2008年2月5日火曜日

メールを書く仕事

なんだかウダウダしていましたが、「ただいまー」と、二人の子供が学校から帰ってきて家が明るくなり、少し元気が出てきました。ほとんど毎週同じ状況なのですが、こと先週は、説教の準備だけではなく、ものすごく大量の、そして質もしくは内容に重大な責任を伴うメールを書きました。加えて、急遽頼まれた原稿を徹夜で仕上げ、メールに添付して送った日もありました。その他、「やれポスター作れ。やれブログを更新せよ。やれ会議録のチェックをせよ」と次々に注文が(ほとんどすべてメールで)届きます。入院中の方のお見舞いにも行きました。牧師会もありました。この日記ブログへの書き込みは、それらの合間にしていることです。「牧師はブログだけ書いていれば務まるのか」と思われるとしたら、それも困る話です。しかし、です。似たような問いとして「牧師はメールだけ書いていれば務まるのか」というのもあると思う。それに対して今の私は「そういう面もあるようだ」と答えるかもしれません。使徒パウロのことを考えざるをえません。パウロは、一種の手紙魔でした。とにかくたくさんの手紙を書きました。病弱や高齢等のために自分で書けなくなっても、口述して書記さんに書きとってもらいました。伝道旅行の際に出会ったあの人この人を励ますためです。もう二度と会うことができないだろうと確信できるほど遠く離れた場所に住んでいる人々を、手紙で力づけたいからです。わたしたちの時代には、手紙が電子メールに換わっただけです。筆やペンがキーボードに換わっただけです。使徒の働きを受け継ぐ現代の牧師の仕事は、「メールを書く仕事」でもあるのです。私は岡山県岡山市の出身ですが、大学と大学院が東京都三鷹市、最初の教会が高知県南国市、次の教会が福岡県北九州市八幡東区(ここにいるときにメールを開始。当時の名称は「パソコン通信」。1996年の夏。爾来、11年半ほどメールのお世話になっています)、その後兵庫県神戸市北区の神学校での一年半の学びを経て(神戸で長女が生まれ)、山梨県甲府市の教会に赴任するが、四ヶ月後には会堂移転に伴い山梨県中巨摩郡敷島町(現在の山梨県甲斐市)に転居、そして2004年4月より現在の千葉県松戸市に至る。42年間の「永い一瞬の人生」(コブクロ「WHITE DAYS」)にどれだけ引っ越ししたのでしょう。現在中学一年生の長男(13歳)は高知県で生まれましたが、13年間で五回も転居を経験させてしまいました。平均すると、(13年÷5回=)2.6年ごとに転居した計算になります。本当につらい目に合わせてしまいました。長男のいちばん嫌いな言葉が「引っ越し」です。私の向かい側で(コタツにいます)眠い目をこすりながら学校と塾の宿題をしている二人の子供たちの横顔を見ていると、また胸が痛みはじめます。私が今「改革派教義学」という六文字をどこでも憚りなく堂々と述べることができるのは、この二人の子供たちの「犠牲」あってのことなのです。