2008年2月29日金曜日

「研究環境」の整備をめぐる主要課題

私の少しばかりの経験から語りうることは、ファン・ルーラーの研究と翻訳を志す者たちの書斎(ないし研究室)に揃えておくべき必要最低限の文献は前記五名の著作(カイパー、バーフィンク、トレルチ、バルト、ノールトマンス。とくに彼らの『全集』や『著作集』や『教義学』の一式)であるということです。日本語版や他国語版があるものについては、それらを揃えることも「翻訳」のための有益な参考資料になります。



そしてもちろん、彼らの著作を「揃えておく」というだけでは不十分であり、徹底的に読み込んでおく必要があります。しかし、上記五人の書物を読むためには、最低でもオランダ語とドイツ語の知識は不可欠です。



また彼らの書物にはヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の三大古典語はもとより、英語やフランス語あたりは遠慮会釈なく出てきますので、これらの外国語についての手ほどきをどこかで少しだけでも受けていないかぎり、全く手に負えません。



以上のことが、言うならば「日本におけるファン・ルーラー研究」を可能にする大前提です(「ファン・ルーラー自身の著作を収集する」という点はあまりにも自明すぎる前提ですので、ここでは省略いたします)。



しかしまた、これだけの前提がある程度までクリアされていれば、翻訳はかなりスムーズに進んでいくでしょう。ただし、これだけの「研究環境」を《整備する》ということのためだけに、軽く10年や20年くらいはかかるはずです。



加えて、「語学留学」ができればベストでしょうけれど、そこまで行くとよほどの大富豪の家庭か、そうでなければ強大な組織(大学や教団や財団など)の後ろ盾があるような人にしか実現しえないでしょうし、一般家庭ならば文字通り「家屋敷を売り払うこと」でもしないかぎり無理でしょう。



それに、飛ぶように売れる書物の翻訳でもあるならともかく、販売益を全く期待できない教義学の翻訳の前提を得るための出費なのですから、ある見方をすれば、ただの「道楽」か「趣味」、あるいは「放蕩」にさえ見えるかもしれません。この偏見や嘲笑との戦いにも相当の年月がかかることを、覚悟しなくてはならないでしょう。



ファン・ルーラーと「五人の神学者」

ファン・ルーラーの著作が有する「謎」の要素は、だれの書物からの引用であるかが分からないところにもあります(それだけではありませんが)。ただし、ファン・ルーラーの蔵書量と読書量は非常に多かったということも知られています。引用元の文献を特定することは容易ではありません。しかし、それでは全く手掛かりがないかというと、そんなことはありません。絶望すべきではありません。ファン・ルーラーに圧倒的な影響力を及ぼした偉大な先人は、もちろんある程度特定できます。



確実なところを五人挙げるとしたら、アブラハム・カイパー、ヘルマン・バーフィンク、エルンスト・トレルチ、カール・バルト、ウプケ・ノールトマンスです。五人のうちカイパーとバルトに対してファン・ルーラーは、激烈なまでの批判を投げかけもしました。しかし、彼が彼らを攻撃したのは、党派心や私怨などからではありえず、カイパーとバルトの神学がオランダ改革派教会に及ぼした影響が圧倒的なものであったからこそ、どの神学にも必ず存する短所や欠点を指摘しておく必要が生じたからです。



ファン・ルーラーが「改革派の」神学者であったということについては間違いなく言いうることであり、この点に彼は、少し強すぎるほどのこだわりさえ持っていました。しかし、彼の書物の中に「我々カルヴィニストは」というたぐいの表現を見つけたことは、私自身はまだありません。ファン・ルーラーは「カイパー主義者」にも「バルト主義者」にもなりませんでしたし、そのようなものになることができませんでした。大樹に寄りかかることも、長いものに巻かれることも、よしとしませんでした。「自立して神学すること」(zelfstandige te theologiseren)をこそ、よしとしたのです。



しかしそれでも、バーフィンク、トレルチ、ノールトマンスに対する尊敬は(彼らの「主義者」になるという仕方においてではありませんでしたが)非常に大きいものでした。



ファン・ルーラーにおける「トレルチの問題」

ファン・ルーラーを読んでいますと、「トレルチの問題」にぶつかることが不可避的であることに気づかされます。改革派教義学者ファン・ルーラーが「トレルチ研究者」でもあったことは確実です。



ファン・ルーラーがフローニンゲン大学神学部に提出した卒業論文のテーマが「ヘーゲル、キルケゴール、トレルチの歴史哲学」というものでした(指導教授prof. dr. W. Aalders)。そして、さらにその後彼は、トレルチの歴史哲学に関する博士論文まで書こうとしていました。しかし、教会の牧師の仕事をしているうちに新しい関心が芽生えたため、博士論文のテーマは教義学的なものに変更しました。しかし、ファン・ルーラーがトレルチについての博士論文を書こうとしていたことは事実であり、そうしようと思うくらいに彼がトレルチを徹底的に読み込んでいたことも確実です。実際、ファン・ルーラーの文章にはトレルチからの引用が多いし、トレルチの問題提起を受けた発言も多い。



ただしファン・ルーラーは、トレルチに限らずどんな人からの引用であっても引用元を明示していない場合が多く、それがファン・ルーラー研究者を泣かしてきました。そのため、ファン・ルーラーの文章のどこにトレルチの引用があるかを見抜くという厄介な仕事は、当たり前のことですが、トレルチ自身の文章を実際に読んだことがある人にしか不可能であるということにもなるわけです。



私はこれでも一応、東京神学大学大学院で「エルンスト・トレルチの倫理思想」についての修士論文を書いた者です(審査の結果はあまり思わしいものではありませんでしたが)。私も一時期トレルチはかなり読み込みました。特に、最高の金字塔『歴史主義とその諸問題』(Der Historismus und seine Probleme, 1922)は、近藤勝彦先生の全訳版を、感動の涙を流しながら何度も繰り返して読みました。どこに書いてあるかをすぐに思い出せなくても、トレルチがどういうことを考えていたかが少しは分かります。ファン・ルーラーを読みながら、「これはトレルチの引用だな、たぶん」と分かります。はずれたことはありません。



今週月・火曜日の東関東中会教師会一泊研修会で久米あつみ先生がお教えくださったことの一つは、フランスのカルヴァン学者、オリヴィエ・ミエ先生の凄さ。ミエ先生の手にかかると、この手書き文書はカルヴァン自身の直筆かどうかなどは数行も読めば判別できるとのこと。



私もいつか、せめてファン・ルーラーに関して、また理想的には主要なオランダ改革派神学者に関して、その域に達してみたいと願っています。



2008年2月27日水曜日

東関東中会教師会一泊研修会

一昨日、昨日と日記を書けなかったのは、体調不良のせいではなく不在だったからです。東関東中会教師会一泊研修会でした。テーマは「カルヴァンの生涯と神学」、講師は久米あつみ先生(帝京大学元教授、アジア・カルヴァン学会顧問、フランス文学者)、会場は日本キリスト改革派勝田台教会(千葉県八千代市)でした。せっかくの機会を牧師たちだけで特権的に占有してはなるまいと、最初の部分を「公開講演会」にして一般の参加者を募りましたところ、老若男女、大勢集まってくださり、満堂になりました。開会礼拝をささげた後、久米先生の明晰で味わい深い名講義(90分)を堪能できました。そしてその後は一般の参加者にはお帰りいただきました。帰り際、どなたもとても満足しておられました。私は教師会の会長(昨日まで)として本企画の主催者でしたので、参加者の嬉しそうな表情に深い慰めを得ました。そして、牧師たちだけになってから、久米先生の御著書(久米あつみ著『カルヴァンとユマニスム』、お茶の水書房、1997年)をテキストにしたゼミを行い、そこに久米先生御自身にも参加していただき、まことに懇切丁寧なご指導をいただくことができました。そのような満ち足りた二日間を過ごしておりました。ゼミの中で私もレポートを書いて発表する担当者になりました(そのレポートはここにあります)。私の担当箇所は「第七章 カルヴァンのレトリック」の部分でした。本当に心から信頼しあえる同僚牧師たちと深く広い学びができたと感じ、うれしく思いました。帰宅後、久米先生の御著書に言及されている古代の修辞学者クインティリアヌスのことを知りたいと思い、例によってネットで検索してみました。すると、な、なんと、ごく最近のことのようですが、クインティリアヌスの主著Institutio Oratoriaが日本語に翻訳され、その日本語版の全五分冊(原著は全12巻)中の一冊目がすでに出版されていると知り、非常に驚きました(クインティリアヌス著『弁論家の教育〈1〉』 、西洋古典叢書、京都大学学術出版会、2005年)。さっそくAmazonで注文しました。



2008年2月24日日曜日

読書を再開しています

気力というのは恐ろしいものがあります。体調を崩すなどしてそれを失うというか減ってしまうというかの体験をすると、気力というものの存在の大きさを感じます。勢いよく書いてきた日記が、思うように書けなくなりました。言葉があふれてこないというか、物事を考えること自体がちょっとおっくう。お腹の風邪は治ったものの、のどや鼻に痛みがあり、薬を飲んでいることも関係してか、一日中ボーっとした感じが続いています。「気力を失った」と感じるとき、とくに「言葉を失った」と感じるときは、本を読むことにしてきました。とくに日曜日の夜、なかでも説教があまりうまくいかなかったと感じる日、また教会や中会や大会などの会議の席で何らかのトラブルめいたやりとりがあって腹の虫が治まらないとき、などなど。そういうときに限って猛烈に本を読みたくなります。「言葉を失った」ので「言葉をかき集め、不足を補い、蓄える」ために本を読む。とても単純な話です。こんな単純なやり方でけっこう回復してしまう私は、人間の造りが単純なのでしょう。ものすごく腹が立つような出来事があってイライラ、ムカムカしている日の夜などに限って、オランダ語の神学書を辞書と首っ引きで読んでいたりします。あまりに没頭しすぎて、気がつくと次の日の朝だったという場合も、しょっちゅうです。今日読んでいたのは、E. コリンスキー編『西ヨーロッパの野党』(清水望監訳、行人社、1998年初版、2004年第三版)です。何ヶ月か前に近くの古本市場で見つけて買いました。なかなか面白い本です。私の恒常的な関心事の一つにオランダのキリスト教政党の動向をウォッチすることがあるのですが、本書にはオランダのキリスト教政党が、特に前世紀後半以降、「野党」になったり「与党」になったりを繰り返しながらうまい具合に世論を「中道化」させ、バランスを保ってきた様子が、短い言葉ながら分かりやすく書かれていました。このような良い本が日本語でたくさん書かれること、また良い日本語に翻訳されることを期待します。「日本にもキリスト教政党が欲しい」と真剣に願っているのは、私だけでしょうか。



2008年2月23日土曜日

地域にかかわる

今日は朝7時45分から30分間、中学校前でPTAの「あいさつ運動」に参加しました。夜は補導員の仕事でした。地域社会の活動に参加することの大切さを改めて実感しました。



2008年2月21日木曜日

ファン・ルーラー研究会 結成9周年記念メッセージ

ファン・ルーラー研究会の皆様、



本日は、研究会結成9周年の記念日です。毎年、記念メッセージを書かせていただいていますので、今年も書きます。



○昨年2007年は、わたしたちにとって大きな動きを感じられた年でした。主な動きは以下のとおりです。



(1)8月には、教文館からファン・ルーラーの三冊目の訳書として『キリスト教会と旧約聖書』(矢澤励太先生訳)が出版されました。この本の素晴らしい書評を牧田吉和先生が『本のひろば』にお書きになりました。



(2)9月には、二年ぶりとなる我々の研究会の「神学セミナー」を日本基督教団頌栄教会で開催することができました。牧田吉和先生が「ファン・ルーラーの喜びの神学」について力強い講演をしてくださいました。



(3)また同月、アメリカのニューブランズウィック神学校で「国際ファン・ルーラー学会」が開催され、アメリカのファン・ルーラー研究者が一堂に会しました。



(4)さらに同月、ついにオランダで新しい『ファン・ルーラー著作集』の第一巻が出版されました(第二巻は今年4月出版予定です)。その『著作集』第一巻の「編集者序」の中に「日本にファン・ルーラー研究会(Van Ruler Translation Society)がある」ことが大々的に紹介されました。『著作集』で紹介されたということは、それが収められる全世界の大学や神学校の図書館にも、我々の研究会の名前が永久に覚えられることになったことを意味しています。



(5)そして、その『著作集』出版記念祝賀会の席で、ファン・ルーラーの息子さんであるケース・ファン・ルーラーさんが、牧田先生がファン・ルーラー家を訪問されたときのエピソードをオランダの碩学たちの前で紹介してくださいました(その音声がインターネットを通じて世界的に紹介されました)。



○日本語版『ファン・ルーラー著作集』の実現の夢はまだ叶いませんが、コツコツとした活動は、続けています。



(1)たとえば、昨年は、日本キリスト教会神学校の紀要『教会の神学』に栗田英昭先生の「ファン・ルーラーの聖霊論におけるキリストとの神秘的合一」と題する堅実な研究論文が掲載されました。



(2)また私も、神戸改革派神学校の紀要『改革派神学』に「地上における神のみわざとしての教会」という論文を書きました。日本基督教団改革長老教会協議会の『季刊 教会』誌にも「改革派神学・長老主義・喜びの人生」という論文を書きました。



○さらに、我々ファン・ルーラー研究会の少し先輩である「アジア・カルヴァン学会」にも、昨年は大きな動きがありました。



もちろん、言うまでもなく、東京代々木・青少年センターで行われた「第10回日本大会」の開催です。世界最高レベルのカルヴァン学者、ライデン大学のヴィム・ヤンセ教授をメイン講師にお迎えし、日本、韓国、台湾、インドネシアから約100名の参加者が東京に結集しました。



○今年の抱負も少し述べておきたいと思います。現在計画中なのは、念願の日本語版『ファン・ルーラー著作集』への道備えとしてのいくつかのステップです。以下のようなことを計画し、具体的に動きはじめています。



(1)「ファン・ルーラー研究会シリーズ」(仮称)の自費出版(発売元を著名な出版社に依頼する計画です)



(2)著名な雑誌へのファン・ルーラーの訳文(訳注・解説つき)の連載



(3)神学セミナーの開催(これは毎年一回開催を原則としてきたものです。内容・日程等は未定)



(4)なお、今年2008年12月10日(水)は、ファン・ルーラー生誕百年記念日です。当日、アムステルダム自由大学で記念講演会が行われます。メイン講師はユルゲン・モルトマン博士です。日本からも参加できる人がいるとよいのですが。



(5)あとは、オランダ語の翻訳にひたすら取り組むこと、そして同時に、繰り返し問われる「なぜ今、日本でファン・ルーラーなのか」という問題にきちんと答えられるように、我々自身の研究と洞察を深めていくことだと思っています。



○メーリングリストは、このところ少し低調気味ですが、これを「命綱」と感じてくださっている方々もおられることを知っております。ありがたく感謝いたします。



どうかこれからもよろしくお願いいたします。どなたもお元気でお過ごしくださいませ。



2008年2月20日



関口 康



ファン・ルーラー研究会代表
日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師



この記念メッセージを「ファン・ルーラー研究会ホームページ」に掲載しました。PDF版もあります。



2008年2月20日水曜日

復活しました

「日記を中断します」と月曜日に書きましたが、中断しなくて済みそうです。昨夜までは自信喪失状態で萎(しお)れていましたが、一夜明けたら急にモリモリ元気が出てきました。今日の午前中は水曜礼拝、また午後は中学校のPTA活動に参加してきました。食事も普通食に戻りました(量は控え目ですが)。「ボクって若いんだなあ」と感じています。もう大丈夫です。牧師の仕事も、改革派教義学も、ファン・ルーラーも、オランダ語も、カントも、米倉涼子さんも伊東美咲さんも、続けていきます。



2008年2月19日火曜日

自主謹慎中です

昨夜はうどん(月見でした!)、今朝は食パン一枚(マーガリンなし)を口にすることができました。しかし、体力と気力にまだ欠けるものがあるのと、日曜日に教会の皆さんにあれほど大きな迷惑をかけ、動揺させてしまった自分の不節制への反省と自粛の念あって、外出は控えております(要するに自主謹慎です)。それでも、全く寝込んでしまうわけにも行かず(たまっている仕事もありますので)、体に応えない程度に時間を制限しつつ、パソコンと付き合わなければなりません。ノートパソコンを牧師館の寝室に持ち込んで、寝ながらやっています。心配してメールをくださる方々には、ただ感謝あるのみです。「体に触るから返事は要らないよ」とか書いてくださる方もおられる。大先輩からそういうことを言われると、どうしていいやら分からない感じです。恐縮するばかりです。こういうブログを書いているヒマがあるなら、いただいたメールに返事を書くべきですが、ここに書くような(目をつぶっても書けそうな)ダラダラした雑文と、お見舞いメールへの返礼として書く文章は、いくらなんでも質が違うでしょう。たとえメールであっても、お礼の文章の場合は、今のように「寝ながら」だなんて状態では、私にはとても書けません。とんでもなく失礼な行為と感じます。教会の牧師室(書斎)で、背中をピンと伸ばしてでないと、書けない。電話で喋っているときに、「ありがとうございます」と言いながら、(相手に見えるはずもないのに)一生懸命お辞儀していることがある(ない?)のと似ています。また、かなり以前から繰り返しいろんな人々によって指摘されてきましたように、メールで迂闊なことを書くと、手書きの手紙の場合よりも、相手に与えるショックや傷は大きいのです。理由としては、手書きの場合は字そのものに温かい感情を伝える力があるので少々乱暴なことや厳しいことなどを書いても真意が伝わりやすいのに対し、パソコンの活字は感情を表現することができず冷たいので、書いた字のとおりしか相手に届かないため、誤解も生みやすい、などなど。その種のトラブルは、11年もメールと付き合っていますと私自身も体験せざるをえませんでした。まして、お礼の文章となりますと最高度に慎重な配慮を要するものですので、布団の上に寝そべったまま「サンキュー!」などとは絶対に書けないわけです(少なくとも私には)。というわけで、「申し訳ありませんが、お返事はもう少々お待ちくださいませ」・・・と、こんなところでウダウダ言っていても仕方ないですね。「何が自主謹慎だよ、元気そうじゃないか。ふざけやがって!」と叱られそうです。



(・・・と、ここまで書き終えた直後に、やっぱり気になるので、猛スピードで、すべてのメールにお返事をパッパと書いて、さっさと送ってしまいました。もちろん、布団の上に寝そべったままで、なりふり構わず。考えていること、書いたこと、していることが、完全に支離滅裂です。さっきから電話もひっきりなしにかかってきます。おちおち休んでなどいられません。)



ひまつぶしというわけではないのですが、「『実践的教義学』の構想」の(1)から(4)までのファイルを結合して「A5判 縦書き」にまとめてみました。近未来にオランダで改革派教義学の研究をしてくださる方への“遺言”のような気持ちで書いてきましたが、今それを言うとシャレになりません。自主謹慎中ですので、これくらいにしておきます。



「実践的教義学」の構想(1~4まとめ)



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001-004.pdf



2008年2月18日月曜日

日記を中断します


残念ですが、これから一週間ほど、この日記を休みます。昨日の礼拝の最中に、説教できぬまま気絶し、救急車で病院に行くことになってしまいました。

医師の診断は「嘔吐下痢症状による脱水症状が引き起こした“血管迷走神経反射性失神”」とのことです。「血管迷走神経反射性失神」(Vasovagal syncopeというそうです)をネットで検索してみましたところ、なるほど、症状の内容等が私のケースとぴったり当てはまりました。

「若い人に多く、通常立っている時に起こり、目の前が暗くなり、めまい感や悪心などの前駆症状に続いて、顔面が蒼白になり、意識消失して倒れてしまいます。これは血管迷走神経反射性失神と言われるものです。強い痛みや精神的ショック、ストレスが誘因となって自律神経のバランスがくずれ、抹消血管の抵抗が減少し、血液が心臓に戻らなくなり、血圧低下となり、脳血流が低下して意識がなくなります。この際徐脈、冷や汗を伴います。このような場合は一時的な体調の問題で病院へ行く必要はない場合が多いですが、失神を繰り返す場合や横になっている時に起こす失神は他の病気が原因になっていることがありますから、病院へ行って調べてもらったほうがいいでしょう。」

CTと胸のレントゲンもとりましたが、脳にも・心臓にも、全く異常はありませんでした。血液検査の結果も、きわめて正常でした。そちら方面の心配はないようです。

17日(日)未明(午前5時頃)から礼拝開始直前まで嘔吐下痢症状がありました。お腹の風邪を引いたようでした。しかし、発熱や咳などがなかったため、気分は比較的良好で、説教をすることには何の支障もないだろうと思っていました。

ただ、講壇に立った後に(つまり説教中に)嘔吐や下痢の症状が出ては困るとお腹の中身を空っぽにすることを考え、朝食をとらず、水分もとらずにいました。それが結果的に脱水症状を引き起こしてしまいました。

失神は生まれて初めての経験です。礼拝が始まってしばらくは、意識は明瞭でした。説教前の讃美歌が始まった頃、冷たい汗が全身に一気に噴き出した感じがあり、寒気がし、意識が遠のいて途中から歌えなくなりました。しかし、説教については30分間くらいなら何とか持ちこたえることができるのではないかと思い、講壇に立ちました。

ところが聖書を一行くらい朗読したところで(そこまでは覚えています)目の前が真っ白になり、立ったまま気絶してしまいました。

松戸小金原教会の皆様には本当に大きなご迷惑、ご心配をおかけしてしまったことを、申し訳なく思っています。しかし、もう大丈夫です。一応、今週は自分で自分の様子を見たいと思いますが、お腹の風邪さえ治れば、他の問題はなさそうです。昨日からおかゆとポカリスエットだけで生活しています。

昨日予定していた説教は、来週の日曜日に行います。体調が来週までに復調しますように。

2008年2月17日日曜日

今週のまとめ

先週と今週の分を合わせて、これまで書いてきたことをまとめておきます。脱線ばかりのただのお喋りですが、抽象的にならないほうがよいと、自分に言い聞かせています。



「実践的教義学」の構想(ドラフト)



(1) 教義学と実践神学の統合の提案



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001.pdf



(2) 教義学と私の実存の関係



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics002.pdf



(3) インターネット時代における教義学研究の新しい可能性



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics003.pdf



(4) 私とオランダ語(今週分)



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics004.pdf



主の道を受け入れる


使徒言行録18・12~28

今日読みました個所(使徒言行録18・12~28)の22節のところで、使徒パウロの第二回伝道旅行が終了いたします。そしてパウロはすぐに第三回目の伝道旅行に出かけています。この時期のパウロの身に起こったいくつかの出来事を、今日は見ていきます。
 
「ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、『この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております』と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。『ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。』そして、彼らを法廷から追い出した。すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。」

最初の段落に紹介されているのは、パウロがまだコリントに滞在している間に起こった出来事です。ガリオンという名の「アカイア州の地方総督」はローマ人でした。つまり、ガリオンはユダヤ人にとっての異邦人であり、かつユダヤ教にとっての異教徒であったということです。このガリオンのもとに、ユダヤ人たちが、パウロを捕まえて連れて行ったのです。そして彼らは、パウロを裁判にかけてほしいとガリオンに申し立てます。ところが、ガリオンはユダヤ人たちの言い分を聞き入れませんでした。異邦人ガリオンにとってユダヤ人たちの言っていることは、ユダヤ教という一宗教内部の論争であると感じられたからです。要するにガリオンは、ユダヤ教とキリスト教の違いだの、そういう種類の話には全く興味がないし、そのような問題に関わる立場にはないと言っているのです。

ガリオンがユダヤ人たちに向かって語っている言葉の中で注目すべき点は、彼の言葉の冒頭部分です。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理する」。しかし、パウロがしていることはそのようなものには見えない。そのようにガリオンは言っているのです。

パウロは、コリントに「一年六か月」滞在して、神の言葉を教えました(18・11)。そのパウロの伝道がコリントの人々に少なからざる影響を及ぼし始めていたことをガリオンも知っていたに違いありません。つまり、コリントの人々は、パウロたちのしていることは不正な行為でも悪質な犯罪でもないということを分かっていました。しかし、ガリオンがユダヤ人たちの前で示した判断を直接的な意味でパウロの伝道の成果であると見ることができるかどうかは微妙です。もしかしたらガリオンはいいかげんな人であり、宗教のような面倒な事柄には一切関わりたくないと逃げたのだと見るほうがよいのかもしれません。

しかし、たとえそうであっても構わないと私は考えます。重要なことは、ガリオンの目から見て、またコリントの人々の目から見ても、キリスト教信仰は「不正な行為とか悪質な犯罪」のようなものには見えないと判断してもらえたことです。キリスト教会は、市民生活を脅かす存在ではないと、一般社会の人々に良い意味で信頼してもらえたことです。それどころか、むしろ、ユダヤ人たちがしていることのほうが、よほど不正な行為であり悪質な犯罪であると見えたのではないでしょうか。一般的な常識を持っている人の目から見れば、それくらいのことは当然分かるのです。人前で暴力を働く人々が同情を得ることができるケースは、ほとんどないと言ってよいのではないでしょうか。

たとえば、17節には、「群衆が会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた」とあります。会堂長、つまりシナゴーグのリーダーはもちろんユダヤ人です。なぜユダヤ人であるソステネが他のユダヤ人たちから殴りつけられなければならなかったのでしょうか。全く理解に苦しみます。理由の一つは、おそらくソステネがパウロの伝道を助けたからだろうと思われますし、もう一つの理由として考えられるのは、無関心を決め込むガリオンにユダヤ人たちが腹を立て、何とか関心を引こうと暴力事件でも起こしてやれという動機が働いたのではないかということです。いずれにせよ、ソステネにとって、またコリントの町の人々にとって、きわめて不愉快な出来事であったであろうことは間違いありません。

小さな疑問点があります。ユダヤ人群衆の暴行を受けた会堂長が「ソステネ」であると紹介されていることと、18・8に紹介されているコリントの会堂長が「クリスポ」と紹介されていたこととの関係です。解決策は、コリントには複数の会堂があり、一つの会堂のリーダーがソステネであり、他の会堂のリーダーがクリスポであったと考えることができます。また、一つの会堂に複数のリーダーがいて、ソステネもクリスポも同じ一つの会堂に仕えていた人々であったと考えることもできます。どちらが正しいかは分かりません。

「パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、『神の御心ならば、また戻って来ます』と言って別れを告げ、エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶するためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガリラヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。」

二番目の段落に紹介されているのは、パウロが一年六カ月滞在したコリントの町に別れを告げ、他のいくつかの町を経由して、使徒ペトロたちがいるエルサレム教会、そして、パウロの伝道旅行の出発点であるアンティオキア教会に戻った場面です。アンティオキアに戻った時点で第二回伝道旅行が終了したということになるわけです。

この段落にもいくつかの注目すべき内容があります。しかし、その中で最も重要と思われる点についてだけお話ししたいと思います。それは、次の三番目の段落にも登場します「プリスキラとアキラ」の夫婦がパウロの旅行に同行したという点です。

この夫婦は先週お話ししたとおり、テサロニケやベレアの町で起こったユダヤ人たちの暴動から逃れて一人でアテネにたどり着いたパウロ、あるいはまた、アテネ伝道においてあまり思わしい成果を見ることができず意気消沈したままコリントにたどり着いたパウロを自分たちの家にかくまった家庭です。パウロからすれば、まさに命からがらの逃亡生活の中で居候(いそうろう)させていただいた家庭である、ということになるでしょう。

私が大切であると考える点は、この夫婦がパウロの伝道旅行に同行することによって、パウロをまさに命がけで助ける存在になったということです。

現代の牧師たちが時々、いやしばしば陥る罠は、「私は伝道のために命をささげているのだ。命がけで伝道しているのだ」と、まるで自分一人だけがこのために命をささげている人間であるかのように感じたり、考えたり、言い張ったりすることがあるという点です。しかし、それは本当に間違った認識であり、罠です。牧師は一人で伝道しているわけではありません!自分一人が命がけで戦っているわけではありません!そのように思い込んでいる牧師たちがいるならば、顔をあげて自分の周りを見るべきです。そこにはあなた以上に命がけで戦っている教会員がいるということに気づくべきです。伝道は教会のみんなで行うべきことです。キリスト者全員が伝道者なのです。

パウロがコリントで得た最も大きな収穫の一つは、プリスキラとアキラというこの夫婦との出会いを通して、そのこと(命がけで戦っているのは自分だけではないということ!)に気づくことができた点ではなかったかと思われるのです。

なお、この夫婦は、アキラが夫であり、プリスキラが妻です(18・2)。しかし興味深いことは、使徒言行録の中でも(18・18、18・26)、ローマの信徒への手紙の中でも(16・3)でも一貫して「プリスキラ(プリスカ)とアキラ」、つまり、妻が先、夫が後という順序で紹介されている点です。

以前私は、第一回伝道旅行の際にパウロとバルナバの名前の順序が逆転していく意味をお話ししたことがあります。名前の呼ばれる順序には意味があると申しました。プリスキラとアキラというこの名前の順序にも意味があると考えることができるのです。この順序には、16世紀の宗教改革者カルヴァンがすでに注目しています。妻プリスキラ(プリスカ)は偉大で活発な女性であったが、夫アキラは少しおとなしい感じの人だったのではないかというようなことを、カルヴァンが書いています。

パウロは、この夫婦について、ローマの信徒への手紙の中に、次のように書いています。「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっているプリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています」(ローマの信徒への手紙16・3~4)。

「さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。」

第三番目の段落においても、プリスキラとアキラの働きについてのみ触れておくことにします。ここに紹介されている出来事は、パウロの第三回伝道旅行がすでに始まっている時期に起こったものです。アポロという伝道者が登場します。この人が、エフェソの町で伝道を始めました。ところが、アポロの説教の内容は信仰理解の点において必ずしも正確なものではなかったのです。正確でない教えを語る説教者を放置しておきますと、やがて必ず非常に大きな影響が生じます。困ったことです。

そのような事態に接して大きな働きをなしたのがプリスキラとアキラであったというのです。彼らが信じていたキリスト教はパウロから教えられたものであると言って間違いありません。つまり、この夫婦がアポロに「もっと正確に神の道を説明した」とは、アポロの間違いをパウロから教えられたことをもって訂正したのだということを意味しているのです。

伝道者はそのような場面でこそ喜びを感じます。パウロとしては、自分が伝えた教えが自分のいないところで「正しい神の道」として語り継がれているということになります。伝道の目的は、自分自身を宣伝することではなく、正しい教えが宣べ伝えられることです。そしてその教えに忠実に従って生きる人々、すなわち「主の道を受け入れる」人々を生み出すことです。この点においてパウロの伝道は間違いなく成果を生み出したのです。伝道者の真価は、その本人が去った後に測られるものなのです。

パウロの伝道には非常に大きな苦労がありました。見るからに華々しい成果があったとは言えないかもしれません。しかし、まさに少しずつ少しずつその影響が表れて行ったのです。ガリオンの判断、そしてまたプリスキラとアキラという強い味方の登場。これらの出来事は、決して過小評価されるべきではありません。

(2008年2月17日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年2月16日土曜日

私とオランダ語(付記)

ここから先は、ただの悪口です。カール・バルトは、九千頁もの(退屈な)大著『教会教義学』を書きました。その分量たるや、あの『ブリタニカ大百科事典』にも匹敵するほどです。そしてバルトは「私の著書を読まないで私の神学を批判する者たち」を批判しました。この神学者の言い分は、ごもっともなものです。しかし、その言い分を聞き入れた神学徒たちの多くが「彼の著書を読み切れないゆえに」彼の神学を批判できなくなりました。著書の分量の多さが、彼自身を守る盾になりました。そして、「この中にすべての答えがある」と信じてバルトの著書を“所有”していることだけで安心し、満足してしまっている神学徒のいかに多いことか!かたや、ファン・ルーラーは、いかにも言葉足らずの、隔靴掻痒の感が深い、実に謎めいた(しかし極めて刺激的な!)神学を提示しました。しかし、この“謎”こそが少なくともこの私を猛烈な勉学に駆り立てる力になりました。善い教師とは「答えを与える人」ではなく「問いを不断に投げかける人」ではないでしょうか。



私とオランダ語(5/5)

しかし、です。「ハズレくじ」という言葉を二回も繰り返して書きました。それは「ファン・ルーラー研究」というコンテキストの中でのハズレくじという意味です。つまり、ファン・ルーラーへの直接的な言及や関係があるのではと期待して購入してみたら、言及がなかったり全く無関係だったりしたという意味です。けれども、明記しておくべきことは、それらもまた学術的に優れた書物ばかりであるということです。別のコンテキストにおいては宝物のような書物ばかりです!それが私にとって大きな収穫となりました。私の眼前の思想世界がどんどんどんどん(広範かつ加速度的に)広がっていきました。それがむしろ「ハズレくじ」であればあるほど、私にとって全く未知であった領域、あるいはそれまで一度も考えたことがなかったような新しい問題が見えてきました。別の言い方をするなら、私にとって、日本基督教団でも日本キリスト改革派教会でも、東京神学大学でも神戸改革派神学校でも、いまだかつて見たことも聞いたこともなかったような全く新しい事柄に出会うことができました。手前味噌で負け惜しみ的な言い方かもしれませんが、私にとってそれは、オランダ現地に居なかったからこそ得ることができた収穫であったという気がしてならないのです。これまで私は「この本を読め、あの本を買え」というたぐいの指示を、(牧田先生を含めて)どなたからも受けたことはありません。すべてを自分で選び、しょっちゅう「ハズレくじ」を引きながらも、しかしまた、すべてを自分のものとしてきました。これが結果的に良いことであったと感じています。自負をこめて申し上げるなら、「自立して神学すること」(zelfstandige theologisering)とはこういうことではないかと思うのです。我が家の二人の子供たち(中一男、小四女)に常に言い聞かせていることは「分からないことがあったら辞書を引け」です。「幸か不幸か、我々人間はインプットしたことしかアウトプットできないのである。漢字にせよ、外国語にせよ、数式にせよ、自分独りで勉強したことしか覚えていないし、使えない。ピアノにせよ、トランペットにせよ、練習したことしか演奏できない。年齢を重ねれば(勉強せずとも)自動的に漢字が書けるようになるわけではないし、時間が経てば(練習せずとも)自動的にピアノを弾けるようになるわけではない。外国に行けば(レッスンを受けずとも)自動的に外国語を使えるようになるわけではないのだ。すべては血の滲むような努力の結果である。分からないことがあったら辞書を引け。辞書を引いた回数だけ、確信をもって言葉を語れるようになるはずだ」。こんなエラそうなことを我が子らに語れるようになったのも、11年間(いまだに!)“パッチワーク”を続けてきた自負(?)ゆえです。



私とオランダ語(4/5)

今日は「東関東中会女性の会総会」(会場 日本キリスト改革派勝田台教会)に行ってきました。もめるような議題は一つもなく、あっと言う間に終了しました。とても幸いで平和な会議でした。ところで。「私とオランダ語」にもう少し付け加えておきます。私の夢(というか妄想)は実現しませんでしたが、どなたかの参考になるかもしれません。ファン・ルーラーを読んでいるうちに、当然のことながら、彼の周りに多くの同時代人たちがいたことが分かりはじめました。そして、ファン・ルーラーもまた、その人々との対話や議論の中で自分自身の神学を形成していった人であることが少しずつながら見えてきました。またそれと同時に気づかされたことは、ファン・ルーラーという人の性格も関係しているのではないかと思われるのですが、自分が対話ないし議論している相手の実名を明示している個所は極めて少ないということです。この点で私はかなり苦労しました。明らかに、だれかの文章や思想を引き合いに出して批判しているように感じられる。しかし、だれのことを言っているのかが全く分からない。それがだれであり、どの書物ないしどの論文からの引用であるかを知るためには、「たぶんあの著者、あの書物、あの論文ではないか」と想像を巡らし、狙いを定めて購入してみるしかありません。具体的に言えば、インターネットの検索エンジンを利用して「たぶんこの著者、この書物、この論文ではないか」と思うものを手当たり次第にピックアップして購入してみるということです。しかし、このやり方だと「ハズレくじ」を引くことも少なくありません。現地に留学している人ならば、実際の古書店に通い、現物を手にし、ページをめくってみて、内容を確認した上で購入できます。あるいは、留学先の図書館で探して借りることができる。そういうことが、現地に居ない者には不可能なのです。そのため、ファン・ルーラーがだれかから引用しているらしきたった一行の文章の出典を調べることだけのためにも、何万円というお金をつぎこまざるをえませんでした。実際私は、それだけあれば単身ならば二、三年でも留学できるのではないかと思うほどの大金を、(ハズレくじを含む)古書の購入のために費やしてきました。これが、ファン・ルーラーを研究しはじめて約11年の間に、最も苦労してきた点です。



2008年2月15日金曜日

私とオランダ語(3/5)

しかし、そこでも威力を発揮しはじめたのはインターネットでした。いろいろ調べていくうちに、インターネット経由でオランダ語のラジオ放送を聞くことができることが分かりました。もちろん最初は全くちんぷんかんぷんでした。それでも何度も繰り返し聞いているうちに、ほんの少しくらいは聴き取れるようになりました。ところが、欲は深まるばかりでした。さらに感じはじめた限界は、「現地に行ったことのない人間に語りうる言葉は、『だそうです』以上ではありえない」ということでした。「オランダの教会では・・・だそうです」、「ファン・ルーラーの神学は・・・だそうです」。これでは何の説得力もありません。「です」と言い切れるようになりたい。そのためにはやはり現地に行かなければならない。そのような思いが募りはじめました。しかし、です。私に“留学”は無理だと悟るのに、それほど時間はかかりませんでした。お金と条件が整いません(私の頭の中身の問題は、この際、横に置いておきます)。二人の子供たちも大きくなってきました。自分の留学などに注ぎうるお金があるなら、それを子供たちの教育費に注ぐべきです。また何より日本キリスト改革派教会に加入させていただいて間もない人間が力を注ぐべきは、この教派の人々からの信頼を獲得することです。そのために、「この男は牧師の仕事をきちんとできる人間である」と認めていただくことです。中会(プレスビテリ)や大会(ジェネラル・アセンブリ)の仕事にも誠実に取り組まなくては、だれも信用してくれません。移籍して早々に海外などをウロチョロしている場合ではありません。それで現在42歳です。おそらくスタートが遅すぎたのです。今願っていることは(かなりおこがましい言い方ですが)私の代わりにオランダに留学してファン・ルーラーを研究してくださる方が起こされることです。その方を、心から応援させていただきます。私にできることなら何でもいたします。無謀にも“留学”の二文字を思い詰めていた時期のことは、「いい夢を見せていただきました」と感謝するばかりです。妄想も、ほどほどにしなければなりません。



私とオランダ語(2/5)

そのようにして始まった組織神学セミナーで、牧田先生はオランダ語テキストを、そして私や宮平先生、また他数名の神学生は英語版テキストを読みはじめました。まもなく講談社の『オランダ語辞典』を購入しました。そして私もオランダ語テキストを読んでみたくなり、牧田先生所有のファン・ルーラー『神学論文集』(Theologisch werk)の全六巻をコピーさせていただきました。当時の神戸改革派神学校図書館には、ファン・ルーラーの『神学論文集』が一冊もなかったのです。ファン・ルーラーを読みたい。ただそれだけの動機で、私はオランダ語を学びはじめました。最初はひたすら“パッチワーク”でした。in (英語のin)とかtussen (between)などをはじめすべての単語に『オランダ語辞典』に記されている訳語を当てていき、意味不明な日本語の文章をとにかくでっち上げ(まさに「でっち上げ」)、それをじっと睨んで意味を考えるという作業を、連日連夜、続けました。神学校卒業後も、しばらくの間はその状態でした。それでも、五年くらい経つと、少しは理解可能な日本語の文章に仕上げることができるようになりました。しかし、決定的に足りないと痛感しはじめた問題は、「私はオランダ語の音声を聞いたことがない」ということでした。どのように発音するのかも分からないオランダ語の各単語にただ辞書的な意味を当てはめていくだけの作業に、限界を感じました。“留学”の二文字を意識しはじめたのは、そのころです。



私とオランダ語(1/5)

先週、埼玉県在住の後輩牧師から電話をいただきました。「関口さんはどうやってオランダ語を勉強されたのでしょうか」。私は次のように答えました。「神戸改革派神学校在学中に牧田吉和先生から少し手ほどきを受けましたが、あとは独学です」。「へえ」と驚かれました。牧田先生のもとでオランダ語を学びはじめたのは1997年4月、神戸改革派神学校の二年次に編入学させていただくことになったときからです。卒業までのわずか一年三ヶ月の間に取り組むべき研究テーマを何にするかを、牧田先生と相談しました。「ファン・ルーラーに関心があるのですが」と言いましたところ、「でも、オランダ語だよ?」とのお返事をいただき、言葉に詰まりました。「じゃあ、英語版のあるヘルマン・バーフィンクにします」と小さな声で言いました。その日からバーフィンクの『改革派教義学』の予定論の部分を、英語版から翻訳しはじめました。それなりに興味深い内容があることが分かりました。が、物足りません。バーフィンクの予定論を支配しているのは、哲学的因果律でした。これではカール・バルトの「キリスト論的予定論」の問題性を克服できそうもないと分かりました。やはりファン・ルーラーに取り組む必要がある。そう確信し、再度牧田先生に「ファン・ルーラーを教えてください」と申し入れました。了解してくださいました。すると、予期せぬことが起こりました。関西学院大学などで経済学の講師をしておられた宮平光庸先生(のちに神戸改革派神学校に入学され、現在は信徒伝道者)がファン・ルーラーの英語版論文集(ジョン・ボルト訳)のコピーを抱えて牧田先生の研究室にやってこられ、「ぜひ、これの読書会を開いてください」と願い入れられました。「じゃあ、関口くんも一緒に」という話になり、神学校の正規の「組織神学セミナー」としてファン・ルーラーを取り上げていただけることになったのです。



2008年2月14日木曜日

私が説教をインターネットで公開している理由 続き

2月8日(金)の「私が説教をインターネットで公開している理由(1/2)」の中に書きました、第一の動機は「日曜日『にも』こういう仕事をしています」と知ってほしい人々に私の現実を伝えることでした、という点に補足しておきます。第一の動機は「ファン・ルーラー研究会を続けたかったから」でした。私自ら呼びかけ人となって結成した「ファン・ルーラー研究会」と称するメーリングリストに、連日連夜、大量のメールを送っていた頃、「あの関口という日本基督教団から移って来たばかりの男は、ファン・ルーラー、ファン・ルーラーと一事にのめり込んでいるようだが、教会の牧師としての仕事はちゃんとやっているのだろうか。あいつの説教は、牧会は、どうなっているんだ?」と心配(あるいは憤怒?)してくださる方々がおられました。私がファン・ルーラーの文章を読むこと、すなわち、この神学者の文章をオランダ語から日本語に翻訳することはマニア的趣味でも教養の涵養でもなく、まして新奇な知識のひけらかしなどではありえず、ここを通らなければ牧師の仕事を続けることはできないと感じられるほどの重要な事柄でした。そうでもなければ、私はオランダ語など何も無理して読みたいわけではないのです。私はオランダマニアになりたいわけではありません。日本で牧師をしたいだけです。神の言葉の説教によって日本のキリスト者を励ましつつ、日本に福音を告げ知らせたいだけです。ファン・ルーラー研究会にメンバーとして参加してくださっている方々も、この思いにおいては同じです。私自身は誰からどのように思われても構わないような人間なのですが、ファン・ルーラー研究会の存在やファン・ルーラーの神学思想そのものが、「ファン・ルーラー研究会代表」を名乗っている人間のせいで悪く思われることには、とても我慢ができません。また、私は神学校や神学大学といったものから地理的に遠い地域で働いてきましたので、そのような場所で教えたり関わったりしたことはありませんが、「神学研究と説教や牧会との両者は密接不可分の関係にある」と先輩たちから教えられてきたことは真実であると確信してきただけです(この確信そのものが間違っていたのでしょうか。もし間違っていたのであれば、それはそれで重大な問題として認識します)。ところが、人の目には、私の姿がどうも私の願っているのとは違ったように映っているらしいと分かりました。「関口は説教や牧会をサボって(←ここがカチンと来る)、ファン・ルーラーの翻訳なんぞにのめり込んでいるようだ」と見えているらしいと。「これは困った事態になってしまった。このままではファン・ルーラー研究(会)を続行することが不可能になるだろう」と気づき、どうしたらよいかと悩んだ挙げ句、「そうだ、すべての説教をインターネットで公開していこう。そうすれば、日曜日『にも』関口はちゃんと仕事をしているらしいと安心していただけるのではないか」と思いつくに至ったのです。つい最近のことですが、私も尊敬している非常に著名な組織神学者の方(東京在住)から、「学問には面倒な世事もつきものです」との重い一言をメールで頂戴し、たいへん恐縮・感謝したばかりです。



「今週の説教メールマガジン」の紹介文を更新しました

今週の説教メールマガジン 編集・発行/関口 康



http://groups.yahoo.co.jp/group/e-sermon/



日本キリスト改革派松戸小金原教会の礼拝で実際に語られた関口康牧師の説教を、メールマガジン形式で配信しています(メーリングリストではありません)。無料でどなたでも登録していただけます。どうぞお気軽にご登録ください。なお、配信者は、どなたがこのメールマガジンの購読登録をしてくださっているかを全く把握しておりません(配信作業はすべて関口康本人が行っています。第三者の手は一切介しておりません)。ご登録いただいたメールアドレスにはメールマガジン以外を配信することはありません。登録していただいた方々に、当方から私信をお送りすることもありません(私信のやりとりをご希望の方には、ご連絡に応じて別途お送りしております)。また、ご登録いただいたメールアドレスを別の目的に流用したり、第三者(松戸小金原教会の会員や役員を含んでいます)に公開したりするようなことは決してありません。どうかご安心くださいますようお願いいたします。



「今週の説教メールマガジン」第200号感謝号を発行しました

何事もコツコツと続けていると少しくらいは良いことがあるようです。2004年9月5日(日)以来、毎週の説教を「今週の説教メールマガジン」と銘打って、希望してくださる方々にメールで配信してきました。それがこのたび、ついに第200号を迎えました。ただの数字の問題にすぎないものの、とにかく一つの区切り目に達することができたことを、うれしく思っています。メールマガジンの内容はブログで公開しているのと同一の説教です。日曜日の説教は、一回につき30分程度。そのために用意する原稿の字数は約4,800字~5,000字(四百字詰原稿用紙で12枚程度)です。あれもこれも語りたいという気持ちを抑えるために、字数の総量制限を設けて、それを超えないように心がけています。とにかく時間を守りたいとの一心から、話の途中でも「今日はここまでにします」と言って説教を強制終了すること、しばしばです。それでよいと思っています。私の座右の銘の一つは「時は金なり」(Time is money)です(これは大真面目な話です)。18世紀アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンが語ったとされる言葉です。牧師といえども、説教といえども、他人の時間を不当に過度に束縛することは強盗行為に限りなく近いと、私は考えております。たとえどんなに美しい内容であっても、長大な説教は犯罪的です。それはともかく。考えてみれば、たったの三年半たらずで200号です。私は現在42歳。日本キリスト改革派教会の「牧師」の定年規定は70歳。あと28年ほど牧師を続けることができます。その間に私は何回の説教を行うのでしょうか。単純計算すると、日曜日の朝だけで28年間×52週=1,456回は、最低でも行うのではないでしょうか。メールマガジンは、定年後も続けることができるでしょう。私が死ぬか説教をやめるかするまでもし続けることができたら(「もし続けることができたら」です)、1700号くらいにはなるかもしれません(「関口よ、お前はいつまで生きるつもりなのだ?」という声が聞こえます)。ちなみに、私は25歳からほぼ毎週日曜日の説教を行ってきました(神戸改革派神学校在学中も、毎週ではありませんでしたが一ヶ月に二、三回のペースで礼拝説教を行っていました)。25歳から70歳までの45年間に私が行なうかもしれなかった日曜日の礼拝説教回数は(これも単純計算ですが)45年間×52週=2,340回になります。回数だけでしたら、現在までの放送回数が2,102回を数えている毎週日曜日の人気落語番組「笑点」に第一回目から出演しておられるあの桂歌丸さんと勝負できそうです。もちろん私だけではなく多くの牧師たちが一生の間にそれくらいの回数の説教を行うのだということを多くの人々に認識してもらいたいです。私には不可能でしたが(私がパソコンやインターネットを使いこなせるようになり、またプロバイダ会社が提供してくれるブログやメールマガジンのサービスが使用に耐えうるレベルになったのは、つい最近です)これから牧師になる方々にはぜひ、説教を開始した日からおやめになる日までの全説教をブログやメールマガジンで公開していただきたいです。公開作業そのものは、いとも簡単です。本日発行しました「第200号感謝号」には高瀬一夫先生(日本キリスト改革派千城台教会牧師)に記念巻頭言を執筆していただきました。いつもお世話になっている、尊敬すべき先輩牧師です。



2008年2月13日水曜日

説教の課題としての「パウロ批判」(2/2)

「伝道の益となるならば」という点からいえば、たとえば、葬式のときの「焼香」は行ってもよいと考えるキリスト者が日本の中で増えてきているようです。日本キリスト改革派教会では、まだごく少数ではないかと思われますが。私自身は「焼香」はしたことがありません。しかし、している人々を厳しく裁く気持ちには、今のところなれません。私自身は幼少の頃に両親と共に通っていた教会(日本基督教団所属)で「焼香はすべきでない」と教えられたので、それ以来、焼香をしたことがありません。しかし、もし行なうとしたら、「妥協」としてではなく「計画的・政治的・戦略的」に行なうでしょう。「伝道の益となるならば」という一点に集中して行なうでしょう。もちろん、パウロが関わった「テモテの割礼」や「ナジル人の誓願」などは旧約聖書的根拠を持っているものなので、「焼香」のような非聖書的・異教的なものなどと一緒くたに考えるべきではないということになるかもしれませんが、習俗的な要素の強さという一点において前者と後者には共通点があると思います。私が見るところ、パウロの「変幻自在・臨機応変」もまた、ある意味での「計画性・政治性・戦略性」を持っていたように思われます。そして、とくに第二回伝道旅行には「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか」(使徒言行録15・36)と書かれているとおり、あらかじめの計画はあったのです。パウロには無計画で出かけるような愚かさや無謀さはありません。海賊だって出かける前に計画ぐらい立てるはずです。ところが、実際に旅行に出かけてみると、事柄は何一つ、計画的に進んでいきませんでした。逮捕され、投獄され、鞭打たれ、予定外の町を一人で彷徨い、生活上の困窮まで体験することになったのです。私が今年一月に行った一連の説教は、新年度の定期会員総会(年に一回開催)を意識していたものです。教会の会計は「会費」や「税金」で成り立っているものではなくすべて「献金」で成り立っているものであり、その中で立てる予算案は、いわば「夢の計画」のようなものであるということを、教会の皆さんに理解してもらいたいと意識していました。計画は「ある」のです。しかし、わたしたちの日常的な現実はどうか。目の前に起こる一瞬一瞬の出来事に対して、まさに一瞬一瞬、「変幻自在・臨機応変」に対応していくしかないようなものである。そういうことを「あの石のように固いパウロからも」学ぶことができるのではないかというのが、私の説教の趣旨でした。教会が悪い意味でのファンダメンタリズム的な原理・原則論に立ってしまいますと、「変幻自在・臨機応変」と評しうるような柔軟な切り回しをしていくことが難しくなると思っています。現在も活躍しているキリスト教ファンダメンタリストたちも、パウロが大好きなのです。彼らはパウロから原理・原則を読み取る仕事をします(「女性の牧師・長老への任職反対」や「異教徒との結婚反対」などを主張する人々も含まれます)。たしかにパウロには、彼らが好むような要素がたくさんあるのです。彼らは、聖書的・神学的・そしてパウロ的な確信をもっていますので、そう簡単に自説を曲げることはありえません。キリスト教ファンダメンタリストたちの目から見れば、パウロにも「柔らかい」面があったという点などを強調して語る日本キリスト改革派教会の関口康牧師の姿は、ほとんど異端のように見えているかもしれません。そのように見られることを覚悟しながら、説教を公開しております。



説教の課題としての「パウロ批判」(1/2)

ブログの力は小さくなさそうだと感じました。説教を公開しても意見をもらったことがないと書きましたら、さっそくご意見をいただくことができました。「これは批判ではありません」とのお断りがありましたが、仮に「説教批判」として書いてくださっていたとしても、大歓迎いたします。そもそもブログやメールマガジンなどで説教の全文を公開している目的は「伝道」ではなく、私の説教を批判していただきやすくするために「《言質》(げんち)を提供すること」だからです。このことを私は、説教者とその説教をお聴きになる方々との関係は「一方通行」であってはならず、常に「双方向的な関係」でなければならないという確信に基づいて行っています。日本キリスト改革派教会をもちろん含むすべてのプロテスタント教会の牧師の説教は、いかなる批判も許されない「神聖不可侵なもの」(サクトサンクト)、たとえばローマ教皇の回勅のような「無謬なもの」(これは皮肉です)ではありえません。さて以下は、いただいたご意見へのお返事の一部です(ただし実際に書いた文面から少し修正しているところがあります)。テモテの割礼をパウロが行ったことについて私が「変幻自在・臨機応変」と評したことに対して、いやむしろパウロという人は「一皮むくと、まことに一徹な、石のような人となり」を持っていたのではないかというご意見を、百パーセント同意しつつ拝読させていただきました。なるほどパウロは、確かに「石のような人」です。固すぎて困るくらいです。第一回伝道旅行の途中で脱落した助手ヨハネ・マルコに対する厳しい態度。恩師ともいうべき同僚バルナバとの対立と離別。エフェソで出会った占いの仕事をしていた女奴隷がパウロにつきまとい騒いだ時、イライラして大声で怒鳴りつけてしまうあの態度。アテネの偶像を見て「憤慨する」心中。「信心深いあなたたちが知らずに拝んでいる神をこのわたしが教えてあげましょう」という皮肉と嫌味とけんか腰。パウロがもともと属していたユダヤ教ファリサイ派は、言ってみればユダヤ教ファンダメンタリズムです。キリスト者になってからのパウロにもファンダメンタリスト特有のけんか腰が散見されます。真理の石を思い切り相手にぶつけて怪我をさせる。「痛い!」と悲鳴をあげて降参する人々を見て「やっと悔い改めてくれた」とみなす。私はパウロの姿を見ると「まるで日本の(保守的な系統の)プロテスタント教会のようだ」と感じます。よい意味でも、しかし悪い意味でもです。もちろん日本キリスト改革派教会も含まれます。そして私自身も含まれます。私がテモテの割礼を「パウロの変幻自在・臨機応変」と評したのは、皮肉やけんか腰のつもりはありませんが、日本の教会の現状に対するある種の挑戦(チャレンジ)の意味を込めていました。あの「石」のようなパウロにもこういう柔らかい面もあったのですよ(!)ということを、少し過剰と思われてもよいから、とにかくこの機会に強調しておきたいと願った結果です。



2008年2月10日日曜日

「恐れるな、語り続けよ」

http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-02-10.pdf (印刷用PDF)



「今週の説教メールマガジン」が第200号を迎えました!



「今週の説教メールマガジン 第200号感謝号」記念巻頭言 高瀬一夫先生



使徒言行録18・1~11(連続講解第45回)



日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康





「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退却させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。』パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。」



パウロが「アテネを去った」と記されています。この「去った」という表現は、単なる移動の事実を示しているというよりも、もっと強い意味を持っています。「退却した」です。あるいは「引き上げた」とか「遠ざかった」です。「すごすごと」あるいは「しおしおと」あるいは「しょんぼりして」という言葉を付け加えたくなるような表現です。



どうしてパウロはしょんぼりしているのでしょうか。その事情は先週学んだとおりです。第二回伝道旅行の出発時にはパウロと共にシラスとテモテの二人がいました。しかし途中でパウロは一人になってしまいます。そしてパウロはたった一人でギリシアの首都アテネに行き、そこで説教しましたが、その結果はあまり思わしいものではありませんでした。



大都会のど真ん中に、一人で立つ。どれほど大きな声を張り上げて何を語ったとしても、まともに耳を傾けてくれる人がいない。何を言っても無駄。取りつく島がない。きっかけがつかめない。なすすべがない。そのことを深く痛感し、気落ちして元気なく、その場を後にする。そうしたパウロの心境が「去る」というこの一言に集約されているのです。



パウロの語り方のほうにも問題があったということを先週申し上げました。皮肉や嫌味がたくさん含まれている言葉を、けんか腰で語る。気負いがあったのではないでしょうか。「わたしは大都会アテネの異教主義を相手に一人で戦っているのだ」というような意味での気負いです。しかし、皮肉交じりのけんか腰の言葉は人の気持ちを逆なでするものです。素直に聞いてくれる人は少ないでしょう。



パウロという人は、よくも悪しくも強い人でした。彼の強さには「悪しくも」と言わなければならない面があったと思われるのです。



自分が信じていることを、どんな場所でもはっきりと語ることができました。それは良い面でしょう。しかし、場をわきまえるとか、相手の状況を配慮するというような面に少し欠けるものがありました。要するに、遠慮がないのです。デリカシーというようなものもちょっと足りない。配慮するとか遠慮するというようなことを考えたり実行したりすること自体が罪であると思っているようなところがありました。当たって砕けろ式のやり方で体当たりする。あるいは、真理の重くて固い石を、だれかれかまわず投げつけてしまうようなところがあったのです。そして、相手が間違っていたり、こちらの思い通りにならなかったりした場合は、すぐ怒る。腹を立てる。こういう人は、わたしたち日本人がいちばん苦手とするタイプかもしれません。



しかし、そのようなパウロの態度も、伝道旅行の中で遭遇する体験の中で、ほんの少しずつですが、変わっていったと感じられる面もあります。今日の個所からその変化を示すことはできませんが、今後の学びの中で見ていきたいと願っています。



パウロはコリントに移動しました。そしてコリントでも「安息日ごとに会堂で」御言葉を宣べ伝える仕事をしました。しかし、この町でパウロの活動に新しい要素が付け加わりました。コリントに住んでいたアキラとプリスキラというユダヤ人夫婦の家に住み込んで、彼らと一緒にテント造りの仕事に取り組んだというのです。



ただし、気になることがあります。それは、パウロとアキラの「職業」が同じであったという表現です。結論から言いますと、これは誤訳であると私は考えています。なぜなら、パウロの職業は「伝道」だからです。それは私の職業が「牧師」であることと同じです。伝道だの牧師だのは「職業」ではないという考えもあることを私は知っています。しかしそれは非常に大きな誤解です。パウロの場合も、彼の「職業」はテント造りのほうであり、伝道のほうは副業もしくは奉仕であるということではありませんでした。もしこの個所をそのように誤解する人が出てくるとしたら、これは明らかな誤訳なのです。



私がいつも拠り所にしている注解書を調べましたところ、私の理解を助けてくれる言葉が見つかりました。それによりますと、ここで「職業」と訳されている言葉(テクネー)の意味は、むしろ「技術」(テクニック)ないし「能力」(スキル)であるということです 。つまりここに書かれていることは「パウロの職業はテント造りであった」という意味ではなく、「パウロはテント造りの技術を持っていた」という意味であると理解すべきなのです。



ただ、しかしまた、「職業」という日本語がいわゆるお金を稼ぐ手段というようなことをもっぱら意味する言葉であると理解されているような場所や人々の中では、伝道が「職業」であるという話は、なかなか通じないというか、かえって非常に誤解される面があるかもしれません。「伝道」そのものは営利事業ではありえないからです。



パウロがなぜ、コリントの町でテント造りの仕事に取り組んだのか、その事情や動機についての詳しい説明はどこにもありません。しかし、思い当たることは、一つしかありません。要するに、食べるお金、あるいは宿を借りるお金にも窮する状況に陥ったのです。それ以外の理由は考えられません。



シラスとテモテから離れて一人でいたということがおそらく関係していたのでしょう。アキラとプリスキラの家に「住み込んだ」とは「居候(いそうろう)させてもらった」ということでしょう。居候も、何もしないでいると肩身が狭い。「仕事をさせていただきますので、どうか食べさせてください、しばらく住まわせてください」という話になったのだと思います。そこでパウロは、どこかで身に付けた「技術」ないし「能力」を活かすことを考えた。それがテント造りであったと見ることが可能です。



伝道の仕事に就いている者たち、牧師たちも、その種の苦労を味わうことがあります。笑いながらお話しできるようなことばかりではありません。心底つらい思いをすることがあります。しかしその体験には「人生の良い経験をさせていただきました」と感謝すべき面もあると思っています。そのような体験があるゆえに、お金のこと、生活のことで苦労している人々の気持ちを理解し、共感し、同情することができます。生活が完全に破たんすると、人はどのような思いになるのかということを、多くの伝道者は知っているのです。



シラスとテモテが、やっとコリントに来てくれました。それでパウロの状況が好転したようです。シラスとテモテがどこかで献金を集めてきてくれたのかもしれません。「パウロは御言葉を語ることに専念した」と記されていることの意味は明らかです。テント造りの仕事をやめたということです。そして安息日だけ御言葉を語るという生活をやめたということです。そのようにして毎日御言葉を語る者になったということです。つまりパウロの本来の「職業」としての伝道に専念できるようになったということです。この点を考えても、テント造りをパウロの「職業」と翻訳することは誤訳であると言わざるをえません。



しかし、です。パウロが力強く語れば語るほど、抵抗勢力のいきおいも増してきました。そこでパウロはどうしたか。腹を立てたり大きな声で怒鳴ったりしたでしょうか。どうもそうではなさそうです。もっとも「服の塵を振り払った」は「足の塵を払い落す」(12・51)と同じく、敵対する人々を呪う行為です。しかし、抵抗するユダヤ人たちを力づくで組み伏せようとするのではなく、「今後、わたしは異邦人の方へ行く」と宣言するに至りました。



ユダヤ人たちと向き合うのと比べると、異邦人に伝道するほうが容易かったでしょうか。まさかそんなことはありえません。たしかにユダヤ人たちは、聖書の神を信じていました。ユダヤ人たちが信じなかったのは、イエスがキリストであるという点です。それに対して異邦人たちはどうだったか。異邦人たちは聖書の神を信じていないから、白いキャンバスの上に新しい絵を描きはじめることができたかというと、そんなことはなかったわけです。異邦人たちは別の神を信じていました。別の思想、別の哲学に対して、確信を持っていました。ユダヤ人たちはパウロの宣べ伝える言葉を聞くと腹を立てました。しかし、異邦人たちは嘲笑ったのです。どちらの道も容易いものではなかったのです。



パウロは、お世話になったアキラとプリスキラの家に別れを告げ、次にコリントの会堂の隣にあったティティオ・ユストという人の家に住ませてもらうことになりました。会堂の隣に住むのはやはり都合がよいことです。会堂は「人が集まる」場所だからです。伝道とは「人に伝える」わざだからです。神の言葉の説教は、人のいない空中に向かって語られるものではありません。そこに大勢の人が集まっている場所で語られるものなのです。



コリントの町で、パウロは、おそらく、夜眠っているときに夢を見たのです。そして、その夢の中で救い主イエス・キリスト御自身の声を聞いたのです。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」おそらくこれは、すべて、そのときのパウロの心の中にあった思いに反対する言葉ではないかと思われます。おそらくパウロは恐れていました。語るのをやめよう、黙っていよう、こんなことを続けて何になるのかと、何度も思ったのです。繰り返し落胆と失望を味わっていたのです。多くの反対や抵抗、あからさまな攻撃、誤解や偏見、中傷誹謗、とくにアテネでの失敗やそこで受けた嘲笑、さらにコリントにおける生活上の苦労や行き詰まり。これらのことで、ほとんど心折れそうになっていたのです。



その中でパウロが見た夢、そしてその夢の中で聞いたイエス・キリストの励ましの声が、だれよりもパウロ自身を救う力になったことは、間違いありません。



わたしたちも同じです。伝道はわたしたちの熱意や勇気だけで続けられるものではありません。イエス・キリスト御自身の励ましの言葉だけが、わたしたちを支えているのです。



(2008年2月10日、松戸小金原教会主日礼拝)



「今週の説教メールマガジン 第200号感謝号」記念巻頭言

高瀬一夫 (日本キリスト改革派千城台教会牧師)



関口先生、そして松戸小金原教会の皆様、「今週の説教メールマガジン第200号」、おめでとうございます。



説教は語る者より、聞く者の聞き方のほうが大きな力となります。聞いてくださる方があって語る者は励みにもなり、支えられている感謝で毎週語ることが許されているのです。説教者は、説教を聴いてくださるお一人お一人のお顔を思い浮かべながら、みことばに聞き、用意をします。



ほとんどの牧師はその説教を公表していません。語り終えるとそれで全てが終わります。私も説教を文書化することをしておりません。しないのではなく、出来ないのです。真剣に学び、教えられ、また神様が語れと命じておられることを文書化しなければならないと、いつも思っています。しかし、なかなか出来ないでおります。私の知人・友人の方々は、語るだけでなく、それを文書化し、さらに多くの人々に公表すべきであると言われます。でも、できない自分を恥ずかしく思っています。



ところが、関口先生は教会内で公表なさるだけではなく、ホームページやブログで広く公表されておられます。このお働きはとても勇気のいることであり、また大変な努力を必要とする仕事です。毎週毎週欠かさずに説教を公表するということは至難の業であります。私は「文章を書くことは恥をかくこと」といわれたことがあります。確かに、文字にしてしまいますと、語った説教と違うイメージが勝手に読む人々によって抱かれ、誤解され、批判されることがあります。それでもなお書き続けられることを200回も続けられたことに敬服いたしております。



このお働きは常人には出来ないことです。強靭な意志と、人並みはずれた努力と、そして神様がその業を励ましてくださり、健康を祝福してくださることによって実現したと思っています。



関口先生はとても多忙なお方です。教会の牧師としてだけでなく、お子様たちの通っておられる学校のPTAのお働き、地域の方々と共に「九条の会」などにも積極的にかかわっておられます。また中会内の働きにも重責を担っておられます。そして何よりもファン・ルーラー研究者・翻訳者としての働きや、カルヴァン学会などの働きをしておられます。



時々、先生からメールをいただくことがあるのですが、夜中の2時、3時に発信しておられることがあります。いつ寝ておられるのだろうと思っています。こんなに忙しい先生なのに説教を毎週欠かさず公表されておられることは真に驚異的です。この「今週の説教 メールマガジン200号」は、先生の血のにじむような忍耐と努力の結晶であると思っています。



私は書斎で疲れたとき昼寝をしますが、以前、先生の説教を子守唄にしてきながら寝ていました。そのことを先生にお伝えしたのが今回のお祝いの言葉を書くように依頼された理由でしょうか。真に失礼とは思いますが、そんな不真面目な聞き方でも「聞いてくださることがありがたい」とおっしゃる先生の心の広さを感心しています。



先生の説教にはところどころ先生と親しく交わっているものにだけに分かる先生の癖がはっきりと現れています。それを感じるものとして説教を聞かせていただいておりますと、本当に楽しくなります。



そして先生の説教は、先生でなければ語れない大胆さ、福音の力強さ、説得力の豊かさを感じます。この様に先生を用いていてくださる神様の御名を心からほめたたえたいと思っています。



200号は単なる通過点です。300号500号1000号をと先生なら出来ると思います。がんばってください。先生の健康のため祈ります。そして先生を支えておられる松戸小金原教会の信徒のお一人お一人の上に神様の祝福がたくさんありますように祈ります。



最後にこのメールマガジンをいつも読んでおられる方々に心から感謝いたします。暖かいお励まし、お祈りが背後にありますこと、感謝です。今後も先生のこのお働きのためぜひお祈りをお願いいたします。



心からのお祝いの気持ちを文章にしました。本当におめでとうございました。そしてこれからもがんばってください。先生のために祈ります。御名をほめたたえつつ。
 
(2008年2月7日 記す)



2008年2月9日土曜日

エール


テサロニケの信徒への手紙一5・16~18

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

ご結婚おめでとうございます。心からお祝いを申し上げます。御両家の方々にもお慶びを申し上げます。お二人の結婚式の司式をさせていただくことができますことを嬉しく思っています。

多くの人々が認めてくださることは、結婚はゴールではない、スタートであるということです。人生には苦しいことも悲しいこともあります。そのときに一人ではなく二人、そしてこれから生まれてくる子どもたちと一緒に苦しみや悲しみの時を乗り越えていくことができるのは、本当に幸いなことです。

時には、わたしたち自身が周りの人を傷つけてしまったり、多くの人を悲しませてしまったりする、その原因になってしまうこともあります。しかし、そのようなときも一人ではなく二人。お互いに厳しいことを言い合わなければならないときもありますが、しかしまた、お互いの弱さを認め合い、赦し合うことができます。

何もかも自分一人で抱えこみ、自分一人で決着をつける。そのような人生には気楽な面もあるかもしれませんが、さびしいと感じる面も必ずあるはずです。一人でいることはわたしたちの成長の段階の中では必要なことでもあります。しかし、わたしたちはいつまでも一人で生きられるわけではない。助けを必要としている存在なのです。

新郎のお名前「信悟」の信は、信じるの信です。新婦のお名前「睦子」の睦は、仲睦まじいの睦です。とても良いお名前をそれぞれのご両親から授かったお二人です。それぞれのご両親が長い時間をかけてお二人を育ててくださいました。そのご家族の思いを、これからも大切にしなければなりません。そして、どうぞ、お二人がお互いを信じ合うことができ、いつまでも仲睦まじくありますように。

さて、お二人がこれから幸せな人生を送って行かれるためにお勧めしたいことを申し上げます。それが、先ほどお読みしました聖書のみことばです。

「いつも喜んでいなさい。」そんなことができてたまるかと言われることがあります。いつも喜んでいるだなんて人生を甘く見ている証拠ではないか、と。しかし、そこで少し立ち止まって考えてみてほしいことがあります。それは「もう一人ではない」ということです。いつまでも不機嫌な顔をしていると家族が迷惑しますということです。一人ならばいつまででも不機嫌な顔をしていてください。どうぞご自由に!しかし、せめて家族みんながいるところでは笑ってください。みんなを幸せにすることを考えてください。ぜひそのことを心がけてください。

私は教会の牧師ですからこういうことはよく分かるのです。教会の中で不機嫌な顔をしている牧師は迷惑な存在です。「何かあったんじゃないか?」と心配していただいたりご機嫌をとっていただいたり。周りの人々に気を使わせてしまいます。同じことがすべての人に当てはまるのだと思っています。自分一人でいるときにはどんなに不機嫌でも構いません。しかし、家族のみんなの前では笑っていてください。周りのみんなを幸せにしてください。ぜひお願いいたします。

「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」祈りというのはもちろん宗教の次元の話です。結婚生活というのは、とにかく二人で力を合わせて、両方の実家から独立して頑張って生きることです。しかし、私も経験してきたことですが、若い二人にはお金もありませんし、力もない。生きていくための十分な知恵もない。そのような中で子供を育て、家計を切り盛りしていかねばならない。すぐに行き詰ってしまいます。

それでも、そこですぐに実家に頼るのか、それとも、もう少し二人だけでがんばってみようと思うのかで、結果は大きく違ってくるでしょう。しかし、二人だけで頑張ると言っても、どうしたらよいのか頭を抱え、途方に暮れるときが来る。それが現実です。

しかし、そのようなときにぜひ考えてもらいたいことは、二人で一緒に天におられる神に祈ってみてくださいということです。途中の話を全部省略して結論だけ言いますが、神さまが必ず助けてくださいます。神さまに祈ってください。そうすれば、必要なものはすべて必ず与えられます。お二人は、祈りによって危機的な局面を乗り越えていけるでしょう。

実は「今日まで内緒にしておいてください」と言われていました。新婦の職場である歯科医院の方々が来てくださっています!職場のみんなに迷惑をかけたくないと遠慮しておられたようですね。「四年も頑張って働いてくれた大切な仲間の結婚式に行かないわけにはいかない」と一時休診して駆けつけてくださいました。

本当に素晴らしい方々がお二人の周りにおられます。今日集まってくださった皆さんがそうです。職場の皆さんも、もちろん御両家も、たくさんの友達も、そして教会も、お二人をお助けします。

安心して、勇気をもって、これからの新しい人生を歩み出してください!祝福をお祈りいたします。

(2008年2月9日、結婚式説教、於 松戸小金原教会)

インターネット時代における教義学研究の新しい可能性

今週は終始、心定まらず、脳内もクリアでなく、首や肩や腰に張りや痛みを感じながら過ごしました。理由ははっきりしています。先週中に一回、今週中も一回(昨夜)行った夜なべ仕事(脱稿が朝になる夜通しの書き物)が心身にダメージを与えているという、ただそれだけのことです。しかし今日は、教会で結婚式です。若い二人の晴れ舞台に、司式者が寝ぼけた顔をしているわけにはいきませんので、気合いを入れてがんばりたいと思います。



ところで。今週書いてきたことに強いてタイトルをつけるとしたら、大げさかもしれませんが「インターネット時代における教義学研究の新しい可能性」というようなことかなと思っています。最初からこういうことを書こうと決めて書いてきたわけではありません。なんとなくこういう方向に来てしまいました。しかし、インターネットの出現は、我々の教義学なり神学なりの研究のあり方を根本的に変えていかざるをえない、その意味で劇的ないし革命的な変化の可能性を示してくれるものであったと、私は感じています。



「感じています」と書くのは、変化後の実現形態をまだ見ていないからです。しかし、私自身がインターネットを約11年ほど利用してきて分かってきたことは、「これはかなり使える」ということです。とりあえず二点、教義学研究にとってのインターネットの利点を書きとめておきます。



第一は「これはとにかく《文字》(もじ)を伝えるツールである」ということです。換言すれば、これは《文字》を“言質”(げんち)として獲得しうるツールです。「言った・言わない」という不毛な論争を終結させうるツールです。この点が教義学研究に有効なのです。



私の長年の確信は「神学、とりわけ教義学というものは、それが学問(Wissenschaft)と呼ばれるものであるかぎり、《文字》のテキストをとにかく根拠にするものである」ということです。「立ち話や噂話、風説や流言飛語などをデータとみなす」、あるいは「行間を読む」とか「言外の意図を探る」というような仕方で、空中を漂う(文字化されていない)コトバを根拠にして学問としての教義学を営むことは、限りなく不可能に近いことであり、あるいは、たとえいくらか可能な部分が存するとしても、そのようなものはなるべく邪道とみなし、排除すべきであるという感覚を、私はずっと持ち続けてきました。この私の感覚に対して、インターネットというこのツールは、かなり大きな充足感を与えてくれるものでした。とにかく世界中の《文字》をかき集めて来てくれる。すなわち、「学問」(Wissenschaft)の根拠になりうるものをかき集めて来てくれる。これと同じことを期待できるインターネット以外のツールは、現時点では存在しません。



第二は、「インターネットを通しての買い物、とくに古書の購入は非常にスムーズで快適なものである」ということです。私はインターネットを利用しはじめてから約11年の間にオランダ語の神学書を中心に、非常に多くの古書を買い集めてきました。自慢するわけではありませんが、もしかしたら、今や私は、古書の情報を入手し、それをすみやかに購入するという一点においては、現地に留学中の人よりも上手かもしれません。



まだまだあると思いますが、また少し頭がぼうっとしてきましたので、ここまでにしておきます。



2008年2月8日金曜日

私が説教をインターネットで公開している理由(2/2)

すべての説教をインターネット上に公開しはじめてからは、「言った・言わない」のたぐいは一切無くなりました。私の説教を耳で聴いてくださる方々に対し、《文字》(もじ)による「言質」(げんち)を提供すること。もし何か問題を感じる言葉が私の口から発せられた場合には、私の書いた《文字》のテキストに基づいて、その問題点を具体的に指摘していただけるようにすること。それが「今週の説教メールマガジン」発行の第二の、しかしこれこそが本当の、心底からの動機でした。



つまり、二つの動機とも、いうならば自己防衛的な側面の強い発想から出たものであったということです。よくいえば危機管理です。すべての説教を《文字》として公開することが、自分自身を防御し、かつ教会を混乱に陥らせないための最も有効な方法でもあると知りました。それと似たようなことは、我が国の総理大臣でさえ今や熱心に行っていることです。



第三の動機として伝道目的という点を挙げるべきかもしれませんが、この点はあまり事実でも真実でもありません。あとから取って付けたような動機です。「ブログを読みました。メールマガジンを購読しています。それで教会に通ってみたくなりました。洗礼を受けたいと願うようになりました」と申し出てくださった方は、199回メールマガジンを発行してきて一人もおられません。当然だと思っています。一時期は音声まで公開していましたが、公開作業が面倒になって(すべて私一人で行っています)、やめてしまいました。「インターネットで関口牧師の説教を聞きました。それで心動くものがありましたので、教会に通いたくなりました」と来てくださった方もゼロです。



私はそういう現実の前で少しもがっかりしません。そもそも最初の動機ないし目的が伝道という点にあったわけではなかったからです。最初から期待していないことについては、落胆も失望もありません。問題をいくらか局限化してみるとしたら、「そもそも“信仰”は電気信号に変わりうるものか」、あるいは「“聖霊”とは光ファイバーを介して伝達されうるものか」というような(半分以上は冗談のような、しかし深く考えはじめると意外に難しい)《教義学的問い》として成り立つと思っています。私はこれらの問いに対して、今のところ、きわめて否定的な考えを持っています。



毎日毎日、とことんハードに利用しているからこそ思うことです。はっきり言えば、「インターネットは伝道目的には向いていない」と考えています。牧師にとっても教会にとっても、持ち出すものばかり多く、返ってくるものはほとんどありません。「お前の考えは間違っている」と、どなたかにこの私を説得してもらいたいくらいです。



私が説教をインターネットで公開している理由(1/2)

夜なべ仕事で原稿を書き、編集者に送りました。少し仮眠して、午後は土曜日の結婚式の会場設営です。うれしく思っていることは、来週2月10日(日)の礼拝説教を掲載して配信する予定の「今週の説教メールマガジン」が「第200号感謝号」であること。「第100号感謝号」のときは佐々木冬彦さんに「記念巻頭言」を書いていただきました。来週の「第200号感謝号」にも、私の恩人である方に「記念巻頭言」を書いていただく予定です。その原稿を実はすでに昨日読ませていただき、その中に記されている本当に温かくありがたいお言葉に、大いに励まされました。



「教会的実践」(kerkelijke praxis)とは、少なくとも牧師たちにとっては「毎日の実践」あるいは「日常の現実」です。しかし、キリスト者である多くの人々にとってのそれは、かなりの部分は「日曜日の実践」に限られたものであり、その意味での「日曜日の現実」でしょう。そういう認識には行きすぎの面がありますが(なぜなら我々は日曜日だけキリスト者であるわけではなく、すべての日においてもキリスト者であり続けているからです)、しかし、すべてが間違っているわけではないと思います。



牧師たちは、日曜日以外も我々なりに一生懸命働いています。しかし、もし我々牧師たちが「日曜日の仕事」に失敗しているとしたら、我々が日々取り組んでいる仕事への評価(評価という言葉をあえて用います)も得られないでしょう。回りくどい言い方をやめて率直に言いなおすとしたら、「日曜日の礼拝説教において教会員や礼拝出席者に苦痛や負担を与えるばかりの牧師は、他のどのような点や面に秀でているとしても、牧師として正当な評価を受けることはありえない」ということです。



「今週の説教メールマガジン」の発行を思い立った動機は、純粋に伝道目的というだけのものではありませんでした。第一の動機は、「日曜日『にも』こういう仕事をしています」と知ってほしい人々に、私の現実を伝えることでした。この点は書きはじめると長くなるので、今は省略します。



第二の動機は、第一の動機よりもさらにネガティヴなものです。牧師として駆け出しの頃、説教の言葉や内容が定まらず、神学的方向性も一定せず、それゆえ、自分が語ろうとしている事柄の意図を十分に伝えきれないもどかしさのうちで彷徨っていた時期に教会の人たちとの間に繰り返し起こったトラブルは、要するに「言った・言わない論争」でした。



「関口牧師よ、あなたは説教の中でこう言った。あの言葉で私は深く傷ついた。これ以上この教会で信仰生活を続けることはできそうもない。」



「いや、私はそんなことは言っていない。あなたを傷つけるようなことを牧師であるこの私がなぜ言わねばならないのか。」



「いや、間違いなくあなたは言った。あれは明らかに、私に対する当てこすりだ。あんなことをみんなの前で言う牧師には、とてもついて行けない。」



「いや、私は言わない。あの言葉の意図は、別に当てこすりなどではない。」



「いや、言った。当てこすりに決まっている。あなたはそういうことをする人だ。」



こういうのを水かけ論というのだと思いますが、果てしないまでの虚しさを伴う不毛なやりとりであることは間違いありません。あの虚しい「言った・言わない論争」を繰り返さないためにはどうしたらよいかをずっと考えてきて、ようやく辿り着いたのが「説教全文のインターネット公開」だったのです。



実践的教義学に不可欠な要素としての「教会的実践」(2/2)

そしてまた、もう一つ書いておきたいことは、教会活動に伴うドタバタ的要素に対して主体的に関わったことがない人々、あるいは関わる気がない人々が書く「教義学」は空虚であるということです。



教会のためにドタバタしたことがあり、今まさにドタバタし続けている人にだけ、「教義学」を書く資格があるのです。「教義学」は真空の中で生み出される抽象論ではないし、そのような抽象論は「教義学」ではありえません。「このクソ忙しいのに、書けるかそんなもん!」と年がら年中キレそうになりながら、それでも忍耐強く外国語の書物を読み解き、豊かで美しい言葉を駆使してコツコツと文章を書いていき、塵を集めて山とする人こそが教義学者にふさわしいのです。私がお世話になった教義学者たちは、すべてそういう方々でした。



また、今しがたは、少し遠慮する意味で「最低限、教会役員(教師・長老・執事)」と書きました。しかし、「実践的教義学」の場合は、繰り返し書いているとおり、教義学と実践神学の合体形ないし統合形態なのですから、それを構成する要素の中には、従来の実践神学が扱ってきた諸学科、すなわち「説教論」や「牧会論」や「宣教論」や「礼拝論」などが、すべて含まれているのです。そう考えてみたときに思い当たるのは次の問いです。すなわち、はたして一度として「説教」や「牧会」のわざを主体的・責任的・そして専門的な立場で行ったことがない人、あるいは「宣教ないし伝道」や「礼拝」の活動にこれまた主体的・責任的・そして専門的に参加したことがない人に「実践的教義学」の“執筆”が可能だろうかという問いです。



私の結論は「それはどう考えても無理である」というものです。「実践的教義学」は、ギリギリで「長老」、現実的には「教師」、そしてなるべくなら「牧師である教師」が書くべきものであると思われるのです。「執事」を締め出す意図は必ずしも明確なものではありませんが、私の見方では、「教義学を執筆しうる執事」はぜひとも「教師」か「長老」に任職されなおすべきです。



「牧師である教師の教義学」の良い例は、カルヴァンの『キリスト教綱要』です。あの書物は、よく知られているとおり、初版から最終版までの改訂作業の間にページ数がどんどん膨れ上がって行ったものです。なぜ膨れ上がったのでしょうか。理由は明白です。まさにあの『キリスト教綱要』こそがカルヴァン自身の「教会的実践」の記録そのもの、とくに幾度も繰り返された様々な論争の記録そのものだったからです。継続的で忍耐強い「教会的実践」こそが汲めども尽きせぬ泉のように「実践的教義学」に豊かな話題を提供し続けるのです。問題と論争の矢面に立たないかぎり決して書くことのできない言葉が「教義学」には不可欠なのです。



実践的教義学に不可欠な要素としての「教会的実践」(1/2)

今日は入院している方のお見舞いや、週末に行われる結婚式の準備などで、バタバタしていました。今夜中に仕上げなければならない原稿もあります。新年から始めようとしたカントの『純粋理性批判』の読書も、「実践的教義学」の構想も、さらなるダイエットのためのウォーキングも、米倉涼子さんも伊東美咲さんも、永年続けてきたファン・ルーラーの翻訳も、どこかに吹き飛んでしまいます。



これでいいのだと、開き直っています。牧師の「実践」(praxis)の実態は、まさにドタバタです。尊敬する先輩牧師から、「牧師の仕事と学問研究は『あれか・これか』だよ」と諭された言葉を忘れることができません。本当にそのとおりだと痛感するものがあったからです。しかし、しかし、しかし、です。私の思い描く「実践的教義学」にどうしても不可欠な要素は「教会的実践」(kerkelijke praxis = イミンク先生が好んでお用いになる言葉)です。「教会的実践」とは無関係な「実践的教義学」は概念矛盾であり、全く無意味・無価値・無効です。また「実践的教義学」の“執筆”という点に専門的に取り組むことが許される“資格”なるものがもしあるとしたら、それは最低限「教会役員」(改革派教会の場合は「牧師・長老・執事」の三職 munus triplex)である人。すなわち、「教会」の運営や管理に対して法的ならびに道義的な責任を負っている人。「教会役員」以外の人を締め出すのは、意地悪や差別で言っていることではなく、教義学を執筆する資格を得たい人は「教会役員」になるべきであると言っているのです。少しきつい言い方をお許しいただきたいのですが、「教会」に対して第三者的・傍観者的なスタンスに立ち、無責任な批判を繰り返すような人には「実践的教義学」を、また「教義学」ないし「組織神学」の執筆を担当する資格はありません。



もちろん「神学」ないし「教義学」には《教会を批判する機能》が認められて然るべきです。いかなる批判をも受ける必要なく立ちうる無謬・無誤の教会など地上には存在しません。批判なきところに改善も改革もありえません。



しかし、その批判はそのまま批判者自身にも向けられるべきです。批判者自身は無傷でいられるというわけではありません。なぜなら、教会がそういうものではありえないように、批判者自身もまた、無謬・無誤の存在ではありえないからです。「教義学」を執筆する資格を持っているのは、神学それ自体が持っている批判力によって「教会」の受ける傷はどれほど深く甚大なものであるかを自ら体験的に知る機会を得たことがあり、かつ明確に自覚している人のみです。



教義学者よ、あなた自身は、なんら「神」ではない。「人間」なのです。



2008年2月6日水曜日

「肉声の教義学」としての実践的教義学(2/2)

そして、このように考える場合の「実践的教義学」の形式(form)もしくは形態(Gestalt)として私の心に思い浮かぶのは(これをどのように表現したらよいのだろう?)要するに「肉声の教義学」(dogmatica in viva vox)のようなものです。18歳の少年が体験した「温かい血の通う人格が介在している教義学の学び」のあり方を(閉ざされた教室の外側で)再現する必要を感じています。



そうなるとやはり、大いに利用できるのは、このインターネットであるはずです。「サイバー大学」のようなものの是非が問われていることは、分かっているつもりです(問題性が明るみに出たあとから言わないほうがよいかもしれませんが、最初からあやしげものだと感じていました)。インターネットに限界があるのは当たり前。しかし、それを言うなら、旧来の書物の形態にはもっと限界があります。書物の形態に絶望しているわけではありません。「一冊の書物を書きあげたことも出版したこともない人間が、また負け惜しみ言ってやがる」とでも思われているほうが、よほど楽な気持ちになれます。しかし、誰も買おうとしないし、読もうとしないもの(書物としての「教義学」のことです)に、何を期待できるというのでしょうか。文字も、音声も、そして映像さえも届けることができ、更新も、修正も容易にスムーズに行うことができるインターネット(ブログやメールマガジンやメーリングリストなど)を「実践的教義学」の発信元として利用することは、間違っているでしょうか。最低でも、人々が書物を自分の力で読めるようになるまで励まし助ける役割くらいは果たせるのではないかと思うのです。



もしそこに書かれている言葉が、何度も読み返すべき価値があり、したがって、いつでも持っておきたいと認められるものになれば、著者の死後に書物にしていただけるかもしれません。(営利事業を行わないことを旨とする)牧師たちの書き物は、本質的にそのようなものであると、私は理解しています。



「肉声の教義学」としての実践的教義学(1/2)

今週はとくに目標を定めずに書き始めましたが、なんとなく、教会や牧師のインターネット利用の是非というような話題に向かってしまったようです。というか、かなりの部分は愚痴のような話でした。もう少しお上手な言い方をすれば、改革的であろうとすると必ずぶつかる様々な障壁があるので簡単には進んでいかないという話。



「インターネット利用」は、私の中で「実践的教義学」の構築という課題とも大いに結びついています。「実践的教義学」とは教義学と実践神学の合体形であり、従来実践神学に属してきた説教学、牧会学、宣教学、礼拝学などの諸学科を教義学、とくに「聖霊論」(pneumatologie)の枠組みの中で取り扱うことを目指そうとするものです。それは従来の実践神学へのチャレンジを意味していると同時に、従来の教義学の全面的な見直しと根本的な再構築を要請するものであることは、言うまでもありません。



そしてその上で、それらの作業が目指している目標は、教義学なり実践神学なりの「学」(Wissenschaft)ないし「理論」(theoria)を問いなおすということで終わるものではありえず、まさに「実践」(praxis)そのものとしての「説教」や「牧会」や「宣教」や「礼拝」そのものの改革です。教義学が変われば、説教や牧会が変わる。教会の宣教や礼拝のあり方が変わる。そのような(もちろん良い意味での)変化や改革を期待しているわけです。



しかしまた、それで終わるのでもない。「実践的教義学」の目標が「説教の改革」や「牧会の改革」などに終わってしまうのであれば中途半端であり、道半ばであり、半分のフラストレーションを抱え込んだままです。なぜなら、「説教」にせよ「牧会」にせよ、その他の実践的課題にせよ、それらのものはどこまで行っても手段(mean/ middel)にすぎないものであって、目的(purpose/ doel)ではありえないからです。



それでは、それらの目的は何か。「人間」です。説教が変わり、牧会が変わる。それによって本当に変わりうるのは、その説教、その牧会を通して神の真理と恩恵を受領した人間そのもの、すなわち我々自身です。途中のプロセスをすべて省いて短く言えば、「教義学が変われば、あなたが変わり、わたしが変わる」のです。生活が変わり、人生が変わる。社会が変わり、世界が変わる。そこまでの変化、改革を求めるのが「実践的教義学」の道です。



その夢は余りにも大きすぎて途方に暮れるようなものかもしれませんが、さりとて全く無駄で無意味な夢でもないはずです。



ヴァティカンでさえネットを活用している(2/2)

今日は長女の小学校の授業参観に行ってきました。父親の参観者は二、三名というところでしょうか。「教育熱心な父親」と見てもらえるのか、「牧師さんはやっぱり『仕事』していないのね」と思われているのか、お母さんたちの視線が気にならないと言えばウソになります。



数年前の『キリスト新聞』で、同じ町内にある(と言っても2kmほど離れている)栗ヶ沢バプテスト教会の吉高叶牧師(日本キリスト教協議会=NCCの当時「副議長」)が「日本の教会は《市民権》を求めている」と(たぶんやや皮肉な意味でも)語っておられた記事を読んだとき、深い共感を覚えました。



「今週の説教メールマガジン」を、つい先ほど発行しました。毎週プリントアウトし、しかも声に出して読んでくださっている方がおられると知り、本当にうれしく感謝しています。メールマガジンをどなたが読んでくださっているかまでは把握していないのですが、「メールマガジンやブログを読んでいます」と連絡してくださる方の中に、私の両親と同世代の方々(回りくどく書きましたが、要するに高齢の方々)が多くおられることには、ありがたいことだなあと痛み入っております。



ヴァティカンでさえ(「でさえ」はもちろん余計で失礼な言い方なのですが、あえて言わせてほしい)ネットをふんだんに活用し、ホームページを立ち上げていることは、わたしたちプロテスタント教会の者たちにとってやはり脅威であると認めるべきです。



「改革派教義学」のこれからのあり方にも大きな影響を与えるでしょう。なぜなら、従来の「改革派教義学」におけるローマ・カトリック神学に対する基本的な態度は、しばしば、それを肯定的に評価する場合であっても批判的に評価する場合であっても、現在のローマ・カトリック教会が時々刻々とリアルタイムに発信している《最新の》諸文書に基づいての評価をなしえたケースは少なく、むしろ圧倒的に多いケースとして、ローマ・カトリック教会の内部ではとっくの昔に克服され、淘汰されてしまっているような《過去の》諸文書に基づいての評価であったと思われるからです。つまり我々が「プロテスタント」として、あるいは「改革派」として「ローマ・カトリック批判」をしている最中に、ヴァティカンの側では「そんなのは今の我々の姿ではないよ。おたくら、古いねー」と、ゲラゲラ笑われているかもしれないのです。



はたして、現時点において日本の改革派神学者の何人が、リアルタイムのローマ・カトリック教会のウォッチャーでありうるでしょうか。あるいは、毎日の日課のようにして、ヴァティカンのホームページをチェックしている日本のプロテスタント神学者は、何人いるでしょうか。甚だ心もとないものがあります。それをしない神学者はけしからんと言っているのではありません。それをしないならば、ローマ・カトリック教会に対する有効な批判を行うことはもはや不可能であると言っているのです。



19世紀末に書かれたヘルマン・バーフィンクの『改革派教義学』や、20世紀初頭に書かれたルイス・ベルコフの『組織神学』、あるいは20世紀の中盤に書かれたカール・バルトの『教会教義学』や、20世紀の後半に書かれたG. C. ベルカウワーの『教義学研究』など。それらの中に描き込まれたローマ・カトリック教会の姿が今でも変わらず彼らの姿であり続けていると思い込むのは、危険なことです。それはちょうど、昭和前半の日本家庭を描いた「サザエさん」や昭和後半の日本家庭を描いた「ちびまるこちゃん」のアニメを外国の人々が見て「へえ、日本人て、こんな感じなんだー」と思われることに今の我々が「昔はね」と言いたくなるのと同じです。



2008年2月5日火曜日

ヴァティカンでさえネットを活用している(1/2)

実際問題として、たとえば今日、ローマ・カトリック教会の総本山であるヴァティカン教皇庁でさえホームページを持っています。



ヴァティカン教皇庁ホームページ



http://www.vatican.va/



ホームページがあるくらいですから、ヴァティカン教皇庁独自の巨大なサーバーコンピュータも当然どこかにあるのでしょう。教皇庁本部から各国のカトリック教会への通達等もすべてメールで行われていると考えてよさそうです(私がそのようなメールをヴァティカンから実際に受け取ったことがあるわけではありませんので、想像でしかありません)。



ローマ教皇は使徒ペトロの権威を継承する存在であると、彼らは主張する。そうであるならば、ローマ教会の立場から言えば、聖書の中の「ペトロの手紙」は「ペトロのメール」と訳してもよいはずです。使徒パウロの手紙なども「ローマの信徒へのメール」、「コリントの信徒へのメール」、「ガラテヤの信徒へのメール」などと訳しても何の問題もないばかりか、好ましいことでさえあるでしょう。使徒言行録は「使徒ブログ」と訳しても構わない。



おそらく聖書の中の諸文書はそもそも販売目的で書かれたのではないものばかりでしょう(それとも、二千年前から「はい、これ『ヨハネによる福音書』、面白いよ。一冊500円。買った買った!」とエルサレム神殿前の露天商のような場所で売られていたと考えるべきでしょうか)。



公開することを目的として記された文書であればあるほどインターネットを通しての文書公開は有効です。マルティン・ルターがヴィッテンベルクの城教会前に張り出したと伝えられる「九十五個条の提題」なども、もし当時インターネットがあったとしたら、ルターもまた、自分のブログを立ち上げて、思いのたけを(95どころか1,000でも10,000でも)書き込み続けることができたことでしょう。あるいは、メールをどんどん活用して同じ志を共有できる仲間たち(宗教改革者たち!)を集めたことでしょう。そのほうが一枚のチラシをどこかに張り出すことよりも、また、買ってもらえるかどうか、さらに、読んでもらえるかどうか全く分からない(高価な販売価格を伴う)書物を書くよりもはるかに効果的な手段だからです。



文明の利器を利用しないのは、大いなる損失であると共に怠慢の罪です。もちろん何事にも危険な要素はあります。しかし、「刃物は危険だから使わない、使うべきでない」と言うなら、魚料理も肉料理も不可能です。何度も怪我をしながら上達していくという道を辿るのでなければ、いつまで経ってもプロ並みの腕を習得することはできません。



今さら蒸し返す必要もないような昔話ですが、11年半ほど前にメールを始めた頃は、メールやホームページは「仕事」のうちにカウントしてもらえませんでした。「一部のマニアたちのあやしげな遊びにすぎない」と見られていました。牧師たる者がそういうものにのめり込むことなど以ての外であると白い目で見られました。その後まもなくしてマイクロソフト社のビル・ゲイツ氏(当時は社長)が、ある雑誌社のインタビューで「あなたが毎日取り組んでいる仕事は何ですか」という質問に「メールを書くことです」と答えて周囲を驚かせた、という記事に接したとき(当時はそれが「驚き」だったということが今では驚きです)大いに慰められたことを、はっきりと記憶しています。



牧師の仕事も、かなりの部分は「メールを書くこと」です。非常に過酷な重労働です。



メールを書く仕事

なんだかウダウダしていましたが、「ただいまー」と、二人の子供が学校から帰ってきて家が明るくなり、少し元気が出てきました。ほとんど毎週同じ状況なのですが、こと先週は、説教の準備だけではなく、ものすごく大量の、そして質もしくは内容に重大な責任を伴うメールを書きました。加えて、急遽頼まれた原稿を徹夜で仕上げ、メールに添付して送った日もありました。その他、「やれポスター作れ。やれブログを更新せよ。やれ会議録のチェックをせよ」と次々に注文が(ほとんどすべてメールで)届きます。入院中の方のお見舞いにも行きました。牧師会もありました。この日記ブログへの書き込みは、それらの合間にしていることです。「牧師はブログだけ書いていれば務まるのか」と思われるとしたら、それも困る話です。しかし、です。似たような問いとして「牧師はメールだけ書いていれば務まるのか」というのもあると思う。それに対して今の私は「そういう面もあるようだ」と答えるかもしれません。使徒パウロのことを考えざるをえません。パウロは、一種の手紙魔でした。とにかくたくさんの手紙を書きました。病弱や高齢等のために自分で書けなくなっても、口述して書記さんに書きとってもらいました。伝道旅行の際に出会ったあの人この人を励ますためです。もう二度と会うことができないだろうと確信できるほど遠く離れた場所に住んでいる人々を、手紙で力づけたいからです。わたしたちの時代には、手紙が電子メールに換わっただけです。筆やペンがキーボードに換わっただけです。使徒の働きを受け継ぐ現代の牧師の仕事は、「メールを書く仕事」でもあるのです。私は岡山県岡山市の出身ですが、大学と大学院が東京都三鷹市、最初の教会が高知県南国市、次の教会が福岡県北九州市八幡東区(ここにいるときにメールを開始。当時の名称は「パソコン通信」。1996年の夏。爾来、11年半ほどメールのお世話になっています)、その後兵庫県神戸市北区の神学校での一年半の学びを経て(神戸で長女が生まれ)、山梨県甲府市の教会に赴任するが、四ヶ月後には会堂移転に伴い山梨県中巨摩郡敷島町(現在の山梨県甲斐市)に転居、そして2004年4月より現在の千葉県松戸市に至る。42年間の「永い一瞬の人生」(コブクロ「WHITE DAYS」)にどれだけ引っ越ししたのでしょう。現在中学一年生の長男(13歳)は高知県で生まれましたが、13年間で五回も転居を経験させてしまいました。平均すると、(13年÷5回=)2.6年ごとに転居した計算になります。本当につらい目に合わせてしまいました。長男のいちばん嫌いな言葉が「引っ越し」です。私の向かい側で(コタツにいます)眠い目をこすりながら学校と塾の宿題をしている二人の子供たちの横顔を見ていると、また胸が痛みはじめます。私が今「改革派教義学」という六文字をどこでも憚りなく堂々と述べることができるのは、この二人の子供たちの「犠牲」あってのことなのです。



2008年2月4日月曜日

故障中

月曜日は元気がありません。日曜日に力を出しきってしまうからでしょう。仕事して疲れるのは当たり前。余力が残っているとしたら、サボっている証拠でしょう(というこの考え方を、私はたしか養老孟司氏の『バカの壁』シリーズから学んだと記憶しています。この記憶自体が間違っているかもしれません。しかし、養老氏の本を読み直して確かめてみる気力がない。グダグダです)。体も心ももちろん脳も休みなく働かせ続けることは死を意味するでしょう。昨日は定期小会・執事会もありました。牧師は教会会議の議長です。疲れます。現在日曜日の朝の礼拝では新約聖書の使徒言行録の連続講解説教を行っています。昨日の個所は17章の16節から34節まで。ギリシアの首都アテネの「アレオパゴスの真ん中で」使徒パウロが説教する場面です。この説教は「結果としては失敗に終わった説教」と評されるものです。以前の私はパウロの説教に「失敗」などあるものかと反発していましたが、このたび読み直してみて「なるほどこれは失敗の説教である」と分かりました。パウロも失敗する!他人の失敗を見て喜ぶのは下品です。しかし慰めを感じる要素は確かにあります。もう一つ、使徒言行録のとくにパウロの伝道旅行を描いた記事を読みながら慰められている点はその伝道の方法です。「安息日ごとに」会堂で聖書について論じる。これが基本的なやり方です。パウロもある意味で「安息日の人」であり、「安息日の仕事」に取り組んでいたと言える。牧師が「日曜日の人」であり、「日曜日の仕事」に取り組んでいる。同じだなあと思うわけです。もっともパウロは、よく知られているとおり、生活費に行き詰ったからでしょう、「テント製作」のアルバイトもしました。食事をしないで生きれる生物は存在しません!(「生きれる」と、ら抜き言葉を使ってみたくなりました。コブクロの歌詞の影響です)。しかしそれは彼の本業ではありえません。伝道者の本業は「伝道」です!あのパウロ先生も安息日の翌日は(我々と同じように)ぶっ倒れていたのかなあとか想像してみると、慰められるものがあります。今日の私は、ほんと、ダメダメです(ぐったり)。



2008年2月3日日曜日

「アレオパゴスの真ん中で」

http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-02-03.pdf (印刷用PDF)



使徒言行録17・16~34(連続講解第44回)



日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康





「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。』」



今日の個所で使徒パウロが立っている場所は、ギリシアの首都アテネです。なぜパウロはアテネにいるのでしょうか。その経緯が先週の個所に記されています。パウロとシラスとテモテの三人が、テサロニケとベレアの町でイエス・キリストの福音を宣べ伝えたとき、多くの人々がキリスト教信仰を受け入れ、洗礼を受けました。ところが、それにねたみを抱いたユダヤ人たちがパウロたちを町から追放するために、人を使って暴動を起こさせたのです。パウロたちの身に危害が及ぶことを恐れた人々が、伝道者たちを安全な場所へと逃れさせました。その際シラスとテモテはベレアに残りましたが、パウロは一人アテネに移動することになったのです。



そしてパウロは、それからしばらくの間、一人で伝道することになりました。「寂しい」という感情をもったかどうかは分かりません。パウロも人間です。一人でいると何となく不安を感じたり、心もとないものを感じたりしたかもしれません。そういうことを少しは考えてみる必要があるかもしれません。ただ、そのようなことは何も記されていません。



むしろはっきりと記されていることは、パウロがアテネに到着して最初に抱いた感情は「憤慨」であったということです。「憤慨」とはもちろん、激しいまでの怒りの感情です。私が以前から申し上げている「パウロ先生はすぐ怒る」という話がここでも当てはまるかもしれません。しかし、なぜパウロは「憤慨」したのでしょうか。理由が記されています。



明らかに分かること、それは、ユダヤ人でありキリスト者であるパウロの目から見るとギリシアの首都アテネは、完全に異教徒の町であったということです。その町にはあふれ返るほど多くの偶像が立ち並んでいました。それを見てパウロは「憤慨した」、すなわち、激しいまでの怒りの感情を抱いたのです。



その状況はちょうど、先週もお話ししましたとおり、150年前の日本に来たアメリカ人のプロテスタント宣教師が体験したであろうものと非常によく似ていたに違いありません。パウロの目の前には、一人として、少なくとも表立ってキリスト教信仰を告白する人々がいませんでした。この個所を見るかぎり、当時のアテネにユダヤ教の会堂は存在していたようですから、聖書の「せ」の字くらいは知られていたでしょう。しかし、キリスト教の「キ」の字は知られていませんでした。その意味での、まさに全くゼロからの、あるいはマイナスからの伝道活動を開始せざるをえなかった、しかもたった一人で(!)その困難な仕事を始めなければならなかった。そのときのパウロの心中がどのようなものであったかについては、察して余りあるものがあります。



しかし、パウロの優れているところは、そのような絶望的と言いうる状況に立たされても、まさに文字どおり「折〔または「時」〕が良くても悪くても」(テモテの手紙二4・2)、イエス・キリストの福音を宣べ伝える仕事を堂々と始めることができた点にあると言ってよいでしょう。それは、次のように書かれているとおりです。



「論じ合っていた」という表現は「議論していた」という意味ではなく「説教していた」あるいは「御言葉を宣べ伝えていた」という意味であると、解説されています。



また、パウロの前に現れる「エピクロス派」や「ストア派」の哲学者については、次のように説明できます。エピクロス派は快楽主義者です。かたやストア派はエピクロス派とは正反対の禁欲主義者です。前者は地上の人生を楽しむべきであると考える人々であり、後者は地上の人生を楽しむべきではないと考える人々です。しかし、共通点もあります。この人々が持っているのは、いずれにせよ「地上の人生を軽んじる思想」であったということです。もちろんそれはキリスト教的な立場からの批判的評価です。



エピクロス派は、死後の世界も現世を超えた次元もそういうものは一切認めない人々でした。彼らにとって地上の人生は刹那的なものであり、せいぜい遊んで暮らすしかないものであり、どうでもよいものでした。性的な乱れもあったと言われています。他方のストア派は、地上の人生を苦しむべきものとしてとらえていました。しかし、その教えは、現実の出来事を直視しつつ一つ一つの問題に真剣に取り組む姿勢を説くものではなく、どちらかといえば嫌々ながら人生をやり過ごす姿勢を説くものでした。



私の見方では、エピクロス派にせよストア派にせよ今日の個所で紹介されているアテネの哲学者たちの思想は、わたしたち日本人の(ただしキリスト者以外の)一般的な感性にちょうどぴったりフィットするようなものではなかっただろうかと、思えてなりません。どのみち一回かぎりの人生である。適当に楽しんで暮らそうか。それとも、少しは苦しい修行の道でも歩んでみようか。しかし、どのみち人は死ぬ。死ねば、皆一緒。



そのようななんとも言えない頽廃的ムードないし虚無主義に支配されたギリシア的思想の厚い壁を前にして、パウロは「イエスと復活について福音を告げ知らせていた」と記されています。しかしまた、そのパウロの説教は、哲学者たちにとってはうんざりするような、あるいは何を言っているのかさっぱり理解できないような話として受けとられ、心理的に拒絶されていたらしいことが、この個所から伝わってきます。



皆さんはどうでしょうか。この教会で私は繰り返し「キリスト教信仰において、復活とはこの地上にもう一度戻ってくることです。わたしたちの地上の人生は死によって終わるものではありません。復活によって地上の人生が回復されるのです。だからわたしたちは地上の人生を軽んじてはなりません。復活前の人生と復活後の人生は連続的なものです」と語ってきました。このように語っているときの私の念頭に常にあるのが、今日の個所のパウロの状況です。すなわち、アテネの哲学者たちが教えていた「地上の人生を軽んじる思想」と対決しているパウロの状況です。



私がなぜ、声を大にして「復活」を強調してきたか、また同時に声を大にして「地上の人生の価値」を強調してきたか、その理由は今日の個所に詳細に描き込まれているパウロとギリシアの哲学者たちとの対決状況が、今日においてもなお厳然と存する日本の思想的社会的状況と同じであると考えてきたからに他なりません。



すべての人はどうせ死ぬ。死んだら皆同じ。人生などどうでもよい。このように、私を含めた日本人の多くは、心の奥底で感じています。そのような思想教育を受けてしまっています。しかし、そのように考えることは間違いであると、パウロならば語るでしょう。わたしたちは復活するのだ。この地上に再び戻ってくるのだ。だからこの地上の人生には価値があるのだと。このパウロのメッセージを、わたしたちもまた、まさに声を大にして今日の日本社会の中で語り続けなければなりません。



パウロは「アレオパゴス」に連れていかれました。アレオパゴスは、ユダヤ人にとっての「最高法院」(サンヘドリン)に相当する、ギリシアの最高議会が招集された場所です。今の日本でいえば国会議事堂のある東京都千代田区永田町一丁目のような場所です。そこでパウロに要求されたことは「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19~20節)ということでした。当時のギリシア人からすれば、使徒パウロの存在は、遠い外国から来た新興宗教のスポークスマンのように見えたのでしょう。一応興味はあるので、とりあえずテレビ番組に出演して、その新しい教えをこの国のみんなに紹介してくださらないかと言われているようなものです。



するとパウロは、その要求に二つ返事で応じます。そしてたった一人で「アレオパゴスの真ん中で」、いわばまさに全ギリシア人の前で、実際にはほとんどが興味本位か冷やかし半分で集まっている人々の前で堂々と、キリスト教信仰、なかでも「復活」について語るのです。このあたりも、伝道者パウロの卓越した側面であると言えるでしょう。パウロの辞書には「怯む」とか「怖気づく」とか「引っ込む」という言葉がないかのようです!



パウロの説教の内容(21~31節)について詳しくお話しする時間はもう残っていません。ただし、一つ気になる点だけ、申し上げておきたいと思います。それは、冒頭部分です。



なぜこの点が気になるのでしょうか。最初に申し上げましたとおり、アテネに到着した直後のパウロは「憤慨していた」のです。つまり、激しく怒っていた。その怒りの感情は、アレオパゴスの真ん中で語っているときにもなんら収まっていなかったはずだと思われるのです。しかしそれにもかかわらず、パウロは「あなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」と言う。これは明らかに、かなり辛辣な皮肉であり、嫌味です。なぜならパウロはそもそも、ギリシア人の偶像崇拝を「信仰」であるなどとは思っていなかったからです。つまりパウロは、心にも無いことを皮肉として言っているのです。



気になること、それは、皮肉や嫌味で伝道は可能かという問題です。アテネでのパウロの説教について「結果としては失敗に終わったものである」と評する人々がいます。私は、その判断に賛成せざるをえません。以前の私はパウロの説教に「失敗」などあるものかとその判断に反発していましたが、このたび読み直してみて「なるほど、この説教は明らかに失敗している」と分かりました。



この説教が終わった後の人々の反応は、明らかに、非常に白けきったものです。さっさと帰る人がいる。あざ笑い、「その話はまた今度ね」と言い残していく人がいる。キリスト教信仰を受け入れた人は「何人か」である。否定しがたい事実としてこの説教には明らかにけんか腰の要素があります。人の感情を逆なでし、人の心を遠ざけるものがあります。あなたがたは「知られざる神」を拝んでいる。信心深いご立派な方々です。あなたがたが知らずに拝んでいるものをこのわたしが教えてあげますという論法は「上から目線」です。「空気が読めない人」と見られるかもしれません。最も嫌われやすい語り方です。



私がこのような批判的な言葉をあえて口にする理由は、わたしたち自身の戒めにしたいからです。また、パウロの伝道活動にも試行錯誤の要素があり、失敗の連続であったことを率直に認めたいからです。わたしたちの信仰告白の内容は、正しいものです。しかし、語り方や伝え方を間違えると、あらぬ誤解を生み、人々の心を信仰から遠ざける原因にもなりかねないからです。皮肉や嫌味やけんか腰で、伝道はできないからです。



しかし、です。わたしたちがパウロから学ぶべきことは、もちろんたくさんあります。今日の個所から学ぶべき最も重要なことは、彼の「勇気」です。それは、今の日本の教会にまだまだ欠けている要素であると思われてなりません。



(2008年2月3日、松戸小金原教会主日礼拝)



2008年2月2日土曜日

今週のまとめ

今週もPDF版にまとめておきます。(1)が先週分、(2)が今週分です。



「実践的教義学」の構想(ドラフト)



(1) 教義学と実践神学の統合の提案



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001.pdf



(2) 教義学と私の実存の関係



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics002.pdf





なお、(2)の中の「教義学と『痛い経験』」の項に紹介した大学三年の夏の「事故」の後日談が、実を言うと、1月16日(水)に記した内容です。生まれて初めて「夏期伝道実習」なるものを、徳島県の海辺の町の教会で体験しました。事故の直後でしたので「痛い、痛い」とうめきながらでしたが、その町に二ヶ月間滞在し(教会の一室で寝泊まりし)、説教原稿を書き上げ、礼拝や祈祷会、家庭集会、関係保育園などで説教の奉仕をさせていただきました。食事は二回くらいは自炊した記憶が薄っすらと残っていますが、あとは教会員のお宅にお呼ばれするか、そうでない場合はすべて海辺の喫茶店で食事をとりました。その海はサーフィンが盛んで、喫茶店にもサーファーが多く出入りしていました(私の滞在中に一人のサーファーがその海で雷に打たれて亡くなりました。喫茶店で働いていたアルバイトの人と親しい仲間でした)。実習が無事終了し、教会から「謝礼」をいただくことができました。実は、その「謝礼」で、その実習先の教会のすぐ近くにあった中古車店に飾って(放置して?)あった茶色のポンコツ車、ダイハツシャレード(八万円!)を買ったのです。つまり、「それ以来、自分の足で歩くことが極端に少なくなったので・・・体重が極端に増加した」という話には、かなり大げさですが要するに「前史」があったのだということです。私の体重増加が自家用車を購入してそれに乗りはじめたときから始まったという点は間違いなく事実なのですが、問題はなぜ私は自動車に乗りはじめたのかという点です。その答えは、「事故」後の肉体に残った症状に苦しむ余り(「破門」後の精神的ダメージの件は意図的に除外しておく)、いつも自分をかばおうとする少し臆病な人間になってしまったからであると一応説明できるわけです。歩いて行けそうなところでも「自分の足で歩くよりも自動車で」、また「満員電車に鮨詰めにされるくらいなら、ゆったりできる自動車で」というふうに、いつも「楽な方法」を選ぼうとする人間になってしまいました。その結果が2007年1月に到達した体重99kgです。このままでは駄目だと深く反省し、昨年ダイエットして現在は89kg(現在、この数値のまま、数ヶ月止まっています。ヤバいです)。その反省の中身は、見てくれのまずさへの反省だけではなく、常に自分の身を守ることを優先し、「楽な方法」を選ぼうとする、その臆病さそのものへの反省だったというわけです。



2008年2月1日金曜日

「社会と教会」に名称変更しました

「信仰の手引き」と名づけてきたブログのタイトルを、このたび「社会と教会」に変更しました。「教会と社会」ではなく「社会と教会」の順に書くのは、社会的関心を優先したいからです。「信仰の手引き」は一時的に付けた名前であり、その前は「信仰と実践」でした。しかし、どの名称も私の意図ならびに願いを反映しきれていないと感じていました。申し上げたいことは、「社会において果たすべき教会の役割」とか「社会に向かって発信する教会の声」というようなことです。ただし、それを教会の独り言や自己満足にしてしまうのではなく、教会以外の方々に御理解いただけるメッセージにするにはどうしたらよいかという関心を常に持ち続けてきました。そしてそれは、とりもなおさず、社会と教会との真の信頼関係を築いていきたいという強い思いからのものでした。ですから、このブログ「社会と教会」をお読みいただきたいと願っているのは、教会のメンバーの方々だけではなく、むしろ教会のメンバーでない方々、キリスト者でない方々なのです。戦争や暴動、飢餓や貧困、差別や孤独、などなど。社会に大きな問題や混乱が起こるとき、「教会さんは、どんなふうに考えるんだろ?」と思われたら、このブログを開いてみてほしい。そのように願っています。発信できる情報はまだまだ少なく限られたものですが、そのうちパワーアップしていきたいです。



社会と教会(旧「信仰の手引き」)



http://faith.reformed.jp/



教会で受けるトラウマの責任は教会の「神学」にもある

トラウマの正体が何であるのかは、まだ分かりません。本当に分かりません。「私はどうやら専門のカウンセラーに一度きちんと話を聞いてもらうほうがよさそうだね」と、つい最近、妻と話したばかりです(まだ一度もそういう先生のところに通ったことがありません)。とはいえ私は、自分の中に巣食うこのトラウマの正体が「狭義の心理学」や「狭義の精神医学」で説明してもらえそうなものであるとは思っていません。このように私が書くのは自分の問題を過大評価する(要するに「自意識過剰」)ゆえではなく、また心理学や精神医学を軽視するゆえでもありません。ある程度の自覚として私に思い当たるものがあり、そこにどうやら原因があるということが、その意味で「分かっている」からです。私の心を傷つけてきた少なくともその一つであり、かつ決定的な要素は「説教」です。「そうである」という自覚が、すっきりとした明確さまではないとしても、それほどぼんやりとでもなく、私の中にあります。そして、その「説教」を裏打ちする「ある種の神学」ないし「ある種の教義学」が、私の心の深い部分にダメージを与えたままです。その傷は、いまだに癒えていない。そのことに時々気づかされる瞬間があります。たいてい涙がこぼれます。教義学と実践神学を統合すべきであること、とくに説教や牧会の問題を教義学的に考え抜かねばならないと考えている理由はこのあたりにあります。説教や牧会における数多くの「失敗」の事例の中には、単なるテクニックの拙さであるとか経験値の低さというようなことで片づけられるべきではない事象も明らかに存在するからです。説教の実践、また牧会の実践を支えている理論的根拠としての「説教学」や「牧会学」そのものが失敗しているケースが明らかにあります。そして、それらすべてを支える「神学」が根本的に失敗しているケースがあるのです。「実践的教義学」は、現代のキリスト教カウンセリングに敬意を表します。その上で、教義学の観点からの積極的レスポンスを意図しています。しかし、現代流行中の説教学の潮流に対して、「実践的教義学」は、最も近い関係にあると感じられるだけに、どうしても手厳しいものになります。「教義学と実践神学の統合の提案」の背後に、具体的な人の動きを期待したい気持ちは、もちろんあるのです。



私が「実践的教義学」を求める本当の(?)理由

「改革派教義学と私の実存との関係」について書いてきました。もちろん両者の間には「関係がある」と言いたいためです。私の日本基督教団からの「離脱」に関する秘話(?)まで字にしてしまいました。今回書いた部分は今まで(まとまった形では)妻以外の誰にも喋ったことがありませんので、その意味では生まれて初めて字にしたものです。ブログの魔法にかかっているのかもしれません。ちょっと頭を冷やす必要がありそうです。しかし、今週は家庭集会や中会教師会などで出かけることが多く、また各方面からのメールもなんだかやたら多く、意識が四方八方へと分散していきます。腰を据えて一つの事柄をじっくり考えて書くということができません。18才の少年と「教義学」との感動的な出会い。「教義学」を学ぶうちに「教派」の問題が見えてきたこと。「痛い目」にも遭ったこと。「改革派であること」、すなわち「教派であり続けること」を求めた結果、「教派的なるもの」に対して弾圧的姿勢を取り始めた日本基督教団を1997年3月末に離脱し、日本キリスト改革派教会に加入するに至ったこと。そして、その一連の軌跡は、私の意識においては、「改革派教義学」(dogmatica reformata)を追い求めることと同一の意味を持つこと(短く言えば、日本基督教団にとどまったままでは「改革派教義学」を維持することができないと思われたのです。「改革派教義学」のほうが日本基督教団の存在よりも重要であると、当時の私には感じられたのです)。このあたりまで書いて、すでにダウン気味です。自分の過去の経験を赤裸々に(笑)書き始めると、忘れることに決めた記憶がフラッシュバックしてきますし、私の心の奥底のパンドラの箱を開けざるをえなくなりますので、精神的に少しキツクなり始めているのかもしれません(はっきりした自覚症状に至っているわけではない)。私にとって「教会生活・信仰生活」は、恵み豊かな体験でもあり続けていますが、全く同時に、深く絶望的なトラウマ(!)の原因でもあり続けているからです。