2011年5月27日金曜日

重要なことは破局で終わらなかった場合まで考え抜くことだ

「今年の夏、我々はもはや電気を使ってはならないのではないか」というくらいに思い詰めている人たちがいるようですね。

でも、電気は使えばいいです。問題はありません。「湯水」か「停電」かの二者択一なんて誰にも迫られてないはずです。適度な使い方でいいと思いますよ。

それとも、使わなければならない人に電気を残すために「ゼロ電」を迫られる人がいるとでも心配しておられるのでしょうか。それは無いですよ。現代社会で「ゼロ電」は死ですからね。それは無いです。

まあね、せめて7月、8月を迎えてみなければ、実際にどうなるかは分かりませんけどね。というか日本の場合、四季がはっきりしすぎてるので、せめて一年過ごしてみないとね。

想像力が豊かなことは、良いことですけどね。「想像」と「妄想」は同じですよ。我々にとって重要なことは、破局の場合だけで想像をやめず、破局で終らなかった場合まで考え抜くことです。

「破局オチ」という言葉があるかどうかは知りませんが、いわゆる「死にオチ」なら知ってます。「死にオチ」なんてイマドキ、辞書に載ってるんじゃないかなあ。もうそんな狭い世界のウフフ用語じゃないですよね。

そういうのは、もう十分見ましたよ。そして、うっぷ、もう飽きた。そういうのいいから、次、次ー!って気分ですね。

いま考えている「ゼロ年代」の克服の道は、まだ分かんないですけどね。「ゼロ年代」(いちおう2000年から2009年まで、としておきますね)と「イチゼロ年代」(こちらは私の造語。他のだれかが使っているかどうかは知らないです。まさに「今、ここ」の状況のこと)とのたぶん最も大きな違いは「実名顔出し」ですよね。FacebookとTwitterの普及が、時代を分けていると思います。

「ゼロ年代オタク」の基本は匿名性だったはず。2ちゃんねるとmixiどまり、かな。私はほとんど初めからネットで実名顔出しをしてきましたが、少数派でしたね。「著名人でもないくせにエラソウに」とか見てた人もいるんじゃないですかね。

「ゼロ年代」以前からのオタクの人もいますよね。オタクにも四層くらいありそうです。初代オタク(80年代以前)、次世代オタク(90年代)、「ゼロ年代」オタク(00年代)、「イチゼロ年代」オタク(10年代)。

四層というのは、オタク生活を始めた時期を言ったまでで、「初代」だった人が今でもオタクであり続けている場合は「初代」にカテゴライズすればいいんですよ。

それで、私は、「初代」から「ゼロ年代」までは、道具は変わっても「結果」は変わってない、と感じているんです。

90年代までと比べて「ゼロ年代」が手にした圧倒的に有力な武器はネットだったでしょ。でも、ネットはネットでも、「ゼロ年代」に至っても、こと日本人の場合、匿名性の限界内の悪あがきのまま。それでは世界を変えられない。匿名の「意見」なんて、だれも信用しなかったんです。

それに対して、昨年あたりから本格化した「イチゼロ年代」は、それまでとは違ってきているようだと感じます。それは「オタクをやめて世間に出る」という変化じゃありません。実名顔出しで「オタクのまま世間に出る」ようになったのです。

いま文章、ちょっと変だったかな。「ゼロ年代」までは「世間に出る」ためには「オタクをやめること」が求められましたが(と思いますが)、「イチゼロ年代」以降は、「世間に出る」ためには、ある意味「徹底的にオタクのままであり続けること」が求められている気がするのです。

ま、今日はこれくらいにしますね。ヒントは、世界の最先端の情報はどこで得られるか、ですね。私もまだ煮詰まってませんです。Googleが「アングラ領域」を無くしたという点を加えておきましょうか。