2011年5月26日木曜日

今のところ「碇シンジは夜神月を止める必要はない」だと思っている

なるほど、こういう図になるのかと分かった(試してみたい気持ちもいくらかあったことは否定しないでおくが、特定の人々に対する能動的な挑戦的意図などは皆無である)。

ブログに「宇野常寛氏」という名前を書き込んだとたんに、検索で見つけられたようで、宇野常寛氏関連のとある掲示板に、私のプロフィールつきでデカデカと貼り出された。どうりで、ふだんよりアクセスカウンターのまわりが速いわけだ。

はは、いやいや、私は別に宇野氏に「反論」したいわけではないです。「碇シンジでは夜神月を止められない」という命題を見て「違うよ」とは思ったが、初めから書いているとおり、宇野氏の本はまだ読んでる最中なので、書評めいたことを開始しうる段階ではない。読書中のメモにすぎないと、初めの初めから言っている。

それでも、たしかに、宇野氏の本をたまたま読んで(そもそも宇野氏に関心があったわけではなく、「ゼロ年代」という単語の意味を知りたくて、それこそ検索で「ゼロ年代」で引っかかった本を買っただけだ)、その本の中に書いてあった命題を見て、「違うよ」と思った、と書きはした。それだけで、私は何かある人々の神聖な領域を侵したことになるのだろうか。

そうね、強いて言えば、「宇野氏」への反論ではなく、『DEATH NOTE』への違和感、いやほとんど嫌悪感のようなものであれば、あるかもしれない。あの空中にフワフワ浮かんだやつ・・・なんだっけ、「死神」でしたっけ、固有名詞ありましたっけ、あれがダメですね。ああいうのが「いる」前提でなければ成立しない話。そういうのに反吐が出ます。

あとは、DEATH NOTEなるものそれ自体が存在しない。そこに誰かの名前を書いただけで、名前を書かれたその人が死ぬというノート。そういうものは、この地上には存在しない。そういうのが「ある」前提でなければ成立しないような話が、私は苦手です。とても耐えがたい。

宙にフワフワ浮かんだ感じのやつも、DEATH NOTEなるものも、どこにも存在しないし、ありえない。この二者が存在しないかぎり、夜神月なる登場人物は「無力」なのだから、そもそも「恐怖すべき夜神月」なる何者かは「存在しない」と考えたまでだ。

そこで至った(今のところの)帰結はこうだ。

問 「碇シンジでは夜神月を止められない」か。

答 「碇シンジは夜神月を止める必要はない。なぜなら、夜神月の犯行を成立させる前提としての死神(だっけ)も、なんとかノートも、そんなものはこの地上にはどこにも存在しないから」。

��いくらなんでも、ここでは終われないので、たぶんもう少し続く。)