遅ればせながら、と書かねばならない。劣等感を否めない。先週入手した宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)を読んでいる。こういう(たぶん話題になった)本を知らなかったことに恥ずかしさを禁じえないが、読みはじめて感じていることは「へえ」である。
宇野常寛氏の名前も先週どなたかのツイートで知ったばかりである。本書が出版されたらしき2008年7月の私は何をしていたかなあ。このブログ「関口 康日記」を始めたのが2008年1月。アムステルダム自由大学での「国際ファン・ルーラー学会」に出席したのが同年12月。そのちょうど中間くらいだ。
だから、おそらくこう言わねばならない。「2008年7月の関口は、神学一色、ファン・ルーラー一色でした」。宇野氏が扱っている仮面ライダー(龍騎、電王)、新世紀エヴァンゲリオン、DEATH NOTE、ONE PIECEなどは、子どもたちと一緒になって「批評なしに」楽しんでいた。純粋な一消費者として。
あ、いまちょっとウソを書きました。「子どもたちと一緒になって」?違うね。「子どもたち」を言い訳に使っちゃあいけない。子どもたちも楽しんでいましたが、私「が」楽しんでいました。もう一つのウソは、仮面ライダー「龍騎」というのを、私はほとんど見たことがない。チラ見したが、関心を持てなかった。
『仮面ライダー電王』は、相当見ました。映画まで見た。『DEATH NOTE』は、週刊少年ジャンプでリアルタイムで全部読んだ。映画も見た。『ONE PIECE』は全巻コミックスをもっている。アニメは(面白くないので)見ていない。『新世紀エヴァンゲリオン』は、リアルタイムでは見なかったが、昨年だったか、ウェブで全部見て、「面白い」と知った。
宇野氏が扱っている範囲はもっともっと幅広い。でも、今書いた四作品以外はほとんど知らないし、分かんないですね。フォローしきれない。涼宮なんとか、ハチミツとなんとかは、タイトルくらいは見たことがあるが、中身は知らない。
まあ、『ゼロ年代の想像力』は、まだ読みはじめたばかりなので、これについて云々するのは、もう少しあとになりそうだ。でも、私が実際に関心をもって見た四作品については、宇野氏のような方の解釈に助けてもらいながら、記憶に残っている範囲内で何か書きはじめられることがあるかもしれない。
ただ、四作品といっても連載継続中(つまり未完結)の『ONE PIECE』は別扱いでなければフェアじゃなさそうだし、『仮面ライダー電王』は実写だし、『DEATH NOTE』はマンガ(後に実写化)だし、『新世紀エヴァンゲリオン』はマンガとアニメ(両者の関係は知らない)だしで、「テキストの形態」が異なる。
「テキストの形態」が違うということは、比較が難しいということだ。そのため、宇野氏が取り上げている作品群の中で、私が興味をもって見た四作品のうち、「テキストの形態」が近似していて比較しやすいと思われるのは『新世紀エヴァンゲリオン』と『DEATH NOTE』の二つだということになる。
ここで、最初のほうに書いた、宇野氏の著書をパラパラめくりはじめての第一印象としての「へえ」の話に戻る。どうやら本書にとっても、いま私が残した二つの作品、『新世紀エヴァンゲリオン』と『DEATH NOTE』が、大きな問題らしいのだ。そのことを知っての「へえ」である。
「第一章 問題設定」の中の一小節のタイトルに驚いた。「4.碇シンジでは夜神月を止められない」(22ページ以下)。これは重大な問題提起だと直感するものがある。
でもね、「碇シンジでは夜神月を止められない」ですか?はは、言われてみれば、確かにそういうことになるのかもしれない。しかし、この命題を見た直後に言いたくなったことは、「違うよ」だった。
「碇シンジは存在するが、夜神月は存在しない」です。エヴァンゲリオンは存在しうるが、DEATH NOTEは存在しません。