2011年5月5日木曜日

知らなかったことが恥ずかしい(解決篇)

昨日書いたことをFacebookに貼りつけたり、小分けにしてTwitterに流したり(回転寿司みたいでした)したところ、かなりの方々が関心を寄せてくださり、貴重なコメントをいただくことができた。その方々に心から感謝している(ありがとうございました)。以下は、コメントしてくださった方々への私からの返信内容を、ただし、書いたとおりではなくその主旨を、ざっとまとめたものである。

日本聖書協会ホームページの「新共同訳聖書 訂正箇所一覧」を見たのは、昨日が初めてだった。日本聖書協会が聖書を訂正していくプロセスそのものを批判するつもりは私にはないが、訂正箇所がこんなに多かったとは知らなかった。

多くの読者が知らないうちに「いつの間にか」すり替えられていくこの雰囲気は、あの茂木健一郎氏でおなじみの「アハ画像」のようで、若干のダマサレタ感は否めない。せめて理由を公示して訂正してもらいたいものだ。「聖書は世界のベストセラーである」という決めゼリフは日本聖書協会も言ってきたはずだ。この本の影響力の大きさを考えれば、一般の新聞で公示されてもよいのではないかと思うくらいである。

また私自身は、従前の解釈(聖霊に満たされた使徒たちが突然、習ったこともないはずの外国語を話しだした)が間違っていると言いたいのではない。私の問いは、日本聖書協会が使徒言行録2・6から「使徒たち」を取り除いた理由は何かという点だけである。「使徒」を取り除いても従前の解釈は不動であると判断したからなのか、それとも、解釈の幅を広げたかったのか、どちらだろうかと思っただけである。

訂正の理由として「原語により厳密に合わせた」という点がおそらく第一に挙げられることになるのは当然だろう。しかし、「使徒」を取り除くと、やはり文意が変わってしまわないだろうか。そこに若干の疑問はあった。「文意は変わっていない」というコメントをいただいた。それなら私は安心である。しかしまた、もし文意が変わらないのなら、日本語訳聖書の100年越しの伝統を忽然と棄てる理由が分からないとも思った。なぜ今さらなのか?学術的厳密性へのこだわりなのか?次の大改訂まで待てないほどのことなのか?

「新共同訳和英対照(1998年版)の英文では、all of them heard the believers talking in their own languagesで、believersは1節で『一同』と訳されている」という有難いコメントもいただいた。「信者」(believers)と「使徒」(Apostles)を、聖書はわりとはっきり区別する。やはり文意は変わったのだろうか。

文意は変わったのだと、言い切ってくださった方もおられた。「いろんな国の言葉を語り始めた」のは「(11人の)使徒たち」ではなく「(120人ほどの)兄弟たち」であるというふうに日本聖書協会側の解釈が変わったと受けとめてもよいかという私の質問に「そうだと思う」と答えてくださった。

もしそれが事実ならば、やはりかなり重大な訂正である。私に言わせていただくと、従来の教義学の「聖霊論」などは全面的な書き換えが求められるのではないかと思うほどの大改訂である。こういう箇所が「いつの間にか」すり替えられているようでは困る。

しかし、原典には「彼ら」と書いているだけである。「(120人ほどの)兄弟たち」と明確に特定できるほどの根拠のほうも見当たらない。もちろん、保守的(?)に考えれば、「(イスカリオテのユダを除く11人の)使徒たち」でなければ「(120人ほどの)兄弟たち」しか選択肢は残らないとは思う。

かくいう私は、それが「(120人ほどの)兄弟たち」である可能性を疑いたいのではなく、「彼ら」のすべてが7節の「人々」が言うとおり「皆ガリラヤの人」だったかどうか、また「皆ガリラヤの人」と呼ばれた「(120人ほどの)兄弟たち」の一人も外国語を学んでいなかったかどうかが怪しくなるのではないかと感じるのである。

そして、怪しくなったらなったで、私は構わない。より合理的な解釈の可能性が開けるだけである。「皆ガリラヤの人ではないか」は「人々」(7節)の台詞(カギカッコ内の発言)である。アホな言い方をお許しいただけば、「人々」が「(120人ほどの)兄弟たち」全員の出自を厳密にチェックしたわけではない(たぶん)。しかし私は、より奇跡性の強い従前の解釈を否定したいわけではなく、さりとて、より合理性の強い解釈を警戒しているわけでもなく、事実はどちらだろうと思っているだけである。

私はどっちでもいいとか言うと、無責任な感じになるだろう。しかし、私自身は「とにかくテキストに従うのみだ」と思っている。「テキスト」と言っても新約聖書の場合はギリシア語原典だけが唯一のテキストだと思っているわけではなく、たとえそれが(不完全な)日本語訳聖書であっても、それと自分自身(読者自身)が直接向き合っているかぎり、一つの決定的なテキストではあると、とらえている。

テキストに書いてあることに基づいて議論する、という姿勢を教わったのは左近淑先生(故人)だった。左近先生の旧約緒論の講義を受けたのは、クソがきだった、まだ19歳のときである。「旧約の学問というのは、テキストに縛られてやるものだというのが、わたくしの立場です。ですからテキストが言っていないことは言いたくても言ってはいけない」(『左近淑著作集』「第三巻 旧約聖書緒論講義」、教文館、135ページ)という言葉は、今でも耳に焼き付いている。

少しまとめよう。

使徒言行録2・6の場合、昨日からの私自身の調べと何人かの方々からのコメントを集約すると、ギリシア語原典が「彼ら」と書いているだけのところを日本語訳聖書100年越しの伝統が「使徒」と断定してきたので、おそらく何らかのミスリードが起こってしまっていた。それを日本聖書協会がおそらく大きな決断をもって修正した、という筋書きのように思える。そして、私の感覚では、「使徒」と特定すると事の奇跡性・異常性は強化されるが、特定をやめて「彼ら」とすると奇跡性・異常性はやはり緩和されるものがある。

上にも書いたが(この読み方にこだわるつもりは全くない)、「彼ら」を誰であるとも特定しないことによって、「(11人の)使徒たち」である可能性が薄れるが、他方の「(120人ほどの)兄弟たち」は「皆ガリラヤの人」(2・7)と呼ばれてはいるが、その中に外国語を学んだことがある人や外国生活をしたことがある人が一人もいなかったのだろうかとか、そういう想像力(妄想?)を働かせる余地が出てくると思う。イマジネーションの遊びの余地があることは、我々の読書に楽しみを増やす。

何度も言うのは誤解されたくないからであるが、私自身が聖霊降臨(ペンテコステ)の奇跡性・異常性を否定したがっているわけではない。「テキストが言っていないことは言いたくても言ってはいけない」という、今は亡き恩師の言葉を思い返しているだけである。

文語訳時代の訳者は、親切心のようなことから「解釈的な意訳」(真山光弥氏の表現だそうです)をしてくださったのかもしれないが、アリガタ迷惑だった可能性大のようだ。