2008年2月3日日曜日

「アレオパゴスの真ん中で」

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使徒言行録17・16~34(連続講解第44回)



日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康





「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。』」



今日の個所で使徒パウロが立っている場所は、ギリシアの首都アテネです。なぜパウロはアテネにいるのでしょうか。その経緯が先週の個所に記されています。パウロとシラスとテモテの三人が、テサロニケとベレアの町でイエス・キリストの福音を宣べ伝えたとき、多くの人々がキリスト教信仰を受け入れ、洗礼を受けました。ところが、それにねたみを抱いたユダヤ人たちがパウロたちを町から追放するために、人を使って暴動を起こさせたのです。パウロたちの身に危害が及ぶことを恐れた人々が、伝道者たちを安全な場所へと逃れさせました。その際シラスとテモテはベレアに残りましたが、パウロは一人アテネに移動することになったのです。



そしてパウロは、それからしばらくの間、一人で伝道することになりました。「寂しい」という感情をもったかどうかは分かりません。パウロも人間です。一人でいると何となく不安を感じたり、心もとないものを感じたりしたかもしれません。そういうことを少しは考えてみる必要があるかもしれません。ただ、そのようなことは何も記されていません。



むしろはっきりと記されていることは、パウロがアテネに到着して最初に抱いた感情は「憤慨」であったということです。「憤慨」とはもちろん、激しいまでの怒りの感情です。私が以前から申し上げている「パウロ先生はすぐ怒る」という話がここでも当てはまるかもしれません。しかし、なぜパウロは「憤慨」したのでしょうか。理由が記されています。



明らかに分かること、それは、ユダヤ人でありキリスト者であるパウロの目から見るとギリシアの首都アテネは、完全に異教徒の町であったということです。その町にはあふれ返るほど多くの偶像が立ち並んでいました。それを見てパウロは「憤慨した」、すなわち、激しいまでの怒りの感情を抱いたのです。



その状況はちょうど、先週もお話ししましたとおり、150年前の日本に来たアメリカ人のプロテスタント宣教師が体験したであろうものと非常によく似ていたに違いありません。パウロの目の前には、一人として、少なくとも表立ってキリスト教信仰を告白する人々がいませんでした。この個所を見るかぎり、当時のアテネにユダヤ教の会堂は存在していたようですから、聖書の「せ」の字くらいは知られていたでしょう。しかし、キリスト教の「キ」の字は知られていませんでした。その意味での、まさに全くゼロからの、あるいはマイナスからの伝道活動を開始せざるをえなかった、しかもたった一人で(!)その困難な仕事を始めなければならなかった。そのときのパウロの心中がどのようなものであったかについては、察して余りあるものがあります。



しかし、パウロの優れているところは、そのような絶望的と言いうる状況に立たされても、まさに文字どおり「折〔または「時」〕が良くても悪くても」(テモテの手紙二4・2)、イエス・キリストの福音を宣べ伝える仕事を堂々と始めることができた点にあると言ってよいでしょう。それは、次のように書かれているとおりです。



「論じ合っていた」という表現は「議論していた」という意味ではなく「説教していた」あるいは「御言葉を宣べ伝えていた」という意味であると、解説されています。



また、パウロの前に現れる「エピクロス派」や「ストア派」の哲学者については、次のように説明できます。エピクロス派は快楽主義者です。かたやストア派はエピクロス派とは正反対の禁欲主義者です。前者は地上の人生を楽しむべきであると考える人々であり、後者は地上の人生を楽しむべきではないと考える人々です。しかし、共通点もあります。この人々が持っているのは、いずれにせよ「地上の人生を軽んじる思想」であったということです。もちろんそれはキリスト教的な立場からの批判的評価です。



エピクロス派は、死後の世界も現世を超えた次元もそういうものは一切認めない人々でした。彼らにとって地上の人生は刹那的なものであり、せいぜい遊んで暮らすしかないものであり、どうでもよいものでした。性的な乱れもあったと言われています。他方のストア派は、地上の人生を苦しむべきものとしてとらえていました。しかし、その教えは、現実の出来事を直視しつつ一つ一つの問題に真剣に取り組む姿勢を説くものではなく、どちらかといえば嫌々ながら人生をやり過ごす姿勢を説くものでした。



私の見方では、エピクロス派にせよストア派にせよ今日の個所で紹介されているアテネの哲学者たちの思想は、わたしたち日本人の(ただしキリスト者以外の)一般的な感性にちょうどぴったりフィットするようなものではなかっただろうかと、思えてなりません。どのみち一回かぎりの人生である。適当に楽しんで暮らそうか。それとも、少しは苦しい修行の道でも歩んでみようか。しかし、どのみち人は死ぬ。死ねば、皆一緒。



そのようななんとも言えない頽廃的ムードないし虚無主義に支配されたギリシア的思想の厚い壁を前にして、パウロは「イエスと復活について福音を告げ知らせていた」と記されています。しかしまた、そのパウロの説教は、哲学者たちにとってはうんざりするような、あるいは何を言っているのかさっぱり理解できないような話として受けとられ、心理的に拒絶されていたらしいことが、この個所から伝わってきます。



皆さんはどうでしょうか。この教会で私は繰り返し「キリスト教信仰において、復活とはこの地上にもう一度戻ってくることです。わたしたちの地上の人生は死によって終わるものではありません。復活によって地上の人生が回復されるのです。だからわたしたちは地上の人生を軽んじてはなりません。復活前の人生と復活後の人生は連続的なものです」と語ってきました。このように語っているときの私の念頭に常にあるのが、今日の個所のパウロの状況です。すなわち、アテネの哲学者たちが教えていた「地上の人生を軽んじる思想」と対決しているパウロの状況です。



私がなぜ、声を大にして「復活」を強調してきたか、また同時に声を大にして「地上の人生の価値」を強調してきたか、その理由は今日の個所に詳細に描き込まれているパウロとギリシアの哲学者たちとの対決状況が、今日においてもなお厳然と存する日本の思想的社会的状況と同じであると考えてきたからに他なりません。



すべての人はどうせ死ぬ。死んだら皆同じ。人生などどうでもよい。このように、私を含めた日本人の多くは、心の奥底で感じています。そのような思想教育を受けてしまっています。しかし、そのように考えることは間違いであると、パウロならば語るでしょう。わたしたちは復活するのだ。この地上に再び戻ってくるのだ。だからこの地上の人生には価値があるのだと。このパウロのメッセージを、わたしたちもまた、まさに声を大にして今日の日本社会の中で語り続けなければなりません。



パウロは「アレオパゴス」に連れていかれました。アレオパゴスは、ユダヤ人にとっての「最高法院」(サンヘドリン)に相当する、ギリシアの最高議会が招集された場所です。今の日本でいえば国会議事堂のある東京都千代田区永田町一丁目のような場所です。そこでパウロに要求されたことは「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19~20節)ということでした。当時のギリシア人からすれば、使徒パウロの存在は、遠い外国から来た新興宗教のスポークスマンのように見えたのでしょう。一応興味はあるので、とりあえずテレビ番組に出演して、その新しい教えをこの国のみんなに紹介してくださらないかと言われているようなものです。



するとパウロは、その要求に二つ返事で応じます。そしてたった一人で「アレオパゴスの真ん中で」、いわばまさに全ギリシア人の前で、実際にはほとんどが興味本位か冷やかし半分で集まっている人々の前で堂々と、キリスト教信仰、なかでも「復活」について語るのです。このあたりも、伝道者パウロの卓越した側面であると言えるでしょう。パウロの辞書には「怯む」とか「怖気づく」とか「引っ込む」という言葉がないかのようです!



パウロの説教の内容(21~31節)について詳しくお話しする時間はもう残っていません。ただし、一つ気になる点だけ、申し上げておきたいと思います。それは、冒頭部分です。



なぜこの点が気になるのでしょうか。最初に申し上げましたとおり、アテネに到着した直後のパウロは「憤慨していた」のです。つまり、激しく怒っていた。その怒りの感情は、アレオパゴスの真ん中で語っているときにもなんら収まっていなかったはずだと思われるのです。しかしそれにもかかわらず、パウロは「あなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」と言う。これは明らかに、かなり辛辣な皮肉であり、嫌味です。なぜならパウロはそもそも、ギリシア人の偶像崇拝を「信仰」であるなどとは思っていなかったからです。つまりパウロは、心にも無いことを皮肉として言っているのです。



気になること、それは、皮肉や嫌味で伝道は可能かという問題です。アテネでのパウロの説教について「結果としては失敗に終わったものである」と評する人々がいます。私は、その判断に賛成せざるをえません。以前の私はパウロの説教に「失敗」などあるものかとその判断に反発していましたが、このたび読み直してみて「なるほど、この説教は明らかに失敗している」と分かりました。



この説教が終わった後の人々の反応は、明らかに、非常に白けきったものです。さっさと帰る人がいる。あざ笑い、「その話はまた今度ね」と言い残していく人がいる。キリスト教信仰を受け入れた人は「何人か」である。否定しがたい事実としてこの説教には明らかにけんか腰の要素があります。人の感情を逆なでし、人の心を遠ざけるものがあります。あなたがたは「知られざる神」を拝んでいる。信心深いご立派な方々です。あなたがたが知らずに拝んでいるものをこのわたしが教えてあげますという論法は「上から目線」です。「空気が読めない人」と見られるかもしれません。最も嫌われやすい語り方です。



私がこのような批判的な言葉をあえて口にする理由は、わたしたち自身の戒めにしたいからです。また、パウロの伝道活動にも試行錯誤の要素があり、失敗の連続であったことを率直に認めたいからです。わたしたちの信仰告白の内容は、正しいものです。しかし、語り方や伝え方を間違えると、あらぬ誤解を生み、人々の心を信仰から遠ざける原因にもなりかねないからです。皮肉や嫌味やけんか腰で、伝道はできないからです。



しかし、です。わたしたちがパウロから学ぶべきことは、もちろんたくさんあります。今日の個所から学ぶべき最も重要なことは、彼の「勇気」です。それは、今の日本の教会にまだまだ欠けている要素であると思われてなりません。



(2008年2月3日、松戸小金原教会主日礼拝)