2008年2月9日土曜日

インターネット時代における教義学研究の新しい可能性

今週は終始、心定まらず、脳内もクリアでなく、首や肩や腰に張りや痛みを感じながら過ごしました。理由ははっきりしています。先週中に一回、今週中も一回(昨夜)行った夜なべ仕事(脱稿が朝になる夜通しの書き物)が心身にダメージを与えているという、ただそれだけのことです。しかし今日は、教会で結婚式です。若い二人の晴れ舞台に、司式者が寝ぼけた顔をしているわけにはいきませんので、気合いを入れてがんばりたいと思います。



ところで。今週書いてきたことに強いてタイトルをつけるとしたら、大げさかもしれませんが「インターネット時代における教義学研究の新しい可能性」というようなことかなと思っています。最初からこういうことを書こうと決めて書いてきたわけではありません。なんとなくこういう方向に来てしまいました。しかし、インターネットの出現は、我々の教義学なり神学なりの研究のあり方を根本的に変えていかざるをえない、その意味で劇的ないし革命的な変化の可能性を示してくれるものであったと、私は感じています。



「感じています」と書くのは、変化後の実現形態をまだ見ていないからです。しかし、私自身がインターネットを約11年ほど利用してきて分かってきたことは、「これはかなり使える」ということです。とりあえず二点、教義学研究にとってのインターネットの利点を書きとめておきます。



第一は「これはとにかく《文字》(もじ)を伝えるツールである」ということです。換言すれば、これは《文字》を“言質”(げんち)として獲得しうるツールです。「言った・言わない」という不毛な論争を終結させうるツールです。この点が教義学研究に有効なのです。



私の長年の確信は「神学、とりわけ教義学というものは、それが学問(Wissenschaft)と呼ばれるものであるかぎり、《文字》のテキストをとにかく根拠にするものである」ということです。「立ち話や噂話、風説や流言飛語などをデータとみなす」、あるいは「行間を読む」とか「言外の意図を探る」というような仕方で、空中を漂う(文字化されていない)コトバを根拠にして学問としての教義学を営むことは、限りなく不可能に近いことであり、あるいは、たとえいくらか可能な部分が存するとしても、そのようなものはなるべく邪道とみなし、排除すべきであるという感覚を、私はずっと持ち続けてきました。この私の感覚に対して、インターネットというこのツールは、かなり大きな充足感を与えてくれるものでした。とにかく世界中の《文字》をかき集めて来てくれる。すなわち、「学問」(Wissenschaft)の根拠になりうるものをかき集めて来てくれる。これと同じことを期待できるインターネット以外のツールは、現時点では存在しません。



第二は、「インターネットを通しての買い物、とくに古書の購入は非常にスムーズで快適なものである」ということです。私はインターネットを利用しはじめてから約11年の間にオランダ語の神学書を中心に、非常に多くの古書を買い集めてきました。自慢するわけではありませんが、もしかしたら、今や私は、古書の情報を入手し、それをすみやかに購入するという一点においては、現地に留学中の人よりも上手かもしれません。



まだまだあると思いますが、また少し頭がぼうっとしてきましたので、ここまでにしておきます。