2011年5月6日金曜日

ファン・ルーラーの「喜びの神学」に秘められたもの

牧田吉和(ファン・ルーラー研究会顧問、神戸改革派神学校校長)


(これは2002年9月2日〜3日「ファン・ルーラー研究会セミナーin 熱海」(静岡県熱海市)で行われた基調講演であり、その後『キリスト新聞』2002年11月9日第2800号において、講演者ご本人が紙面向けにまとめた要旨として掲載されたものです。本サイトへの掲載は、キリスト新聞社の了解を得ています。無断転載は固くお断りいたします)

「喜びの神学者」ファン・ルーラー

「救いの究極、福音の結晶は、『喜ぶこと』『純粋に喜ぶこと』『審美的なもの』なのである。絶望や疑いの要素から全く自由にされて、『神を喜ぶこと』『世界を喜ぶこと』そして『自分を喜ぶこと』である」。

これはオランダの改革派神学者アーノルド・ファン・ルーラーの言葉です。ファン・ルーラーは「喜びの神学者」と呼ばれています。冒頭の言葉はその呼称の正当性を証しているでしょう。さらに、「喜びの神学者」としてのファン・ルーラーは「聖化において本質的なことは、(プロ・サッカーチームの)アヤックスやフェイエノールトを楽しむことにある」とまで言い放ちます。このような奇想天外とさえ言いうるほどの“喜びの神学”の主張に秘められたものは、いったい何だったのでしょうか。

被造性を喜ぶことと神の栄光

ファン・ルーラーの主張を理解するために、まず彼の創造論に注目すべきでしょう。彼にとって、創造は、神の善意に基づく、神の自由な主権的業です。必然や強制ではないという意味で、創造はいわば神の「遊び」、神の「贅沢」に属する業です。したがって、世界は、神ご自身が「はなはだ良かった」と満足された善き創造であり、神の喜びとしての本来的な実在なのです。ですから、人間にとって重要なことは、神の「遊び」、神の「贅沢」に対応して、それを「楽しみ」「喜ぶ」ことが本来的なこととして理解されることになります。被造的実在そのものを喜ぶことの中に聖化の本質があることにもなります。

しかし、それにしてもサッカーを楽しむことに聖化の本質があるなどとなぜ言うのでしょうか。この意味を理解するためには、創造についてさらに考える必要があります。ファン・ルーラーは被造物に言及するときに、意図的に「物質性」「身体性」「事物性」などという表現を用います。その理由は、神が不可見的な、霊的な存在であるのに対して、被造物がその被造物性を端的な姿で現わすのは内的・霊的な側面よりも、可見的な「物質性」「身体性」「事物性」においてだからです。サッカーにはさまざまな要素がありますが、少なくとも「身体性」に緊密に関わります。サッカーを楽しむことに聖化の本質があるというのは、神の善き創造の賜物としての「身体性」を喜ぶことと結びついているからです。

ファン・ルーラーがあのような誤解を招きかねない表現を用いたのは、それによって「物質性」「身体性」「事物性」を無意識的に圧迫してきたキリスト教的伝統を告発したかったからです。キリスト教信仰は、霊的なものと物質的なものの両者を被造物に含ませますが、目に見えない、霊的なものの方がより価値があるかのように見なす傾向を持っているからです。ファン・ルーラーは、むしろ「物質性」「身体性」にこそ被造物性が最も鋭く現れているのであり、それを喜ぶことにおいて神を神とし、神の栄光を現わすことになるというのです。それゆえにあのレトリックが聖化の本質を表現するために用いられたのです。

グノーシスのパン種への鋭い批判

以上のように考えると、ファン・ルーラーの「喜びの神学」の主張の背後には鋭い神学的批判が隠されていることが明らかになります。その狙いは、物質的なものや身体的なものを蔑視する「古代グノーシスのパン種」をキリスト教信仰と神学から徹底的に排除することです。ファン・ルーラーは、このパン種はキリスト教思想の中に今日に至るまで脈々と生き続けていると見ています。この問題性は終末論において最も鮮明に現われます。

ファン・ルーラーは栄光の神の国において、「三位一体の神と贖われた純然たる『事物性』」が最終的に残ると力説します。ここでも「事物性」が強調されます。この主張は、アウグスティヌス以来、継承されてきた信仰の定式、「われわれは、世界、つまり被造物的実在をただ用いること(uti)だけがゆるされており、またわれわれは神ご自身のみを楽しむこと(frui)がゆるされている」という定式に対する根源的批判です。世界を「用いて」神の栄光のために奉仕をし、終末においては「ただ神の栄光を崇め、神を喜ぶ」ことだけが残されている、ファン・ルーラーはこの定式にこそグノーシス的・ギリシャ的思惟のパン種が潜んでいると洞察するのです。そこでは「神を喜ぶ」ことはあっても、神の喜びの対象としての「世界を喜び」「自分を喜ぶ」ことが位置づけられていないからです。このことを別にして、「神を喜ぶ」ことは冒涜的でさえありうるというのです。

終末の栄光の世界において、「事物性」は本来的意味を持っており、したがってただ「神を喜ぶこと」だけではなく、同時に「世界を喜ぶこと」「自分を喜ぶこと」が含まれていなければならないと主張するのです。それが冒頭の彼の言葉の意味です。

「グノーシスのパン種」を潜めやすい日本の教会はファン・ルーラーの「喜びの神学」の主張とそこに秘められている鋭い神学的批判を真摯に受け止めるべきでしょう。その時、日本の教会は、世界を、とりわけ「事物的・身体的」世界を喜びのうちにまっすぐに見つめる勇気を与えられます。そこでは政治的事柄でさえ、本来聖なる、美しい事柄として把握され、倫理もまた喜びに満ちた、人間がまさに人間として立ち上がる倫理として大胆に展開されることになるでしょう。