2011年5月2日月曜日

文系の人たち、立ちあがれ

米・コロンビア大学の1-2年生必修コアカリキュラムは「西洋古典常識」徹底履修 毎週古典文学・思想の課題図書を読み、議論し、レポートを書く: 天漢日乗

年齢も関係あるのでしょうか、こういう記事に感動します。「哲学書なんてどこでも売ってるんだから、そんなもん自分で読めばいいだろ」と言われればそれまでですが、「本は本来読めないもの」(佐々木中氏)です。良い教師が必要です。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(新約聖書 使徒言行録8・31)。

岡山朝日高校の「倫理・社会」の影響は、かなり受けました。当時のノートは今でも宝物です。「西洋古典常識」の手がかりを得たことは間違いありません。

大学時代の哲学教師は近藤勝彦先生(現東京神学大学学長)でした。近藤先生は当時、一般教養ポストにおられました。カリキュラムの関係で、近藤先生から神学を教わったことはなく、哲学とドイツ語を教わりました。「洞窟のたとえ」や「窓のないモナド」の話は忘れられません。

東京にいた間、古書店という古書店をとにかく探し回ったのは、神学書ではなく、青帯の岩波文庫でした。プラトンからハイデガーまでは揃えました。

でも、あれが読めない。歯が立たない。翻訳のせいにしても仕方がありませんが、やはり翻訳が悪いんです。

山岡洋一氏出現以後の新しい翻訳理論に基づく、岩波文庫(青帯)の全面改訳を期待します。近代日本は「翻訳文化」なのですから、本気を出せば朝飯前のはずです。

日本をあきらめるつもりなどは、さらさらありません。しかし、そう遠くもない未来に「一家に一台、ガイガーカウンターを」と言われそうな時代の只中でこそ、「読みうる良い翻訳による西洋古典常識」が必要だと考えるのは、私だけでしょうか。

大節電時代にこそ、蛍の光・窓の雪を頼りに哲学書をひたすら読みふける。ロマンティックな発想だなどと思われたくないです。絶望の闇を打ち破るための苦闘です。

「牧師なら『聖書を読め』と言え」と言われそうですが、聖書も「西洋古典常識」です。哲学を読めば、聖書と神学を相対化できる。いま自分は何をどのように信じているかを客観視できる。それに、哲学の基礎も得られていない人に、神学の三位一体論やサクラメント論が理解できるとは考えにくいです。

それにつけても、欲しいのは良い教師です。文系の人たち、立ちあがれ。文学部、復活せよ。