2011年5月15日日曜日

「文学的に考える」とは、たとえばどういう意味か

現首相が「福島第一原発が爆発した」と公的に発言したとき、あるいは現官房長官が「ただちに健康に影響はない」と公的に釈明したとき、あるいは現天皇がビデオメッセージを国民向けに流したとき、私は彼らの言葉を信用したわけではない。関心があったのは、各発言がなされたという事実そのものと、その日付や場所。そして、そのときどのようなレトリックが用いられたかということだけだった。

ましてや、東電自身や原子力保安院の会見などは、最初の数日は見ていたが、その後はどうでもよくなった。加害当事者の釈明会見など、何十時間聞いても、真相が見えてくるはずがないと分かったからだ。

現天皇はともかく、現首相と現官房長官は、国民向けに語ることができない何らかの「真相」を知っていたに違いない(知りえたことを洗いざらい人前で暴露する政治家は通常いない)。そのことを文学者はすぐに見抜く。なぜ見抜けるか。あらあら、巧みな「文法」を用いはじめたぞ、ということが、文学者には瞬時に分かるのだ。

あるいは、天皇の登場の意味も、文学者なら文学的に、あるいは歴史的に、つまり日本史的に理解する。天皇が何を語ったかはあまり問題ではない。問題なのは、なぜ出てくるのが「天皇」なのか、である。あるいは、なぜあのタイミング(2011年3月15日でしたね)なのか、である。

私自身は文学者でも歴史家でもないので、事の詳細は分からない。しかし、このたびの“出来事”(と、いくらか柔らかく、価値中立的に書いておく)が太平洋戦争の「敗戦」に匹敵する超弩級の国難であるという認識がこの国の支配者層(それが誰かは具体的には知らないが、福島第一原発「爆発」の真相を最初期の段階から知りえていた政治家の誰か複数)の中にあるということを、天皇登場の日に認識した。「ああ、そういうことか」と察知できるものがあった。

いわゆる「核爆発」が起こりうるかどうかも、私にとっては最初からほとんど問題ではなかったし、関心もなかった。たぶん起こらないし、起こっていないのだろうということが、上記の“彼ら”が用いる「文法」で分かったからだ。

ひとの話を聞く際に、語られている内容が科学的に、あるいは数値データ的に正しいかどうかよりも、“日本語として”正しいかどうかに関心を寄せて聞くと、彼らがどの程度のことまでを知っていて、そこから先は本当に知らないかが、分かってくることがあるものなのだ。

なかでも現官房長官の本職は弁護士でもあるのだろう。話の最初から、特定のだれか(の、おもに財産)を法的に弁護している調子が分かった。当然のことながら、弁護士には弁護士の文法がある。とても立派な仕事だと思うが、彼らの用いる文法は、聞いていて苦痛を感じることが多い。

もちろん、もし、自分が弁護してもらう立場にあれば、巧みな「文法」を駆使してくれる弁護士であればあるほど、この上なく助かる存在でもあるだろう。

原発そのものの仕組みを知らないとか、具体的な数値データなど持っていない人間であっても、これくらいのことは分かるのだ。原発にせよ、他の精密機械やソフトウェアにせよ、すべてをブラックボックスにしておいて、つまり、その開発に携わったごく少数の人間だけの専売特許にしておいて、それ以外の素人には(たとえ実害を受けている被害当事者であっても)この件に関する発言権は無いとするのは、いかにも卑怯だ。

絶対に壊れない機械などないし、無限のエネルギーなどありえない。そもそも「完璧なもの」は地上に存在しない。いま書いたことは、科学的に証明できなくても構わない。「そうだ」と言い張る人が多くなれば、それで事は足りるのだ。神学の出番は、そこかもしれない。