2008年2月13日水曜日

説教の課題としての「パウロ批判」(2/2)

「伝道の益となるならば」という点からいえば、たとえば、葬式のときの「焼香」は行ってもよいと考えるキリスト者が日本の中で増えてきているようです。日本キリスト改革派教会では、まだごく少数ではないかと思われますが。私自身は「焼香」はしたことがありません。しかし、している人々を厳しく裁く気持ちには、今のところなれません。私自身は幼少の頃に両親と共に通っていた教会(日本基督教団所属)で「焼香はすべきでない」と教えられたので、それ以来、焼香をしたことがありません。しかし、もし行なうとしたら、「妥協」としてではなく「計画的・政治的・戦略的」に行なうでしょう。「伝道の益となるならば」という一点に集中して行なうでしょう。もちろん、パウロが関わった「テモテの割礼」や「ナジル人の誓願」などは旧約聖書的根拠を持っているものなので、「焼香」のような非聖書的・異教的なものなどと一緒くたに考えるべきではないということになるかもしれませんが、習俗的な要素の強さという一点において前者と後者には共通点があると思います。私が見るところ、パウロの「変幻自在・臨機応変」もまた、ある意味での「計画性・政治性・戦略性」を持っていたように思われます。そして、とくに第二回伝道旅行には「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか」(使徒言行録15・36)と書かれているとおり、あらかじめの計画はあったのです。パウロには無計画で出かけるような愚かさや無謀さはありません。海賊だって出かける前に計画ぐらい立てるはずです。ところが、実際に旅行に出かけてみると、事柄は何一つ、計画的に進んでいきませんでした。逮捕され、投獄され、鞭打たれ、予定外の町を一人で彷徨い、生活上の困窮まで体験することになったのです。私が今年一月に行った一連の説教は、新年度の定期会員総会(年に一回開催)を意識していたものです。教会の会計は「会費」や「税金」で成り立っているものではなくすべて「献金」で成り立っているものであり、その中で立てる予算案は、いわば「夢の計画」のようなものであるということを、教会の皆さんに理解してもらいたいと意識していました。計画は「ある」のです。しかし、わたしたちの日常的な現実はどうか。目の前に起こる一瞬一瞬の出来事に対して、まさに一瞬一瞬、「変幻自在・臨機応変」に対応していくしかないようなものである。そういうことを「あの石のように固いパウロからも」学ぶことができるのではないかというのが、私の説教の趣旨でした。教会が悪い意味でのファンダメンタリズム的な原理・原則論に立ってしまいますと、「変幻自在・臨機応変」と評しうるような柔軟な切り回しをしていくことが難しくなると思っています。現在も活躍しているキリスト教ファンダメンタリストたちも、パウロが大好きなのです。彼らはパウロから原理・原則を読み取る仕事をします(「女性の牧師・長老への任職反対」や「異教徒との結婚反対」などを主張する人々も含まれます)。たしかにパウロには、彼らが好むような要素がたくさんあるのです。彼らは、聖書的・神学的・そしてパウロ的な確信をもっていますので、そう簡単に自説を曲げることはありえません。キリスト教ファンダメンタリストたちの目から見れば、パウロにも「柔らかい」面があったという点などを強調して語る日本キリスト改革派教会の関口康牧師の姿は、ほとんど異端のように見えているかもしれません。そのように見られることを覚悟しながら、説教を公開しております。