まさに今、年に何度となく訪れる意識の拡散というか分散というかが起こっている状態なのですが、ある程度の統合というか連関というか予定調和というかが成り立っているというより、そこへと強引に引き寄せられているように感じられる(「壊れるなよ」という声がどこからともなく聞こえる)のは、どうしてでしょうか。
悔しがる資格はないし、その資格は自分にはないと、わりと早々と自覚できたからこそ、夢というか目標を、より狭く、より小さなものへと絞ったつもりだったはずなのに。なぜ悔しいんだろう、焦るんだろう。そして、できないんだろう。たちどまることは後退だ。だって、あの人は走ってるじゃないか!?
というようなことだったと思いますね、たしか。昨夜、しきりと書きとめておきたくなったこと。頭痛で(早くねろよ)断念したんだが。どうでもいいね、こんなこと。
今日は衝撃を受けた。受けてはならない衝撃だ(なぜなら失礼だから)。3月11日以来、一人の小説家が黙りこくっていると思っていましたが、それは違っていました。これほどまでに深く優しく。広告の文章と小説は、いや文学は違う。私には広告しか書けないと諦めていましたが、それも違う。苦しんでいないだけだ。それが分かった。もっと苦労して立とう。これだけやっても私はまだ苦しみ足りないのだろう。
自分で考えなくてはならない人(=すべての人)にとって宗教は、なるほどたしかに邪魔だ。キリスト教なんて最たるもの。「あつらえ向き」の答えがいくらでも取り出せる、というものでなくてはならないと自分で決めている。前提は取り払えない。でも「やっと分かったか」。このシタリ顔が嫌なのだ。そりゃ嫌だろう。
でも、教会は私の行く手を阻む。いや正確には「日曜日」が私の邪魔をする。それでいい。遠慮なくとめてくれ、この拡散の暴走を。教会は体を張って我々の行く手を阻む。我々は、自分で考えてもいい。いや、自分の頭と心で徹底的に考えなくてはならない。自分で考えたこと、そして書いたことだけが自分のものだ。しかし、だからこそ、邪魔が貴重なのだ。
邪魔、そしてストレスが貴重だ。不必要なストレスを抱え込み、必要なストレスは回避するのでは、無駄以外の何ものでもない。自分の頭と心で考え抜くことは、我々に必要なストレスだろう。隷属はみっともないじゃないか。なぜ回避するのか、なぜ自由を求めないのか。ヒマだから本を読むのではない。本を読む時間を、苦労して得るのだ。
しかし、それが教科書ならヒマなとき読めばいい。教科書を読む時間を苦労して得るのはバカだ。だって、そんなことは誰だって知っている。誰だって知っていることは他人に任せておけばよい。アングラもつまらない(そんな領域はもう無い)。まだ読んだことのないものを読め。手ずから辞書をめくれ。苦労せよ。
辞書をめくる時間を、喧噪の中にこじ開けろ!
今、また一人になった。朝考えていたことは全部忘れた。書いたことを読み返す気にはならない。これ、Twitterの特質かもしれないですね。思いつき、行き当たりばったり、出たとこ勝負。でも、書いたことはどこかに記録されている。「言質」はとられている。裁判ざたになったときは証拠として突き付けられる。
だから、Twitterに「失言」は書けない。緊張の連続のはずだ。しかし、それほどの疲労感が残らない。軽くハイのまま、いつまでも書き続けることができる。だからこそ流行するのだろうけど、だからこそ何か落とし穴がある(んじゃないかと警戒心が発動する)。これってなんなんだ、と空中に問いかける。
しかし、Twitterは、メーリングリストなどよりははるかに気楽だ。あれは「失言」どころか「誤字脱字」すら許されなかった。削除ができないから「先程のメールは削除してください。正しくは○○でした。謹んでお詫び申し上げます」と馬鹿丁寧な訂正状を送らざるをえなかった。メール数は余計増えるし、そんなことを書いて送っている自分が自分でウザくて仕方がなかった。
原発の問題に無理やり結びつけなくてもいいわけだが、「絶対に壊れないものなど地上には存在しない」のといわば同じで、「誤字脱字が一つもない完璧な書きものなど地上には存在しない」と言いたいくらいなのだから、メーリングリストのような「取り消しのきかなさ」は正直困る。もうあれには戻れないですね。
たった今、「メーリングリストにはもう戻れない」と書いたばかりですが、「取り消しのきかなさ」ゆえに強いられたあの緊張感こそが、私を飛躍的に成長させてくれたことも事実だったりはします。至るところ間違いだらけだったゆえに(今もね!)、年がら年中「お詫びと訂正」だらけだったけど(今もね!)必死でした。
逆に、メーリングリストが事実上ストップして以来、勉強も急ブレーキだ。「取り消しのきかなさ」は、参加者全員に絶えざる緊張を強いたが、頭の体操にはなった。大喧嘩になると、100人を超えるメーリングリスト上に「脱退させていただきます」というメールが送りつけられ、主催者は冷や汗を流した。
いくらなんでもあの緊張感を維持し続けることは本業に支障をきたすと、メーリングリストの継続に恐れを抱き、爾来、次なる「場」を探してきた。しかし、それが見つからない。2ちゃんねるは論外。mixiは匿名性が障害。FacebookとTwitterで実名顔出しが実現したが、どうも雰囲気が学術向きじゃない。
別に、FacebookとTwitterが学術向きでないことが「不満だ」と言いたいわけではない。私が探し求めてきた「場」とは程遠い感じがする、ということだけです。
「インターネットを使った共同研究会」としてたぶんいちばん優れているのは、「喧嘩しないメーリングリスト」ではないかと、そこに戻っていくものがありますね。でも、それはありえないし、メールの喧嘩は神経がもたない。学術の場は結局のところ、大学だ神学校だの「土地と建物」だ、ということに落ち着くのか。だとしたら、ネットは敗北ですね。
しっかし、今日、さむ!(ぶるる) 「夏」になったぜと、完全クールビズで半そでワイシャツだけで出たら、あの3月を思い出すくらいの寒さ。なんでだよ。疼痛はしりますよ。さっきから頑張って教会の牧師室で仕事してましたけど、もう牧師館に戻るしかないね。コートでも着こんで、家のパソコンで仕事続けます。
牧師館は教会と道を隔てた向かいにあるので、通勤時間は30秒だ。でも、雰囲気はまるで違う。集中力に大きな差が出る。さっき帰宅したときは「党首討論をやっている」という情報をえてテレビをつけてしまい、そのチャンネルが見当たらず、水戸黄門(西村晃バージョン)を見てしまいました。
というわけで、今日も「意識散りまくり」の一日でした。辞書は、一ページもめくれなかった。でも、これは何年も同じことを繰り返し書いていることですが、神学は「教会の学」ですからね、教会と伝道の仕事でシッチャカメッチャカで翻訳と研究が停滞するなら、これは本望と考えるべきなんですよ、これは真面目な話です。
教会と伝道の仕事をサボってでも語学と学問にひたすら沈潜できるのは、学生時代だけの特権です。学生時代に学問で悩まなきゃ、いつ悩むのよって話。でも再び毒舌っぽくいえば(全部が毒舌ですね、これ)、澱みない透徹した論理は「神学」には似合わない。「教会」との取っ組み合いのストレスを耐え抜いて初めて「神学」なんですよ(ね?)。
これ、私が松戸小金原教会と喧嘩している、という意味じゃないですよ。それは完全な誤解です。我々にとっては「中会」も「大会」も教会ですし、日本キリスト改革派教会だけが「教会」ではないわけですから、教派を超えた活動や交わりも十分すぎる意味で「教会」の範囲内です。
そういう意味では(そういう意味でだけ)「神学」は強者の学問かもしれません。「教会」は、いつの時代も頑固で、てこでも動かない。しかし教会も堕落と腐敗なしにはありえず正常化と改革が必要。「神学」が教会の現状追認の学なら、それは堕落の学なんです。常に改革され続けなければ「教会」じゃないですよ。