2011年5月6日金曜日

改革派同盟との「婚約」

K. ファン・デア・ツヴァーク/関口 康訳

「父は敬虔な人間というよりも、現実主義者であり、喜び楽しむ人でした」(ケース・ファン・ルーラー)

私の父は改革派教会連合(Gereformeerde Bond)の正会員ではありませんでしたが、かつて自ら表現したように、改革派同盟(Gereformeerde Bond)の「婚約者」であった。

「父は改革派同盟にかなり接近していましたが、メンバーではありませんでした。改革派同盟が父の神学の地上志向性(wereldse orientatie)に共感してくださらなかったのです。父自身は改革派の父祖たちの伝統に明確に立脚していたのですが」。

故A. A. ファン・ルーラー教授のご子息、ケース・ファン・ルーラー氏は、お父上の有名な論文である「ウルトラ改革派とリベラル派」を思い起こして、こう述べておられるのではない。当時、ケース氏はすでに家を出ておられた。伝聞によると、ファン・ルーラーは、この論文を書き終えた後、 アパートの書斎で思案しながら、妻に向かって、「これで終わりだ」(Het is af.)と言った、という。

「父は、時折、他の人々がリベラル派と呼んでいるものに反対しなかったこともあります。しかし、彼自身がリベラル派の陣営に身を置くことはありませんでしたし、リベラル派になったこともありませんでした」。

ケース・ファン・ルーラー氏(1944年生まれ)は、幼少期をヒルファーサムで過ごされた。その後、ユトレヒトに転居。そこはお父上が大学教授になった場所である。

「父は家族の中で、際立った位置を占めていました。しかし、たいてい家を留守にしていました。たくさんの説教を日曜日にしていましたので、家にいなかったのです。国中を駆けずり回っていました。時折、わたしたちも同行しました」。

「当時の男女の役割分担の通念に従って、父もボスでした。私の母は陰に立ち、とりわけ父の死後、自分を発展させました。彼女は後半生に法律を学び、とりわけ教会とオランダ改革派教会(NHK)の大会運営上の発展に貢献しました。とりわけ彼女は、父の著作集を出版するために貢献しました」。

書 斎

ファン・ルーラーは、仕事の大部分を自宅の書斎で行った。われわれ子どもたちは、そこを「至聖所」と呼んでいた。

「書斎の中で出来事が起こりました。とにかくそこは、わたしたちにとって閾(いき)のようなものがありましたので、わたしたちが書斎に入ることは滅多にありませんでした。父はすぐれた蔵書家でした。とても多くの書物を読みました。家全体が本で立っているようなものでした。神学、哲学、政治、歴史、文学、あるいは工学さえ、すべてにおいて遅れをとりたくなかったのです。父は非常に広範な関心を持っていました。ある専門家の方がわたしたちのフロアを訪ねてくださったとき、父は歩み寄り、互いに行き詰まっていることがどの点なのかを、知りたがりました。父は、当時人気があった教授のタイプではありませんでした。自分自身を人間以上のところに置くことがありませんでした。むしろ、誰とでもよく話すことができました」。

二年前に「目録」が出版されたユトレヒト大学図書館内のファン・ルーラー文庫は、「残念ながら」処分したものであると、息子のケース氏は語る。

「父はいつも、本のカードを作っていました。そして、しょっちゅう学生たちに貸し出していました。カード式索引を非常に詳しく調べ上げ、本の詳細をカードに書き込んでいました。今日のオランダ改革派教会常任書記長のバース・プレシール氏〔現在はオランダプロテスタント教会常任書記長〕が、少し前、われわれ家族にこのカード式索引を提供してくださったことを知っています」。

几帳面

ファン・ルーラーは几帳面であった。朝食後、たいていのことが行われた。読書、執筆、面談、物事の準備、講義の準備と実施、そしてとくに接待。

「父はかつて毎年、たいていすべての学生たちを、小グループで二週間、夕べのディナーと居間での集いに招待していました。たいてい、神学的テーマについてのディスカッションを行い、それから当然、ぐいっと一杯、うまいのを飲んでいました」。

ファン・ルーラーは、あのH. ヨンカー教授のように、一度脅迫を受けたことがある。1951年にオランダ改革派教会『教会規程』が施行されたとき、K. H. ミスコッテ教授とは仲良くできないことが明白となった。

「『またミスコッテだよ』と、教会規程に関する苦痛な会議にミスコッテ氏が返り咲いたとき、父は言いました。両者は個性があり、それぞれに全く独創的な見方を持っていました。同じように難しい関係が、G. C. ファン・ニフトリク教授との間にもありました。しかし、ふだんは支持者の群れに囲まれていました。その人々は日曜日にも父を追いかけていました」。

テレビ

ファン・ルーラーは、かつて、「聖化の本質はアヤックスとフェイエノールトの試合を喜び楽しむことにもある」というジョークで、読者にショックを与えたことがある。

「父にとって、とくに後半生において、テレビを見ることは一種の気晴らしでした。当時、健康がすぐれず、時おり仕事を休む必要がありました。テレビを見るとしたら、 ほとんどはサッカーを見ていました」。

ファン・ルーラーは、創造に対するポジティヴな姿勢で知られている。彼の見方において、救いは地上で体験するものであり、神の国は地上の諸形態の中でかたちづくられるのである。ここにファン・ルーラー神学の核心がある。喜び楽しむことは、彼の思想と行為における一つの重要な側面である。

「父にとって、創造は本質的に善きものでした。創造のすべてが恩恵と聖霊と共に働くのです。父は敬虔な人間でもありました。しかし、それよりもっと現実主義者でした。神秘主義も、父の思想の中で重要な位置を占めていました。父は敬虔な人間でした。しかし、敬虔さそのものに基づいて、まさにその点で、きわめて豊かな思想を持っていました。彼は、お決まりの表現以上の言葉で、自分の信仰を表現しました」。

休暇は、家庭生活にとって忘れることができないものである。ケース氏は、ユトレヒトの家庭がルンテレンに旅行したときのことを、今でも覚えている。

「自転車に乗って、スーツケースを後ろに載せて。父は大自然を謳歌しました。運転免許証を取得する前に、一台の自動車を買いました。自動車で森に行き、そこで散歩したかったからです」。

憂 鬱

最晩年において、ファン・ルーラーは、憂鬱な時期を過ごしもした。

「父の肉体は頑強なものではなく、胃の病気を持っていました。とくに教会規程を作成していた時期に、胃痛を何度も体験しました。1951年には胃潰瘍にかかり、そのとき胃の一部が切除されました。しかし父は自分で自分の面倒を見ることができるという意外な才能の持ち主でした。心筋梗塞をわずらった後、 もっと憂鬱な時期を過ごすことになりました。自分に無理を強いなければならず、体を酷使しすぎて健康を害してしまいました。憂鬱なときにも、力みながら、そこにいました。時折、食卓でも、何日も続けて黙り込んでいることがありました」。

「父は、多くのことを語らねばならず、またそれを善い言葉にすることができました。AVROのためのラジオ説教は、非常に高く評価されました。わたしたちは時折、ユトレヒトからラジオ局があるヒルファーサムへ行く道に同行しました。父は最初自転車で、後に自動車で行くようになりました。ラジオの前で10分間語り、それから再び帰途につきました」。

父は、キリスト教放送局のためには語らなかったが、AVROのためには語った。この点も、この神学者の特徴である。

「父は、聖書のメッセージが広範に取り上げられなければならないことに気づき、それが全国民に届くことを願いました。この点にセオクラシー(神政政治)の理念が非常にかかわりを持つのです。第二次大戦後、セオクラシーは、父によってそれまでとは違うものにならなければなりませんでした。そのために、キリスト教放送は一般の放送に座を譲らなければなりませんでした。私の父は、心とはらわたの中で一人のセオクラット(神政主義者)であり続けたのです」。

(1999年4月27日、改革主義日報 © Reformatorisch Dagblad