2011年5月26日木曜日

「電源コードにつながったエヴァンゲリオン」と「ネットの匿名掲示板」は大差ない

余談ですが、『ONE PIECE』はどっちですかね。私の範疇表に従えば、ONE PIECEの世界は、どちらかといえばエヴァンゲリオンの世界(ただ物だけの世界)に近いのですが、ルフィの腕が百メートルくらい伸びている場面とか見ると、やっぱりDEATH NOTEの世界に近いのかなと、迷いそうになります。

しかし、まあ、ルフィの腕なら何キロ伸びても驚きもしませんし、あっても許す。でも、ノートに誰かの名前を書いたら、書かれたその名前の人が死ぬなんてのは、無いですよ。道徳的に許せないとか、そういう話とはだいぶ違いますよ。

だから、ここで、せっかく面白い問題提起をしてくださったのだから、その宇野常寛氏の本の話に戻らざるをえない。そういう気色悪いノートが「ある」前提を抜きにしては成立しない夜神月の犯行を、碇シンジが「止める」必要はない。「そんなノートはない」と言って相手にしなければ、何も起こらないのです。

いま書いたことを、もうちょっと丁寧に書きなおしますね。碇シンジが「そんなノートはない」と言って、彼とは別の世界に住んでいるかもしれないが、ともかく出会ったことがないし、出会うことができない夜神月のことなどどうでもよいと言って相手にしなければ、碇シンジが住んでいる世界には何も起こらない、です。

私は断然、碇シンジの世界に住んでいます。死神だの悪霊だのは全く「見たこと」がありませんし、その声を「聞いたこと」もありません。「どうせフィクションだから」というオチで結構。しかし、たとえフィクションでも、碇シンジと夜神月は共存できませんよ。碇シンジの世界に夜神月は存在しえないし、逆も然りです。

したがって、論理的に整えていえば、「碇シンジは夜神月を止める必要はない。なぜなら、出会うことができない夜神月を、碇シンジは止めることはできないし、かかわることさえできないから」と言えるのではないかと、考えているところです。

ゼロ年代のデスノートって何だったんでしょうね。「ネットの匿名掲示板」なんて答えは駄目ですよ、それは違います。書いた人間は匿名で、だれかの実名や悪口を書きこんで、その書き込みを読んだ相手が自殺した、なんてのは、デスノートでも何でもない。電線越しにつながっている相手への直接的な、まさに「電撃」攻撃です。

「電源コードにつながったエヴァンゲリオン」と「ネットの掲示板」は本質的に同じだし、一ミリも超えてない。でも、DEATH NOTEは存在しないです。「ネットの匿名掲示板」(電源コードつき)は、DEATH NOTEとは全く異質なものなのです。

昨夜は船橋高根教会で東関東中会伝道委員会。早朝は教会の月報の原稿書き(巻頭言など3ページ分)。その後すぐに出かけ、午前中は松戸市PTA連絡協議会でした。ガガガガとラッシュで仕事していると、同時並行でいろいろ書きたくなるんですよね。

��続けましょう)