夜なべ仕事で原稿を書き、編集者に送りました。少し仮眠して、午後は土曜日の結婚式の会場設営です。うれしく思っていることは、来週2月10日(日)の礼拝説教を掲載して配信する予定の「今週の説教メールマガジン」が「第200号感謝号」であること。「第100号感謝号」のときは佐々木冬彦さんに「記念巻頭言」を書いていただきました。来週の「第200号感謝号」にも、私の恩人である方に「記念巻頭言」を書いていただく予定です。その原稿を実はすでに昨日読ませていただき、その中に記されている本当に温かくありがたいお言葉に、大いに励まされました。
「教会的実践」(kerkelijke praxis)とは、少なくとも牧師たちにとっては「毎日の実践」あるいは「日常の現実」です。しかし、キリスト者である多くの人々にとってのそれは、かなりの部分は「日曜日の実践」に限られたものであり、その意味での「日曜日の現実」でしょう。そういう認識には行きすぎの面がありますが(なぜなら我々は日曜日だけキリスト者であるわけではなく、すべての日においてもキリスト者であり続けているからです)、しかし、すべてが間違っているわけではないと思います。
牧師たちは、日曜日以外も我々なりに一生懸命働いています。しかし、もし我々牧師たちが「日曜日の仕事」に失敗しているとしたら、我々が日々取り組んでいる仕事への評価(評価という言葉をあえて用います)も得られないでしょう。回りくどい言い方をやめて率直に言いなおすとしたら、「日曜日の礼拝説教において教会員や礼拝出席者に苦痛や負担を与えるばかりの牧師は、他のどのような点や面に秀でているとしても、牧師として正当な評価を受けることはありえない」ということです。
「今週の説教メールマガジン」の発行を思い立った動機は、純粋に伝道目的というだけのものではありませんでした。第一の動機は、「日曜日『にも』こういう仕事をしています」と知ってほしい人々に、私の現実を伝えることでした。この点は書きはじめると長くなるので、今は省略します。
第二の動機は、第一の動機よりもさらにネガティヴなものです。牧師として駆け出しの頃、説教の言葉や内容が定まらず、神学的方向性も一定せず、それゆえ、自分が語ろうとしている事柄の意図を十分に伝えきれないもどかしさのうちで彷徨っていた時期に教会の人たちとの間に繰り返し起こったトラブルは、要するに「言った・言わない論争」でした。
「関口牧師よ、あなたは説教の中でこう言った。あの言葉で私は深く傷ついた。これ以上この教会で信仰生活を続けることはできそうもない。」
「いや、私はそんなことは言っていない。あなたを傷つけるようなことを牧師であるこの私がなぜ言わねばならないのか。」
「いや、間違いなくあなたは言った。あれは明らかに、私に対する当てこすりだ。あんなことをみんなの前で言う牧師には、とてもついて行けない。」
「いや、私は言わない。あの言葉の意図は、別に当てこすりなどではない。」
「いや、言った。当てこすりに決まっている。あなたはそういうことをする人だ。」
こういうのを水かけ論というのだと思いますが、果てしないまでの虚しさを伴う不毛なやりとりであることは間違いありません。あの虚しい「言った・言わない論争」を繰り返さないためにはどうしたらよいかをずっと考えてきて、ようやく辿り着いたのが「説教全文のインターネット公開」だったのです。