2008年2月6日水曜日

ヴァティカンでさえネットを活用している(2/2)

今日は長女の小学校の授業参観に行ってきました。父親の参観者は二、三名というところでしょうか。「教育熱心な父親」と見てもらえるのか、「牧師さんはやっぱり『仕事』していないのね」と思われているのか、お母さんたちの視線が気にならないと言えばウソになります。



数年前の『キリスト新聞』で、同じ町内にある(と言っても2kmほど離れている)栗ヶ沢バプテスト教会の吉高叶牧師(日本キリスト教協議会=NCCの当時「副議長」)が「日本の教会は《市民権》を求めている」と(たぶんやや皮肉な意味でも)語っておられた記事を読んだとき、深い共感を覚えました。



「今週の説教メールマガジン」を、つい先ほど発行しました。毎週プリントアウトし、しかも声に出して読んでくださっている方がおられると知り、本当にうれしく感謝しています。メールマガジンをどなたが読んでくださっているかまでは把握していないのですが、「メールマガジンやブログを読んでいます」と連絡してくださる方の中に、私の両親と同世代の方々(回りくどく書きましたが、要するに高齢の方々)が多くおられることには、ありがたいことだなあと痛み入っております。



ヴァティカンでさえ(「でさえ」はもちろん余計で失礼な言い方なのですが、あえて言わせてほしい)ネットをふんだんに活用し、ホームページを立ち上げていることは、わたしたちプロテスタント教会の者たちにとってやはり脅威であると認めるべきです。



「改革派教義学」のこれからのあり方にも大きな影響を与えるでしょう。なぜなら、従来の「改革派教義学」におけるローマ・カトリック神学に対する基本的な態度は、しばしば、それを肯定的に評価する場合であっても批判的に評価する場合であっても、現在のローマ・カトリック教会が時々刻々とリアルタイムに発信している《最新の》諸文書に基づいての評価をなしえたケースは少なく、むしろ圧倒的に多いケースとして、ローマ・カトリック教会の内部ではとっくの昔に克服され、淘汰されてしまっているような《過去の》諸文書に基づいての評価であったと思われるからです。つまり我々が「プロテスタント」として、あるいは「改革派」として「ローマ・カトリック批判」をしている最中に、ヴァティカンの側では「そんなのは今の我々の姿ではないよ。おたくら、古いねー」と、ゲラゲラ笑われているかもしれないのです。



はたして、現時点において日本の改革派神学者の何人が、リアルタイムのローマ・カトリック教会のウォッチャーでありうるでしょうか。あるいは、毎日の日課のようにして、ヴァティカンのホームページをチェックしている日本のプロテスタント神学者は、何人いるでしょうか。甚だ心もとないものがあります。それをしない神学者はけしからんと言っているのではありません。それをしないならば、ローマ・カトリック教会に対する有効な批判を行うことはもはや不可能であると言っているのです。



19世紀末に書かれたヘルマン・バーフィンクの『改革派教義学』や、20世紀初頭に書かれたルイス・ベルコフの『組織神学』、あるいは20世紀の中盤に書かれたカール・バルトの『教会教義学』や、20世紀の後半に書かれたG. C. ベルカウワーの『教義学研究』など。それらの中に描き込まれたローマ・カトリック教会の姿が今でも変わらず彼らの姿であり続けていると思い込むのは、危険なことです。それはちょうど、昭和前半の日本家庭を描いた「サザエさん」や昭和後半の日本家庭を描いた「ちびまるこちゃん」のアニメを外国の人々が見て「へえ、日本人て、こんな感じなんだー」と思われることに今の我々が「昔はね」と言いたくなるのと同じです。