2008年2月10日日曜日

「恐れるな、語り続けよ」

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「今週の説教メールマガジン」が第200号を迎えました!



「今週の説教メールマガジン 第200号感謝号」記念巻頭言 高瀬一夫先生



使徒言行録18・1~11(連続講解第45回)



日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康





「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退却させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。』パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。」



パウロが「アテネを去った」と記されています。この「去った」という表現は、単なる移動の事実を示しているというよりも、もっと強い意味を持っています。「退却した」です。あるいは「引き上げた」とか「遠ざかった」です。「すごすごと」あるいは「しおしおと」あるいは「しょんぼりして」という言葉を付け加えたくなるような表現です。



どうしてパウロはしょんぼりしているのでしょうか。その事情は先週学んだとおりです。第二回伝道旅行の出発時にはパウロと共にシラスとテモテの二人がいました。しかし途中でパウロは一人になってしまいます。そしてパウロはたった一人でギリシアの首都アテネに行き、そこで説教しましたが、その結果はあまり思わしいものではありませんでした。



大都会のど真ん中に、一人で立つ。どれほど大きな声を張り上げて何を語ったとしても、まともに耳を傾けてくれる人がいない。何を言っても無駄。取りつく島がない。きっかけがつかめない。なすすべがない。そのことを深く痛感し、気落ちして元気なく、その場を後にする。そうしたパウロの心境が「去る」というこの一言に集約されているのです。



パウロの語り方のほうにも問題があったということを先週申し上げました。皮肉や嫌味がたくさん含まれている言葉を、けんか腰で語る。気負いがあったのではないでしょうか。「わたしは大都会アテネの異教主義を相手に一人で戦っているのだ」というような意味での気負いです。しかし、皮肉交じりのけんか腰の言葉は人の気持ちを逆なでするものです。素直に聞いてくれる人は少ないでしょう。



パウロという人は、よくも悪しくも強い人でした。彼の強さには「悪しくも」と言わなければならない面があったと思われるのです。



自分が信じていることを、どんな場所でもはっきりと語ることができました。それは良い面でしょう。しかし、場をわきまえるとか、相手の状況を配慮するというような面に少し欠けるものがありました。要するに、遠慮がないのです。デリカシーというようなものもちょっと足りない。配慮するとか遠慮するというようなことを考えたり実行したりすること自体が罪であると思っているようなところがありました。当たって砕けろ式のやり方で体当たりする。あるいは、真理の重くて固い石を、だれかれかまわず投げつけてしまうようなところがあったのです。そして、相手が間違っていたり、こちらの思い通りにならなかったりした場合は、すぐ怒る。腹を立てる。こういう人は、わたしたち日本人がいちばん苦手とするタイプかもしれません。



しかし、そのようなパウロの態度も、伝道旅行の中で遭遇する体験の中で、ほんの少しずつですが、変わっていったと感じられる面もあります。今日の個所からその変化を示すことはできませんが、今後の学びの中で見ていきたいと願っています。



パウロはコリントに移動しました。そしてコリントでも「安息日ごとに会堂で」御言葉を宣べ伝える仕事をしました。しかし、この町でパウロの活動に新しい要素が付け加わりました。コリントに住んでいたアキラとプリスキラというユダヤ人夫婦の家に住み込んで、彼らと一緒にテント造りの仕事に取り組んだというのです。



ただし、気になることがあります。それは、パウロとアキラの「職業」が同じであったという表現です。結論から言いますと、これは誤訳であると私は考えています。なぜなら、パウロの職業は「伝道」だからです。それは私の職業が「牧師」であることと同じです。伝道だの牧師だのは「職業」ではないという考えもあることを私は知っています。しかしそれは非常に大きな誤解です。パウロの場合も、彼の「職業」はテント造りのほうであり、伝道のほうは副業もしくは奉仕であるということではありませんでした。もしこの個所をそのように誤解する人が出てくるとしたら、これは明らかな誤訳なのです。



私がいつも拠り所にしている注解書を調べましたところ、私の理解を助けてくれる言葉が見つかりました。それによりますと、ここで「職業」と訳されている言葉(テクネー)の意味は、むしろ「技術」(テクニック)ないし「能力」(スキル)であるということです 。つまりここに書かれていることは「パウロの職業はテント造りであった」という意味ではなく、「パウロはテント造りの技術を持っていた」という意味であると理解すべきなのです。



ただ、しかしまた、「職業」という日本語がいわゆるお金を稼ぐ手段というようなことをもっぱら意味する言葉であると理解されているような場所や人々の中では、伝道が「職業」であるという話は、なかなか通じないというか、かえって非常に誤解される面があるかもしれません。「伝道」そのものは営利事業ではありえないからです。



パウロがなぜ、コリントの町でテント造りの仕事に取り組んだのか、その事情や動機についての詳しい説明はどこにもありません。しかし、思い当たることは、一つしかありません。要するに、食べるお金、あるいは宿を借りるお金にも窮する状況に陥ったのです。それ以外の理由は考えられません。



シラスとテモテから離れて一人でいたということがおそらく関係していたのでしょう。アキラとプリスキラの家に「住み込んだ」とは「居候(いそうろう)させてもらった」ということでしょう。居候も、何もしないでいると肩身が狭い。「仕事をさせていただきますので、どうか食べさせてください、しばらく住まわせてください」という話になったのだと思います。そこでパウロは、どこかで身に付けた「技術」ないし「能力」を活かすことを考えた。それがテント造りであったと見ることが可能です。



伝道の仕事に就いている者たち、牧師たちも、その種の苦労を味わうことがあります。笑いながらお話しできるようなことばかりではありません。心底つらい思いをすることがあります。しかしその体験には「人生の良い経験をさせていただきました」と感謝すべき面もあると思っています。そのような体験があるゆえに、お金のこと、生活のことで苦労している人々の気持ちを理解し、共感し、同情することができます。生活が完全に破たんすると、人はどのような思いになるのかということを、多くの伝道者は知っているのです。



シラスとテモテが、やっとコリントに来てくれました。それでパウロの状況が好転したようです。シラスとテモテがどこかで献金を集めてきてくれたのかもしれません。「パウロは御言葉を語ることに専念した」と記されていることの意味は明らかです。テント造りの仕事をやめたということです。そして安息日だけ御言葉を語るという生活をやめたということです。そのようにして毎日御言葉を語る者になったということです。つまりパウロの本来の「職業」としての伝道に専念できるようになったということです。この点を考えても、テント造りをパウロの「職業」と翻訳することは誤訳であると言わざるをえません。



しかし、です。パウロが力強く語れば語るほど、抵抗勢力のいきおいも増してきました。そこでパウロはどうしたか。腹を立てたり大きな声で怒鳴ったりしたでしょうか。どうもそうではなさそうです。もっとも「服の塵を振り払った」は「足の塵を払い落す」(12・51)と同じく、敵対する人々を呪う行為です。しかし、抵抗するユダヤ人たちを力づくで組み伏せようとするのではなく、「今後、わたしは異邦人の方へ行く」と宣言するに至りました。



ユダヤ人たちと向き合うのと比べると、異邦人に伝道するほうが容易かったでしょうか。まさかそんなことはありえません。たしかにユダヤ人たちは、聖書の神を信じていました。ユダヤ人たちが信じなかったのは、イエスがキリストであるという点です。それに対して異邦人たちはどうだったか。異邦人たちは聖書の神を信じていないから、白いキャンバスの上に新しい絵を描きはじめることができたかというと、そんなことはなかったわけです。異邦人たちは別の神を信じていました。別の思想、別の哲学に対して、確信を持っていました。ユダヤ人たちはパウロの宣べ伝える言葉を聞くと腹を立てました。しかし、異邦人たちは嘲笑ったのです。どちらの道も容易いものではなかったのです。



パウロは、お世話になったアキラとプリスキラの家に別れを告げ、次にコリントの会堂の隣にあったティティオ・ユストという人の家に住ませてもらうことになりました。会堂の隣に住むのはやはり都合がよいことです。会堂は「人が集まる」場所だからです。伝道とは「人に伝える」わざだからです。神の言葉の説教は、人のいない空中に向かって語られるものではありません。そこに大勢の人が集まっている場所で語られるものなのです。



コリントの町で、パウロは、おそらく、夜眠っているときに夢を見たのです。そして、その夢の中で救い主イエス・キリスト御自身の声を聞いたのです。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」おそらくこれは、すべて、そのときのパウロの心の中にあった思いに反対する言葉ではないかと思われます。おそらくパウロは恐れていました。語るのをやめよう、黙っていよう、こんなことを続けて何になるのかと、何度も思ったのです。繰り返し落胆と失望を味わっていたのです。多くの反対や抵抗、あからさまな攻撃、誤解や偏見、中傷誹謗、とくにアテネでの失敗やそこで受けた嘲笑、さらにコリントにおける生活上の苦労や行き詰まり。これらのことで、ほとんど心折れそうになっていたのです。



その中でパウロが見た夢、そしてその夢の中で聞いたイエス・キリストの励ましの声が、だれよりもパウロ自身を救う力になったことは、間違いありません。



わたしたちも同じです。伝道はわたしたちの熱意や勇気だけで続けられるものではありません。イエス・キリスト御自身の励ましの言葉だけが、わたしたちを支えているのです。



(2008年2月10日、松戸小金原教会主日礼拝)