2008年2月17日日曜日

主の道を受け入れる


使徒言行録18・12~28

今日読みました個所(使徒言行録18・12~28)の22節のところで、使徒パウロの第二回伝道旅行が終了いたします。そしてパウロはすぐに第三回目の伝道旅行に出かけています。この時期のパウロの身に起こったいくつかの出来事を、今日は見ていきます。
 
「ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、『この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております』と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。『ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。』そして、彼らを法廷から追い出した。すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。」

最初の段落に紹介されているのは、パウロがまだコリントに滞在している間に起こった出来事です。ガリオンという名の「アカイア州の地方総督」はローマ人でした。つまり、ガリオンはユダヤ人にとっての異邦人であり、かつユダヤ教にとっての異教徒であったということです。このガリオンのもとに、ユダヤ人たちが、パウロを捕まえて連れて行ったのです。そして彼らは、パウロを裁判にかけてほしいとガリオンに申し立てます。ところが、ガリオンはユダヤ人たちの言い分を聞き入れませんでした。異邦人ガリオンにとってユダヤ人たちの言っていることは、ユダヤ教という一宗教内部の論争であると感じられたからです。要するにガリオンは、ユダヤ教とキリスト教の違いだの、そういう種類の話には全く興味がないし、そのような問題に関わる立場にはないと言っているのです。

ガリオンがユダヤ人たちに向かって語っている言葉の中で注目すべき点は、彼の言葉の冒頭部分です。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理する」。しかし、パウロがしていることはそのようなものには見えない。そのようにガリオンは言っているのです。

パウロは、コリントに「一年六か月」滞在して、神の言葉を教えました(18・11)。そのパウロの伝道がコリントの人々に少なからざる影響を及ぼし始めていたことをガリオンも知っていたに違いありません。つまり、コリントの人々は、パウロたちのしていることは不正な行為でも悪質な犯罪でもないということを分かっていました。しかし、ガリオンがユダヤ人たちの前で示した判断を直接的な意味でパウロの伝道の成果であると見ることができるかどうかは微妙です。もしかしたらガリオンはいいかげんな人であり、宗教のような面倒な事柄には一切関わりたくないと逃げたのだと見るほうがよいのかもしれません。

しかし、たとえそうであっても構わないと私は考えます。重要なことは、ガリオンの目から見て、またコリントの人々の目から見ても、キリスト教信仰は「不正な行為とか悪質な犯罪」のようなものには見えないと判断してもらえたことです。キリスト教会は、市民生活を脅かす存在ではないと、一般社会の人々に良い意味で信頼してもらえたことです。それどころか、むしろ、ユダヤ人たちがしていることのほうが、よほど不正な行為であり悪質な犯罪であると見えたのではないでしょうか。一般的な常識を持っている人の目から見れば、それくらいのことは当然分かるのです。人前で暴力を働く人々が同情を得ることができるケースは、ほとんどないと言ってよいのではないでしょうか。

たとえば、17節には、「群衆が会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた」とあります。会堂長、つまりシナゴーグのリーダーはもちろんユダヤ人です。なぜユダヤ人であるソステネが他のユダヤ人たちから殴りつけられなければならなかったのでしょうか。全く理解に苦しみます。理由の一つは、おそらくソステネがパウロの伝道を助けたからだろうと思われますし、もう一つの理由として考えられるのは、無関心を決め込むガリオンにユダヤ人たちが腹を立て、何とか関心を引こうと暴力事件でも起こしてやれという動機が働いたのではないかということです。いずれにせよ、ソステネにとって、またコリントの町の人々にとって、きわめて不愉快な出来事であったであろうことは間違いありません。

小さな疑問点があります。ユダヤ人群衆の暴行を受けた会堂長が「ソステネ」であると紹介されていることと、18・8に紹介されているコリントの会堂長が「クリスポ」と紹介されていたこととの関係です。解決策は、コリントには複数の会堂があり、一つの会堂のリーダーがソステネであり、他の会堂のリーダーがクリスポであったと考えることができます。また、一つの会堂に複数のリーダーがいて、ソステネもクリスポも同じ一つの会堂に仕えていた人々であったと考えることもできます。どちらが正しいかは分かりません。

「パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、『神の御心ならば、また戻って来ます』と言って別れを告げ、エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶するためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガリラヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。」

二番目の段落に紹介されているのは、パウロが一年六カ月滞在したコリントの町に別れを告げ、他のいくつかの町を経由して、使徒ペトロたちがいるエルサレム教会、そして、パウロの伝道旅行の出発点であるアンティオキア教会に戻った場面です。アンティオキアに戻った時点で第二回伝道旅行が終了したということになるわけです。

この段落にもいくつかの注目すべき内容があります。しかし、その中で最も重要と思われる点についてだけお話ししたいと思います。それは、次の三番目の段落にも登場します「プリスキラとアキラ」の夫婦がパウロの旅行に同行したという点です。

この夫婦は先週お話ししたとおり、テサロニケやベレアの町で起こったユダヤ人たちの暴動から逃れて一人でアテネにたどり着いたパウロ、あるいはまた、アテネ伝道においてあまり思わしい成果を見ることができず意気消沈したままコリントにたどり着いたパウロを自分たちの家にかくまった家庭です。パウロからすれば、まさに命からがらの逃亡生活の中で居候(いそうろう)させていただいた家庭である、ということになるでしょう。

私が大切であると考える点は、この夫婦がパウロの伝道旅行に同行することによって、パウロをまさに命がけで助ける存在になったということです。

現代の牧師たちが時々、いやしばしば陥る罠は、「私は伝道のために命をささげているのだ。命がけで伝道しているのだ」と、まるで自分一人だけがこのために命をささげている人間であるかのように感じたり、考えたり、言い張ったりすることがあるという点です。しかし、それは本当に間違った認識であり、罠です。牧師は一人で伝道しているわけではありません!自分一人が命がけで戦っているわけではありません!そのように思い込んでいる牧師たちがいるならば、顔をあげて自分の周りを見るべきです。そこにはあなた以上に命がけで戦っている教会員がいるということに気づくべきです。伝道は教会のみんなで行うべきことです。キリスト者全員が伝道者なのです。

パウロがコリントで得た最も大きな収穫の一つは、プリスキラとアキラというこの夫婦との出会いを通して、そのこと(命がけで戦っているのは自分だけではないということ!)に気づくことができた点ではなかったかと思われるのです。

なお、この夫婦は、アキラが夫であり、プリスキラが妻です(18・2)。しかし興味深いことは、使徒言行録の中でも(18・18、18・26)、ローマの信徒への手紙の中でも(16・3)でも一貫して「プリスキラ(プリスカ)とアキラ」、つまり、妻が先、夫が後という順序で紹介されている点です。

以前私は、第一回伝道旅行の際にパウロとバルナバの名前の順序が逆転していく意味をお話ししたことがあります。名前の呼ばれる順序には意味があると申しました。プリスキラとアキラというこの名前の順序にも意味があると考えることができるのです。この順序には、16世紀の宗教改革者カルヴァンがすでに注目しています。妻プリスキラ(プリスカ)は偉大で活発な女性であったが、夫アキラは少しおとなしい感じの人だったのではないかというようなことを、カルヴァンが書いています。

パウロは、この夫婦について、ローマの信徒への手紙の中に、次のように書いています。「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっているプリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています」(ローマの信徒への手紙16・3~4)。

「さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。」

第三番目の段落においても、プリスキラとアキラの働きについてのみ触れておくことにします。ここに紹介されている出来事は、パウロの第三回伝道旅行がすでに始まっている時期に起こったものです。アポロという伝道者が登場します。この人が、エフェソの町で伝道を始めました。ところが、アポロの説教の内容は信仰理解の点において必ずしも正確なものではなかったのです。正確でない教えを語る説教者を放置しておきますと、やがて必ず非常に大きな影響が生じます。困ったことです。

そのような事態に接して大きな働きをなしたのがプリスキラとアキラであったというのです。彼らが信じていたキリスト教はパウロから教えられたものであると言って間違いありません。つまり、この夫婦がアポロに「もっと正確に神の道を説明した」とは、アポロの間違いをパウロから教えられたことをもって訂正したのだということを意味しているのです。

伝道者はそのような場面でこそ喜びを感じます。パウロとしては、自分が伝えた教えが自分のいないところで「正しい神の道」として語り継がれているということになります。伝道の目的は、自分自身を宣伝することではなく、正しい教えが宣べ伝えられることです。そしてその教えに忠実に従って生きる人々、すなわち「主の道を受け入れる」人々を生み出すことです。この点においてパウロの伝道は間違いなく成果を生み出したのです。伝道者の真価は、その本人が去った後に測られるものなのです。

パウロの伝道には非常に大きな苦労がありました。見るからに華々しい成果があったとは言えないかもしれません。しかし、まさに少しずつ少しずつその影響が表れて行ったのです。ガリオンの判断、そしてまたプリスキラとアキラという強い味方の登場。これらの出来事は、決して過小評価されるべきではありません。

(2008年2月17日、松戸小金原教会主日礼拝)