2008年2月16日土曜日

私とオランダ語(5/5)

しかし、です。「ハズレくじ」という言葉を二回も繰り返して書きました。それは「ファン・ルーラー研究」というコンテキストの中でのハズレくじという意味です。つまり、ファン・ルーラーへの直接的な言及や関係があるのではと期待して購入してみたら、言及がなかったり全く無関係だったりしたという意味です。けれども、明記しておくべきことは、それらもまた学術的に優れた書物ばかりであるということです。別のコンテキストにおいては宝物のような書物ばかりです!それが私にとって大きな収穫となりました。私の眼前の思想世界がどんどんどんどん(広範かつ加速度的に)広がっていきました。それがむしろ「ハズレくじ」であればあるほど、私にとって全く未知であった領域、あるいはそれまで一度も考えたことがなかったような新しい問題が見えてきました。別の言い方をするなら、私にとって、日本基督教団でも日本キリスト改革派教会でも、東京神学大学でも神戸改革派神学校でも、いまだかつて見たことも聞いたこともなかったような全く新しい事柄に出会うことができました。手前味噌で負け惜しみ的な言い方かもしれませんが、私にとってそれは、オランダ現地に居なかったからこそ得ることができた収穫であったという気がしてならないのです。これまで私は「この本を読め、あの本を買え」というたぐいの指示を、(牧田先生を含めて)どなたからも受けたことはありません。すべてを自分で選び、しょっちゅう「ハズレくじ」を引きながらも、しかしまた、すべてを自分のものとしてきました。これが結果的に良いことであったと感じています。自負をこめて申し上げるなら、「自立して神学すること」(zelfstandige theologisering)とはこういうことではないかと思うのです。我が家の二人の子供たち(中一男、小四女)に常に言い聞かせていることは「分からないことがあったら辞書を引け」です。「幸か不幸か、我々人間はインプットしたことしかアウトプットできないのである。漢字にせよ、外国語にせよ、数式にせよ、自分独りで勉強したことしか覚えていないし、使えない。ピアノにせよ、トランペットにせよ、練習したことしか演奏できない。年齢を重ねれば(勉強せずとも)自動的に漢字が書けるようになるわけではないし、時間が経てば(練習せずとも)自動的にピアノを弾けるようになるわけではない。外国に行けば(レッスンを受けずとも)自動的に外国語を使えるようになるわけではないのだ。すべては血の滲むような努力の結果である。分からないことがあったら辞書を引け。辞書を引いた回数だけ、確信をもって言葉を語れるようになるはずだ」。こんなエラそうなことを我が子らに語れるようになったのも、11年間(いまだに!)“パッチワーク”を続けてきた自負(?)ゆえです。