2011年5月6日金曜日

知らなかったことが恥ずかしい(番外篇)

「番外篇」とするのは、最初に「だれを責めるつもりもない」と約束したからである。しかし、ちょっとだけ責めたくなった。ただし、ほんのちょっとだけ。

ある方が寄せてくださったコメントの中に、「修正した訳もあまり良くないのではないかと思う。故郷の言葉を話している主体について誤解をしてしまう可能性があるから」と書かれていた。

これは私も全く同感であった。いちばん最初、昨日の午前中の祈祷会のときに懸念を覚えたのは、まさにこの点だったのだ。

新共同訳の現在の訳のように使徒言行録2・6から「彼ら」という(ギリシア語原典には明記されている)主語さえ隠してしまい、「話されている」などと受動形でぼんやりと訳してしまうと、私の拙い日本語感覚から言わせていただけば、まるで都会の雑踏の中に響く不特定多数の入り乱れた音声を客観的ないし傍観者的に描写しているかのように読めてしまう。

そうなると、「故郷の言葉」を話している主体として考えられる対象が、

��1)「(11人の)使徒たち」(奇跡性レベル100%)ではないばかりか、

��2)「(120人ほどの)兄弟たち」(奇跡性レベル50%)でもなくなり、

��3)「天下のあらゆる国からエルサレムに帰って来た信心深いユダヤ人」(奇跡性レベル0%)あたりまで

拡大して読んでしまう人たちが出てくるのではないかと、心配になったのである。

「外国生活をしてきた人たちが外国語をしゃべった」なんて、当たり前の話以外の何ものでもない。そういう「誤読」を誘発してしまわないだろうかと思ったのである。

しかし私自身は、いかなる翻訳聖書の擁護者でもない。一つの特定の立場に立っていないし、他の特定の立場を批判する意図が全くない。この点も「誤読」されたくない。

日本キリスト改革派教会も、日本聖書協会とも新日本聖書刊行会とも公平な関係を築いてきた。どちらの利益代表にもならない。この教派のそういうところが、いたく気に入っている。