2011年5月18日水曜日

「終わりある日常だけど生きろ」ですかね

昨日の段階で、日本政府がGEと米国を提訴する可能性があるという噂があることを知りました。しかし、情報源の確かさを含めて真相はまだ分かりません。しかしまた、もしそういうことになった場合におそらく争点となるのは、購入の際に必ずや取り交わされたはずの売買契約の際に、このマシンが壊れたときの修理方法まで教えてもらえたかどうかではないかと想像しています。

しかし、原発がブラックボックスであることは周知のとおり。開発者以外の誰も中身を見たことがないと言われている。そういうものの修理方法を教えられた可能性があるとは、私にはどうしても思えないのです。

パソコンとかでもそうですよね、「壊れたら自分で直さずに、必ずメーカーに返送してください。自分で裏ぶたのネジを開けたら、保証に応じられなくなります」というような警告文が書かれている。企業防衛の論理から言えば、当然すぎる言葉でしょう。でも、何のことはない、いまどき、パソコンくらいなら、多くの人が自分で部品を取り換えているはずです。

でも、原発のネジを開けて自分で部品を取り換えられる人なんて、ごく少数の開発者以外にはちょっと考えにくい。だから、ここで「ブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない」という論理が成立しうるのではないかと、昨夜愚考してみたまでです。

ですから、私の発想から言わせていただけば、今回の原発事故や今後の原発存続の是非の問題は、結局のところ、最終的には「哲学」の問題じゃないかと思っているんです。

それは単純明快な哲学です。「絶対に壊れないものなど存在しない」という、いわばアホみたいな命題です。

しかし問題は、このアホみたいな哲学をこれまで我々が持ちえていたかどうか、いまからでも持ちうるかどうか、です。数学も物理も苦手な文系人間の幼稚な発言と思われても結構。いま問われていることは、実はただこれだけであるような気がしてならないのです。

東日本大震災以降しきりと考えさせられてきたことは、文学とか哲学とか神学などが現代社会から締め出されてきた(これは事実)結果がどうなのかというあたりなのですが、字義通りの「終わりなき日常」が、まるで本当に存続しうるかのような錯覚に、(私も含めて)多くの人が陥ってきたと思うのです。

オウム問題以降に語られた「終わりなき日常を生きろ」も、たしかに至言とは思います。私にはオウムを庇う思いは一ミリもない。「宗教」というカテゴリーで一緒くたにされて激しく迷惑したのは我々です。また、とりわけオウム被害者の苦痛はいまだ癒えていないことも分かっているつもりです。

しかし、大震災以降、いや原発「爆発」以降は、「終わりなき日常を生きろ」とは、もう言えなくなりました。「終わりある日常だけど生きろ」とでも言い換えなければならなくなった気がしています。

まあ、もちろん、歴史的な知識がある人たちは、「メメント・モリ」なり「武士道というは死ぬことと見つけたり」なりの言葉を思い出して重んじてもいいでしょう。しかし、なるべくならば「人間はどうせ死ぬし、世界はどうせ滅びるんだから」みたいな諦念っぽいのじゃなくて、「心配なことはいろいろあるけど生きようよ」と言えるほうが私はいい。

ただ、いま言いたいことは、これからどうするかの話ではなく、これまでどうだったかの話です。

数日前から頭をよぎっていることは、「終わりなき日常を生きろ」と真顔で(そして、ちょっとヒロイックな調子で)語りえた時代というのは、そもそも決して存在しうるはずのない「無限のエネルギー採掘所」が存在しうる、という詐欺的で人を幻惑する「哲学」の上に立っていたのではないか、ということです。

この問題は、いま読んでいる最中の宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)のテーマにも深い次元で関係してくるような気がしていますので、その意味でも目下の私の関心事になっています。ちなみに、この本(『ゼロ年代の…』)の帯に「宮台真司氏推薦」と書かれています。「終わりなき日常を生きろ」と言ったのは、そう、宮台真司氏です。

まあ、でも、こういうことも、ただつぶやいているだけではどうにもならないんですけどね。人の中に一度根付いた「哲学」は、そう簡単に変わるものではありませんしね。