2008年2月5日火曜日

ヴァティカンでさえネットを活用している(1/2)

実際問題として、たとえば今日、ローマ・カトリック教会の総本山であるヴァティカン教皇庁でさえホームページを持っています。



ヴァティカン教皇庁ホームページ



http://www.vatican.va/



ホームページがあるくらいですから、ヴァティカン教皇庁独自の巨大なサーバーコンピュータも当然どこかにあるのでしょう。教皇庁本部から各国のカトリック教会への通達等もすべてメールで行われていると考えてよさそうです(私がそのようなメールをヴァティカンから実際に受け取ったことがあるわけではありませんので、想像でしかありません)。



ローマ教皇は使徒ペトロの権威を継承する存在であると、彼らは主張する。そうであるならば、ローマ教会の立場から言えば、聖書の中の「ペトロの手紙」は「ペトロのメール」と訳してもよいはずです。使徒パウロの手紙なども「ローマの信徒へのメール」、「コリントの信徒へのメール」、「ガラテヤの信徒へのメール」などと訳しても何の問題もないばかりか、好ましいことでさえあるでしょう。使徒言行録は「使徒ブログ」と訳しても構わない。



おそらく聖書の中の諸文書はそもそも販売目的で書かれたのではないものばかりでしょう(それとも、二千年前から「はい、これ『ヨハネによる福音書』、面白いよ。一冊500円。買った買った!」とエルサレム神殿前の露天商のような場所で売られていたと考えるべきでしょうか)。



公開することを目的として記された文書であればあるほどインターネットを通しての文書公開は有効です。マルティン・ルターがヴィッテンベルクの城教会前に張り出したと伝えられる「九十五個条の提題」なども、もし当時インターネットがあったとしたら、ルターもまた、自分のブログを立ち上げて、思いのたけを(95どころか1,000でも10,000でも)書き込み続けることができたことでしょう。あるいは、メールをどんどん活用して同じ志を共有できる仲間たち(宗教改革者たち!)を集めたことでしょう。そのほうが一枚のチラシをどこかに張り出すことよりも、また、買ってもらえるかどうか、さらに、読んでもらえるかどうか全く分からない(高価な販売価格を伴う)書物を書くよりもはるかに効果的な手段だからです。



文明の利器を利用しないのは、大いなる損失であると共に怠慢の罪です。もちろん何事にも危険な要素はあります。しかし、「刃物は危険だから使わない、使うべきでない」と言うなら、魚料理も肉料理も不可能です。何度も怪我をしながら上達していくという道を辿るのでなければ、いつまで経ってもプロ並みの腕を習得することはできません。



今さら蒸し返す必要もないような昔話ですが、11年半ほど前にメールを始めた頃は、メールやホームページは「仕事」のうちにカウントしてもらえませんでした。「一部のマニアたちのあやしげな遊びにすぎない」と見られていました。牧師たる者がそういうものにのめり込むことなど以ての外であると白い目で見られました。その後まもなくしてマイクロソフト社のビル・ゲイツ氏(当時は社長)が、ある雑誌社のインタビューで「あなたが毎日取り組んでいる仕事は何ですか」という質問に「メールを書くことです」と答えて周囲を驚かせた、という記事に接したとき(当時はそれが「驚き」だったということが今では驚きです)大いに慰められたことを、はっきりと記憶しています。



牧師の仕事も、かなりの部分は「メールを書くこと」です。非常に過酷な重労働です。