2011年5月24日火曜日

「疎開ビジネス」や「線量計詐欺」にも警戒すべきだ

「松戸市は独自に23日から小中学校などで松戸市は23日以降、市内の保育所、小中学校、公園などで簡易測定器による放射線量を測定して、その結果をホームページなどで公表すると発表した」。放射線量、測定地点増やします(朝日新聞千葉版、2011年5月21日)

いま起こっている危機的な緊急事態に対しては、突き詰めて言えば「一家に一台、線量計」しか打開策は無いような気がしています。「データをもっていない素人に発言の資格は無い」と言われる国ですから。ただ、そのためには、線量計が値崩れするのを待つしかない。松戸市の迅速な動きは、誇らしく思っています。

「風評被害」も「安全デマ」も、そのすべての原因は(十分すぎる意味で「被害当事者」である)一般市民がデータをもちえていないこと、つまり線量計の値段が高すぎて買えなかったこと(そんなものが普通に市販されているとも知らなかったこと)にあると思います。値段が体重計(?)くらいになれば、みんな買いますよね?

とはいえ、放射能の影響からの退避ということをもし本気で考えるとしたら、一時的な疎開では済まず、最終的には転居を考えざるをえない(私が転居したがっているという話ではありませんからね)。まさに人生をかけた、重大な決意が伴う。その決断に耐えうる線量計は、ある程度高性能のものであってほしいとは思います。高性能であるが、一般市民の手に届く範囲内の価格のものがあるといいですね。我々のパソコンにUSBでつないで簡単に使えるようなものがいい。

線量計を一般人には買えない値段にし、データを公表せず、かつデータを素人には判読不可能な難解なものにするなどのやり方で、「企業防衛」というか、「既得権益の保護」というか、あるいはもっと戯画的にいえば「原発インペリアリズムの砦」にしてきたのでしょうけど、彼らの城門は、もはや守りきれないでしょうね。

文系人間と理系人間との違いという問題は(その二分法自体が無意味であるという意見があることも知りつつ)、私もずっと考えてきました。文系人間に線量計を扱うことはできないだろうと、理系の人たちから言われてしまうかもしれません。しかし、線量計を「開発する」ためには理系の知識が必要だと思いますが、線量計を「利用する」ためには数学や物理ができなくても大丈夫ではないでしょうか。パソコンでも携帯でも電子レンジでも、みな同じことが言えるでしょう。

ともかく、世の中の理系の人たちを責めないであげましょうよ。もしかしたら、いま、彼らは自分たちが国民全体から責められていると感じて、必要以上に身構えておられるかもしれません。理系の人たちの中の原発に反対してきた人たちは学会等で徹底的に虐げられてきたようですから、そういうのを目の当たりにして、表立って反対できなかった理系人は多かったと思います。

原発推進に消極的だったとか批判的だったとかの理由で、学会の中であからさまな妨害や非難を受けた良心的な学者たちもいたということを知るにつけ、私などは「犯罪」の二文字を思わずにいられません。ここから先は、法学者たちの出番ではないでしょうか。今回の事故が「天災」や「運命」や「想定外」の面だけではなかったことは今や誰の目にも明白なのですから、首謀者の逮捕をもって原発時代を終わらせるべきです。

私の原発に対する立場としては、中立とは言えないにしても、存在そのものに反対したことは、いまだかつて(実は今も)ないのです。事故を想定して備えること自体が妨害されるとか、データの隠ぺいや改ざんが行われるような国には原発をもつ資格がない、と思っているだけです。

あと一つ、言わずもがなのことをあえて言えば、福島第一原発からの大量の放射能汚染水の海洋放出の問題はいまだに終息していないわけですから、現時点ですでに日本国内にも、あるいは地球上のどこにも、将来にわたって真に安全と言いうる「疎開先」は無いと、私は考えています。要するに、逃げ場はどこにも無いのです。

なぜ今あえて「言わずもがなのこと」を書いたかといえば、近い将来にも、「疎開先あります」とか「引っ越し先にどうですか」といった内容で、人の不安につけこんで、家や不動産を高く売りつける詐欺的な商法が横行しそうな気がしているからです。そういうことも監視し、警戒していく必要を感じています。

その種の詐欺に何と名付けるべきでしょう。「疎開ビジネス」かな。線量計も慌てて飛びつく必要なし。そのうち値崩れしますから、手の届く値段になってから買えばよい。いま飛びつくと「線量計サギ」に引っかかるかもしれません。

最良の堕落は最悪なり(corruptio optimi pessima)。善意の衣を着た狼は、あらゆるところに潜んでいます。