2025年6月19日木曜日

キプリアヌスの「教会の外に救いなし」の意味を調べる

キプリアヌス『偉大なる忍耐・書簡抄』(創文社)


【キプリアヌスの「教会の外に救いなし」の意味を調べる】

昨日(6月18日)、キプリアヌス『偉大なる忍耐・書簡抄』(創文社)が古書店から届く。第73書簡の「なぜなら教会の外に救いはないからである」(quia salus extra ecclesiam non est)の意味を調べたかったが、本『書簡抄』には全81書簡中5、8、52、54、56、57、77の計7書簡しかないことが分かった。

今日(6月19日)、キプリアヌスの「教会の外に救いなし」のテキストをドイツ語版でやっと見つけた。ドイツ語は責任を持てないが、要は「異端の洗礼もどきは洗礼ではないので、異端から教会への入会者に対して洗礼式を執行すべき」という話のようで、現代でも受け入れられているルールのように読める。

キプリアヌス『書簡集』第73書簡21(ドイツ語版)
https://bkv.unifr.ch/de/works/cpl-50/versions/briefe-bkv-8/divisions/421

初見の印象にすぎないが、この箇所にキプリアヌスが「教会の外に救いはないからである」(ドイツ語版 weil es außerhalb der Kirche kein Heil gibt)と書いているときの「教会」(der Kirche)は、父・子・聖霊なる三位一体の神への信仰を共有していない「異端」(der Ketzerei)の対義語である。

そして、この箇所全体(第73書簡21)でキプリアヌスが最も言おうとしていることが「異端から教会に来た方々には洗礼を受けていただかなくてはなりません」(Und darum müssen sich diejenigen taufen lassen, die von der Ketzerei zur Kirche kommen)であることは、ドイツ語が苦手な私でも分かる。

言い換えれば、キプリアヌスは「異端の洗礼の無効性」を語っているだけである。異端にだまされた人々にきっぱり手を切ることをすすめる流れといえる。それと、もしかして当時「教会の外に救いなし」という標語かことわざのようなものがすでにあって、それをひょいと持ち出しただけのような印象もある。

キプリアヌスの意図がかろうじて判明して、私は安堵している。西暦3世紀(200頃-259頃)の人が書いた「教会の外に救いはないからである」(quia salus extra ecclesiam non est)という一言が、文脈から切り離されて独り歩きし、時空のはざまを漂流し、1800年後の我々の心をざわつかせる。いろいろすごい。

2025年6月18日水曜日

まだ始まっていない

 【まだ始まっていない】

1999年に数名と立ち上げたファン・ルーラー研究会は2014年に解散した。オランダ語テキストに基づく研究を続けている方々の消息は不明。ファン・ルーラーは1908年に生まれ、1970年に62歳で亡くなった。我々が研究会を立ち上げた時点で彼のテキストはすべて完結していた、はずだったが、事情が変わった。

1970年12月以降、ファン・ルーラーの蔵書と未公開論文を彼の妻が保管していたが、1990年代にご子女がたがユトレヒト大学図書館と古書店へ譲渡・売却。未公開論文を多く含む『ファン・ルーラー著作集(Verzameld Werk)』の刊行開始が2007年。約10年で完結予定だったが、2025年現在いまだ完結していない。

ファン・ルーラーの「古い」著作集(Theologisch Werk)は全6巻で、出版は1969年から1973年まで。小規模ではないが網羅的でなく、読解において多くの想像力を必要とするものであった。それがどうだ。「新しい」著作集(Verzameld Werk)は超弩級。全7巻だが、分冊が多く、現在11冊。これでまだ続きがあるという。

ファン・ルーラー『神学著作集』(Theologisch Werk)全6巻(1969-1973)

ファン・ルーラー『著作集』(Verzameld Werk)全7巻(2007-現在刊行中)

今書いていることの趣旨は私の釈明である。「まだファン・ルーラー、ファン・ルーラー言っているのか」と私に面と向かって言う人はさすがにいない。しかし、そう思われている節はある。「まだ?いやいや、とんでもない。まだ言っているのか、ではなく、まだ始まっていない」とお答えしたい気持ちである。

しかしファン・ルーラーの「新しい」著作集のおかげで、ファン・ルーラー研究は飛躍的に前進した。想像力で補っていた部分が彼自身の字で説明され、整理されつつある。組織神学・教義学はOSでありプラットフォームなので、それ自体は面白くないかもしれないが、思想の自由空間が飛躍的に広がる。

「新約は旧約の巻末用語小辞典である」「キリストの贖罪は緊急措置であり間奏曲である」「終末においてキリストの受肉は解消される」などの発言で危険視されることも多かったファン・ルーラーだが、「新しい」著作集のおかげで、前後の文脈が解明されて来ている。嫉妬を受けやすい人気の神学者だった。

先週読んだばかりのファン・ルーラーの文章にボンヘッファーに対する敬意ある批判が記されていた。真の成熟は脱宗教ではなく、宗教を持つことこそ成熟であると。言えば言うほど不人気な言葉だっただろうし、その状況は今も変わらない。時代の流行に直角に逆らい、不人気な言葉を語れる勇気の人だったと言える。

私は自分が権威なき者なので、ファン・ルーラーの言葉の陰に隠れて支えてもらおうと考えて来たところがある。しかし、彼の敵があまりに多く、支えてもらうどころか、一緒に苦しむ場面が多かった。プラットフォームは使い倒すに限る。私自身が良い実を結ぶことで、彼の神学の使い勝手を証明するしかなさそうだ。

2025年6月16日月曜日

1890年の信仰告白を初めて読む

 【1890年の信仰告白を初めて読む】

旧日本基督教会の1890年の信仰告白を直視するのは初めて。日本基督教団信仰告白に似ているのだろうと予想していたが違う。気になる言葉遣いもある。なぜ「凡(おおよ)そ」なのか、なぜ「之(これ)」なのか。「之」が指すのは「イエス・キリスト」(之?)でいいのか「完全(まった)き犠牲」なのか。

「聖霊が(原文「は」)我等が魂にイエス・キリストを顕示す」が聖霊の内的証示(testimonium Spiritus sancti internum)を指しているのは分かる。失礼な発想かもしれないが、ひながたは何かを考えてしまう。1890年時点の旧日本基督教会にカール・バルト(1886-1968)の影響はありえない。バルト4歳。

「キリストに於(お)ける信仰」(?)も翻訳調を強く感じる。外部から持ち込まれたひながたの日本語訳だと言ってもらえれば納得するが、日本語としてこれで理解できた人は相当すごい。批判の意味で書いていない。日本基督教団信仰告白にはこの種の謎の要素は見当たらない。日本語としてこなれている。

2025年5月31日土曜日

ファン・ルーラーの予定論ノート(1941年)を読んでいる

 

ファン・ルーラー『著作集』(Verzameld Werk)第4A巻(2011年)


【ファン・ルーラーの予定論ノート(1941年)を読んでいる】

いま続けている日本基督教団信仰告白に基づく教理説教。次回は「神の恵み」。恵みの選びの教理、予定論。ファン・ルーラーの1941年の予定論が『著作集』4a巻(2011年)で世界初公開。オリジナルは全495頁の手書きノート。『著作集』で全250頁(本文184頁+校註66頁)。待望の一冊。それを読んでいる。

1941年といえば太平洋戦争の始まりの年。当時ファン・ルーラーはヒルファーサム教会牧師。ユトレヒト大学神学部教授になるのは1947年。同年、神学博士号請求論文提出。教会の牧師として働きながら博士論文を書き、予定論の巨大なノートを書きためていたことになる。そのノートをいま読むことができる。

ファン・ルーラーの予定論を私の説教にただちに反映できるかどうかは分からない。一方のカイパーとバーフィンクの「新カルヴァン主義」予定論と、他方のバルトの予定論の緊張関係が意識されている点はベルカウワーの予定論と共通している。予定論は私にとって最大の神学的関心事なので慎重でありたい。

余計なことかもしれないが、「予定論」を2、3行の文章で批判し、悪いほうのラベルを貼って片づける人たちが少なからずいる。そんな簡単な話ではないと思うが、その傾向は止まらない。なんとかしなければと長年頭を抱えて来たが、ファン・ルーラーの巨大な予定論を読めるようになったのは良い知らせ。

2025年5月22日木曜日

ファン・ルーラーは「ラテン型」贖罪論を選ぶ

聖書とアンセルムスとアウレンとファン・ルーラーの贖罪論を学んでいる
アンセルムス『クール・デウス・ホモ』岩波文庫版

【ファン・ルーラーは「ラテン型」贖罪論を選ぶ】

ファン・ルーラーの「イエスの苦しみの意味」(1956年)を読む。『著作集』4a巻収録。キリストの苦しみと死による救いは「何からの」救いかについて従来説を7つ挙げ、「答えが多様なのは、教会は飽くことなく問い続ける謎を扱っているからだ」と言う。並の勉強量の人には言えない言葉。公平かつ寛大。

ファン・ルーラー自身はアンセルムスの充足説に感謝すると言っている。それはグスタフ・アウレンの3類型の「古典型」でも「主観型」でもなく「ラテン型」の贖罪論だが、ファン・ルーラーとしては改革派教会信仰告白諸文書が「ラテン型」贖罪論に基づいていることも、それを選ぶ理由の中に挙げている。

罪(zonde ゾンデ)を負い目ないし罪悪感(schuld スフルト)としてとらえるのがファン・ルーラー神学の特徴。新共同訳聖書で主の祈り(マタイ6:12、ルカ11:4)が「負い目」。オランダ語聖書でマタイ6:12はschuld。キリストの贖罪で我々から取り除かれるのはschuldであるとファン・ルーラーは考えた。

キリストの贖罪によって「負い目」(schuld)を取り除かれた我々は 「ふつうの地上の世間の生」(het gewone aardse, wereldse leven)に戻される。より高次元の超自然性は追加されず、負い目を取り除かれるだけなので、新しい一日を白紙の状態から始めようではないかとファン・ルーラーは呼びかける。

グスタフ・アウレンの『勝利者キリスト』(原著1931年)の英語版(1961年)と日本語版(1982年)も読み返している。アウレンはルーテル教会の立場からアンセルムスから改革派教会にうけつがれた「ラテン型」贖罪論を批判。どの立場を選ぶかは最終的には各自に任されているとしか私には言いようがない。

2025年5月16日金曜日

当ブログ「説教」アクセスランキング

当ブログ「説教」アクセスランキングを作りました。「関心を持たれた」というより「心配された」に近そうですし、桜美林大、東京女子大等ビッグネームや、著名な教会に助けていただきましたが、私生活丸出しのほうがアクセスが多いです。応援いただきたくお願いいたします。


第1位 「私は福音を恥としない」

聖書 ローマの信徒への手紙1章16~17節 

日付 2018年3月18日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/03/18.html


第2位 「どうすれば親孝行できるか」

聖書 ルカによる福音書16章27~31節

日付 2018年6月20日(水)

場所 桜美林大学(東京都町田市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/06/20obirin.html


第3位 「ツルになりたかった牧師」

聖書 コリントの信徒への手紙一1章18~25節

日付 2018年7月22日(日)

場所 日本基督教団王子北教会(東京都北区)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/07/22.html


第4位 「信仰が与えられる」

聖書 ローマの信徒への手紙4章1~12節

日付 2018年6月10日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/06/10.html


第5位 「どうすれば天国に行けるか」

聖書 ルカによる福音書14章21~24節

日付 2018年6月18日(月)

場所 東京女子大学(東京都杉並区)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/06/18twcu.html


第6位 「大いなる光キリストの誕生」

聖書 ルカによる福音書2章1~14節

日付 2017年12月24日(日)

場所 日本基督教団上総大原教会(千葉県いすみ市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2017/12/24.html


第7位 「敵を愛しなさい」

聖書 マタイによる福音書5章43~48節

日付 2018年8月19日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/08/19.html


第8位 「天国と十字架」

聖書 マタイによる福音書20章1~19節

日付 2018年1月28日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/01/28.html


第9位 「信仰の力」

聖書 ローマの信徒への手紙1章8~15節

日付 2018年2月18日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/02/18.html


第10位 「罪人を招く」

聖書 マタイによる福音書9章9~13節

日付 2018年9月23日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/09/23.html

(2025年5月16日現在)

2025年5月11日日曜日

聖書と生活

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教 「聖書と生活」

テモテへの手紙二4章1~8節

関口 康

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(2節)

「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」(日本基督教団信仰告白)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」の2回目です。私は1冊の本を書こうとしているわけではありません。教会ブログで公開しているのは説教原稿です。実際の礼拝では、もっと多くのことをお話ししています。礼拝に来てくださっている方々にご理解いただけば、目標達成です。ご意見があればぜひご来会ください。お待ちしております。

前回から「聖書とは何か」についてお話ししています。ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の文章を参考にしつつ、聖書が「ユダヤ人によって書かれた書物」であることが「外部の真理」であることを意味し、聖書の教えを受け入れることが過去の歩みとは異なる方向への「転換」をもたらし、「回心」をもたらすということをお話ししました。

今日は前回の続きです。今日取り上げるのは「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」という条文です。聖書の霊感(れいかん)の教理と言います。

証拠聖句はテモテへの手紙二3章16節「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」です。「霊感」と聞くと「霊感商法」を連想する人が多い時代になりました。しかし「霊感」とはインスパイア(inspire)のことです。名詞形はインスピレーション(inspiration)です。ごく普通の文脈で用いられています。

聖書が「神の霊感によって成った」とは「神の霊」すなわち「聖霊」の導きの下に100パーセント人間によって書かれたことを意味します。それ以外の意味はありません。

「神の霊は、神ご自身ではない」と考えられることもありますが、それは誤解です。神の中から噴き出した気体(?)や、流れ出た液体(?)のようなものを想像するのは間違いです。

次回は三位一体の神について学びます。「神の霊」は「父、子、聖霊なる三位一体の神」としての「聖霊」ですので、端的に「神」(God)です。聖書の霊感の教理も、「聖書は〝聖霊なる神〟の導きによって(人間によって)書かれた」と言っているだけです。

ですから、この教えは決して難しい話ではありません。むしろ、すっきりした気持ちになれるほど、聖書は100パーセント人間によって書かれた書物であると、何の躊躇もなく説明することができます。そこに魔術の要素はありません。

「その説明で大丈夫ですか。我々が今まで教えられてきたことと違うのですが」とお思いの方がおられるでしょうか。「聖書は神さまが書いたものであって、人間が書いたものではない」でしょうか。この「聖書は人間によって書かれたものではない」という考え方は、私は最も危険だと考えています。

ある朝、マタイは目を覚ましました。すると、机の上にイエス・キリストの生涯を描く福音書が置いてありました。パウロも目を覚ましたら、同じように、いろんな教会や個人に宛てた手紙が机の上に置いてありました。しかし、彼らにはそれを書いた記憶がありません。彼らが寝ている間に、意識を失っている間に、聖書のすべてが書かれましたというようなことは起こりませんでした。それはオカルトの世界です。

聖霊なる神は、人間の中で、人間と共に、人間を活かし用いて、働いてくださいます。人間の理性も感情も判断力も、人間の真・善・美も、活かされたままです。聖霊はわたしたちの身代わりに死んでくださることはないし、私たちの身代わりに聖書を書いてくださったりもしません。聖霊が働いてくださっている間、人間は眠っているわけではないし、気絶しているわけでもないし、サボっているわけでもないのです。その点を間違うと、全キリスト教がオカルト化します。

そういうことではなく、聖書の霊感の教理は、(三位一体の)聖霊なる神ご自身が私たち人間に接触し、私たち人間へと影響・感化を及ぼし、浸透し(沁みていき)、私たち人間に感銘・感動を与えてくださる過程を経て「インスパイア」された人間が聖書を記した、と言っています。

しかし、そこでストップです。神は聖書の著者の人間性も歴史性も排除しません。そこでもし人間性の排除が起こるなら、それを「洗脳」というのです。私たちが聖書を読むときに、当時の歴史について調べたり考えたりする必要があるのは、聖書は100パーセント人間が書いた書物だからです。

日本基督教団信仰告白が聖書について書いている「誤りなき規範」の「誤りなき」の意味は、「無謬性」(インフォーリビリティ:Infallibility)のことだと考えるのが妥当です。「無謬性」は「無誤性」(インエランシー:inerrancy)との比較で考えるのが理解しやすいです。

インフォーリビリティ(無謬であること)は「フォール(堕落)していない」という意味です。インエランシーは「エラー(誤記)がない」という意味です。日本基督教団信仰告白が肯定しているのは前者(「聖書は堕落していない」)のほうであって、後者(「聖書は誤記がない」)のほうではありません。

聖書に「誤記」はあります。しかし、「堕落していない」とは「神のみこころにかなっている」ということです。その意味は、聖書に記された言葉を読んで、その教えを信じたとしても、その教えに基づいて生活したとしても、それによって罪を犯すことにはならないので大丈夫です、ということです。

だからこそ、聖書は「信仰と生活の誤りなき規準」なのです。

(2025年5月11日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年5月10日土曜日

誇る者は主を誇れ

松戸朝祷会(カトリック松戸教会 千葉県松戸市松戸1126)

教会堂外見
礼拝堂
マリア像
朝祷会讃美選集

奨励「誇る者は主を誇れ」

コリントの信徒への手紙二10章12~18節

関口 康

「誇る者は主を誇れ」(17節)

過去の記録を調べたところ、松戸朝祷会で奨励させていただくのは3回目であることが分かりました。最初は2014年12月6日、2回目は2016年6月4日、そして今日です。9年ぶりです。

最初の私は千葉県松戸市民でした。2回目の私は千葉県柏市民でした。そして3回目の今日は東京都足立区民です。

短期間に目まぐるしく移動したのは、教団の指示で動いた、というようなことではありません(そのような指示を出す仕組みは日本基督教団にはありません)。悪い意味で私がどこに行ってもうまく行かず、転々としてきました。

前回お話しさせていただいた2016年の翌年、2017年の私は無職でした。ハローワーク松戸に1年間通いました。翌年の2018年4月から昨年2024年2月まで、東京都昭島市の教会の牧師でした。その最初の1年間は、牧師をしながらアマゾンの倉庫で週30時間の肉体労働のアルバイトをしました。

翌年(2019年度)から2013年度までの5年間は、やはり牧師を続けながら、東京都東村山市にある学校で非常勤講師(聖書科)をしました。2020年度から2年間は、昭島教会牧師も東村山の学校も続けながら、神奈川県茅ヶ崎市にある学校でも非常勤講師をしました。当時は、東村山に週2日、茅ヶ崎に週2日、計4日、牧師が週日に教会を不在にしました。

茅ヶ崎に通った2年間は、最初の頃は電車、途中から原付バイクで通勤しました。片道70キロ。原付バイクで2時間半から3時間。朝4時半ごろ昭島教会を出発して、午前7時ごろ湘南海岸に到着し、昇ったばかりの太陽を見つめていました。

すべては生活のため。食べるため。子どもたちの教育のため。俗臭芬々(ぞくしゅうふんぷん)に違いありませんが、それが私の現実でした。

先ほど朗読していただいた聖書箇所は使徒パウロの手紙の一節です。注目していただきたいのは12節です。

「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」(12節)。

12節に言葉遊びがあると解説する註解書を読みました。日本語訳で読んでも分かりませんが、ギリシア語から直訳すると「自分たちを(エアウトゥース)他の人々(ティシン)に推薦する(スニステーミ)人々は、自分たちに(エアウトイス)自分たちを(エアウトゥース)比較しているので、そんな人たちの計測(メトレオー)や比較(スンクリノー)の中に自分(パウロ)たち(エアウトゥース)を置くのは無意味(ウー・スニエーミ)である」となります。

自分たちが有利になるように決めた評価規準で自分たちを測って「私は優秀である」と誇っているような人たちの中に入って、その人たちの評価基準で評価してもらうことには意味がない、ということです。

どの評価規準であれ、それを決めるのは権力を持っている人たちです。今の国や社会で言えば税金とか、学校の偏差値とか、学費とか。そういうものを決める人たち自身が不利になるような規準をその人たち自身が決めるわけがないので、巻き込まれた時点で初めから負けているということです。

私も学校で働いたときは、授業だけでなくテストをして成績を出さなくてはならなかったので、そのときは評価する側にいました。テストは成績上位者と下位者がくっきり識別できるような問題を出さなければならないことが(文部科学省の指導で)決まっているので、いやでも応でも、そういう問題をつくらざるをえませんでした。パウロが書いていることは事実です。

イエス・キリストの教会には、別の評価規準があります。「私は何々大学の出身で、一流会社に就職し、財をなし、広い家を建て、家族に恵まれ、幸せな生活をしております」と誇る人が悪いとは言いません。しかし、パウロはそのようなこととは全く違うことを言いはじめます。どちらを選ぶかは、自分で決めるしかありません。

たとえばこの手紙の11章26節以下には、パウロ自身が受けた「難」がたくさん紹介されています。

「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともある」。

パウロは、自分の弱さや、ダメだったことや、苦しかったことを誇ります。パウロが言おうとしていることの中心にあるのは、「誇る者は主を誇れ」(17節)ということです。

私もそうだと申し上げたいです。良かったことはなく、ダメだったことばかりです。しかし、こんなに弱くてダメな私を神が用いて、神のみわざとしての「神の宣教」(ミッシオ・デイ)を進めてくださっていることを、私は誇ります。

弱くてダメな私ですが、これからも松戸朝祷会の仲間に加えていただきたく、よろしくお願いいたします。

(2025年5月10日 松戸朝祷会 於 カトリック松戸教会)

2025年5月9日金曜日

信仰とは何か

日本基督教団東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会
(日本基督教団信濃町教会 東京都新宿区信濃町30番地)

教会堂外見
礼拝堂前方
礼拝堂後方
集会案内板

奨励「信仰とは何か」

マタイによる福音書8章5~13節

関口 康

「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10節)

この聖書箇所を選んだことに特別な意図はありません。日本基督教団聖書日課『日毎の糧』の今日の箇所を参考にしました。ただし、それはヨハネの並行記事で、話しにくさを感じましたので、マタイに変更しました。

「これは史実でない」と『NTD新約聖書註解』マタイの著者、エドゥアルト・シュヴァイツァー教授(Eduard Schweizer [1913-2006])が書いておられます。しかしそのシュヴァイツァー先生も、8節から10節までの主イエスと百人隊長の対話の部分は「Q資料」にあっただろうと認めておられますので、そこだけは歴史的な根拠があると堂々と言ってよさそうです。

イエス・キリストがガリラヤ湖畔の町カファルナウムにおられたとき、「百人隊長」が近づいてきました。「百人隊長」は古代ローマ軍の職名ですが、ローマ人だったとは限りません。ひとつの可能性として言われているのは、異邦人の傭兵だったのではないかということです。

マタイ福音書では、その人自身が主イエスのもとに行き、「僕」のために助けを求めています。マタイが「僕」という意味で用いているギリシア語「パイス」は、ルカの並行記事(7章1~10節)では「ドゥーロス」です。「ドゥーロス」はあからさまに「奴隷」です。しかし「パイス」は自分の子どものように愛する対象を意味します。その事実を活かし、聖書協会共同訳(以下「SKK訳」)は「子」と訳しています。

百人隊長のパイス(自分の子どものように愛していた僕)は、新共同訳では「中風」(SKK訳「麻痺」)を起こし、家で寝込んで(SKK訳「倒れて」)ひどく苦しんでいました。そのことを百人隊長自身が主イエスに伝え、助けを求めました。

その願いを受けて、主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」と応じてくださる姿勢を表してくださいました。しかし、J. M. ロビンソンのQ資料研究書『イエスの福音』(加山久夫、中野実訳、新教出版社、2020年)によると、主イエスの「わたしが行って、いやしてあげよう」(7節)は、Q資料では「わたしが行って、彼をいやすのか?」という拒否反応でした。それを17世紀の英語聖書(1611年刊行のキング・ジェームズ・ヴァージョン)が肯定的な反応のように訳したことで、意味が逆転してしまいました(ロビンソン、141頁以下)。

しかし、新共同訳聖書どおりだと主イエスは好意的な反応を示されましたが、それを百人隊長が断ります(8節)。このときの百人隊長の返事の中に、彼の《信仰》が明確に表現されました。

百人隊長は言いました。

「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕(パイス。SKK訳「子」)はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下(ドゥーロス。SKK訳「僕」)に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(8~9節)。

百人隊長の言葉に主イエスは感心し(SKK訳「驚き」)、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10節)と評価されました。そして主イエスが百人隊長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」とおっしゃったら、ちょうどそのとき、僕(パイス。SKK訳「子」)の病気がいやされました(13節)。

* * *

さて、問題です。主イエスは、百人隊長の返事のどの点を評価なさったのでしょうか。

この答えが分かれば、私たちも同じように言えば、イエスさまからほめていただけるでしょう。主イエスが称賛するほどの模範的な《信仰》があるならば、全キリスト教に影響するでしょう。

第一の可能性は、主イエスが軍隊調の命令と服従の関係で信仰をとらえ、百人隊長がそのような《信仰》を持っていることが分かったので高く評価された、というとらえ方です。

これは私が思いつくかぎりの最悪の可能性です。手と指を前にまっすぐ突き出すナチス式敬礼は、古代ローマ軍の敬礼から受け継いだとナチスが主張しました。そういうことをこの百人隊長もしていたと思います。あれでいいでしょうか。

第二の可能性は、ひとつの註解書に記されていたことです。Fernheilung(フェルンハイルンク)をどのように訳せばよいでしょうか。「遠隔治療」でしょうか。言葉を発するだけで、祈るだけで、遠くの人の病気が治る。そのような《信仰》を百人隊長が持っていることをイエスが高く評価なさった、という説明です。ユダヤ教のタルムードに「遠隔治療」の類似例があるそうです。

厚生労働省のホームページに「遠隔医療(リモート医療)」についての説明があることを知りました。医療の現場ではそういうのが日進月歩で進んでいるようです。しかし、インターネットは電気信号です。きわめて物理的な手段です。何の物理的な媒体もないわけではありません。

教会はどうでしょうか。「出会い」や「ふれあい」は教会に無くてはならないものでしょうか。「握手」や「ハグ」が必要でしょうか。体に触らないと「愛」が伝わらないでしょうか。

もし皆さんの中にそういうことをなさっている教会の方がおられるとしたら申し訳ありませんが、私はそういうのが苦手です。私はだれにも触りません。私は「非接触牧師」です。

しかし、そういう私も、教会員のお宅や病床には可能なかぎり訪問したいと考えています。対外的な働きが続いたりすると、訪問がおろそかになって心苦しいです。

ですから、今日の箇所を「リモートワーク」の話としてとらえてよければ、私は救われた気持ちになります。「うちに来ないでください。祈ってくださるだけで結構です」とか「すべてリモートで大丈夫です」と言ってもらえれば、気がラクになります。これでよろしいでしょうか。

第三の可能性は、私にとって最も納得できる説明です。それは最初にご紹介したエドゥアルト・シュヴァイツァー教授の説明です。次のように記されています。

「いずれにしてもここには(中略)神の行動をあてにしている信仰がはっきりと現れている」(281頁)。

シュヴァイツァー先生のおっしゃるとおりです。《信仰》とは「神を信じること」です。そして「神の行動をあてにすること」です。シンプルですが、ベストの答えです。

「ミッシオ・デイ」(神の宣教)も、「神の行動」を信じることにおいて、今申し上げていることと趣旨は同じです。そもそも「宣教」は神ご自身のみわざなのであって、人間の働きではありません。

「ミッシオ・デイ」(神の宣教)を悪く言う論調に接しました。なぜそういうことを言うのか、私は理解に苦しみます。

そもそも皆さんは「神」を信じていますか。このような失礼なことを、あえて問わなくてはなりません。

「神を信じる」と言いながら、いつのまにか「私」や「私たち」や「自分の教会」の努力をそのように呼んでいるだけになっていませんか。だからこそ、自分の働きを認めてもらえないという不満の理由になったりしていませんか。「神のみわざ」は人間の手柄ではありません。

シュヴァイツァー先生の説明には、続きがあります。

「この物語は(中略)決して自分の力で獲得したのではない、ないしは、それを自分の力で獲得することはできないと知っているものに対して救いを開く」(254頁)。

百人隊長は、自分の子どものように愛する僕(パイス)の病気を自分の力では治してあげることができないことを悟り、自分の無力さに打ちのめされ、人間になしえないことをなさる「神」を信じました。

これが《信仰》です。

(2025年5月9日 東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会、於 日本基督教団信濃町教会)

2025年5月4日日曜日

聖書と教会

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「聖書と教会」

テモテへの手紙二3章10~17節

関口 康

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)

「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」(日本基督教団信仰告白)

今日から「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」を始めます。全10回の予定です。

私は昨年3月より足立梅田教会にいます。これまでは基本的に「教会暦説教」をしてきました。聖書箇所も日本基督教団聖書日課『日毎の糧』から選んできました。

「教会暦説教」には長所と短所があります。長所はクリスマス、イースター、ペンテコステなどの行事に合わせた説教ができることです。短所は毎年同じ話になりがちなことです。出口がない円をぐるぐる回っている感じです。

「教理説教」には出口があります。聖書の教えを歴史的な順序で説明しますので、「初め」も「終わり」もあるからです。ただし、それは現代的な意味の「歴史」とは異なります。私たちの場合は「天地創造」(創造論)から「神の国の完成」(終末論)までを描く「神のみわざの歴史」です。

「抽象論だ」「おとぎ話だ」と日本に限らず世界中で嘲笑を受けて来ました。このことについては実際の説教を聞いていただかないかぎり理解してもらえませんので、これ以上は言いません。

日本基督教団信仰告白が「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は」から始まり、「聖書とは何か」という問いに答えることから出発しているのは、わたしたちがかくかくしかじかのことを信じると言っているのは、そのように聖書に書かれているからであると述べようとしています。

「あなたたちは聖書に書かれていることを全部信じるというのか。たくさん間違いがあることは学問的に証明されている」と言われます。おっしゃるとおりと思いますが、問題は何をもって「間違い」と言うかです。現代の科学技術を駆使した歴史学や考古学の観点から矛盾や間違いを指摘されるのはありがたいことです。だからといって信じることをやめるかどうかはダイレクトに結びつきません。

日本基督教団信仰告白の「旧新約聖書は(中略)教会の拠るべき唯一の正典なり」の「正典」は、一般的に言えば「経典」ですが、わざわざ「正典」と呼ぶのはCanonという決まった用語の翻訳だからです。Canonは「はかり、物差し、規準」などの意味です。

したがって、この条文の意味は、日本基督教団は「聖書というはかり」に収まる範囲のキリスト教信仰を共有しているということです。この「はかり」を超えて主張されることになれば、異端または別の宗教であると判定せざるをえないということです。

20世紀オランダのプロテスタント神学者ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が聖書について述べた複数の文章が『ファン・ルーラー著作集』第2巻(原著オランダ語版、2008年)に収録されていることが分かりました。「聖書の権威と信仰の確かさ」(1935年)、「信仰の土台としての聖書」(1941年頃)、「聖書の権威と教会」(1968年)、「聖書の扱い方」(1970年)など。

これらのファン・ルーラーの文章すべてに一貫していたのが「私たちは聖書に書かれていることだから信じている」という主張の線です。また「聖書の権威」と「信仰の確かさ」は両方あって初めて成り立つ、ということも繰り返し主張されていました。

たとえば、創世記3章にエバと蛇が会話する場面が出てきます。民数記22章にはバラムがロバと会話する場面が出てきます。こういう箇所を読んで「蛇やロバが人間と会話できるはずがない。聖書に書かれていることはウソばかりだ」と言い出すのは聖書の本質が分かっていないからだとファン・ルーラーは言います。「聖書」には、歴史、文学、書簡、詩歌など、さまざまな文学形式で記されている文書が収められています。

また、ファン・ルーラーが書いていることの中でこのたび私が最も感銘を受けたのは、〝聖書がユダヤ人によって書かれたものであることは、私たちゲルマン人にとって、自分たちの内側には真理が無かったことを意味する〟と彼が主張しているくだりです。

以下、ファン・ルーラーの説明を要約してご紹介いたします。

本など他にもたくさんあるのに、聖書を「本の中の本」と呼ぶのはなぜだろう。古い本を読んで我々ゲルマン人の魂の本質を知りたいだけなら、ヴァイキング時代を描いた北欧神話『エッダ』に手を伸ばすほうがよいのではないかと思うのに、そうしないで聖書を読もうとすることに、我々はもっと違和感を抱くべきであるとファン・ルーラーは言います。あまりに慣れすぎて我々はその違和感を認識できないのだ、と。

我々ゲルマン人が「外部からもたらされた救い」によって「改宗」したのは「クローヴィス」の頃だと書いています。それはフランク国王クローヴィス1世(西暦466~511年)が、妻のひとりがキリスト者だったことで自分自身も西暦496年にキリスト教に改宗したことを指しています。

その「クローヴィスの改宗」こそ、ゲルマン人にとっての「転換」であり、最も深い自己意識と決別したことを意味する。それは「いまだに完全には癒えていない我々の魂の傷」であり、だからこそ「国家社会主義〔ナチス〕はその転換を覆そうとしたし、現代の西洋社会はその転換を超克したいと望んでいる」とファン・ルーラーが書いています(「聖書の扱い方」1970年参照)。

ファン・ルーラーの文章を読んで私が考えさせられたのは、1549年フランシスコ・ザビエル来日から476年、ベッテルハイム宣教師の沖縄伝道開始1846年から179年、ヘボン、ブラウン両宣教師の横浜到着1859年から166年を経ても日本の大半の人々に「転換」が起こらないのは、「外部の真理」によって転換させられることを恐れているからだ、ということです。

今申し上げたことは、日本基督教団信仰告白に明記されていません。しかし「聖書」は「日本にとっての外部の真理」であるという点が勘案されるべきです。そのことが認識されないかぎり「改宗」が起こることはありません。私の父も母も戦後に洗礼を受けてキリスト者になりました。1945年の敗戦という事実を突きつけられて「我々の内側には真理は無かった」と思い知らされたからだと思います。

「外部から持ち込まれた真理」によって、まず自分自身が変えられ、それを広く宣べ伝えるのが「教会」ですから、「身内で固まりたい人たち」や「民族主義的な人たち」からは嫌われます。違和感を示されることが多いです。

だからこそ逆に、教会は「身内で固まりたい人たち」や「民族主義的な人たち」から排除された人たちにとっての「避けどころ」(シェルター)や「出口」になり、そこに新しい共同体が生まれます。「日本人」という概念の今日的な意味は、少なくとも私には明確には分かりません。

「キリスト教は敵国の宗教だ」と言われた時期が長かったと思います。しかし、キリスト教の起源は、アメリカでもヨーロッパでもなく、アジアです。

オランダ人のファン・ルーラーが1970年の時点で「聖書」は「外部の真理」だと言っているのですから、私が申していることも「今この瞬間に日本列島に在住している私たち」にとってだけ「外部」だという意味ではありません。実はユダヤ人にとっても「外部」でした。究極的には神ご自身が人間にとっての「外部」です。「改宗」のために「外部の真理」が必要なのです。

(2025年5月4日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年5月1日木曜日

翼は両方広げて初めて飛べる

「部屋がきれいで、板書が得意で、大型バイクで移動し、自炊まで得意な牧師」を
ChatGPTが想像で描いてくれました

【翼は両方広げて初めて飛べる】

同じことを繰り返す。今年の秋に60歳になる私の中に、牧師の70歳定年制(75歳までは毎年中会で延長願を承認してもらう形で同一教会で職務継続が可能)がある改革派教会にいた頃の感覚がまだ残っていて、「あと15年」のカウントダウンを始める時期にあると自覚しているが、坦々と行くとは全く思えない。

「転々としてきた」ことが悪いことかのように言われた時期があった気がするが、いまそんなことを言うと多くの牧師に当てはまるので、堂々としているほうが同じ苦労を味わってきた仲間を励ます意味になるだろう。グループ人事や世襲の牧師がたをとやかく言うつもりはないが、無所属の自由は価値がある。

私に面と向かって「お前は右なのか左なのか」と問うた人はたしか1人もいない。知り合う前から「どうせM78星雲から来たのだろう」的に色づけられていたことは何度かあるが、知り合えば偏見だったとすぐ分かってもらえる。翼は右だけとか左だけ広げるものではない。翼は右左両方広げて初めて飛べるのだ。

感謝なことは、なろうとしたものになっていると思えることだ。1983年8月、高3の夏休みに所属教会の牧師に「教会のトイレ掃除のような仕事に就きたいです」と打ち明けた。本気で言った。「だったら牧師になりたまえ」と返って来た。「ただし、よく考えてから」といったん帰された。その点は尊敬できる。

職に困った時期にアマゾンで片づけ方、学校で板書を覚えた。単身赴任で大型バイク乗りになり、自炊まで得意になった。部屋がきれいで、板書が得意で、大型バイクで移動し、自炊まで得意な牧師になれた。「加速装置と勇気だけだ」と島村ジョーのように言える。妻子も元気。これ以上求めるものは特にない。

2025年4月30日水曜日

私の蔵書

私の書庫をChatGPTにフェルメール風に描いてもらいました。
あながち虚構ではありません。


【私の蔵書】

蔵書は趣味ではなく、実際に必要。註解書に引用される参考文献だけでも、と買ってきたが、道なお遠し。『使徒教父文書』は不所持だったが、教会の書架で見つけた。『古代教父著作集』も、『アウグスティヌス著作集』も、トマス・アクィナス『神学大全』も、『キリスト教神秘主義著作集』も、少しは所持しているが揃わない。

『宗教改革著作集』は半分ぐらい。ルターは英語版著作集をパーフェクトではないが1セットどっさり譲り受けたのと、日本語版も第1集は揃えたが、第2集はちょっとだけ。カルヴァンは改革派教会の教師時代にそれなりに揃えたが、きりがない。オランダ語版『キリスト教綱要』を所持していることは自慢したい。

このたび『改革派教会信仰告白集』を譲り受けたことは歓喜の極み。16・17世紀の改革派神学、特にアルミニウス論争やオランダの「第二次宗教改革」あたりは、私にとってかなり前からファン・ルーラーの次ぐらいに関心がある分野なので強化を望んでいた。ウェスレーは『日記』と『著作集』を持っている。

19・20世紀の現代神学は主専攻でもあり、蔵書の中で占める割合が最も多い。オランダのカイパー、バーフィンク、ベルカウワー、そしてファン・ルーラー。ドイツ及びドイツ語圏のトレルチ、ブルンナー、ティリッヒ、バルト、ボンヘッファー、モルトマン、ゼレ。ハンス・キュンクの本も大量に譲り受けた。

哲学書や歴史書はなるべく所持したいが、独学で理解できるほど甘くない。プラトン、アリストテレス両著作集は譲り受けた。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は無理して揃えた。カントは著作集は不所持。ヘーゲルは古い著作集だが揃っていない。文学の著作集はドストエフスキー、太宰治。あとは文庫版や小冊子。

転任のたびに蔵書を減らしたいと願うが、いっこうに減らず、ますます増える。最初に書いたとおり、註解書に引用される文献だけでも、と本を買い集めて来た。毎週の説教は待ったなし。私の「クラウド」が常に手元にないと仕事にならない。雲(クラウド)のような先人がたの知恵を「秒で」拝借できる。

いま強化したがっているのはジャック・デリダ。何度も読み返したのは『ヘーゲルの時代』(白井健三郎訳、国文社、新装版1984年)。他のデリダの本は独学では歯が立たないが、好きなタイプなので、せめて日本語版を揃えたい。こういう考え方自体をやめないかぎり蔵書は減らない。「やめとけ」という。

2025年4月27日日曜日

復活と宣教

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「復活と宣教」

マタイによる福音書28章11~29節

関口 康

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19-20節)

復活したイエス・キリストを目撃した婦人たちは他の弟子たちに報告するため、また同じ光景を見たローマ兵たちは祭司長たちに報告するため、どちらもエルサレムに向かいました(11節)。

報告を聞いた祭司長たちは、長老たちと相談して兵士たちに多額の金を与えました(12節)。最高法院(サンヘドリン)の人々が賄賂を使い、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」とローマ兵たちに言わせました。

祭司長たちが言った「もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」(14節)の意味は次のとおりです。見張番の居眠りは重罪でした。通常なら処刑です。しかし、ユダヤ人からの委託任務に就いていただけの兵士を処刑するわけにいかないとピラトならきっと考えるだろうから、うまく交渉してあげるという理屈です。

兵士たちは金を受け取って「教えられたとおりにした」(15節)は「学ぶ」(ディダスケイン)を意味する動詞(エディダクセーサン)です。これは軽蔑の表現であるという解説を読みました。兵士たちは、自分たちより上位の人の命令を復唱し、「学習した」(ディダスケイン)のです。

「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」(15節)の「今日」はマタイ福音書が記された紀元1世紀後半を指します。

古代教父ユスティノス(紀元100年頃~164年頃)の著作『ユダヤ人トリュフォンとの対話』(全142章)(西暦155年頃)「序論」(1~10章)の一部(1~9章)の日本語版(三小田敏雄訳)があります(『キリスト教教父著作集Ⅰ ユスティノス』教文館、1992年、197~269頁)。

残念ながらまだ日本語版がない69章7節に、ユダヤ人はイエスを「魔術師」で「詐欺師」であると考えていたと記されています(訳者解説、同上書252頁参照)。

また「弟子たちはイエスが十字架から降ろされた後、夜中に墓に埋められていた彼を盗み出し、『イエスが死から蘇って、天に昇った』と言って人々を騙した」(同108章2節)と紀元2世紀のユダヤ人たちがイエスについて言い伝えていたことを、ユスティノスが証言しています(J. T. Nielsen, Mattheüs, deel 3, G. F. Callenbach, 1974, p. 186)。

2 世紀半ばの外典『ペトロによる福音書』(『聖書の世界 別巻3・新約Ⅰ 新約聖書外典』講談社(1974年)収録)にも興味深い記述があります。以下、引用します。

「夜中に、兵隊が二人ずつ当番で夜警をしていると、天で大きな声がした。そして天が開いて、二人の人がそこから降りて来るのが見えた。彼らは強く輝いていた。そして墓に近づいて来た。すると墓の入口においてあった石がおのずと転がりはじめて、何ほどか脇に退いた。こうして墓が開き、二人の若者は中にはいって行った。 

(見張番の)兵隊はこれを見て、百卒長と長老達を起こした。彼らもまた見張のためにそこに一緒にいたのである。兵隊達が見たことを彼らに話しているうちに、また墓から、今度は三人の人が出て来るのが見えた。そのうちの二人が一人を支え、そのあとから十字架がついて来た。二人の頭は天までとどき、二人が手を引いている三人目の人の頭は天をつきぬけていた。 

そして天から声が聞こえた、『あなたは(冥府で)眠っている人々にも宣教しましたか』。すると十字架が答えて、『はい』と言うのが聞こえた。彼らは互いに、ピラトのもとに行ってこれらのことを報告しよう、と相談しあった。そしてまだ相談しているうちに、再び天が開け、一人の人が降りて来て、墓の中にはいった。 

百卒長と共にいた者達はこれを見、夜ではあったが、見張っていた墓をあとにして、急いでピラトのもとに行き、見たことを一切報告した。そして大いにこわがって、『本当にあれは神の子だった』と言った。 

ピラトは答えて言った。『余は神の子の血には責任はない。それはお前達がよしとしていたことだ』。 

そこで彼ら(ユダヤ人の長老たち)は皆すすみ出て、ピラトに、見たことを一切人に話さないようにと百卒長と兵隊達に命じてくれ、と頼んで、言うには、『我々には神の前で最大の罪を負う方がまだよいので、(神の子の復活を認めたりして)ユダヤ国民の手に落ち、(彼らのうらみを買って)石で打ち殺されたりはしたくない』。それでピラトは百卒長と兵隊とに、何も言わないように命じた」(田川建三訳、同上書40~41頁)。

「どちらが正しいかは分かりません」と大学の聖書学者やキリスト教学者のような人は言うかもしれません。しかし、教会の私たちはそういう言い方はしません。イエスさまが「どのように」復活したかは聖書に記されていません。しかし、復活したことは明言されています。

イスカリオテのユダ以外の11人の弟子たちは、天使と主イエスご自身が促した通り「ガリラヤ」に行き、「山」に登りました(16節)。

この山を地理的に特定するのは、観光目的以外は無意味です。「山上の説教」(マタイ5~7章)に見られるように、イエス・キリストが登る「山」には特別な意味があります。「ガリラヤの山」は、これから宣教へと遣わされる世界を見渡せるどこかです。「世界宣教の原点」です。

「そしてイエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)と記されています。この「疑う者」は誰でしょうか。これは弟子たちの中の「だれか」というより「弟子たち全員」です。信仰と疑いはコインの両面です。どの弟子も、わたしたちも、疑いと迷いの中で主イエスの存在と教えに従って生きていきます。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)。これは荒れ野の誘惑のときサタンが、もし私にひれ伏すならお前に与えようと言ったものです(4章8節)。イエスさまは悪と手を結ぶことなく、父なる神から一切の権能を授かりました。

イエスさまは「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と彼らにお命じになりました(13節)。

「すべての民」とは「ユダヤ人」+「異邦人(=ユダヤ人ではない人)」を合わせた「すべて」のことであって、全人口を指していません。

そして「弟子にしなさい」の中身が「洗礼を授けなさい」(バプティゾンテス)と「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい(ディダスコンテス)」の2つです。

この「教えなさい」は、番兵たちが賄賂をもらって「学習した(ディダスケイン)」と同じ言葉ですが、中身は大違いです。

「洗礼」は教会の仲間に加わることの約束です。「約束にすぎない」と言えなくはありません。洗礼はいわば瞬間的なことです。洗礼の後に続く「学ぶこと、教えること」は一生がかりです。

「学ぶこと」は「守ること」を求めます。「知識はありますが、守ったことがありません」というわけに行きません。「教えを守る」とはイエスさまの教えを実践し、生活することです。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(30節)という言葉で、本書は締めくくられています。

マタイによる福音書には最初(1章23節)と最後(28章30節)に「インマヌエル」が語られています。「神がわたしたちと共にいる」という意味です。

それが「世の終わりまで」続きます。終わりがいつかは分かりません。しかし、私たちの救い主は、世界が終わるまで、いつも近くにいて、慰めと力を与えてくださいます。

(2025年4月27日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年4月25日金曜日

拙ブログ開設20周年

愛機ニンジャ1000をChatGPTにフェルメール風に描いてもらいました


【拙ブログ開設20周年】

記録も記憶も厳密ではないが、松戸に移って2年目の2005年からブログを始めた。いま気づいたが今年でブログ開設20周年だ。サービスは初めはBloggerではなかった。あとから加えた2005年以前の拙文もある。一貫性も網羅性もない。確実なのは「すべて私が書いた」ということだけ。

言うまでもないが、公開しても大丈夫なことしかブログに書いていない。なので、面白くはないだろう。「ここにしかない真実」などはないし、そういう情報がもしあれば閉架して有料化するだろう(冗談)。私にとどめをさしたい人がいるかどうか知らないが、拙ブログをたどっても何のネタも見つからない。

「紙の本を出す資金が無い」からこそのブログだった。しかし、著作権フリーになった歴史的な偉人たちの文章がどんどんネットで公開されているのを見ると、「私のブログと同じ扱いだよね」とつい思ってしまう。エーアイが学習するのはネットの情報のほうだと思うので、少しは役に立った可能性がある。

神学生時代を含めると1984年から40年「説教」なり「奨励」なり「証し」なりを教会でして来て、毎回書き下ろす原稿を使用後すぐにゴミ箱に捨てるのもどうかと思い、記録として残して来たにすぎない。えんぴつでルーズリーフに書いていた頃の説教原稿などもまだ捨てずに持っている。読み返す気力はない。

2025年4月24日木曜日

夢で逢えた

昨日(4月23日)自作したペペロンチーノをChatGPTにフェルメール風に描いてもらいました

【夢で逢えた】

何週間も前からぐらついているバックステップを締めてもらうのと、ついでにオイル交換をしてもらう予約が明日に迫る。立川まで行く。遠いのは自分で選んだことなので仕方ないが、首都高中央環状線(C2)が嫌いすぎる。橋脚高いし、道狭いし、コーナー多いし、四輪のスピードが異常。環七と甲州街道でのんびり行くか。

来週月曜の有志読書会でファン・ルーラーを取り上げてもらえることになった。テキスト「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差異」(1961年)。今朝未明から半日かけてA4判2ページのレジュメ完成。メールでメンバーに送信完了。楽しくて疲れた。心は燃えても肉体は弱い。体を打ち叩いて従わせる。

レジュメ書きが終わってちょっとだけウトウトしたら、夢に妻が来てくれた。バイクの免許取ったとか言って黒のニンジャ150(って言った)にまたがってメットのシールドを開けてくれたところで終わり。「夢でもし逢えたら素敵なことね、あなたに逢えるまで眠り続けたい」(鈴木雅之さんの歌)だった。

2025年4月22日火曜日

ボッシュの言う「使徒の神学」はファン・ルーラーだ

日本基督教団富士見町教会(千代田区)
*ChatGPTにアール・ヌーヴォー風に描いてもらった。

【ボッシュの言う「使徒の神学」はファン・ルーラーだ】

今日は東京教区東支区教師会(牧師会)があるのでまもなく出かけなくてはならないが、未明まで長文メールを書いていたため眠い。先日オランダの古書店から届いたヘンドリク・クレーマーの『教会とヒューマニズム』の支払い方法が旧時代のままで、困って相談したら助けてくださった牧師への礼文だった。

そのメールはプライベートな内容なので公開できない。デイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』にファン・ルーラーの名が出て来ないことに不満を抱いた私だった。その理由が見えて来た。日本語版下巻(新教出版社、2001年)211頁の「使徒の神学」が、名を伏せられているがファン・ルーラーだ。

「使徒の神学」に関してボッシュが「ベルコフ、1979、411-13参照)」と記しているのは、ヘンドリクス・ベルコフの『キリスト教信仰』英語版(1979年)第1版のことだが、私の手元にある同書第2版(1986年)では、おそらく増補改訂の影響で、413頁から415頁までへと移動している。そこを読む必要がある。

いま大急ぎで、ベルコフの当該箇所をざっと読んだ。クレーマーが「宣教」という意味でアポストラート(使徒性)を用い、それをファン・ルーラーが教義学的に「宣教(アポストラート)の神学」(ボッシュ日本語版では「使徒の神学」)として基礎づけ、WCCの文脈でホーケンダイクがその線を打ち出した。

しかしベルコフはファン・ルーラーがすでに「急進的」であり、ホーケンダイクは「もっと急進的」と評価。教会を相対化して、社会活動の拠点にしようとした元凶のように言う。そのベルコフの判断は彼の師匠ミスコッテに由来。「使徒の神学」へのベルコフの批判がミスコッテの引用で締めくくられている。

このミスコッテがファン・ルーラーのライバルだった。オランダ改革派教会(NHK)の「教会規程」の改訂作業や解説書を作成する委員会で激闘する関係にあった。ベルコフはライデン大学神学部のミスコッテの後継者。ボッシュはベルコフの本を読み、ファン・ルーラーの本は読んでいない。偏りがあると言える。

ああ、もう出かけなくてはならない。忘れないうちに書きとめておきたかった。眠いけど休めない。行くので。サボりたいけど。

(2025年4月22日 11:45 a. m.)

2025年4月21日月曜日

「雪のように寒い人」の線で

ChatGPTが私を「雪のように寒い人」に描いてくれた

【「雪のように寒い人」の線で】

私は小学1年から大学卒業まで「せっかん」だった。由来は何度か書いた。兄の小学校教師が「摂関政治」を「関口くんの関ですね」と説明、兄が「せっかん」と呼ばれるようになる。兄の同級生から私が「せっかん2号」と呼ばれ、私の同級生が真似し、やがて私を「2号」なしで「せっかん」と呼びはじめた。

中学も高校も大学も、入学早々まず最初に「なんて呼ばれてた」と聞かれ「せっかん」と答えると「じゃあ、せっかんね」で即日決定。定められたレールから外れることはできなかった。昔の話なのでどうでもいいことだが、たまに旧友から「せっかん」の漢字を尋ねられることがあるので、由来が意味を持つ。

尋ねられるたびに「かくかくしかじかの由来があるので、もし漢字で書くとしたら摂関だろうね」と答えると、たいていの場合「折檻だと思っていた。がくがくぶるぶる」と返ってくる。今さら過ぎるが、誤解が解けてよかったと思う。ネットの匿名に使う気にはなれないでいる。Sekkanとかおかしいでしょ。

長年「せっかん」と呼ばれたし、同級生にとっては今も「せっかん」なので葬り去るのもどうかと活用方法を考えたことがある。変換候補に出てくるのは「摂関、折檻、石棺、節間、雪寒、設完」。印象が良さそうなのは「雪寒」(snowy cold)か「設完」(completed)。取って付けても定着しないだろうね。

2025年4月20日日曜日

キリストの復活

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)
*生成AIのChatGPTにフェルメール風に描いてもらいました!

説教「キリストの復活」

マタイによる福音書28章1~10節

関口 康

「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」(10節)

イースターおめでとうございます。今日は世界中の教会で、イースター礼拝が行われています。イースターは、イエス・キリストがよみがえられたことをお祝いする日です。

こういうことを言うと「あなたはおめでたい人だ」と言われかねません。「死んだ人がお墓の中から出てきたことの何がめでたいのか。恐怖しか感じない」と顔をこわばらせて言う人がいても、おかしくありません。

教会の看板に今日の説教題として「キリストの復活」と書いていただきました。「復活」などと言わないで、少しぐらいは遠慮して、もっと多くの人に受け入れてもらえそうなことを貼り出すほうがよいかもしれないと、私も考えないわけではないということを打ち明けておきます。

イエス・キリストの復活が「どのように」起こったのかは聖書には記されていません。しかし、4つの福音書に、イエス・キリストの復活は起こったと明言されています。聖書に基づいて説教することになっている教会は、イエス・キリストの復活を宣べ伝えることから逃げることはできません。

教会が「復活」を宣べ伝えるのは、聖書に書かれているからです。聖書に書かれていなければ、必然性はありません。

クリスマスの聖書箇所も同じです。結婚する前のマリアに赤ちゃんが、というあの話です。もし聖書に書かれていなければ、必然性はありません。

奇跡についても同様です。まるで聖書は、ハードルをどんどん高くしてなるべく信じにくくしているかのようです。

信じにくい要素はまだあります。クリスマス礼拝のときも言いましたが、私は天使が苦手です。天使が嫌いだと言っているのではありません。会ったことがないので、どのように説明してよいかが分からないのです。人間でもなく神でもなく、両者の中間に位置するように聖書に描かれている謎の存在。その苦手な天使が、クリスマスの聖書箇所にも、イースターの聖書箇所にも登場するので、困ってしまいます。

そのことは特にマタイ福音書とルカ福音書ではっきりしています。各書の最初と最後に、天使が登場します。イエスさまがお生まれになったときと、復活なさったときに現れます。天使はまるで「狂言回し」です(「歌舞伎・狂言などで、主人公ではないがその狂言の進行に重要な役割をつとめる者」広辞苑第4版)。

しかし、私はいまネガティブな話をしているつもりはありません。クリスマスとイースターの聖書箇所に共通点があると説明している註解書を読みました。どこに共通点があるかというと、「ガリラヤに行くこと」を天使が人間にすすめる言葉です。

今日の箇所では、そのことが7節に記されています。5節から7節までお読みします。

「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」』」。

ここで言われているのは、ガリラヤに行けばイエス・キリストに会える。だからガリラヤに行きなさい、という意味です。

他方、クリスマスの聖書箇所で「ガリラヤ」の名前が出てくるのがマタイ福音書2章22節です。ヘロデ大王による幼児虐殺から逃れるために家族揃ってエジプトに避難した主イエスの父ヨセフの夢に天使が現れ、お告げがあったので、「ガリラヤ地方に引きこもった」(マタイ2章22節)と記されています。ガリラヤに行きなさいと神が天使を通してヨセフに伝えたということです。

このように、クリスマスの天使もイースターの天使も、イエス・キリストの存在と「ガリラヤ」を結びつける役割を果たしている点で共通しています。

この場合の「ガリラヤ」は、広い意味です。「周辺」という意味のヘブライ語「ガーリール」に由来します。主イエスの生誕地ベツレヘムは、首都エルサレムに近いので「ガリラヤ」ではありません。しかし、その後の成長期に過ごしたナザレも、宣教活動を開始したカファルナウムも、「ガリラヤ」です。

「ガリラヤ」は田舎であり、地方であり、分裂王国時代には北王国であり、他国からの流入者の割合が多い「多様な」地です。辺境ゆえに政治と宗教の権力者から見下げられてきた「より多くの慰めが必要な」地です。その「ガリラヤ」でイエスさまは宣教されました。

これらのことで分かるのは、今日の箇所で、天使と復活されたイエスさまご自身が弟子たちに「ガリラヤに行きなさい」と促しておられるのは、「あなたの原点に立ち返りなさい」と言われているのとほとんど同じ意味であるということです。

昨年9月8日の「足立梅田教会創立70周年記念礼拝」で説教してくださった北村慈郎牧師と、先々週4月12日に「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」の総会で私が講演させていただいた日本基督教団紅葉坂教会(横浜市)でお会いしました。

北村先生は、わたしたちの70周年記念礼拝のときも、先々週の会で私を紹介してくださるときも、「私の原点は足立梅田教会です」と多くの人の前でおっしゃいました。「私のガリラヤ」とはおっしゃいませんでしたが、きっとそのお気持ちを持っておられます。「ガリラヤに行きなさい」というすすめには「あなたの原点に立ち返りなさい」という意味があるからです。

イエス・キリストが「どのように」復活されたのかは聖書に記されていないと申しました。墓の中で目を開き、体を起こし、立ち上がり、歩いて墓穴から出てくるイエス・キリストを描写するスペクタクル(視覚的)な記述は、どこにもありません。とはいえ、「どのように」についても触れられている箇所がある、ということをご紹介しておきます。

天使が婦人たちに伝えた言葉は「あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり復活なさったのだ」(6節)です。秋川雅史(あきかわまさふみ)さんの「千の風になって」という歌を思い出します。「私のお墓の前で泣かないでください。ここに私はいません。眠ってなんかいません」。イエスさまは「千の風」にはなりませんが、「お墓の中にはいない、眠ってもいない」という点は、あの歌のとおりです。

しかし、この天使の言葉の中に、イエス・キリストの復活が「どのようにして」起こったのかという問いと結び付けることができる点があります。それは「かねて言われていたとおり」という言葉です。見過ごされやすい言葉ですが、重要な意味があります。

イエス・キリストは「わたしは復活する」と弟子たちの前で何度もおっしゃいました。イエス・キリストの復活は「ご自身の言葉通りになった」事実です。これが「どのように」の答えです。弟子たちにとっては、イエスさまがおっしゃったとおりのことが実現したのだから、それで十分なのです。

足立梅田教会は健在です。日本基督教団もまだ死んでいません。ですから「復活」という言葉は当てはまりません。しかし、生命の危機を感じるときは「ガリラヤに行くこと」が大切です。「原点に立ち返ること」です。「あなたのガリラヤ」にイエス・キリストがおられます。

(2025年4月20日 日本基督教団足立梅田教会 イースター礼拝)

2025年4月19日土曜日

生成AIの使い方

生成AIをどう用いるか

【生成AIの使い方】

「生成AIが教会と神学にもたらす影響」についてすでに議論が行われているだろうか。単純に知らないので尋ねてみるが、訪ねるかどうかは保留。説教を書いてくれそうだとか、新しい宗教を生成しそうだとか、誰でも思いつきそうな話はどうでもいい。それよりも私が期待したいのは神学の翻訳だったりする。

あくまで思い付きだが、ルター全集の全訳を生成AIに任せてフリー素材にするなどどうだろう。すでにプロジェクトが立ち上がっているようならご放念いただきたい。オランダの神学も生成AIにどんどん訳してもらおうかなと。だれの収益にもなりそうにないが、神学と教会の謎が解けていく一助にならないか。

裁判や選挙を生成AIで行うと人間の恣意性を排して公平なジャッジをしてくれるのではないかという議論を某YouTube番組で私も観た。教会や神学にも同じ理屈が当てはまるだろう。「教皇選挙」を生成AIに任せる時代が来るかどうかは私には分からない。教会は、時代遅れをあえて楽しんでいるところもある。

ここ数日、ChatGPTやGrokで何十枚もニンジャ1000をゴッホ風に描いてもらっている。何回描き直してもらっても文句は言わない。遠慮する必要はないだろう。お気に入りの構図になったら「ありがとう」とお礼を書けば、うれしそうに感謝の言葉を返してくる。教会と神学の「改革」に大いに役立つ気がする。

2025年4月18日金曜日

「持たざる者」の仲間の私

ChatGPTにゴッホ風に描いてもらった舎人公園(足立)
※本文とは関係ありません

【「持たざる者」の仲間の私】

私が東京神学大学に入学したのは出身教会の牧師のすすめによる。岡山朝日高校の進路指導の教員には「わしには指導できません。勝手にせられえ」とさじを投げられた。受験前にかろうじて取り寄せたモノクロの入学案内の画像の学生たちが皆ジャージを着ていたので「私でも大丈夫そうだ」と安心した程度。

入学の目的は「教会の牧師になるための準備として必要だそうだ」というだけ。講義内容も教員名も全く知らなかったし関心が無かった。出身教会の牧師が私に東神大をすすめたのは、その数年前に北森嘉蔵教授と大木英夫教授が学生募集のために来岡したことを「自分に指導を仰ぎに来た」と思い込んだから。

比較的私は環境順応性が高く、どの学校や団体でもそこにいるかぎり肯定するが、筋が通っていないと感じることに易々と同意するのは苦手。とりあえず受け入れ、実践してみ、袋小路そうなら躊躇なく離れる。「誰も支配しない、誰からも支配されない」デリダ。コツコツ勉強しないのにいばる相手が超苦手。

私は東京神学大学の存在は守られるべきと考えている。国公立校からストレートで入学すれば、最安で「宗教(聖書)教員免許」を取れるから。教員免許制度も徐々に変わっているようだが。私は小中高が国公立で、大学は東神大だけなので最安。その免状を25年ゴミの中に放置していたが、しっかり利用した。

逆に言うと教員免許最安コース以外に守られる理由があの大学にあるかどうかは現時点で不明。高校からストレートで入学した経営陣が何人いるかによるかも。ご自分たちは親だかだれだかに負担してもらって複数のご立派な大学で勉強して来られたお方々に「最安」の価値は分からないのではと思わなくない。

何度となく同じことを繰り返し述べて来たつもりだが、「私の視座は少しも変わっていない」ことを伝えたいときに繰り返す。国公立の小中高を私の目の前で「チーチーパッパ」という言葉でこきおろした近い世代の先輩牧師に出会ったときは「おいおい」と思いながら、ぞっとした。大丈夫かと心配になった。

足立区出身という若きインフルエンサー氏の『持たざる者の逆襲』という本の題名に興味を抱いている。「逆襲」は恐ろしいが、理解はできる。私も「大学院」を出ていると言っても内実は専門学校なので「持たざる者」の仲間だと自覚している。「逆襲」するつもりはないが「反撃」ぐらいはする(同じか)。

2025年4月13日日曜日

十字架への道

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)
*生成AIのChatGPTにゴッホ風に描いてもらいました!

説教「十字架への道」

マタイによる福音書27章32~56節

関口 康

「同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』」(41-42節)

今日の朗読箇所はローマ軍の兵士たちがキレネ人シモンにイエスの十字架を無理に担がせた場面から始まります(32節)。一説によれば、死刑囚が運ぶのは十字架の横木だけで、縦の木は死刑場にあらかじめ立っていました。しかし、横木だけでもひとりで運ぶには重すぎたので、手伝う人が必要でした。

ゴルゴタとは「頭蓋骨」(新共同訳「されこうべ」)を意味するアラム語に由来します(33節)。過去の死刑囚の頭蓋骨が常に散乱していた、という意味ではありません。頭蓋骨の形をした岩があったと言われています。ゴルゴタの正確な位置についても諸説あります。

主イエスがゴルゴタに着くと、ローマ兵たちがイエスに「苦いものを入れたぶどう酒」をこれも無理に飲ませようとしました(34節)。マルコ福音書(15章23節)は「没薬を混ぜたぶどう酒」としています。「没薬」は鎮痛剤です。死刑の苦しみを緩和するためです。

しかし、イエスさまはその液体を舌で確認したうえで拒否されました。考えられる理由は、完全に意識を保ったまま最期を迎えることを望まれたということです。ゴルゴタまで木材を運ぶのに必要な力とは異なる力です。イエスさまは酩酊や麻酔なしの、その意味で〝完全な〟死の苦しみをお引き受けになりました。

イエスが十字架につけられる場面の描写は、「彼らはイエスを十字架につけると」(35節)だけで終わりです。克明な状況描写や心理描写は記されていません。ローマ兵たちが「くじを引いてその服を分け合った」(35節)のは、イエスが衣服なしに、つまり「裸」で十字架につけられたことを意味します。3月30日の特別礼拝で荻窪教会の小海基牧師がイザヤ書20章1~6節に基づいて「裸の預言者」についてお話しくださったことを思い出します。

マタイが十字架刑そのものについては何も描いていないのは、描くのを躊躇(ためら)っているように見えるほどです。その一方で、マタイが克明に描いているのは、イエスの十字架の周りにいた人々の〝嘲笑〟です。

明らかにマタイは読者に対し、そのことに強い関心を持たせようとしています。苦しむイエスを見ながら笑う人々の顔をよく見てほしいと願っています。「その一人一人の顔は、鏡にうつったあなた自身の顔かもしれません」ということに気づいてもらいたいのです。

十字架刑の開始時刻は「午前九時」とマルコ福音書(15章25節)だけが記しています。イエスの頭の上の罪状書きに「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれていました(37節)。これはイエスが木材を運んでいるときは首にかけられていた札でした。

この罪状書き自体が嘲笑であり、軽蔑でした。衣服をはいで裸にして、木材に釘ではりつけて、罪状書きの札に上から指差させて「これが(フートス・エスティン)、こんなやつが、ユダヤ人の王、だってさ」と笑っています。これはピラトがイエスの尋問を始めたときに最初に言った「お前がユダヤ人の王なのか」(27章11節)と同じ言葉です。からかっているだけです。

2人の「強盗」も十字架につけられます(38節)。「強盗」(レスタイ)と呼ばれていますが、政治犯の可能性があります。「強盗」の一人はイエスさまの右に、もう一人は左に。

先週の説教箇所(マタイによる福音書20章20~28節)で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親がイエスさまに、2人の息子の「一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(20章21節)とお願いしました。右と左は部下です。真ん中がかしらです。「ユダヤ人の王」が真ん中の「強盗の頭」として十字架につけられました。これもひどい嘲笑なのです。

「そこを通りかかった人々」が、頭を(おそらく横に)振りながらイエスさまを罵りました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(40節)。

これは3月9日の礼拝で取り上げた「悪魔の誘惑」が関係します。「神の子ならやってみろ」は、主イエスが荒れ野で誘惑をお受けになったときの悪魔の言葉です(マタイ4章3節、6節)。荒野の誘惑の物語では、「神の子なら」神殿の屋根から「飛び降りたらどうだ」(4章6節)と続きます。今日の箇所では「十字架から降りて来い」と続きます。やれるものならやってみろ、できるわけがないだろう、と嘲笑しているのです。

通行人に続いて、「祭司長、律法学者、長老」がイエスさまを侮辱します。この 3 つの立場の人々がユダヤの最高法院(サンヘドリン)を構成していましたので、「サンヘドリンが侮辱した」と言っても過言ではありません。

この人々が「他人は救ったのに、自分は救えない」(42節)と言いました。興味深いのは、ここに来てサンヘドリンが「イエスは他人を救った」と認めている点です。

彼らにとってはイエスのいやしも奇跡もすべてインチキでなければなりませんでした。しかし、今日の箇所では「他人は救った」と認めています。大きな前進です。そのうえで彼らは、「他人は救えるのに、自分は救えない」という言葉でイエスさまを侮辱しました。

彼らも宗教者です。「宗教者だって人間なのだから、他人に尽くすことばかり考えず、自分のことを優先してもよいのでは」と言いたかったのかもしれません。イエスさまにはその選択肢だけはありませんでした。

イエスさまは、右と左にはりつけにされた「強盗たち」からも罵(ののし)られました。十字架の上でイエスさまは3度嘲笑されました。第1に通行人(39節)、第2にサンヘドリンの議員(41節)、第3に強盗(44節)。どれも「嘲笑」を意味しつつ微妙にニュアンスが違うギリシア語の動詞が3つ使い分けられています。

強盗のひとりがもうひとりの強盗をたしなめたという話は、ルカ福音書(23章39~43節)に描かれていますが、マタイ福音書には描かれていません。

イエスさまが息を引き取られたのは「三時ごろ」(46節)でした。9時から始まったので6時間後です。そのとき「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました(46節)。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味のアラム語です。居合わせた人々の耳に「エリ」が「エリヤ」に聞こえ、預言者エリヤを呼んでいると言い出す人がいました(47節)。

イエスさまは十字架上で絶望されました。しかし、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、明らかに旧約聖書の詩編22編の引用です。詩編は歌なので、イエスさまは十字架の上で歌われたと言えなくありません。

詩編22編の最後の言葉は希望のメッセージです。「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来たるべき世に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」(詩編22編30~32節)。

イエスさまが辞世の句として引用した詩編22編は、漠然としたあきらめ(諦念)や避けられないさだめ(運命)の絶望的な受け入れではなく、神との積極的なつながりを語るものでした。

イエスさまはアルコールも鎮痛剤も拒否なさり、完全な意識と痛覚をお持ちになったままで死の瞬間を迎えました。冷たくなったイエスさまの口から「恐れるな」「勇気を出せ」という言葉が語られることはもはやありません。

しかし、百人隊長たちが「本当に、この人は神の子だった」と言いました(54節)。彼らは軍人です。人間の強さに関心があります。その彼らにとってイエスさまの強さは異次元でした。彼らはフィジカル(肉体的・物理的)な強さとは全く異なる「本当の強さ」を、イエス・キリストに見出したのです。

(2025年4月13日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年4月7日月曜日

「日本基督教団信仰告白」についての主題説教(全10回)を行います

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

5月4日(日)から7月6日(日)まで全10回の予定で「日本基督教団信仰告白」についての主題説教(教理説教)を行います。

 

日程

説教題

「日本基督教団信仰告白」該当箇所

1

月 

聖書と教会

我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。

2

11

聖書と生活

されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

3

18

三位一体の神

主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。

4

5 月25

キリストによる贖罪

御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。

5

月 

神の恵み

神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。

6

月 

聖霊の働き

この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。

7

15

教会の使命

教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。

8

22

礼拝と宣教

教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、

9

29

洗礼と聖餐

バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、

10

月 

信仰・希望・愛

愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。


2025年4月6日日曜日

十字架の意味

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「十字架の意味」

マタイによる福音書20章20~28節

関口 康

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(26-27節)

ユダヤ人は「十字架刑」を執行しませんでした。ユダヤの極刑は石打ち刑でした。十字架刑を最初に発案した、または少なくとも最初に使用したのはペルシア人でした。ゾロアスター教の神に聖なるものとして献げた大地が被処刑人の体で汚されてはならない、という理由でした。

ギリシアで十字架刑は、国内では行われませんでしたが、アレクサンドロス大王と彼の後継者がカルタゴ人の処刑に使いました。カルタゴからローマ人に伝わり、重犯罪者の処刑方法になりました。ローマの属州では、秩序と安全の維持のため最も強力で最も残酷な手段とされました。

ローマにとっての「不穏な」属国ユダヤでは、十字架刑の例が無数にあります。一度に二千人のユダヤ人を十字架に引き渡した例もあります。西暦70年の「エルサレム攻囲戦」のときには、毎日あらゆる身分のユダヤ人が500人またはそれ以上捕らえられて町の中で十字架につけられたため、最後は十字架に使う木材もそれを立てる場所も足りないほどでした(以上、ヨーゼフ・ブリンツラー著『イエスの裁判』大貫隆、善野碩之助訳、新教出版社、1988年、356~357頁参照)。

十字架刑の主たる目的は「さらす」ことです。日本でも「さらし首」は明治初期まで行われていました。まだ150年前ぐらいですので、決して他人ごとではありません。『写真集「甦る幕末」オランダに保存されていた800枚の写真から』(朝日新聞社、1986年)に当時の写真があります。

十字架の高さは遠くから見えるように人間の身長よりも少し高いか、それ以上でした。死刑囚の首に死刑の理由(causa poenae)を記した看板がかけられました。体を支えるために、途中に取り付けられた木片を足置きか腰掛けにすることもあったようですが、古い報告書にそのような木片についての言及はありません。

十字架刑がローマで初めて廃止されたのは、西暦313年の「ミラノ勅令」によってローマ帝国でキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝(西暦270~337年)の治世になってからでした。

今日の箇所で「ゼベダイの息子たちの母」が2人の息子と一緒に、イエスさまのもとに来て、ひれ伏して、あることをお願いしました。「ゼベダイの息子たち」とは、主イエスの最初の弟子になった4人のうちの「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(マタイ4章21節)の2人です。

彼らの母が言いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)。これは神の国、つまり天国の話です。要するに、「天国でイエスさまがナンバーワンになられたときは、うちの子たちをナンバーツーとナンバースリーにしてください」というお願いです。

イエスさまが「あなたがたは自分が何を願っているか分かっていない」(22節a)と言われていますが、これは決して怒りや非難の言葉ではありません。この後すぐに「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節b)と続きます。イエスさまとしては「わたしが飲もうとしている杯は十字架刑なのですよ?本当に大丈夫ですか?」と心配してくださっているのです。そのイエスさまの質問への答えは、2人とも「できます」。ますます心配になるパターンです。

ゼベダイの子たちはその杯を実際に飲みました。ヤコブは西暦44年ごろ殉教しました。ヨハネについては、殉教したという記録もあれば、エフェソで46歳で自然死したという記録もあります。いずれにしても、イエスさまの質問に対する彼らの答えは決して軽いものでも簡単に言えるものでもありませんでした。彼らは主イエスと共に、苦しみの道を歩む意志を持っていました。

イエスさまはそのことも分かっておられます。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」(23節a)と認めてくださいました。しかし「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」(23節b)ともおっしゃいます。それは神さまが決めてくださることですと、主イエスは最高の権威を天の父である神にお委ねになりました。

すると、他の10人の弟子が腹を立てました。ヤコブとヨハネに嫉妬したのではなく、彼らがイエスさまの弟子の中でナンバーワンとナンバーツーを狙っているということは、つまり我々10人のことを下に見ているからだろうと感じたのだと思います。だから彼らは腹を立てました。狭い仲間内の順位争いです。

そこでイエスさまは、彼らみんなを呼び寄せて説教されました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(25~26節)。

世界の支配者がいばりちらし、権力を行使する。そういうことをする人がいることを、あなたがたは知っています。あなたがた自身はそうであってはなりません。これは、相手と同じになってはいけないという意味です。

イエスの弟子になりたい人に対しては、世の中の価値観とは正反対の基準が適用されることになります。その基準が「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(27節)です。いちばん上になりたければいちばん下になりなさい、ということです。

イエスさまのこの教えの中で「偉くなりたい」「一番になりたい」という人の思いは、少しも否定されていません。むしろ肯定されています。「仕える者」の意味は「奴隷」です。つまりイエスさまは「いちばんになって偉くなりたい人は、すべての人に奉仕する者になりなさい」と言われています。

「奉仕すること」はギリシア人にとって価値が低いことと考えられていました。ギリシア人の「男らしさ」の基準は「支配すること」と「奉仕しないこと」でした。イエスさまの弟子になれるかどうかの条件は、その正反対です。「奉仕」の心があるかどうかです。

イエスさまご自身も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための、贖いの代価として自分の命を与えるために来てくださいました。イエスさまは、十字架の上でご自身の命を献げることは「奉仕」であると理解しておられ、「人の子」すなわちイエスさまは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(28節)と明言されました。

この「身代金」が誰に支払われるかは分からないように記されています。テロリストに屈するようなことをしてはならないのはごもっともです。しかし、「身代金」の本来の意味は、捕らえられているだれかを解放するために支払われるお金のことです。身代金を支払う者は、その身代金を支払われた人を解放し、新しい人生を始められるようにします。

つまり、主イエスがご自身のことを指して言われた「多くの人の身代金」という表現は、ご自身が意識的に人間を罪と罪悪感から解放するために命をささげようとしたことを示しています。

このように、イエスさまの弟子になることは、世間では当たり前とされていることの逆です。「自動的に」または「生まれつき」または「努力によって」または「反省によって」得られるものではありません。神の恵みによって起こる「回心」を経ることが必要です。

わたしたちに求められているのは「奉仕」の心です。イエスさまと同じように、十字架の上で命を献げることまでは求められていません。神を愛し、隣人を愛し、共に生きるすべての人々に「仕える」心をもって生きるとき、主イエス・キリストはわたしたちと共におられます。

(2025年4月6日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年4月3日木曜日

ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係

ゴッホの自画像(1887年)(パブリックドメイン)


【ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係】

長年尊敬する先輩牧師から「ゴッホの時代のオランダ改革派の芸術に対する、絵画に対する基本的な姿勢は如何なるものか。彼の作品で訴えたかった点は、その根底にオランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないかと思われる」というご質問をいただきましたので、以下のようにお答えしました(ブログ公開に際し、趣旨が変わらない範囲内で修正)。

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先生、ご質問ありがとうございます。

1853年3月30日生まれのオランダの画家、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(ホッホ)(Vincent Willem van Gogh [1853-1890])の時代、すなわち19世紀中盤のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、以下「NHK」)の「芸術観」についての情報は、現時点の私は持っていません。しかし、当時の「NHK」の神学的背景ならば少し分かるかもしれません。

ゴッホの祖父は1789年生まれ。ゴッホの父は1822年生まれ。どちらもNHKの牧師でした。

(1)ゴッホの祖父

ゴッホの祖父(1789年2月11日生まれ)は、ライデン大学神学部で1805年から神学を学び、1811年博士号取得。1822年から引退する1853年までブレダ教会牧師。1825年から1866年まで、北ブラバント州のプロテスタント教会の地位向上をはかる互助会の書記と会計でした。ブレダ教会は大規模でした。

北ブラバント州(Noord-Brabant)はオランダの南端、ベルギーとの国境に位置する地域です。しかし、それは今日的な感覚です。ゴッホの祖父の時代(1789~1874年)、オランダとベルギーは「オーストラリア領ネーデルラント」(1790~1815年)や「ネーデルラント連合王国」(1815年~1830年)という仕方で、ひとつの国でした。

武力による領土争いの激動の中、ゴッホの祖父は、カトリックが強い地域の中でオランダ改革派教会(NHK)の地位を守るために尽力しました。

ちなみに、19世紀中盤のライデン大学神学部教授として象徴的な存在はヤン・ヘンドリク・スホルテン(Jan Hendrik Scholten)(1811年生まれ)です。ゴッホの祖父が直接学んだ可能性はありませんが、スホルテンはアブラハム・カイパー(1837年生まれ)のライデン大学時代の教師です。スホルテンはイエス・キリストの復活を否定する神学者でした。

アブラハム・カイパーは学生時代はスホルテンの教えに疑問を抱きませんでしたが、のちに見解が変わり、NHKを1886年に離脱して新しいオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands)を創立しました。カイパーに新教団設立を決心させるほどに、スホルテンの神学はリベラルでラディカルでした。

(2)ゴッホの父

ゴッホの父(1822年2月8日生まれ)は、祖父の長男として生まれ、自らも牧師になり、1849年から1878年でズンデルト(Zundert)の教会、また1878年から1885年の没年までエッテン(Etten)の教会、そしてヌエネン(Nuenen)の教会も兼牧しました。

ズンデルト、エッテン、ヌエネンという3つの教会も北ブラバント州にあり、現在のベルギーとの国境地域です。ズンデルトはカトリック優位の町でしたが、ゴッホの父は「改革派」の厳格な立場をとらず、カトリックの貧困家庭を助けていたので人気を博しました。見た目はハンサムな牧師だったが、説教者としての才能は無かったと書いている記事があります。

このあたりで想像できるのは、ゴッホの父は「オランダ改革派教会(NHK)」の牧師でしたが世襲の要素があり、北ブラバント州というベルギーとの国境付近のカトリックが強い地域で「調停的な」立場をとり、なんとかうまくやろうとした人ではないかということです。

この牧師を父に持つ画家ゴッホ(1853~1890年)がズンデルト教会の牧師館で過ごしたのは、1853年から彼がゼーフェンベルゲン(Zevenbergen)の寄宿学校に入寮する1864年までの11年間。エッテン教会の牧師館やヌエネン教会の牧師館でも過ごしました。

ゴッホの「ヌエネン教会を出る人々」(Het uitgaan van de hervormde kerk te Nuenen)という絵は有名のようですね。

(3)画家ゴッホ自身

画家ゴッホの経歴は以下の通り。

1853年(0歳)

 ズンデルト改革派教会(Zundert Hervormde Kerk)の牧師の長男として生まれる

1864年(11歳)

 ゼーフェンベルゲン寄宿学校入学

1866年(13歳)

 ティルブルフ高等学校入学

1869年(16歳)

 国際美術商「グーピル&シー」ハーグ支店就職

1873年(20歳)

 「グーピル&シー」パリ本社やロンドン支店で勤務

1876年(23歳)

 会社を解雇される。ラムズゲート(Ramsgate)で教員をする

 アイルワース(ロンドン)のメソジスト教会の補助説教者になる

 牧師になる志を与えられる

 ターナム・グリーン(ロンドン)の組合教会で日曜学校教師になる

1877年(24歳)

 1~5月、オランダに戻り、ドルトレヒトの書店で働く

 同年5月から翌1878年7月まで、アムステルダムの叔父の家で牧師国家試験の勉強

 ラテン語とギリシア語に興味がなく、また神学理論の学びに不満で、受験を断念

 ブリュッセル(ベルギー)近郊のプロテスタント伝道訓練校へ入校

1878年(25歳)

 12月からボリナージュ(ベルギー)に派遣

1879年(26歳)

 2月から炭鉱労働者の町プチワム(Petit-Wasmes)で信徒説教者

 4月炭鉱爆発事故の犠牲者を看護するが、彼らにとって「部外者」で「異質」と自覚

 プチワムのプロテスタント仲間から「過度に熱狂的で付き合いづらい」と拒絶される

 孤独で惨めな時期に、その中から抜け出したいという思いで次のような本を読む

  チャールズ・ディケンズ『ハード・タイムズ』(1854年)フランス語版(1869年)

  トーマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスティ』フランス語版

  ヴィクトール・ユーゴー『シェークスピア』フランス語版(1869年)

  ジョン・バニヤン『天路歴程』英語版(1852年)

  ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』英語版(1852年)

1880年(27歳)

 画家になることを決意し、ブリュッセルのアトリエに移る

 11月に王立美術アカデミーに入学。12月の試験で最下位。1881年2月の試験は未受験

1881年(28歳)

 エッテン教会の両親のもとに戻る

 その後、ハーグ(Den Haag)やヌエネン(Nuenen)〔牧師館?〕でひとり暮らし

 モデル女性の妊娠や売春などの証拠画があると議論がある時期

1885年(32歳)

 父の死去に伴い、ヌエネンから退去。アントワープ(ベルギー)に移る

1886年(33歳)

 1月に名門のアントワープ美術アカデミーに入学するが、2か月で退学

 3月からパリ(フランス)で、同じ画家の弟テオと同居を始める

1889年(36歳)

 弟テオがアムステルダムで結婚。兄はアルピーユ山麓(フランス)の施設に自主入院

1890年(37歳)

 主治医がいるパリ近郊のオーヴェル(Auvers)移住

 5月20日 ラヴー旅館(Auberge Ravoux)の屋根裏にアトリエ設置

 7月27日 銃で自分の胸を撃つ。2日後、死亡

1891年(翌年)

 1月25日 弟テオがユトレヒトで死亡。享年33歳

画家ゴッホ自身の経歴や、彼の祖父や父の経歴から私が受ける総合的な第一印象としては、先生からの「オランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないか」という問いかけには首をかしげるところのほうが多いです。そのように感じる理由は次のようなことです。

①第一の理由は、そもそも「祖父→父→ゴッホ本人」が居住していた「北ブラバント州」が、改革派(NHK)とカトリック(RK)の混合地域だったことです。祖父は「改革派(NHK)の地位向上」を訴える牧師代表でしたが、父は「カトリック(RK)との共存」の道を選んだので、画家ゴッホがあえて「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」を持つ理由があるのだろうかというあたりに疑問を感じます。

②第二の理由は、23歳のゴッホがロンドンのメソジスト教会や組合教会を渡り歩いていたり、24歳でブリュッセルの伝道訓練校に入校し、2年足らずの訓練で「炭鉱労働者伝道」のような難しい課題があるに決まっている場所にいきなり派遣されて、当然のようにうまく行かなくて挫折したりしていることのほうが、私にとってはよほど重大に思えることです。

もしかしたらロンドンのメソジスト教会や組合教会で「オランダ改革派教会(NHK)」の悪口をたくさん聞かされたかもしれません。それらの教会の人たちがベルギー信条やドルト規準、ウェストミンスター信仰基準などと真逆の考え方をしていた可能性は確かにあります。

アウェイで不安定なゴッホに「ウェスレー」と「メソジスト教会」と「アルミニウス主義」と「カルヴァン主義とオランダ改革派教会に反対すべき理由」をしっかり教え込んだ人たちがいたかもしれません。

19世紀のオランダですからね。今のわたしたちのコンテクストと大差ありません。ゴッホの時代に「カール・バルト」は登場しませんが、日本伝道はすでに開始され、「日本基督公会→日本基督一致教会」まで来ていました。日本基督教会創立の「1890年」がゴッホの没年です。このころの植村正久先生は「リバイバリズム」の内実を熟知しておられたと思います。

炭鉱伝道挫折後のゴッホが読んだ『イミタチオ・クリスティ』や『天路歴程』や『アンクル・トムの小屋』などは、戦後の日本で『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版などを購読していた世代の人たちがよく読んでいました。私の両親(1930年代生まれ)も、神学書などは1冊も持っていませんでしたが、ゴッホが読んだこれらの本は若い頃に教会ですすめられて読んだようです。

そういうわけで、私の第一印象としては、ゴッホがロンドンやベルギーでその影響を受けた可能性がある「リバイバリズム」との関係はよく考えなくてはならないと思いますが、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」がダイレクトに結びつくかどうかは不明です。

③周囲の人たちとうまく行かない画家ゴッホに、画家になった弟テオ以外、両親を含む家族は距離を置いたり冷たくしたりはしたので、その仕打ちに対する反発心が彼の中にあったのではないかと考えることは私にもできます。しかし、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」は区別されるべきです。