月曜日は元気がありません。日曜日に力を出しきってしまうからでしょう。仕事して疲れるのは当たり前。余力が残っているとしたら、サボっている証拠でしょう(というこの考え方を、私はたしか養老孟司氏の『バカの壁』シリーズから学んだと記憶しています。この記憶自体が間違っているかもしれません。しかし、養老氏の本を読み直して確かめてみる気力がない。グダグダです)。体も心ももちろん脳も休みなく働かせ続けることは死を意味するでしょう。昨日は定期小会・執事会もありました。牧師は教会会議の議長です。疲れます。現在日曜日の朝の礼拝では新約聖書の使徒言行録の連続講解説教を行っています。昨日の個所は17章の16節から34節まで。ギリシアの首都アテネの「アレオパゴスの真ん中で」使徒パウロが説教する場面です。この説教は「結果としては失敗に終わった説教」と評されるものです。以前の私はパウロの説教に「失敗」などあるものかと反発していましたが、このたび読み直してみて「なるほどこれは失敗の説教である」と分かりました。パウロも失敗する!他人の失敗を見て喜ぶのは下品です。しかし慰めを感じる要素は確かにあります。もう一つ、使徒言行録のとくにパウロの伝道旅行を描いた記事を読みながら慰められている点はその伝道の方法です。「安息日ごとに」会堂で聖書について論じる。これが基本的なやり方です。パウロもある意味で「安息日の人」であり、「安息日の仕事」に取り組んでいたと言える。牧師が「日曜日の人」であり、「日曜日の仕事」に取り組んでいる。同じだなあと思うわけです。もっともパウロは、よく知られているとおり、生活費に行き詰ったからでしょう、「テント製作」のアルバイトもしました。食事をしないで生きれる生物は存在しません!(「生きれる」と、ら抜き言葉を使ってみたくなりました。コブクロの歌詞の影響です)。しかしそれは彼の本業ではありえません。伝道者の本業は「伝道」です!あのパウロ先生も安息日の翌日は(我々と同じように)ぶっ倒れていたのかなあとか想像してみると、慰められるものがあります。今日の私は、ほんと、ダメダメです(ぐったり)。