の教師資格とに(前者の更新、後者の再取得を経て)今の私は助けられています。どちらの免状も大量の未整理書類の中に長年埋もれていました。お恥ずかしいかぎりです。

テーマが定まらなくて苦しんでいます。ジンメルが「哲学の根本問題」で展開している(「歴史的方法」(Historische Methode)と対比される意味での)「即事的方法」(Sachliche Methode)に感銘を受けて、我が意を得たりと確信を深めつつ、ますます悩んでいます。

その意味は、プラトンやヘーゲルが言ったから正しいというような論法ではなく、プラトンやヘーゲルが取り組んだ問題そのものを自分で考えていく中で、プラトンやヘーゲルが波頭に見え隠れことがありうるという方法です。言い換えれば、自分がプラトンやヘーゲル自身になって問題に取り組むやり方です。

そのようなことを組織神学で私なりに求めていきたいと願っています。それはトレルチやティリッヒやバルトやファン・ルーラー「の」研究ではなく、彼らが取り組んだ問題を自分で考え、取り組む中で、彼らの存在の大きさや重さに出会うことがありうるというやり方です。しかしそのテーマが定まりません。

テーマが定まらない理由は、ひとえに「座」(Sitz)の問題です。異教団間移動前後の関連事象の中で私の心理系や神経系にどれくらいの負担やダメージがあった(ある)のかは自分ではあまりよく自覚できないのですが、血圧上昇や体重増加(後者は自己責任大)といった客観面に出ているとは言えます。

ネットでもリアルでも「なぜ転向したのか?」と言われながら(「転向」などしていないです)、新しい職場に身を投じてやっと5か月目です。毎日緊張しています。それでも今のところ壊滅的なまでの心理崩壊を免れているのは、ネットでつながっている方々の「生温かい」お言葉に支えられているからです。

なので、どうかもうしばらく私にネットをやらせてください。せめてあと1年半、猶予をください。その頃までには、どんなに時間を費やしても「しょせんウラ社会」と揶揄されるだけのネットごときに時間を奪われたりしないで、ひたすらリアルに仕事と勉強に没頭する人間に変貌しているだろうと思います。

2016年8月11日木曜日

夏休みモードで岡山弁ツイート中

夏休みの自宅学習(教科研究)のため勤務校から持ち帰った荷物
私も今日から夏休み。宿題や受験勉強に取り組んでいる生徒たちを見習って(そういうわけですので皆さまどうぞよろしく)、私も自宅学習の構えで荷物を持ち帰り。足元のアースノーマットもスイッチオフ確認。生徒の健康と安全のためお祈りしています。

でも毎日が奇蹟みてーなもんじゃわ、毎朝5時に起きれて、休まんで通勤やこして、途中ちょぼっと風邪引いたり、血圧上がったり、胃が痛てかったりしたけど、立ち直れたし。車の中じゃとかでストレッチやるから首や肩もあんまり凝らん。ぜんぜん痩せんけど太りゃーせんよ。ちゃんと働いとるけーな。大丈夫じゃ。

わしは今日から夏休みじゃけー、実家に帰ったつもりで岡山弁でツイートするけーな。ウケ狙いじゃねーけーな。わしなりのリラックスの方法じゃから、勘弁してください。ほんまは実家に帰れりゃ―ええけど、千葉でやることいろいろあるけー、帰れんのじゃ。申し訳ないと思おとるわ。

普通の、ゆーか普通科の高校で聖書の授業やるゆーのは、やりがいあるゆーか、単純におもしれーよ。生徒はわしの授業はおもしろーねーゆーと思うけどな。ごめんなさいね。岡山にもキリスト教の高校あると思うけど、たしか女子校じゃったよね。女子校が悪りーゆー意味じゃないけどね。こっちは共学じゃ。

岡山にもキリスト教の高校がもう一つぐらいあればえーのにな。それか女子校さんを共学に変えてもらうか。難しいじゃろーけどな。厚い壁が行く手を阻む気がするわ。少子化じゃしなあ。学校増やすやこあほじゃと言われるじゃろーし。でもなんとか風穴あけたいところじゃな。わしにはなんもできんけどな。

普通科の高校で聖書教えるのは、古文漢文と似たようなことよ。あれは大学受験のための勉強じゃと言やあそれまでじゃけど、今はどうか知らんけど、わしらのころは、言葉とか文法とか形式的なことだけじゃのーて、もっと内容があった。古事記日本書紀を読ませられたが。あの感じで学校で聖書を読むんよ。

古文漢文がいやでね。先生の人柄はよかったけどな。でも「わしは仏教徒じゃ」言いながら仏教の話が詳しくてキリスト教の悪口ばっかり言っとった倫社の先生は人柄はいいけど苦手じゃった。そんな高校行かなきゃよかったがと。でも、岡山の男子にキリスト教の高校に行く選択肢ないんじゃけー仕方ないが。

べつに母校の悪口言いたいんじゃないからな。今でも心から愛しとるよ。わしの高校時代の成績が悪かったことの言い訳しとるだけじゃが笑。倫社だけは先生に反発して勉強する気になったけど、文系のくせに古文漢文もついでに現国もだめで、英語もからしきだめじゃったから、できることもう残ってないが。

もしわしの高校に聖書の授業があったら、そこだけ成績よかったと思うわ。政教分離じゃけー公立じゃ無理じゃ言われるかもしれんけど、ナニけっこう先生たち自分の宗教の宣伝しとられたよ。クリスチャンの先生も二人おられたけどな。二人とも理系で化学の先生じゃった。授業中、聖書の話してくれました。

ありゃ、せっかく夏休みモードでリラックスのために岡山弁ツイート始めたけど、真面目な話になってしもうたな。すまんすまん。また言い訳じゃけど、わし学校の先生の仕事始めてやっと5ヶ月目じゃからな。牧師の仕事とどこが違うのとか聞かれても答えられませんけど、今は学校に慣れるので精一杯じゃ。

2016年8月8日月曜日

アタナシオスは世界を敵に回す(athanasius contra mundum)

ゲオルク・ジンメル『哲学の根本問題』
午前中ゲオルク・ジンメル『哲学の根本問題』を読む。趣味ではなく、教科研究として。「体系的形式という固定的完結性は、しばしば学説の内部生命に立ち入ることを妨げるものであり、また生命のほんの束の間の外皮として...見捨てられてしまう」に感動。

「哲学体系の抽象的で硬直した概念は、長いこと哲学体系に心を砕き、その深部での興奮を求めて努力した者の眼にのみ、概念内部の激しい動き、そこに息づいている世界感情の広がりを開いて見せてくれる」と、ジンメルが『哲学の根本問題』の「序」に書いている。説教も同じ。時間かけなくちゃ。

「教義学」(theologia dogmatica=教義神学)という言葉をタイトルとして初めて使用した本は、1659年にルーカス・フリードリッヒ・ラインハルト(Lucas Friedrich Reinhart [1623-1686])が出版したSynopsis theologiae christianae dogmaticae(キリスト教教義学概論)である(ファン・ルーラー全集(オランダ語版)第1巻、248頁の編注)。

教会の牧師だった25年(いつまたその続きがあるかはGod only knows)で得たある意味最大の経験値は「孤独忍耐力」だったかもと今日ふと思う。書斎で何時間でも何日でもひとりでいること多々。クリスマス等の大型イベントでも、すべて終わって最後片付けて教会の鍵を閉める仕事は牧師。

なので、牧師が「孤独」で悩んでいるという話がもしあっても理解できない。アタナシオスがクリスマス行事のあと教会の鍵を閉めたかどうかは知らないが、「孤軍奮闘」を意味するらしい「アタナシオスは世界を敵に回す」(athanasius contra mundum)という格言は納得しまくる。

教会の現実をご存じない方々はもしかして「群れているだけだ」と思っておられるかもしれないが、「群れている」わけではないからね。こと牧師は孤独に耐えてナンボ。強がっているわけでも粋がっているわけでもなくて本質的にそういう存在なのが牧師。そのこと知らずに牧師にならないほうがいいと思う。

生徒は夏休みでも、先生は学期再開の準備のために毎日勤務。キリスト教学校なので、職員室で毎朝お祈りをする。今日は私がお祈りの当番をした。夏休み中の生徒の健康と安全のためにお祈りした。いばってないよ、当然でしょ。夏休みが終わったら全員元気に学校に戻ってきてほしいと、マジで祈っている。

【追記】

上の書き込みに誤解される要素があったようですので、以下の点を追記します。

私が書いた「孤独」に悪い意味はありません。「会員との関係を築けない牧師」という意味の「孤立」ではありません。

イエスさまのオリブ山の「ひとりの祈り」や、十字架上の「孤独」を《追体験》(nacherleben)できなければ、どうして聖書の福音を宣べ伝えることができるでしょう。

ボンヘッファーの「ひとりになれない人は交わりに入ることに注意せよ。交わりに入れない人はひとりになることに注意せよ」(『共に生きる生活』)という言葉をきっとご存じだと思いますが、まさにその意味です。

もっとも、その場合の「孤独」は、イエスさまの十字架上の「孤独」の《追体験》(nacherleben)であるほどの「完全な孤独」の意味でなければならないことも事実です。「半分孤独、半分交わり」というようなバランス感覚ではなく、逆説的な弁証法関係です。

ボンヘッファーは「マコトニ神、マコトニ人」との類比で「孤独」と「交わり」の関係を考えていると思いますが、私は違います。教会の関係性は、他の団体(学校や政党や会社など)にたとえることができない独特の関係性なので、どう言ってもどのみち誤解されてしまうところがあります。

教会の関係性は学校や政党や会社等とは異なる独特の関係性であると、いま書いたばかりですが、学校の教師の「孤独」や、政治家や首相の「孤独」や、会社の社長や役員の「孤独」などと、牧師の「孤独」は、ある意味で似ていなくもありません。リーダー論のような話でもないのですが。

ちょうど10年前に出たようですが、吉本隆明さんの『ひきこもれ』という本の趣旨は、完全に合致はしませんが、私の言いたいことにある意味で最も近いです。ひとりの時間を苦にするな、ということです。

ファン・ルーラーだけでなく、読みはじめて何年目かになる青野太潮先生の「十字架の神学」の影響が、私に加わってきています。書きはじめると長くなるのでやめますが、「十字架の逆説」の問題です。「孤独こそが交わりである」というような言い方になります。

私は博士論文を書いたことがないので、自分の体験として語ることができる立場にはいませんが、あれを書くためには「完全な孤独」と言えるほど長期にわたって引きこもらなければならないようです。途中でチャラチャラしているようだと完成しないし、失敗する。それと似ています。

そういえば「どうでもいいですよ」という歌がありましたね

6月28日に購入したが読んでいない(実はあまり興味がない)
要らぬ釈明ではあるが、都知事選についても、8月6日についても、リオ五輪についても全く触れようとせず、自分のどうでもいいことばかり書いているのは、社会や政治に無関心だからではなく、慎重になっているからでもなくて、ネットの皆さんのたくさんの情報を読ませていただくことで精一杯だからだ。

うっかり忘れていたが、ファン・ルーラーの文章に「神学」の落とし穴を鋭く指摘する言葉がある。たとえば「絶対的なものを追い求め続ける人は非常に惨めな結末に至る。自分の人生を指と指の間にはさんでいるような感覚、あるいはまた、本来の自分の姿をいつも忘れているというような感覚に襲われる。」 

あるいは、「我々は自分ひとりだけで何かの責任を負うのだろうか。あるいは、もっと性急に我々はあらゆることの責任を負うのだろうか。そうなると我々はまるで全世界をひとりで背負うアトラスのようになる。まるで自分が巨人か英雄でもあるかのような感情を抱きながら毎日を過ごすようになる」など。

両者ともファン・ルーラーのエッセイの一節である。各エッセイのタイトルは、前者が「相対的なことを真剣に」(1956年)で、後者が「我々は神なしでありうるか」(1966年)。あいだが10年開いているが、基本のパースペクティヴが変わっていない。いずれも「神学」の落とし穴を指摘している。

「自分の人生を指と指の間にはさんでいるような感覚」と「まるで自分が全世界をひとりで背負うアトラスであるかのような、巨人か英雄のような感情を抱きながら過ごすようになる」は、一見正反対のことを言っているようだが、趣旨は同じだ。自分の人生を指先ではさむ巨人に自分がなっているということだ。 

絶対的な存在こそが何よりも大事なのであって、それと比べれば相対的なものは大したことがない。自分自身の存在も、世界の存在も、絶対的な「神」と比べれば大したことがない、という論理と感情にとらわれているときの我々は非常に危険な状態にある、ということをファン・ルーラーは鋭く指摘している。 

そういう論理と感覚のとりこになってしまわないで、もっと遊ぼうぜ、楽しもうぜ、相対的なことに真剣に取り組もうぜ、どうでもいいことに関心を持とうぜとファン・ルーラーは言っている。こういう話は、高校生は嫌がるかもね。根が真面目だもんな。「その場しのぎで軽薄だ」とか言われてしまいそうだ。

私のキャパが小さいだけなのに、まるでみんなが同じ結論でなければならないかのような書き方をしていると、これはこれで叱られてしまうだろうが、全世界をひとりで論じ尽くせる人は存在しないという断言口調の言葉に慰められる人はいると思うので、私のキャパの問題は度外視して書いておくことにする。

ファン・ルーラーのエッセイ(いずれも拙訳):

「相対的なことを真剣に」(1956年)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2013/03/1956_22.html

「我々は神なしでありうるか」(1966年)
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2013/03/1966.html

2016年8月7日日曜日

「内向け」の話し方と「外向け」の話し方

記事とは関係ありません
私が過去に居住し、「教会担任教師」(伝道師、牧師)として働いたのは4箇所。高知県、福岡県、山梨県、千葉県。最初の高知県では親である教会(南国市)が子である伝道所(高知市。後の教会)を生み出す「開拓伝道」に従事したので厳密にいえば高知県内の2箇所(南国市、高知市)で計6年間働いた。 

第二の福岡県(北九州市)の教会ではわずか10ヶ月しか働かなかったので、客観的な記録としてはカウントできるとしても、自分の自覚としても、おそらくその教会の方々の感覚としても、「教会担任教師」としての責任ある働きができたとはとても言いがたい。申し訳ないことをしたと、今でも思っている。

第三の山梨県も「1箇所」としてカウントすべきかどうかで悩む要素がある。着任時は甲府市にあった教会が、7ヶ月後に甲府市の西隣の中巨摩郡敷島町(現在の甲斐市)に転居したからだ。転居と同時に教会名称を変更した。本質的には同一の教会だが、すべてが刷新された。山梨県では計5年9ヶ月働いた。

そして現時点では最後の第四の千葉県(松戸市)の教会では、過去最長の11年9ヶ月働いた。高知県6年+福岡県10ヶ月+山梨県5年9ヶ月+千葉県11年9ヶ月を足しても24年4ヶ月にしかならないが、福岡県と山梨県の間に1年半の神戸滞在がある。後からとってつけた言い方をすれば「国内留学」。

それとは別にカウントを難しくする要素がある。日本基督教団の場合、按手礼を受けていない教師を「補教師」、受けている教師を「正教師」と区別するが、「補教師」は「教師」であるという認識は教団内では一致している。しかし、按手礼を受けていない人は「教師」でないとする考えも教団の外にはある。

その立場の人々からすれば、私が日本基督教団の「補教師」(未按手教師)だった期間を「牧師」として働いた期間としてカウントすることには違和感があるだろう。私はどちらでもいいのだが。しかし、「伝道師」が「教会担任教師」(教会で働く教師)であることは、日本基督教団においては確実な認識だ。

どうして私が今こんなことを書いているのかといえば、私が最近よくネットでもリアルでも「25歳で牧師になって25年間教会で働いて現在50歳です」というような自己紹介をしているのは、話を一般向けに分かりやすくしているだけのことで、なんら厳密な話ではないと釈明する必要を感じているからだ。

「25歳で牧師になった」というのも実は厳密な言い方ではない。1965年11月生まれの私は「日本基督教団補教師」としての准允を受けた1990年4月は24歳だった。それを25歳だ25歳だと言っているのは、さばを読んでいるわけではなく、これまた一般向けに話を単純化しているだけのことだ。

自分の過去の経歴についてどうのこうの言いたいわけではない。経歴詐称をしているつもりもない(そんなことする必然性がない)。むしろ逆。「これまでナニしてきたんですか」という質問を受ける機会が増えたので、ごく大雑把に説明するために「25歳+25年=50歳」という方便を使っているだけだ。

「内向け」の話し方と「外向け」の話し方を変えてはいけないだろうか。「伝道師」と「牧師」の違いも、「補教師」と「正教師」の違いも、「准允」と「按手」の違いも、「伝道所」と「教会」の違いも、外部の方々はご存じないし、おそらく興味もない。外向けに話を分かりやすくすることは詐称ではない。

小金教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年8月7日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)の主日礼拝に出席させていただき、聖餐の恵みにも与りました。明日から水曜まで全国連合長老会中高生修養会が行われることを知り、中高生のためにお祈りしました。

日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)
今日出席させていただいた日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金174)はJR常磐線「北小金駅」から徒歩9分(750m)。JR「東京駅」から電車と徒歩で最短52分。とても便利です。首都圏の教会をお探しの方に小金教会をおすすめします。

JR常磐線「北小金駅」から徒歩9分(750m)

2016年8月6日土曜日

原稿依頼が届きました!

納豆朝食
今朝はやっとちょっと夏休みらしい寝方ができた。といっても教員の夏休みではまだない。朝5時にセットしたままのケータイアラーム音で目が覚めるも、すぐ止めて睡眠時間延長。起床9時半。おお快挙。でも寝始めたのがいつもより遅くて2時半頃になったので、実質2時間延長。爆睡というほどではない。

以前も書いたが、「紙の本」の利点は、ひとりの思想家を追いかける場合、その人の/についての著作物の総量を目で見ることができることだ。パーフェクトコレクションは無理だとしても。かなり巨大な著作家でも、製本されているものを全部タテに並べると、両腕を最大に広げたくらいで収まることが多い。

マンガは別だ。字と絵のコラボで分量が多くなるのは当然。それはそれですばらしい。いま書いているのは字だけで書かれた本(しかも主に神学書)をひとりの人が一生かけてどれくらい書けるか。両腕を最大に広げたくらいの4倍ほど私が持っているのはカール・バルト。でもそれも原著と翻訳の両方を含む。

こういう話を「デジタル本」についてはできない。両腕をめいっぱい広げたくらいの分量だという説明が成立しない。書斎の本の総量を減らすために、すべてをデジタル化したうえですべてを売却ないし廃棄したいという衝動にかられなくもないが、躊躇はある。それで毎日、本の谷底で睡眠。最近地震が多い。

書かないほうがよさそうな明らかに口幅ったい言い草ではありますが、隠退を考えておられる牧師先生がたに切にお願いしたいのは、教会を壊して(建造物破壊の意味ではないです)おやめになることだけはくれぐれもないように、次の牧師を招聘できる体力を教会に残していただけるように、ということです。

生徒が夏休み中でのんびり気分の土曜日の朝は、自宅(借家)でひとり納豆朝食。納豆が苦手な人ごめんなさい。山椒の佃煮は「さん志ょうや本家」(兵庫県宝塚市)の高級品。同僚の先生からいただきました。とても美味しいです!ありがとうございます。

政治と法が不可分の関係にあることは断言できるが、「法は倫理の最低限」という意味では、法の論理を超えた言葉は現実生活の中で許容されるべきだとも思う。理詰めで考える場合も、こと政治問題にかんしては、適法かどうかだけを問う人が多いし、それで間違っていないと思うが、それがすべてではない。

法学や政治学の話をしたいわけではない。宗教と神学と聖書の話をしたがっている。新約聖書の使徒パウロのローマの信徒への手紙の話をしたがっている。「あなたがたはノモス(律法=法)のもとではなく、カリス(恩恵=法を超えたもの)のもとにいる」(ローマ6章14節)という話をしたがっている。

でも、長くは書かない。すぐに終わる。理詰めが苦手だからだ。というか、いつでも一定の論理を定めて詰めていくような考え方や話し方をイヤだと思うからだ。読む前聴く前から結論が分かっている話を、私は読みたいとも聴きたいとも思わないので私もしない。自分にしてほしいと思うことを人にもせよだ。

東京神学大学の学生だった頃、一般教養の精神医学で、赤星進教授の講義を受けたひとりだが、赤星教授推薦のテレンバッハ『メランコリー(改訂増補版)』木村敏訳、みすず書房、1985年)はよく読んだ。秩序(オルトヌンク)からの解放が精神衛生にとって重要であることを理解させてもらえる名著だ。

脳の機能不全に関してはシロウトが立ち入ることのできる余地は全くない。宗教と聖書と神学にできるのは、「あなたがたはノモスのもとではなく、カリスのもとにいる!」と宣言し、説得し、法秩序遵守主義の堂々巡りから解放されて、もっと自由で気楽な人生を送れるように、互いに励まし合うことだけだ。

やたらとだらだら字を書きたくなるのは、土曜日の解放感ゆえか、真夏の暑さにうなされているのか、たぶんそのどちらかだ。

「教会に通わせても治らなかった」と親御さんに言われたことがある。「教会は病院ではない」という答えがありうるが、ならば教会とは何なのかをよく考えなくてはならない。教会に医師やカウンセラーがいれば解決するかというと、そうでもない。教会はノモスから完全にフリーかというと、そうでもない。

「これは脳の病気である」と判断するのも人の脳であることも考えなくてはならない。この件に関して純粋な客観性はないと考えるほうが妥当。「これは脳の病気だ」と考えたがる傾向を持つ脳の病気があるのかないのか。脳は自分にとってより受け容れやすいほうを選択する傾向を持つらしい。薬物依存然り。

脳機能障害(法的表現)の方々を攻めて(または責めて)いるのではなく、教会の護教や防御をしているのでもなく、お互いに少しでもストレスが軽くなればと心から願っているだけだ。そこから先は極度にプライバシーの領域であるゆえに、踏み込むことはほとんど不可能である。

なるほど南方熊楠さんの名前は山川出版社の倫理の教科書に載っていたのですね。そういう事情でしたか。別のルートで学ばれたかもしれませんが、教科書的存在ということであれば、ある意味で納得しました。私が高校生だったころの倫理社会の教科書に載っていたかどうかは覚えてません。どうだったかな。

今夜は少し早めにひとりで美味しいカレーを食べた。冷凍保存していたごはんをレンジで解凍し、トップバリューさんの50円レトルトカレー(200グラム!)を2つ買って(さらに倍!400グラム!)レンジで温めてごはんにかけ、スーパーのお惣菜コーナーで買った野菜かき揚げを乗せて。超贅沢だ!

facebookをツイッターのように使うと、ひと昔前だと(そんな昔からあったのか)「場をわきまえろ」的なことを言われたものだが(そうだったのか)、最近は状況が変わったと思う。facebookのツイッター化。もナニも、使い方のルールなんか初めからなかった。自分でルールを作ればよし。

ちなみに私は「既読」がついて「読みやがれ」「なぜ読まない」「いつ読むのかイライラ」的強制力が機能する連絡ツールは、精神衛生上、自分からすすんでは一切使わないし、極力使いたくないので、その種のものは基本すべてスルー。だんだんそう悠長なことを言えなくなってきているのだが。ひたひたと。

おお、『現代の倫理』(山川出版社、2016年)の筆頭著者の濱井修先生(1936年-)は私は存じないが、東大と東京女子大で長く教えられた倫理学者で、マックス・ヴェーバーの研究が多い方なのだな。ヴェーバーとトレルチの関係は当然ご存じだろう。私が今考えていることは的外れでもなさそうだ。

原稿依頼のようなものが来なくなって、何年になるだろう。完全に忘れ去られたなと寂しく思っていたら、昨日はがきで久しぶりに原稿依頼が届いた。日本基督教団東京教区千葉支区の支区報『しののめ』最新号(第36号)の「新人教師紹介」の原稿(700字)。一生懸命書きます!ありがとうございます!


2016年8月5日金曜日

平積み生活 8ヶ月目

またすぐに平積みに戻されるトレルチ
昨年末(2015年12月24日)に今の借家に引っ越して来て8ヶ月目に突入したが、多くの本が平積みのままだ。その中から久しぶりにトレルチ関係の本を引っ張りだしてみたが全部は揃わない。かなり深い地層に潜ってしまっているらしい。やれやれ。

まあべつに本は飾っておくものではなくて読むものなので、本棚が無くても平積みでもそれ自体は問題ないのだが、それって、どうせ同じお腹に入るんだからという理屈でメインディッシュのビーフステーキの上に熱いコーヒーをぶっかけて、その上にデザートのアイスクリームを乗せて食べるような感じかも。

もう少しリアルなたとえで言えば、平積み生活は、うっかり手を滑らせてノートパソコンをコンクリート床の上に落とし、ハードディスクがめちゃくちゃに壊れてしまった状態に似ている。マザーボードに破損がなくCPUやメモリーなどの調子がいくら良くても、どうしようもないというか、仕事にならない。

その意味では、もちろん私は今の平積み生活からなんとか抜け出したいと願っているし、その努力もしているが、なかなか問屋がおろさない。でもまだかろうじて毎日明るく前向きに生きていけるのは、どう言ったらいいのか、「この本は全部自分のものだ」という思いがあるからかも。古本ばかりなのだけど。

これは報告しなくては。先日落札した『現代の倫理』(山川出版社、2016年)が古書店から届いた。教科書の最新版が未使用で古書店に出回っているというのはどういうことか分からないがあえて問うまい。店長さんがとても丁寧な方で、うれしかった。
『現代の倫理』山川出版社、2016年

プロテスタントのどこがダメかを骨の髄まで

画像の岩波文庫はアンセルムス『クール・デウス・ホモ』
今日はトレルチの論文「倫理学の根本問題」(1902年)を紐解きながら聖書と倫理の歴史的関係を追跡。トレルチは学校現場で読むと彼の意図がよく分かることを実感。「聖書は倫理の代替でありうるか」という焦眉の問題の核心に迫る。

トレルチの論文「倫理学の根本問題」(Grundprobleme der Ethik. Erörtert aus Anlaß von Herrmanns Ethik, 1902)が書かれたのは100年以上前。改めて読んで、プロテスタントのどこがダメかを骨の髄まで知らされ、涙が出た。

ほら、そこ、私が今「プロテスタントのどこがダメかを骨の髄まで知らされ」と書いただけで拒絶反応を起こしているあなた、まさにそこがダメなのだ。そこをトレルチが直接指摘しているわけではないが、他者への攻撃にはめっぽう強いのに、他者から批判されたり、自己批判したりすることにめっぽう弱い。

天才というのは間違いなくいる。トレルチの文章を読みながら、そんなことまで思わされた。今の我々、いやピンポイントの私の状況を、100年以上前のドイツでぴたりと言い当てている。大雑把な占い師然とした当てずっぽうとしてでなく、徹底的な研究と厳密な学問的手続きを経て。かなわないと思った。

ありがたかったのは、トレルチ自身が前世紀初頭のドイツのプロテスタント教会のど真ん中に立ち、激しい苦悩と惨めさの中で書いた文章だと思えたことだ。なんら他人ごとではない。泣きながら書いたのではないかと感じるほどだ。外で言うなとは言わない。だが、中に立ち続けつつ言える人を私は尊敬する。

2016年8月4日木曜日

神学は理系向きの学問だと思う

Windows10「アニバーサリー・アップデート」インストール完了
バルトの神学が贖罪論中心だったのは、私見によれば、キリストが十字架で遺棄されることで万人が救いへ選ばれるという彼の思想ゆえだった。万人の救いを擁護する人は少なくないが、贖罪論中心を批判する人も増えてきた。「万人は救われるが、贖罪論は中心ではない」とする論理はどうしたら成り立つか。

というようなことを、勤務校からの帰りの車の中で考えていた。申し訳ないことに最近カーステで流す音楽はレベッカさんでもコブクロさんでもない。かつて一時期夢中で聴いてその後いったん沈静化し、長年を経て再び聴きはじめた曲への関心の再沈静化は音もなく訪れる。歳をとった証拠かも。若干寂しい。

理系クラスの中に、聖書の授業が終わると質問しに来てくれて、聖書の中のこのこととあのこととを両立させようとすると論理的な矛盾が起こるのではないかという趣旨のことを言ってくれる生徒がいる。正直アタマが下がる。そうだ、それが神学的思考というものだよ。神学は理系向きの学問だと思うよ事実。

2016年8月3日水曜日

「夢を見ることは時には孤独にもなるよ」と康さんが書いて康さんが口ずさむ

昼休み中、シュールだったので記念写真(除籍本です)
まあいいや。私に教師はいなかったんだった。昔からかわいくないもんな。多くの方にお世話になった。感謝の心を失ったことはない。その意味ではその全員が私の教師だ。でもどなたかの弟子にしていただいたことはない。強いて言えばファン・ルーラー先生だな笑。私が5歳のときに亡くなられた方だけど。

考えたことがなかったが、私が幼稚園年長組だった6歳になったばかりのクリスマス礼拝で成人洗礼を受けた1971年12月26日(日)は、ファン・ルーラー先生がまだ若い62歳で突然の心臓発作で亡くなった1970年12月15日(火)のほぼ1年後だったようだ。無理やり関連づけてみただけだが。

私は自分には教師はいないと思っているし、どなたかの弟子にしていただいたことは一度もないと思っているので、私も教会や学校に自分の弟子がいると考えたことは一度もないし、今後も考えることはありえない。みんな私を友達だと思っている。いいよそれで。そのほうがお互い気楽。弟子とかキモいし笑。

とにかく夢中の数ヶ月の中で知らずにいた歌謡曲を、このところ毎日聴いている。「夢を見ることは時には孤独にもなるよ 誰もいない道を進むんだ」と康さんが書いたらしい歌詞を、康さんが口ずさむ。無理やり関連づけてみただけだが。

あらあら、もうこんな時間か。そろそろ休むとしよう、明日も勤務だ。

2016年8月2日火曜日

青春の盛夏の聖書

みんな大好きだ!
目に見える私の持ち物はといえば大多数は本だ。あとは何もないと、何ら大げさでなく言える。私の部屋は紙のにおい以外、ほとんど無臭だ。だって何もないもの。「本ばかり集めて、物欲のかたまりですよね」と言ったら大先輩の先生(地歴科)が「それは物欲とは言わないよ」と教えてくださった。

生徒の夏休み中は当然授業はない。今日はずっと職員室にこもって教科会議資料づくりに没頭。仮タイトル(変更の可能性が高い)は「聖書と進学」。誤変換ではない。「受験に関係ない」と言われる教科をどう改革していくか。「新入りなので」は黙っている理由にならない。聖書の授業は休憩時間ではない。

4年後(2020年頃)にはセンター試験が廃止され新しい入試制度が導入される流れなので、宗教科としてもそういうことをしっかり見据える必要がある。宗教と人生が関連しあっていることはかなり認知されていると思う。学校において重要なことは、それを正規の「教科」としてどのように実現するかだ。

2016年8月1日月曜日

「手引きしてくれる人がなければ」は哲学も同じだ

『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(春秋社、2015年)
先日落札した『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』が届いた。27年前(1989年)にトレルチで修士論文を書いたとき以来、日本語版の著書や研究書は極力集めてきたが、心躍る思いなどはない。どちらかというと気が重い。うっとうしいほど重苦しい。

マルクスはヘーゲルの一読者だったにすぎず、ヘーゲルはカントの一読者だったにすぎず、カントはヘーゲルの存在を知らないし、ヘーゲルはマルクスの存在を知らない。しかし、後の歴史家は「カントがドイツ観念論を確立した」と論じ、そのように高校の世界史教科書に記載される。なんとも複雑な心境だ。

今夜は高校の倫理の教科書(山川出版社)を即決で落札した。学校にあるし、うちにもたぶんどこかにあるが、自分のものが欲しかった。私は高校時代の倫理社会の授業で人生初めて哲学に興味を持った。今の高校生はどうだろう。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」は哲学も同じだ。