すべての説教をインターネット上に公開しはじめてからは、「言った・言わない」のたぐいは一切無くなりました。私の説教を耳で聴いてくださる方々に対し、《文字》(もじ)による「言質」(げんち)を提供すること。もし何か問題を感じる言葉が私の口から発せられた場合には、私の書いた《文字》のテキストに基づいて、その問題点を具体的に指摘していただけるようにすること。それが「今週の説教メールマガジン」発行の第二の、しかしこれこそが本当の、心底からの動機でした。
つまり、二つの動機とも、いうならば自己防衛的な側面の強い発想から出たものであったということです。よくいえば危機管理です。すべての説教を《文字》として公開することが、自分自身を防御し、かつ教会を混乱に陥らせないための最も有効な方法でもあると知りました。それと似たようなことは、我が国の総理大臣でさえ今や熱心に行っていることです。
第三の動機として伝道目的という点を挙げるべきかもしれませんが、この点はあまり事実でも真実でもありません。あとから取って付けたような動機です。「ブログを読みました。メールマガジンを購読しています。それで教会に通ってみたくなりました。洗礼を受けたいと願うようになりました」と申し出てくださった方は、199回メールマガジンを発行してきて一人もおられません。当然だと思っています。一時期は音声まで公開していましたが、公開作業が面倒になって(すべて私一人で行っています)、やめてしまいました。「インターネットで関口牧師の説教を聞きました。それで心動くものがありましたので、教会に通いたくなりました」と来てくださった方もゼロです。
私はそういう現実の前で少しもがっかりしません。そもそも最初の動機ないし目的が伝道という点にあったわけではなかったからです。最初から期待していないことについては、落胆も失望もありません。問題をいくらか局限化してみるとしたら、「そもそも“信仰”は電気信号に変わりうるものか」、あるいは「“聖霊”とは光ファイバーを介して伝達されうるものか」というような(半分以上は冗談のような、しかし深く考えはじめると意外に難しい)《教義学的問い》として成り立つと思っています。私はこれらの問いに対して、今のところ、きわめて否定的な考えを持っています。
毎日毎日、とことんハードに利用しているからこそ思うことです。はっきり言えば、「インターネットは伝道目的には向いていない」と考えています。牧師にとっても教会にとっても、持ち出すものばかり多く、返ってくるものはほとんどありません。「お前の考えは間違っている」と、どなたかにこの私を説得してもらいたいくらいです。