いろいろ考えながら書いていますので、途中のツッコミがあるとありがたいです。
宇野常寛氏が『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)の中で書いておられることは、「碇シンジ」と「夜神月」の対比です。
そして、それはそのまま、氏の言うところの「1990年代後半の想像力」の代表者なる前者と「2000年代の想像力」の代表者なる後者との対比です。私自身は、フィクションを全否定したいわけではないです(んなの言ったら「碇シンジ」もフィクションです)。
で、もちろん(言うまでもなく)「エヴァンゲリオン」もフィクションなわけで(というか絵だし) 、そういうのをひっくるめて否定する論理は私の中には無いですよ。そういう片づけ方は、それこそ文学の否定にさえなるでしょ。それは私には無いから安心(?)してください。
宇野氏が書いておられることは、夜神月こそは2000年代の正義の象徴であるというような乱暴な展開ではありません。宇野氏の名誉を守る責任は私にはありませんが(たぶんね)、さすがにそこまで乱暴ではないです。「碇シンジのように引きこもっていては自分が殺されるので、決断主義的に行動する」(大意)のが夜神月だそうです。
私の読み方でも、「しょうがないから戦う」碇シンジと、「自分から仕掛ける」夜神月は確かに違うと分かります。今の私に芽生えている思いは、強いて言えば「碇シンジ型(または旧式)引きこもり」の擁護かもしれません。
しかし、宇野氏は、碇シンジのありさまから「しょうがないから戦う」というモチーフをほとんど引き出していないようにも見えます(まだ読了しえていない現段階では)。その代わりに「何が正しいかが分からないゆえに、間違いを犯したくないから何もしない」(大意)少年像としての碇シンジを強調したうえで、夜神月の決断主義と対比させています。
ところで、私(45歳)がようやく昨年(ウェブ上で)見た「エヴァンゲリオン」のどこが面白いと感じたのかといえば、あのロボット(じゃないんですよね、「拘束具」でしたっけ)が、それほど長くもない電源コードにつながっていたこと。そして、そのコードが外れると、残り数分しか動けなかったこと、でした。
あとは、なんだろう、碇シンジが葛城ミサトの部屋で同居することになった初日の、部屋の散らかりようとか、ゴミのほとんどがYEBISUビールの空き缶で埋め尽くされていたとか、掃除当番をじゃんけんで決めるとか。単純に「面白い」と思いました。夢見心地な所がまるでない感じ。
しかし、劇中で使用されるノートパソコンや携帯電話のデザインは「2015年」(でしたっけ。あと四年後ですね)という年代設定の割には古臭いものでしたね。 とくに携帯電話はデカすぎる。授業中の教室内で行われたチャットも「Y/N」とかキューハチ時代のパソコンみたいで笑いました。
で、宇野氏は「碇シンジでは夜神月を止められない」という命題を提示なさったわけですが、私の関心から言わせていただけば、碇と夜神とでは、道具の質があまりにも違いすぎて、比較が成り立たないと感じるのです。まあ、まだ結論めいたことを言いきる段階にはありませんが。
あるいは、かなり陳腐で古臭い言葉を持ち出せば「世界観の違い」でしょうか。私の見るかぎり(隈なく見抜いたわけではありませんが)、エヴァンゲリオンの世界は「ただ物だけの世界」(徹底的なマテリアルワールド)。空中にフワフワ浮かんでいる「死神」など出てきえない時空です。
そして、エヴァンゲリオンは「電源コード」につながれている。ロボット(じゃないことは知っています)に電力を集めるために、全国を「停電」にする作戦あたりまで描かれる。モノや、それを動かすためのデンキ(これもモノの一種)というような要素を、スキップしようとしないんです。
それに対して、DEATH NOTEの世界は、羽根の生えた「死神」(名前忘れました)が空中にふんわ、ふんわでしょ?「世界観」が違うというより「世界」が違う。「碇シンジでは夜神月を止められない」も何も、そもそも「碇シンジは夜神月に出会うことができない」んです。