2008年2月1日金曜日

教会で受けるトラウマの責任は教会の「神学」にもある

トラウマの正体が何であるのかは、まだ分かりません。本当に分かりません。「私はどうやら専門のカウンセラーに一度きちんと話を聞いてもらうほうがよさそうだね」と、つい最近、妻と話したばかりです(まだ一度もそういう先生のところに通ったことがありません)。とはいえ私は、自分の中に巣食うこのトラウマの正体が「狭義の心理学」や「狭義の精神医学」で説明してもらえそうなものであるとは思っていません。このように私が書くのは自分の問題を過大評価する(要するに「自意識過剰」)ゆえではなく、また心理学や精神医学を軽視するゆえでもありません。ある程度の自覚として私に思い当たるものがあり、そこにどうやら原因があるということが、その意味で「分かっている」からです。私の心を傷つけてきた少なくともその一つであり、かつ決定的な要素は「説教」です。「そうである」という自覚が、すっきりとした明確さまではないとしても、それほどぼんやりとでもなく、私の中にあります。そして、その「説教」を裏打ちする「ある種の神学」ないし「ある種の教義学」が、私の心の深い部分にダメージを与えたままです。その傷は、いまだに癒えていない。そのことに時々気づかされる瞬間があります。たいてい涙がこぼれます。教義学と実践神学を統合すべきであること、とくに説教や牧会の問題を教義学的に考え抜かねばならないと考えている理由はこのあたりにあります。説教や牧会における数多くの「失敗」の事例の中には、単なるテクニックの拙さであるとか経験値の低さというようなことで片づけられるべきではない事象も明らかに存在するからです。説教の実践、また牧会の実践を支えている理論的根拠としての「説教学」や「牧会学」そのものが失敗しているケースが明らかにあります。そして、それらすべてを支える「神学」が根本的に失敗しているケースがあるのです。「実践的教義学」は、現代のキリスト教カウンセリングに敬意を表します。その上で、教義学の観点からの積極的レスポンスを意図しています。しかし、現代流行中の説教学の潮流に対して、「実践的教義学」は、最も近い関係にあると感じられるだけに、どうしても手厳しいものになります。「教義学と実践神学の統合の提案」の背後に、具体的な人の動きを期待したい気持ちは、もちろんあるのです。