2011年5月3日火曜日

「文系の人たち、立ちあがれ」への追記

哲学を学んでおられる方には教える立場になっていただきたいと願うのですが、教師になろうと必死にがんばっても報われない(または、報われなかった)方がおられることは、よく分かっているつもりです。

どれだけがんばっても、あるいは、がんばればがんばるほど、その努力の結果として与えれるべきものがない、すなわち、「就職先(大学のポストですよね)が無い」という話に、どうしてもなってしまうのでしょう。それで、「哲学では食えない」、「やっても意味がない」、「もっとお金になる実学を」といったような話になっていき、最終的には出資者(多くの場合、親)や自分自身も哲学を敬遠しはじめることになるのかもしれません。

この点で哲学の運命は神学の運命に似ています。しかし、神学の場合は良くも悪しくも「教会の学」(に過ぎないもの)なので、教会が存続するかぎりは有用性を失うことはありません。

神学と教会は一蓮托生の関係にあります。神学は教会と共に栄えます。論理的に言えば、逆もありえます。神学は教会の衰退と共に衰退もしうる。しかし、教会というところは、そう簡単には倒れないんです。だから神学もそう簡単には倒れない。

神学が教会を生み出すという理屈はありませんが(私がそういう理屈を認めません)、その逆ならばもちろんあります。教会は神学を生み出します。教会は神学の宝庫です。より正確に言えば、教会的実践(Ecclesiastical Practices)こそが神学の苗床であり、揺籃であり、宝庫です。この地上に教会が存続するかぎり、神学は話題に事欠くことがありません。

しかし、哲学の場はあくまでも大学でしょう。私は岡山朝日高校で「哲学のさわり」くらいは学びましたが、高校は哲学の土俵ではないでしょう。あくまでも仮定の話ですが、もし大学から哲学が完全に締め出される日が来たら、まさに哲学的な意味での「存在理由」についてはともかく、哲学を自分の仕事にする人は誰もいなくなってしまうのかもしれないというのは、言い過ぎでしょうか。

しかしそれでも、哲学を真剣に学んだ人は、たとえ食えなくても哲学し続けてほしいし、哲学を教えてほしい。大学のポストがないとか、どの大学も呼んでくれないとかなら教会の青年たちに教えてほしい。教会は十分な(いや全く)お支払いはできませんが。筋道のある論理に基づく正当な問いを不断に投げかけてほしい。

「そもそも本を買うお金が無い」、「論文を書いても載せてくれる紀要がない」、「翻訳しても本を書いても、私のような経歴では誰も信用してくれないし、買ってもくれないだろう」、「学会に入会したいけど、推薦してくれる先輩がいない」、などなど。

そんなのはすべて不勉強の言い訳です。発表の場は自分で作り出せます。ブログを立ちあげればいいだけです。ツイッターでもいい。どんなにむなしくても、誰からの返事もなくても、そこで真剣に哲学し続けてほしい。

ちなみに、この「関口 康日記」をどれくらいの方々が読んでくださっているかについては「企業秘密」なのですが、一日あたりでいえば、毎週日曜日の礼拝出席者の二倍から三倍くらいの人数の方々だと思っていただいて結構です。

1997年1月に私は友人すべてを失う覚悟をしました。いや、おそらくそのとき実際に失いました。それと共に、人間関係上の信頼も一度は完全に失ったはずです。道徳的な問題などはなく、所属を日本基督教団から日本キリスト改革派教会に変えただけですが、全く前触れなしに行動しましたので、以前から私を知っていてくださった方々の中に、ちょっとくらいは驚いてくださった方がおられたかもしれない、という程度の話なのですが。

その直後にインターネットを始めました。ですから私のインターネット生活は、ゼロスタートというよりマイナススタートでした。私にとってインターネットは「釈明の道具」でした。あれから14年半経ちました。その間、私がやってきたことと言えば、メールを書き続け、ホームページを立ち上げ、ブログを書くことでした。本当にただそれだけでした。

私の神学はいまだに物になっていませんので、何の参考にも励ましにもならないことも分かっています。しかし、上記のとおり、神学は哲学とは違うところがあります。大学や神学校の教授ポストに就いていないからといって、そのこと自体は「神学の成功者」でないことの証左ではないのです。悔し紛れに「私こそが神学の成功者だ」と言いたいのではありません(悔しがってもいませんしね)。「神学を営みうる場は、大学や神学校にもありますが、教会にもあります」と言いたいだけです。

私の場合は何の成功者でもありませんが、笑顔にあふれる松戸小金原教会と共にあり、美しく優しい妻と、二人の子どもと共に幸せな人生を送っていると、それだけは言える。

私は教会と家族を愛していますので、愛する人たちと共に喜んでいられることを「人生の成功」と呼んでよいなら、その意味でだけ、私は(今のところ)成功者です。