2025年4月18日金曜日

「持たざる者」の仲間の私

ChatGPTにゴッホ風に描いてもらった舎人公園(足立)
※本文とは関係ありません

【「持たざる者」の仲間の私】

私が東京神学大学に入学したのは出身教会の牧師のすすめによる。岡山朝日高校の進路指導の教員には「わしには指導できません。勝手にせられえ」とさじを投げられた。受験前にかろうじて取り寄せたモノクロの入学案内の画像の学生たちが皆ジャージを着ていたので「私でも大丈夫そうだ」と安心した程度。

入学の目的は「教会の牧師になるための準備として必要だそうだ」というだけ。講義内容も教員名も全く知らなかったし関心が無かった。出身教会の牧師が私に東神大をすすめたのは、その数年前に北森嘉蔵教授と大木英夫教授が学生募集のために来岡したことを「自分に指導を仰ぎに来た」と思い込んだから。

比較的私は環境順応性が高く、どの学校や団体でもそこにいるかぎり肯定するが、筋が通っていないと感じることに易々と同意するのは苦手。とりあえず受け入れ、実践してみ、袋小路そうなら躊躇なく離れる。「誰も支配しない、誰からも支配されない」デリダ。コツコツ勉強しないのにいばる相手が超苦手。

私は東京神学大学の存在は守られるべきと考えている。国公立校からストレートで入学すれば、最安で「宗教(聖書)教員免許」を取れるから。教員免許制度も徐々に変わっているようだが。私は小中高が国公立で、大学は東神大だけなので最安。その免状を20年ゴミの中に放置していたが、しっかり利用した。

逆に言うと教員免許最安コース以外に守られる理由があの大学にあるかどうかは現時点で不明。高校からストレートで入学した経営陣が何人いるかによるかも。ご自分たちは親だかだれだかに負担してもらって複数のご立派な大学で勉強して来られたお方々に「最安」の価値は分からないのではと思わなくない。

何度となく同じことを繰り返し述べて来たつもりだが、「私の視座は少しも変わっていない」ことを伝えたいときに繰り返す。国公立の小中高を私の目の前で「チーチーパッパ」という言葉でこきおろした近い世代の先輩牧師に出会ったときは「おいおい」と思いながら、ぞっとした。大丈夫かと心配になった。

足立区出身という若きインフルエンサー氏の『持たざる者の逆襲』という本の題名に興味を抱いている。「逆襲」は恐ろしいが、理解はできる。私も「大学院」を出ていると言っても内実は専門学校なので「持たざる者」の仲間だと自覚している。「逆襲」するつもりはないが「反撃」ぐらいはする(同じか)。

2025年4月3日木曜日

ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係

ゴッホの自画像(1887年)(パブリックドメイン)


【ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係】

長年尊敬する先輩牧師から「ゴッホの時代のオランダ改革派の芸術に対する、絵画に対する基本的な姿勢は如何なるものか。彼の作品で訴えたかった点は、その根底にオランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないかと思われる」というご質問をいただきましたので、以下のようにお答えしました(ブログ公開に際し、趣旨が変わらない範囲内で修正)。

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先生、ご質問ありがとうございます。

1853年3月30日生まれのオランダの画家、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(ホッホ)(Vincent Willem van Gogh [1853-1890])の時代、すなわち19世紀中盤のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、以下「NHK」)の「芸術観」についての情報は、現時点の私は持っていません。しかし、当時の「NHK」の神学的背景ならば少し分かるかもしれません。

ゴッホの祖父は1789年生まれ。ゴッホの父は1822年生まれ。どちらもNHKの牧師でした。

(1)ゴッホの祖父

ゴッホの祖父(1789年2月11日生まれ)は、ライデン大学神学部で1805年から神学を学び、1811年博士号取得。1822年から引退する1853年までブレダ教会牧師。1825年から1866年まで、北ブラバント州のプロテスタント教会の地位向上をはかる互助会の書記と会計でした。ブレダ教会は大規模でした。

北ブラバント州(Noord-Brabant)はオランダの南端、ベルギーとの国境に位置する地域です。しかし、それは今日的な感覚です。ゴッホの祖父の時代(1789~1874年)、オランダとベルギーは「オーストラリア領ネーデルラント」(1790~1815年)や「ネーデルラント連合王国」(1815年~1830年)という仕方で、ひとつの国でした。

武力による領土争いの激動の中、ゴッホの祖父は、カトリックが強い地域の中でオランダ改革派教会(NHK)の地位を守るために尽力しました。

ちなみに、19世紀中盤のライデン大学神学部教授として象徴的な存在はヤン・ヘンドリク・スホルテン(Jan Hendrik Scholten)(1811年生まれ)です。ゴッホの祖父が直接学んだ可能性はありませんが、スホルテンはアブラハム・カイパー(1837年生まれ)のライデン大学時代の教師です。スホルテンはイエス・キリストの復活を否定する神学者でした。

アブラハム・カイパーは学生時代はスホルテンの教えに疑問を抱きませんでしたが、のちに見解が変わり、NHKを1886年に離脱して新しいオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands)を創立しました。カイパーに新教団設立を決心させるほどに、スホルテンの神学はリベラルでラディカルでした。

(2)ゴッホの父

ゴッホの父(1822年2月8日生まれ)は、祖父の長男として生まれ、自らも牧師になり、1849年から1878年でズンデルト(Zundert)の教会、また1878年から1885年の没年までエッテン(Etten)の教会、そしてヌエネン(Nuenen)の教会も兼牧しました。

ズンデルト、エッテン、ヌエネンという3つの教会も北ブラバント州にあり、現在のベルギーとの国境地域です。ズンデルトはカトリック優位の町でしたが、ゴッホの父は「改革派」の厳格な立場をとらず、カトリックの貧困家庭を助けていたので人気を博しました。見た目はハンサムな牧師だったが、説教者としての才能は無かったと書いている記事があります。

このあたりで想像できるのは、ゴッホの父は「オランダ改革派教会(NHK)」の牧師でしたが世襲の要素があり、北ブラバント州というベルギーとの国境付近のカトリックが強い地域で「調停的な」立場をとり、なんとかうまくやろうとした人ではないかということです。

この牧師を父に持つ画家ゴッホ(1853~1890年)がズンデルト教会の牧師館で過ごしたのは、1853年から彼がゼーフェンベルゲン(Zevenbergen)の寄宿学校に入寮する1864年までの11年間。エッテン教会の牧師館やヌエネン教会の牧師館でも過ごしました。

ゴッホの「ヌエネン教会を出る人々」(Het uitgaan van de hervormde kerk te Nuenen)という絵は有名のようですね。

(3)画家ゴッホ自身

画家ゴッホの経歴は以下の通り。

1853年(0歳)

 ズンデルト改革派教会(Zundert Hervormde Kerk)の牧師の長男として生まれる

1864年(11歳)

 ゼーフェンベルゲン寄宿学校入学

1866年(13歳)

 ティルブルフ高等学校入学

1869年(16歳)

 国際美術商「グーピル&シー」ハーグ支店就職

1873年(20歳)

 「グーピル&シー」パリ本社やロンドン支店で勤務

1876年(23歳)

 会社を解雇される。ラムズゲート(Ramsgate)で教員をする

 アイルワース(ロンドン)のメソジスト教会の補助説教者になる

 牧師になる志を与えられる

 ターナム・グリーン(ロンドン)の組合教会で日曜学校教師になる

1877年(24歳)

 1~5月、オランダに戻り、ドルトレヒトの書店で働く

 同年5月から翌1878年7月まで、アムステルダムの叔父の家で牧師国家試験の勉強

 ラテン語とギリシア語に興味がなく、また神学理論の学びに不満で、受験を断念

 ブリュッセル(ベルギー)近郊のプロテスタント伝道訓練校へ入校

1878年(25歳)

 12月からボリナージュ(ベルギー)に派遣

1879年(26歳)

 2月から炭鉱労働者の町プチワム(Petit-Wasmes)で信徒説教者

 4月炭鉱爆発事故の犠牲者を看護するが、彼らにとって「部外者」で「異質」と自覚

 プチワムのプロテスタント仲間から「過度に熱狂的で付き合いづらい」と拒絶される

 孤独で惨めな時期に、その中から抜け出したいという思いで次のような本を読む

  チャールズ・ディケンズ『ハード・タイムズ』(1854年)フランス語版(1869年)

  トーマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスティ』フランス語版

  ヴィクトール・ユーゴー『シェークスピア』フランス語版(1869年)

  ジョン・バニヤン『天路歴程』英語版(1852年)

  ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』英語版(1852年)

1880年(27歳)

 画家になることを決意し、ブリュッセルのアトリエに移る

 11月に王立美術アカデミーに入学。12月の試験で最下位。1881年2月の試験は未受験

1881年(28歳)

 エッテン教会の両親のもとに戻る

 その後、ハーグ(Den Haag)やヌエネン(Nuenen)〔牧師館?〕でひとり暮らし

 モデル女性の妊娠や売春などの証拠画があると議論がある時期

1885年(32歳)

 父の死去に伴い、ヌエネンから退去。アントワープ(ベルギー)に移る

1886年(33歳)

 1月に名門のアントワープ美術アカデミーに入学するが、2か月で退学

 3月からパリ(フランス)で、同じ画家の弟テオと同居を始める

1889年(36歳)

 弟テオがアムステルダムで結婚。兄はアルピーユ山麓(フランス)の施設に自主入院

1890年(37歳)

 主治医がいるパリ近郊のオーヴェル(Auvers)移住

 5月20日 ラヴー旅館(Auberge Ravoux)の屋根裏にアトリエ設置

 7月27日 銃で自分の胸を撃つ。2日後、死亡

1891年(翌年)

 1月25日 弟テオがユトレヒトで死亡。享年33歳

画家ゴッホ自身の経歴や、彼の祖父や父の経歴から私が受ける総合的な第一印象としては、先生からの「オランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないか」という問いかけには首をかしげるところのほうが多いです。そのように感じる理由は次のようなことです。

①第一の理由は、そもそも「祖父→父→ゴッホ本人」が居住していた「北ブラバント州」が、改革派(NHK)とカトリック(RK)の混合地域だったことです。祖父は「改革派(NHK)の地位向上」を訴える牧師代表でしたが、父は「カトリック(RK)との共存」の道を選んだので、画家ゴッホがあえて「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」を持つ理由があるのだろうかというあたりに疑問を感じます。

②第二の理由は、23歳のゴッホがロンドンのメソジスト教会や組合教会を渡り歩いていたり、24歳でブリュッセルの伝道訓練校に入校し、2年足らずの訓練で「炭鉱労働者伝道」のような難しい課題があるに決まっている場所にいきなり派遣されて、当然のようにうまく行かなくて挫折したりしていることのほうが、私にとってはよほど重大に思えることです。

もしかしたらロンドンのメソジスト教会や組合教会で「オランダ改革派教会(NHK)」の悪口をたくさん聞かされたかもしれません。それらの教会の人たちがベルギー信条やドルト規準、ウェストミンスター信仰基準などと真逆の考え方をしていた可能性は確かにあります。

アウェイで不安定なゴッホに「ウェスレー」と「メソジスト教会」と「アルミニウス主義」と「カルヴァン主義とオランダ改革派教会に反対すべき理由」をしっかり教え込んだ人たちがいたかもしれません。

19世紀のオランダですからね。今のわたしたちのコンテクストと大差ありません。ゴッホの時代に「カール・バルト」は登場しませんが、日本伝道はすでに開始され、「日本基督公会→日本基督一致教会」まで来ていました。日本基督教会創立の「1890年」がゴッホの没年です。このころの植村正久先生は「リバイバリズム」の内実を熟知しておられたと思います。

炭鉱伝道挫折後のゴッホが読んだ『イミタチオ・クリスティ』や『天路歴程』や『アンクル・トムの小屋』などは、戦後の日本で『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版などを購読していた世代の人たちがよく読んでいました。私の両親(1930年代生まれ)も、神学書などは1冊も持っていませんでしたが、ゴッホが読んだこれらの本は若い頃に教会ですすめられて読んだようです。

そういうわけで、私の第一印象としては、ゴッホがロンドンやベルギーでその影響を受けた可能性がある「リバイバリズム」との関係はよく考えなくてはならないと思いますが、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」がダイレクトに結びつくかどうかは不明です。

③周囲の人たちとうまく行かない画家ゴッホに、画家になった弟テオ以外、両親を含む家族は距離を置いたり冷たくしたりはしたので、その仕打ちに対する反発心が彼の中にあったのではないかと考えることは私にもできます。しかし、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」は区別されるべきです。

2025年4月2日水曜日

ファン・ルーラーは「田舎伝道」を志した

ファン・ルーラー牧師の初任地「クバート教会」訪問(2008年12月8日)


【ファン・ルーラーは「田舎伝道」を志した】

昨年度から参加している有志神学書読書会の4月例会でファン・ルーラーを取り上げていただけることになった。うれしい。「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差異」を過去の『季刊教会』に連載された牧田吉和訳で読む。ボーレン『説教学』やイミンク『信仰論』に大きく取り上げられた著名な論文。

事前に読んでいただく資料として、私が10年以上前に書いた雑誌論文のPDFをメンバーに送るなど準備を進めている。資料に基づいて私がまとめた彼の略伝に、ファン・ルーラーの牧師としての最初の任地「クバート教会」について「彼自身が田舎伝道を志して赴任した」と書いた自分の文章に感じ入っている。

ファン・ルーラーと我々は時代も状況も違うので単純な比較はできないが、牧師になるためにギムナジウム(今の日本の普通科高校相当)からストレートで神学部に入学し、卒業後の初任地として「田舎伝道」を志す若者が、オランダにあるいは日本に今どれくらいいるかについて私は興味を持たざるをえない。

ファン・ルーラーの生誕地は、オランダ王室の離宮ヘット・ロー宮殿に近いアペルドールン(Apeldoorn)。父はパン配達職人だったことが伝記文書に記されている。彼が自ら志した「田舎伝道」に世襲の要素は無い。あくまで私の印象にすぎないが、この進路選択は彼の神学的な志向と関係ありそうに思える。

なぜそう言えるかを考えるときもヘンドリク・クレーマー(1888年生まれ)の著書『信徒の神学』(原著Theology of laity, 1958、日本語版あり)が思い浮かぶ。教職中心の教会に対する批判の書。教会の中央集権への批判も含む。信徒宣教師クレーマーはジャワ島(当時オランダ領東インド)へ宣教に行く。

クレーマーより20歳若い牧師ファン・ルーラー(1908年生まれ)は、ジャワ島には行かなかったが、神学部卒業後の初任地として「田舎伝道」を志す。クレーマーによれば当時のオランダの教会に中央集権構造があったらしいわけだから、その逆方向へと進むことがファン・ルーラーの志ではなかっただろうか。

単純な比較はできないが、私も高校からストレートの神学部入学者。「世間知らず」とファン・ルーラーの時代にも言われたそうだ。言わせておけばいい。始めるのは早ければ早いほどよいとも言う。ドラゴンクエストの「僧侶」と同じ。その職業の経験値は他の職業とは無関係。レベル上げには時間がかかる。

とにかく私はうれしい。ファン・ルーラーの存在と神学に関心を寄せてくださる方々が増えることを、これまでも、これからも願っている。

2025年4月1日火曜日

キリスト教とヒューマニズムの関係

『教会とヒューマニズム』(1956年)と「実用オランダ語入門』(1994年)

冷たい雨のエイプリルフールに古書が2冊届き、その温もりで暖を取る。

(1)ヘンドリク・クレーマー『教会とヒューマニズム』(オランダ語版、1956年)

(2)戸部実之『実用オランダ語入門』泰流社、1994年)


Ⅰ クレーマー『教会とヒューマニズム』(1956年)

クレーマーの『教会とヒューマニズム』の全文をChat GPTが瞬時に要約してくれた。かなりいい線だと思う。積ん読よりはるかにまし。ありがとう!

(以下、ChatGPT要約)

本書はキリスト教会とヒューマニズム(人文主義)との歴史的関係性を探求しています。キリスト教会はギリシャ・ローマの古代世界で誕生し、そこでのヒューマニズム的な思想と相互作用を持ちながら発展してきました。​初期の教父たちは、信仰と理性の関係性についてさまざまな立場を取り、例えばアレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスは、ギリシャ哲学をキリスト教的思索に取り入れる試みを行いました。​

中世においては、トマス・アクィナスが『神学大全』の中で、キリスト教の啓示と古代哲学を統合し、「恩寵は自然を廃止するのではなく、完成させる」という考えを示しました。​しかし、宗教改革期には、ルターが福音の純粋性を強調し、キリスト教とヒューマニズムの間に再び距離が生じました。​現代においても、カール・バルトなどの神学者が、キリスト教とヒューマニズムの統合を根本的に拒否する立場を示しています。​

本書は、ヨーロッパ文化の形成において、キリスト教とヒューマニズムが相互に影響を与えながら発展してきたことを強調しています。​また、現代における技術や科学の進展、全体主義的な世界観の台頭により、これらの伝統的な精神的価値が挑戦を受けていることを指摘しています。​さらに、アジアの大宗教との対話を通じて、新たなヒューマニズムの形態が現れる可能性についても言及しています。​

結論として、本書は、キリスト教とヒューマニズムの関係性を再評価し、現代社会における精神的再生の可能性を探求する必要性を訴えています。​先入観や偏見を排除し、歴史的背景と現状を正直に見つめることで、真実と現実に基づいた結論に到達できると述べています。


Ⅱ ファン・ルーラー『政府とヒューマニズム』(1954年)

クレーマーの『教会とヒューマニズム(Kerk en humanisme)』(1956年)出版の前年、ファン・ルーラーが『政府とヒューマニズム(Overheid en humanisme)』(1955年)を出版。内容はオランダ政府が「ヒューマニスト協会」(Het Humanistisch Verbond)の要請にどのように対応すべきかを検討する論考。

ファン・ルーラー『政府とヒューマニズム』(1955年)

具体的には、刑務所や軍隊等での精神的ケアに同協会が公式に関与することの是非が議論されている。​ファン・ルーラーは、この問題が全く新しい現象であり象徴的な意味を持つと指摘。​ヒューマニスト協会は人間の存在全体に焦点を当てる運動であり、世界と人生の包括的な見方を提供していると評価。

他方、ヒューマニズムが独立した全体主義的ビジョンとして現れ、国家組織に影響を与える可能性もあるという。​​ファン・ルーラーは、国家と教会の関係、そしてヒューマニズムの役割について、憲法的な視点から再評価する必要性を強調している。

第4章が「キリスト教とヒューマニズムの関係」について。ファン・ルーラーによると、ヒューマニズムは精神的価値を重視し、時にキリスト教と共鳴するが、必ずしもキリスト教に至るとは限らない。キリスト教徒とヒューマニストは共通の目的で協力できるが、本質的には異なる基盤を持つ。

歴史的に見ればヒューマニズムの起源はキリスト教に根ざしていると言いうるが、現代ではそれが忘れられ、独自の哲学として発展。現代のヒューマニズムは包括的性格を持つゆえにキリスト教との関係が相互排他的になることが予測される。しかし両者が分断されていることは西洋文化にとって危機的である。

ファン・ルーラーはボンヘッファーの獄中書簡の視点を導入。極限状況での叫びであるゆえ世界観の土台ではないが、キリスト教とヒューマニズムの関係を考える一つの視点となるという。ファン・ルーラーは、キリスト教とヒューマニズムの分裂は回避されるべきで両者の関係を再考する必要があると結論。


Ⅲ クレーマーとボンヘッファーの神学の関係

「クレーマー」+「ヒューマニズム」で探したら、クレーマーとボンヘッファーの神学の関係が詳述された素晴らしい論文に出会えた。「バルト→ボンヘッファー→クレーマー→ファン・ルーラー」の線が見えて来た。

佐藤全弘「成人せる世界 : ボンヘッファーとわれわれ(2)」

大阪市立大学文学部『人文研究』19巻1号(1967年)、37~69頁。

https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp 

(以下、佐藤全弘氏の同上論文の62~63頁の抜粋。まだ続きがあるので、未読の方はぜひリンクをクリックしてご一読を)

この外にもボンヘッファーに注目している人は数多いが,最後にオランダの平信徒神学者 Hendrik Kraemer をあげたい。クレーマーはボンヘッファーも関与していた世界教会(エキュメニカル)運動の指導者の一人であり、戦後日本を訪れたこともあり、その後著した大著 World Cultures and World Religions, 1960.の日本についての一章は、短いながら日本精神の特質を鋭くとらえている。いまここにとりあげるのは、The Communication of the Christian Faith, 1956である。この本は、「人間と人間との間の伝達」と、「神から人間への伝達」という、対話・伝達の根本的に異る二つの種類についての深い洞察を中軸として、現代世界における対話喪失の問題伝達回復の問題を論じたもので、読者の思索反省を迫ってやまない。

人間と言葉と宗教とは時を同じうしてつくられたものである。個人として唖〔ママ〕の人もあり無宗教の人はあっても、全く言語をもたぬ社会、宗教を欠いた社会はない。両者は人間に本質的なものである。ところが現今ではこの言葉が破壊され、伝達が失われている。それはボンヘッファーもいう世俗化の果てにみられる現象である。ことにクレーマーは神から人への伝達を担う教会の問題に注意をむける。

世俗化を教会外のことと考え、教会とキリスト者とはそれに縁がないように思っては誤りである。 「実は、教会も、この世同様(仕方はちがうけれども)いたるところで徹底的に世俗化している、いな教会の世俗化は、この世の世俗化より一層由々しいものでさえある。すべてが「神聖なる」 「聖式の」マントをまとっていて、たいがいその世俗化が目に見えないからである。」クレーマーはしかし世俗化を単に福音の敵とだけみないで、教会とこの世に共通の現実であり、そこには最大の危険とともに最大の可能性もが含まれていると考える。これもボンヘッファーの成人せる世界に対する考えと同じである。つまり世俗化には積極的側面,本当の利点があるとみるのである。ではそれは何か、 「聖書の福音の光に照らしてみた場合、世俗化はたしかに精神がとほうもなく痩せ細る過程、人生の規範の基礎となるものに対する破局的な認識混乱・盲目 を意味する。しかしキリスト者の間ではとくに、世俗化はまた浄化作用をも有する。すなわちもしわれわれが賢明にもそれをみとめ確と把むならば,われわれ を徹底した現実直視へ導かずにはおかぬものであるというべきである。」世界の世俗化によって教会の世俗化はあらわとなり、教会は世俗世界の方法を用いその本来の職務から外れたのである。世俗化の浄化作用を言いかえれば、「世俗化の全過程は、神が教会をその真の性質と本来の職務へ召し戻し給い、キリストが生の一切の領域に王たるべきことを断乎として宣べるという教会の真の主張を、よりよく弁え知らしめ給うところの,皮肉なる仕方の一つである。」神は世俗化を通して教会にいやでも伝達の崩壊を知らしめ給うのであるから,教会はこれに達巡 ・不平 ・防衛的態度をとってはならない。しかも今なお教会は、自らを省みよ、自らを正せ、というこの神の声に十分耳を傾けていない。教会には既に確立した組織体があって、この事態を真剣に扱う勇気と信仰を奪っているのである。 さらにまた、世俗化のおかげで、教会と世界との境界を、伝統が確固としていた時よりはっきり見ることができる。真の教会はいつも少数であって、教会は成員の増減によって盛衰しないことが判るが、これも浄化の一面である。

教会の世俗化の一面は福音の世俗的解釈にもみられる,宗教が倫理化されるのもその一つ、キリスト教信仰が聖書の文言の不可謬性と共に立ちもし倒れもするように考えるのもそれである。非神話化というおぞましい方法を用いて、福音に制限を加えることに対するボンヘッファーの批評に、クレーマーも満腔の賛意を表するのである。

世俗化の積極面から目を離さぬ限り、この世は教会の解放者であるといえ、近代の聖書研究にも神の器としての意味がある。「教会にはこの大衝撃が必要であった。というのは、教会は、聖書はイエス・キリストが真理であることを教えるのだということを忘れ、聖書が真理だという誤った基礎に日を送っていたからである。」しかしクレーマーは決して基本主義(ファンダメンタリズム)ではない、これは神がわれわれをその摂理の下なるこの世俗的近代世界の中に置き給うたことを否むからである。

以上の世俗化に鑑みるとき、今日キリスト教国と呼ばれる国も、実はキリストを棄てた異教の虚無的世界であることが判る。クレーマーの現代世界の精神的情況についての洞識は、前稿(1)でのべたボンヘッファーのそれと根本的に同じで、誤るところがない。(引用終わり)


私個人の感覚に最もなじむのは「世俗化」を肯定的な意味で言うこと。「世俗化」が悪いと言われても困る。否定されると生きる場所が無くなる。それにしても寒い一日だった。冷たい雨がやんだら、春のうららの隅田川までニンジャ1000でまた行きたい。いま願っていることはそれ以上でもそれ以下でもない。

2025年3月29日土曜日

ファン・ルーラーの教授就任講演(1947年)の「パプア」の意味

ファン・ルーラーの教授就任講演「神の国と歴史」(1947年)を収録した論文集(右)

【ファン・ルーラーの教授就任講演(1947年)の「パプア」の意味】

グーグルで日本円に換算して「34,094円」と表示されて天を見上げる。名門Brill社のA History of Christianity in Indonesia (2008)。インドネシア・キリスト教史。一部をネットで読むことができた。本当は現物が欲しい。高額すぎて手が出ない。しかしファン・ルーラーの文章の意味がやっと分かった。

ファン・ルーラーが1947年11月3日に「ユトレヒト大学オランダ改革派教会担当教授(hoogleraar vanwege de Nederlandse Hervormde Kerk aan de rijksuniversiteit te Utrecht)就任講演」を行った。その冒頭で「パプア」(de Papoea)の話が出る。それをまるでジョークであるかのように面白がった人がいる。

ファン・ルーラーの意図を正確に読み取りたい。直前までは地方教会で牧師をしていた。教員として大学で教えるのは初めて。最初に任された担当科目は「聖書神学」(bijbelse theologie)、「オランダ(lit. 祖国)教会史」(vaderlandse kerkgeschiedenis)、「宣教学」(zendingswetenschap)の3科目。

講義準備で苦心したのは、3つの科目をどうしたら調和的に一致(harmonisch geheel verenigen)させるかであり、具体的に言うと「信仰の父アブラハム」と「この名門大学でオランダ神学の中心人物になったフーティウス(Voetius)」と「宣教地パプア」を同時に統一的に見る視点を得ることだったという。

これを面白がった人が「こうした表現の仕方の中にわれわれはファン・リューラーの意表を突いたファンタスティックな表現の自由さを見ることができるであろう」とコメントした。私はどう理解すべきか長年分からなかった。しかし「インドネシア・キリスト教史」がこの謎を解明してくれそうだと分かった。

ほんの少し読めた部分によると、パプアへのキリスト教宣教の開始は1855年。それ以前に公式の宣教がなされた証拠はないが、1520年以降、ポルトガルやスペインのフランシスコ会宣教師がモルッカ諸島で活動したが、パプアと貿易関係にあったので、間接的にパプアの宗教に影響を与えた可能性があるという。

興味深いことがたくさん書かれている。1550年のイエズス会の報告書にパプア諸島にキリスト信者がいると記されているとか、1931年から1962年まで活動したオランダ改革派教会の宣教師が、パプアのシャーマンが占いの道具として使用していたトマス・アクィナスの『神学大全』を発見したとも書かれている。

そのパプアで最初にキリスト教宣教を始めたのはゴスナー(Gossner)というドイツ人だったが、オランダ人牧師が援助したという。そのオランダ人牧師が、19世紀のオランダの信仰復興運動「レベイユ」の流れの人で、その教えが、現在のパプアのキリスト教の人たちの考えに非常に近いという。

そして、1855年に恒久的な伝道所(教会)が西ニューギニアに設立され、宣教師カール・オットー(Carl Ottow)とヨハン・ガイスラー(Johann Geissler)が活動開始。しかし、パプア人側はしばらく様子見。宣教師たちが最初に取り組んだのは現地の言葉を習得すること。単語帳や文法書を作成したという。

しかし、第二次大戦が始まる。1941年5月、ドイツ軍オランダ占領。オランダの宣教本部とパプアの通信遮断。1942年4月、日本軍パプア上陸、大部分制圧。ドイツ国籍所持者以外のすべてのヨーロッパ人宣教師とヨーロッパ人が抑留、東インドネシアの収容所に強制移送。1942年7月、日本軍が宣教師15人処刑。

1944年9月から1945年3月までマッカーサー司令部パプア設置。1944年7月までに日本軍パプア撤退。インドネシアの残りの地域は1945年8月15日まで日本軍占領下。オランダ政府は1946年初頭までパプアに戻れなかった。翌年1947年のファン・ルーラーの「パプア」発言が「ファンタスティックな表現」だろうか。

「信仰の父アブラハム」と「ユトレヒト大学神学部創設者フーティウス(Voetius)」と、第二次大戦で深い傷を負うた「パプア」を「同時に統一的に見る神学的視点」を得る苦労についての表明が「意表を突いたファンタスティックな表現の自由さ」のあらわれだろうか。違うのではないかと思えてならない。

2025年3月26日水曜日

2025年4月・5月の予定

ご用命をお待ちしております

【2025年4月・5月の予定】

以下の日程で出張します。よろしくお願いいたします。

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4月12日(土)13時~日本基督教団紅葉坂教会(神奈川県横浜市)

「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」

講演・関口 康

5月 9 日(金)19時~日本基督教団信濃町教会(東京都新宿区)

「東京教区北支区・東支区合同祈祷会」

奨励・関口 康

5月10日(土)8時~カトリック松戸教会(千葉県松戸市)

「松戸朝祷会」

奨励・関口 康

2025年3月25日火曜日

ホーケンダイクとファン・ルーラーの関係

『ユトレヒト大学神学部400年史』(2001年)

【ホーケンダイクとファン・ルーラーの関係】

最近入手したばかりの戸村政博訳・ホーケンダイク『明日の社会と明日の教会』(新教出版社、1966年)の本文にも脚注にもファン・ルーラーの名前は登場しない。ホーケンダイクの博士論文の指導教授がファン・ルーラーだったことは『ユトレヒト大学神学部400年史』(画像参照)のホーケンダイクの章に記されている。

ホーケンダイクは1912年5月3日生まれ、ファン・ルーラーは1908年12月10日生まれ。4歳差。ホーケンダイクは世界教会協議会(WCC)初代宣教部幹事。宣教(apostolaat)と神の宣教(missio Dei)はホーケンダイクが最初の発案者ではないけれども、WCCの宣教論の土台に両概念を据えた人であるとは言える。

残念ながら私は戸村政博牧師(1923-2003)にお会いできなかった。1962年から1974年まで日本基督教団宣教部幹事。ホーケンダイクの同書の日本語版(1966年)はその時期の戸村先生訳。ファン・ルーラーはその影すら見えない書物だが、日本基督教団はホーケンダイク経由で間接的な影響を受けたと言える。

今読んでいるファン・ルーラーの文章に、WCCへの距離感が表明されている。まだ正確な紹介ができるほど読めていないが、ローマ(カトリック)教会などと比べればオランダ改革派教会(NHK)の規模は小さいので、公平な対話や協力は難しいのではないかという意味のことをファン・ルーラーが書いている。

その一方でファン・ルーラーは「改革派教会」をecclesia catholica reformata、つまり「改革されたカトリック教会」であるととらえ、自分たちをまるでキリスト教の一形態であるかのように言うのは間違いで、そういう分派主義的な発想は「最良の堕落は最悪」(corruptio optimi pessima)だと批判する。

私見によれば教文館版ファン・リューラー『伝道の神学』(2003年)の表題は誤訳だが、「序」の中の「ホーケンダイク教授は教会の委託を受けた教授である」(13頁)も重要な言葉が脱落。原文"Prof. Hoekendijk is - mirable dictu - kerkelijk hoogleraar”。mirable dictuは「なんとびっくり」ぐらい。

kerkelijk hoogleraarは「教会の委託を受けた教授」で意味は合っているが、当時のユトレヒト大学やライデン大学などの神学部に配属された「オランダ改革派教会担当教授」の略称。改革派教会の大会で任命された教授だったので、やっかみの対象になって就任後しばらく他の教授全員から無視されたらしい。

ホーケンダイクについてファン・ルーラーがmirable dictuと書いた理由とニュアンスが今までよく分からずにいたが、この2人が指導教授と学生の関係だったことを知って、やっと腑に落ちた。教え子の活躍に対するうれしい気持ちと、元学生の「行き過ぎ」に苦笑いせざるをえない気持ちの両面あると思える。

とにかくはっきりしているのは、最初期の世界教会協議会(WCC)の宣教論を構築し、日本基督教団の初期の宣教論に影響を与えたクレーマーとホーケンダイクと同じ日本語で、ファン・ルーラーのapostolaat概念は訳されなくてはならないということ。そうでなければ何の議論をしているのか分からなくなる。

2025年3月24日月曜日

「板書説教」なら専門用語が多くても大丈夫なのだ

これがニンジャ1000の「倒立フォーク」だ

【「板書説教」なら専門用語が多くても大丈夫なのだ】

最近まで「倒立フォーク」の意味を知らなかった。「それが採用されているからツアラーなのにスポーツもこなせる」と説明される。「倒立」の意味は逆立ちだろう。「フォーク(食器)の柄が下向き」という意味か。それとも「横に倒れた(?)フォーク」という意味かと思っていたが、そうではなかった。

これで何を言いたがっているかといえば、専門用語というのはどの領域にも必ずあるということだ。知っている人と知らない人がいて当然だし、分からなければ自分で調べるか、知っていそうな人に質問すればよい。ただそれだけの話なのに、教会だけたいてい別扱いになる。「専門用語を使った」と叱られる。

いま言いたがっていることの結論は「専門用語は教会でも積極的に使うべき」。専門用語を避けて話そうとすると、説明が長いのに正確でない話が延々と続いてしまうから。ただし、専門用語を使ったうえで即座にその意味を図や文字で解説すべき。そのために「板書」が必要。「板書説教」もあり、という話(【「板書説教」自己評価 6か月点検】)。

「倒立フォーク」の意味は書かないでおく。知っている人は「何を今さら」と思っておられるだろうし、知らなくて興味を持ってくださった方は、「俺の指先一本で 一本で(「一本で」を2回言う)」(テレビアニメ「怪物くん」(1968年)OP「おれは怪物くんだ」より)、意味が分かる時代になっている。

2025年3月22日土曜日

どうすれば伝道できるか

ファン・ルーラー牧師の初任地「クバート村」訪問(2008年12月8日)


【どうすれば伝道できるか】

「教会離れ」と言うと個人の気持ちの問題だけのようになる。しかし、信教の自由なり政教分離なりは国策で教会を社会から隔離することなので個人の問題ではない。私がかつて授洗させていただいた元法務官僚が「若い頃から洗礼を受けたかったが、職場で中立を求められた」と教えてくださったことがある。

ファン・ルーラー存命中のヨーロッパはすでに「教会離れ」または「教会隔離」がかなり進んだ段階で、「教会が地域社会や多くの人の生活からますます孤立し、何百万もの人々が二度と教会に来ない」と書いている。そのことを「憂う」教会人も多かったようだが、ファン・ルーラーは「憂い」はしなかった。

どうするのかをファン・ルーラーが書いている。「できることはただひとつ、普通の生活をすべての人と過ごすこと」(Dan kan men maar één ding doen: gewoon het leven van alle mensen meeleven)だという。オランダ語のgewoon(ヘヴォーン)は「平凡」(へいぼん)と訳せる。音が似ていて興味深い。

しかし、それで終わりではない。「突然、神とキリストの話題になる」(Plotseling komt dan het gesprek op God en Christus)。この「突然」をどのように理解すべきかは難しい。相手にショックや恐怖を与えるような「突然」は不自然で逆効果。「誘導」(induction)も良くない。カルトの手法だろう。

ファン・ルーラーは続ける。「その場合、福音は簡単な言葉で表現され、述べられなければならない」(In simpele woorden moet dan het evangelie gerepresenteerd, tegenwoordig gesteld worden)。プレゼンは簡潔に。大事なことを言っている。SNSは簡潔に。長々と書いても誰も読まない。説教も同じ。

「そこから新たなコミュニティが生まれるかもしれない」(Misschien groeien daaruit dan weer nieuwe gemeenschapjes)とも書いている。生み出してやろうという野心は持たないほうがよい。誰と話そうと金儲けとエンタメと政治の話題で終わらず、宗教やミステリーや哲学が関係してくるだろうという話。

ファン・ルーラーが書いているのは教会に人を誘い込むための誘導(induction)の手法ではない。「まるで魔法のステッキをふれば何百万もの人々を教会に呼び戻せるかのように言うのは、フィクションを弄(もてあそ)んでいるだけのように私には思える」と書いている。おっしゃるとおりに私にも思える。

「キリスト教では諸集会の公開性が重要。だれでも参加できる公開された礼拝や諸集会で、聖書、讃美歌、説教、祈り、信仰告白、聖餐が行われる。順序は多少は変更可。しかし、遅かれ早かれ、この基本パターンが再び光り輝くだろう」とファン・ルーラーが書いている。以上1959年の新聞記事。私は大賛成。

2025年3月21日金曜日

越えられない一線

愛車カワサキニンジャ1000(記事とは関係ありません)


【越えられない一線】

「専門用語を使わず」はごもっともながら、ほぼ言うまでもない注意点が無くはない。仏教や神道や他宗教の用語に置き換えると「理解しやすくなった」と歓迎してくださる方がキリスト教と一切無関係のイメージで神とキリストと教会をとらえていたりしたことを知る機会は少なくなく、そのたび落胆した。

牧師の役割が、宗教混合の現実に身を置く方々の「罪悪感」の除去ないし緩和にあるかどうかは、よく考えるべき課題だと考えて来た。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。30年前は激しくスゴまれた。「私は代々神道の夫と結婚した。元旦は教会より神社を優先する。その私を切り捨てるのか」と。

正確には1996年11月、29年前。私は31歳。スゴんだ人はその人なりの華々しい経歴をお持ちで、自費出版物などもあった。私のほうが立場が弱い。しかし、言いなりになるつもりはなく、同意も認証もせずに沈黙し、私が身を引くことにした。その手の圧力に屈するなら、牧師になった意味がないと心底思った。

爾来、「宗教混合」の罪悪感の除去ないし緩和に力点を置く牧師、神学者、聖書学者が、ほぼ苦手。守るべきものが違う。その点は変わっていない。SNS等ですり寄って来ても、しばらく様子見したうえで、傷つけないように時間をかけて、そっとブロ解。会っても、話しても、おそらく分かり合えないと思う。

2025年3月20日木曜日

クレーマー、ファン・ルーラー、ホーケンダイク

オランダ改革派教会(NHK)の宣教論


【クレーマー、ファン・ルーラー、ホーケンダイク】

いま私が頭を抱えているのは、クレーマーと、クレーマーの影響下で「宣教」(apostolaat)理念を戦後のオランダ改革派教会(NHK)の教会規程に位置づけることに大きな役割を果たしたファン・ルーラーと、ファン・ルーラーのもとで博士論文を書いたホーケンダイクの関係を解明することだったりする。

しかし比較作業が難航。とりあえず日本語版を読み比べるしかないが、クレーマー『宣教の神学』『信徒の神学』(共に小林信雄訳、1960年)もホーケンダイク『明日の社会と明日の教会』(戸村政博訳、1966年)も底本は英語。しかし3者の母語はオランダ語なので、オランダ語に戻して比較する必要がある。

それもそうだが、3者の「生きた」対話ないし対立をなるべく正確に読み取りたいと願うが、それは人と人の感情レベルの交流の要素なので第三者に立ち入れないところがある。何を言いたいかを説明するために一例挙げる。ホーケンダイクが宣教のプロパガンダ的側面を完全に拒絶する(同上書、25頁以下)。

ホーケンダイクはmissions(宣教)とpropaganda(宣伝)の峻別をマルティン・ケーラーの用法に従って理解する。前者は尊敬とへりくだりをもって種をまくことだが、後者にはそれらが欠け、自分を押し付け、自分をよりどころとし、自分の言葉を頼りにするという。おそらく多くの人が納得する説明だろう。

このホーケンダイクの英語版"The Church Inside Out"の出版年は、日本語版と同じ1966年。その6年前の1960年にファン・ルーラーが「プロパガンダと無私」と題するエッセイをユトレヒト新聞で発表。その内容は、驚くことに、宣教におけるプロパガンダ的要素の擁護。しかもだいぶきつい言葉で書いている。

ファン・ルーラーの言い分は「無私の奉仕を理由にプロパガンダから逃避できるのか。それはペテンと自己欺瞞だ。私はフェアに生きていると感じるところに自己欺瞞がある。彼らは悪意など持っていない。悪意がないからこそ人を欺くペテンなのだ」(ほぼママ)という。ホーケンダイクの真逆の線と言える。

いま挙げた2人の文書の発表年はファン・ルーラーが先、ホーケンダイクは後。しかし、両者の対立がこのとき始まったものかどうかは分からない。そして、忘れられるべきでないのは、両者が互いをよく知る関係にあったこと。もうひとつは、この議論に限っていえば、どちらも正しいと言えそうであること。

こういうことを考えているときの私はとても楽しい気持ち。しかし、そのプロセスをネットでだらだら垂れ流していいかどうかは不明。こんなだらだらは、論文にも本にもしようがない。でも、自己弁護として言わせてもらえば、これって大事なことだと思いませんかと、だれかに聞いてもらいたくて書いている。

たまに耳にしてがっかりするのは、宣教なり伝道なりに関して「理屈ではない」とか「勉強好きですね」と言い出されて、宣教論の議論を妨害されたり牽制されたりすること。「難しいことを考えているヒマがあるなら〇〇しなさい」とかね。悩み無用(なやみむよう)とは行かないと思いますけどね。

2025年3月19日水曜日

オランダ改革派教会 1951年版「教会規程」の研究書

H. オーステンブリンク=エヴァース氏の博士論文(2000年)

【オランダ改革派教会 1951年版「教会規程」の研究書】

かなり前にお見せしたことがあるが、オーステンブリンク=エヴァース氏の博士論文『オランダ改革派教会(NHK)1951年版「教会規程」の土台と背景』(2000年)を避けて通れなくなっている。出版後まもなく買ったが、当時の私は日本キリスト改革派教会の教師。NHKとの教団レベルの付き合いがなかった。

当時のNHKは、早い話、日本キリスト改革派教会からすればリベラルすぎて近づけない感じ。2004年にはNHKと、訳せば同じ「オランダ改革派教会」になるGereformeerde Kerken in Nederlands(GKN)と、オランダ王国福音ルーテル教会(ELK)の計3教団が合同して「オランダプロテスタント教会」(PKN)創立。

しかし、今の私は日本基督教団にいる。オランダ改革派教会(NHK)の「改革派」(Hervormd)は「カトリックでもルター派でもない」ぐらいの意味しかなく、非常に広い概念。20世紀のNHKの中に「レモンストラント派」(アルミニウス主義のグループ)がいたりした。NHKの「幅」は日本基督教団に似ている。

今は存在しないので「旧」と付けるべきNHKの1951年版「教会規程」(Kerkorde)の成立過程をオーステンブリンク=エヴァース氏が徹底研究。ナポレオン時代以来手付かずだった古い教会規程を大改訂する委員会に若きファン・ルーラーが属し、「宣教」(apostolaat)の理念を教会規程に明確に位置付けた。

そして、私にはまだ不明な点が多々あるが、その旧NHKの1951年版「教会規程」において、同教団の構造がトップダウン方式から代議員方式へと変更されたり、「戒規」の位置づけが明確になったりしたことが、ファン・ルーラーだけの貢献ではありえないが、彼の果たした役割としばしば結び付けて語られる。

今の日本基督教団の教憲教規のままで十分なのか、問題があるのかは、教団から途中19年も離れていた浦島太郎の私にはよく分かっていない。根本的に見直す必要が生じたときは、オーステンブリンク=エヴァース氏の博士論文は必読書になると思う。オランダ語と法学に強い方にぜひ全訳していただきたい。

私にもできそうなことは資料集め。本を買うことと、本棚に並べることと、背表紙の写メを撮ってSNSで公開することぐらいはできる。それ以上のことは私の役割ではありえない。笑点は落語家さんだけで成立しない。山田くんがいないと。たまに、からかわれて腹を立てて座布団を全部持って行ったりはする。

2025年3月18日火曜日

クレーマー『信徒の神学』ドイツ語版が届く

ヘンドリク・クレーマー『信徒の神学』ドイツ語版(1959年)

【クレーマー『信徒の神学』ドイツ語版が届く】

2025年3月17日(月)クレーマー『信徒の神学』ドイツ語版(1959年)が届く。オリジナルは英語版。日本語版あり。クレーマーのapostolaat(宣教)概念の使い方を確認するため。確認できるかどうかは現物が届かないと分からない。それだけのために高い買い物。『宣教の神学』ドイツ語版もまもなく届く。

アポストラート(apostolaat)を「宣教」という意味で用いた最初の人はクレーマーではない。もっと前に造語されていた。イエスの弟子がアポストロス(ἀπόστολος)で「使徒」。ニケア・コンスタンチノープル信条(381年)に「聖なる、普遍の、使徒的(Ἀποστολικὴν)、唯一の教会」(カトリック訳)。

ナチスドイツからの解放の翌年の1946年2月18日オランダ改革派教会(NHK)に「教会規程委員会」設置。同年3月「教会規程解説書作成小委員会」設置。後者は8名。この中にミスコッテ、ファン・ルーラー、ヘンドリクス・ベルコフ(年齢順)がいた。彼らの神学的激闘を経て1951年版『教会規程』が生まれた。

オランダ改革派教会(NHK)の戦後再建の中心に教団書記フラーヴェメイヤー(Gravemeijer [1883-1970])、神学者バニング(Banning [1888-1971])、信徒宣教師クレーマー(Kraemer [1888-1965])がいた。3人は戦時中、抵抗運動に参加し投獄。牢内で意気投合。バニングは1946年労働党(PvdA)初代議長。

クレーマーは世界教会協議会(WCC)創立の1948年の前年1947年、WCCのシンクタンク「エキュメニカル研究所」初代所長に就任。WCC創立大会はアムステルダム(コンサートホールConcertgebouw)で開催。WCC初代総幹事ヴィサー・トーフト(Willem Visser 't Hooft)はオランダ改革派教会(NHK)の神学者。

1948年WCC創立総会に小崎道雄氏が出席。

小崎道雄氏:

1922-1924 日本基督教団霊南坂教会伝道師

1924-1931 同 副牧師

1931-1961 同 主任牧師

1946-1954 日本基督教団総会議長

1948-1961 世界教会協議会(WCC)中央委員

1948-1959 日本基督教協議会(NCC)初代議長

1960年(9-11月)、ヘンドリク・クレーマー来日講演。「それは...教団ならびに数教区一団となって、各所において、合計十数回も行われたが、その中心になったのは、10月11~14日、天城山荘で行われた協議会であり...各教区から80名をこえる人々が参集した」(『日本基督教団史』1967年、274頁)。

クレーマー来日(1960年)の前年の1959年11月1日から1週間、「日本宣教百周年記念大会」が、日本基督教団富士見町教会(記念礼拝、記念式典、記念講演会)や日比谷野外音楽堂(教会学校生徒大会、5千人)で開催。11月2日の記念講演の講演者は、WCCのヴィサー・トーフト(オランダ改革派教会(NHK))。

このように集まってくる情報に照らすかぎり、ファン・ルーラーが1953年5月にドイツで行ったドイツ語講演の題”Theologie des Apostolates"を日本語に訳す場合は、ヘンドリク・クレーマーのapostolaat概念に当てられてきた訳語「宣教」を当てるべきであることが明白である。別の話にされては困るのだ。

訳語自体はある意味どうにでもなる。「宣教」ではなく「伝道」であると言い張られたら阻止できない。この議論で大事な点は、クレーマーのapostolaat概念は教会自身が政治や社会の問題に取り組むことを必ず含んでいること。もし「伝道」という訳語でその事態を適切に表現できるなら、それでも問題ない。

2025年3月15日土曜日

ファン・ルーラーの文章に魅了される日々を送っている

ファン・ルーラー研究文献

【ファン・ルーラーの文章に魅了される日々を送っている】

誤解を避けたいと思ってはいる。実は最近、会議や訪問で外出しているときや礼拝の説教や週報を準備しているとき以外の多くの時間をファン・ルーラーの訳読に注ぎ込んでいる。その意味でサボっていない。だってこれほどの正論はないと思うほどなので。ゆがんだ心がまっすぐになる。炎上するタイプかも。

そもそもファン・ルーラーは自分の所属するオランダ改革派教会(NHK)の人々に読んでもらうためにほとんどの文章を書いた。それをたとえば日本基督教団の我々が読んでも理解できるはずがない。互換デバイスが必要だ。それとファン・ルーラーはジョークが多い。真面目な人が読むとカチンと来るだろう。

扱いに困る言い回しもある。たとえば、今夜読んでいる箇所で、改革派教会の「長老」(de ouderling)の役割を「美容師が女性の髪を整えるように(zoals de kapper de haartooi van dames styleert)、神の栄光のために人間の生を整えること」と表現している。私はこういうのは気になって仕方がない。

そのまま紹介したいと思える感動的な文章もある。改革派教会に「長老」がいるおかげで、強制の面が強くなりがちなビショップ中心の教会より「心を込めて」(hartelijkheid)という性格を教会に与えるという。「長老」は真理を強制せず、話し合って説得しようとする。その分、話が長いという。確かに。

重要な問題提起の宝が次々見つかる。ファン・ルーラーの「教会外のもの」(de buitenkerkelijke)と「教会的でないもの」(het buitenkerkelijke)の区別を私は25年前から重要だと考えて来たが説明が難しい。「教会外のものは教会外にとどまり続けるべきだ」と彼は言うが、あっという間に誤解される。

25年前、ある青年キャンプで主題講演を依頼され、その中でこの話をしたら、怪訝な顔をされた。その場で意見は出なかったが、冷たさや差別のような意味で受け取られた可能性がある。ファン・ルーラーの意図は「神が創造された世界の中にはキリスト教化される必要がない領域がある」ということなのだが。

1969年12月6日付け新聞記事(ファン・ルーラーが62歳で亡くなる1970年12月15日のほぼ1年前)にも「牛の搾乳、畑仕事(lit.穀物の収穫)、商売、機械操作、美の体験、善行」は「教会外のものだ」と記している。「キリスト教化されたバイク」が存在するかどうかという問いに置き換えることができるかも。

長くなったので、そろそろやめる。「長老は話が長い」とファン・ルーラーが書いていることは教師(牧師)にも当てはまる。彼のオランダ語を日本語に訳すよりも、彼の神学を学んだ者たちが自分の言葉で書くなり語るなりするほうが、誤解が少なくて済むと思う。私がいま言おうとしているのはそれだけだ。

2025年3月14日金曜日

2年目のニンジャ牧師

サイドパニア(後部トランクケース)を外したニンジャ1000

【2年目のニンジャ牧師】

教会内にその意識は無いし、無くてよいし、過去にそのような言説をもって教会を方向付けようとした牧師がいた形跡も無いし、無くてよいが、これまでの「経緯」と実際に継承されてきている「空気感」だけからいえば、いわゆる改革派・長老派の流れの、本流に近いものを受け継いでいる教会だと私は思う。

最初は「美竹教会伝道所」。開設者は、東北学院教会(現 仙台広瀬河畔教会)で受洗、青山学院高等部で聖書科教員を長年務め、日本基督教団の「補教師」(按手礼を受けていない教師)に生涯とどまった方。当教会の初期の会員がたの洗礼式は、美竹教会の浅野順一教師の司式による。美竹教会は旧日本基督教会。

教会の特徴はとにかく簡素。礼拝に儀式を意識させる要素はなく、牧師らしさを誇示する服装を好む牧師がいた形跡もない。下町情緒を色濃く残す商店街を出てすぐの通りに面した教会で、奥まった位置にあるわけではないが、教会堂が街並みにあまりに溶け込み、どこに教会があるのか分からないと言われる。

私にとってありがたいのは、当教会が戦後の開拓教会であること。私の岡山の出身教会も、日本基督教団教師としての初任地の高知の教会も、改革派教会教師として働いた2教会(山梨、千葉)も、直前の日本基督教団昭島教会も、すべて戦後の開拓教会。教団内「旧〇〇派」の支配と格闘してきた経緯がある。

日本基督教団の戦後開拓教会の出発は教派枠を超える。私の前任地の昭島教会は阿佐ヶ谷(旧メソジスト)と淀橋(旧ホーリネス)各会員の祈り、横田基地教会宣教師と日本人青年との出会い、旧東京教区(特に銀座の大村勇牧師、富士見町の島村鶴亀牧師)の協力と、旧救世軍の若き伝道者の献身で始まった。

そのような「混合した」教会に疲れを覚えたことが、私がいちど日本基督教団から日本キリスト改革派教会に移籍した理由に含まれていたことを否定しないでおくが、それを言うなら戦後の改革派教会の「混合」の度合いも教団と大差なかった。「混合」の現実からの逃避は全く不可能であると自覚させられた。

いま書いていることで誰かにあてこすったり、どこかを批判したりする意図は無い。私にとって最もネイティヴな「戦後開拓の混合主義教会」の流れをある意味でくみつつ、礼拝中もそうでないときも普段着でいられて、肩がこらない教会の牧師として2年目を迎えることができて良かったと言いたがっている。

2025年3月13日木曜日

『ファン・ルーラー著作集』の訳者の条件(仮説)

2023年3月13日付けのFacebook投稿

【『ファン・ルーラー著作集』の訳者の条件(仮説)】

これが2年前(2023年3月13日)。この時点で7巻を残すのみだった。しかし、先日届いた最新の巻は「7A」。まだ続きがある。何度も書くが『ファン・ルーラー著作集』の刊行開始は2007年。当初は2012年ごろ完成予定と予告されていた。しかし、今年2025年になっても完成しないし、どんどん量が増えている。

私は「乗り掛かった船なので」と付き合ってきたが、乗る船を間違えたようだと後悔の念を深めている。いずれにせよ私ごときは全く手に負えない。かろうじて大型バイクの免許を取ってニンジャ1000に乗ることはできるようになったが、ファン・ルーラーはジェット旅客機だった。これは大変なことになった。

日本語版の必要性を訴えた責任は私にある。しかし、現時点で7巻、11冊。もっと増える。仮にひとり1冊担当するとしても15名前後の訳者が必要。オランダ語を理解でき、神学と哲学の基礎知識があり、教会に通っている人。教会を知らない人にはファン・ルーラーは分からない。とてつもなくハードルが高い。

2025年3月11日火曜日

「遊び」と「宣教」の関係

『ファン・ルーラー著作集』7A巻(2024年)

【「遊び」と「宣教」の関係】

いま思いついたばかりなので確証はない。ファン・ルーラーが「遊び」(spel)を強調し、彼自身も遊び楽しむ神学者だったが、そのことと彼がオランダ改革派教会(NHK)教会規程の改訂作業に中心的に取り組み、「宣教」(apostolaat)を教会規程に明確に位置付けたことの関係がこれまで分からなかった。

でも、少し分かった気がする。「宣教」(apostolaat)と「遊び」(spel)の関係は、礼拝に楽しい要素を加味するとか、教会学校でゲームをするとか、教会や支分区・教区や任意団体の単位でキャンプを行うというようなこととは違う。それは遊びというより仕事。少なくとも教会の中の人々は遊べていない。

「それは牧師の働き方改革のようなことか。休日が欲しいのか」と言われるかもしれないが、それもピントがずれている。私の感覚で言わせていただけば、全く違う。それでは何なのかは、まだ分からない。とりあえず「遊び」を「仕事」よりも価値が低いもののように考えるのをやめることから始まると思う。

ファン・ルーラーは牧師をしたのち大学教授になり、有名なラジオ牧師になったので生活に困ることはなかったはずだが、海外旅行はしなかった。自転車で教え子の教会を訪問するのが「旅行」だったと伝えられている。学生時代は自分がサッカー選手だったが、後年は病気がちでプレイではなく観戦を愛した。

ファン・ルーラーが「ビリヤード」を愛していたことは現在刊行中の『ファン・ルーラー著作集』全7巻(未完)発売開始後に知られるようになった。自宅に台を持っていたかどうかは私は知らない。よく友人と集まって楽しんだらしい。そのとき「おいしいのをごくりと飲んだ」とも伝記文書に記されている。

「自転車旅行」も「サッカー観戦」も「ビリヤード」もそれを教会行事にするという話ではないし、それ自体にキリスト教に固有な意味はおそらくない。キリスト教グッズ業者の利益にもならない。しかし、ファン・ルーラーなら「これも宣教(apostolaat)だ」と言うのではないかと私は思う。確証はない。

私に思い浮かぶ言葉は「意外性」。失礼な話なのだが、「牧師さんなのに歌が上手なのですね」と言われたことがある牧師がいるだろう。「毎週礼拝で讃美歌を歌っていますから」と答えても信じてもらえない。歌以外でもいろいろ「意外だ」と思われている。それが、我々なりの「遊び」の成果なのだと思う。

2025年3月7日金曜日

教会自身に固有な目的がある

『ファン・ルーラー著作集』全7巻(現在7A巻まで)

 

【教会自身に固有な目的がある】

今夜読んだファン・ルーラーの文章は、”Apostolisch en apostolair”という題。初出は1969年8月30日付け新聞記事。彼の文章と長い付き合いの私は理解可能だが翻訳不可能。ファン・ルーラーも難しさは分かっていて、例文をあげている。De kerk moet apostolair zijn omdat ze apostolisch moet zijn.

このapostolischとapostolairは別の概念であるとファン・ルーラーが言っている。試しにグーグルに訳してもらったら「教会は使徒的でなければならない。なぜなら、教会は使徒的でなければならないからだ」という答案を出して来た。これは不正解。何の意味もない、ただの同語反復をしているだけになる。

この文章の趣旨を要約して紹介するのも難しい。とにかく両者は異なる概念なので区別しなければならないこと。ファン・ルーラー自身の宣教論はapostolischのほうであって、apostolairは過激な急進性があるということ。ファン・ルーラーは教会を守り抜く人。彼の神学は教会嫌いの人には嫌われるだろう。

この点においては私もファン・ルーラーと同じ線に立っているので、彼の神学が嫌いな人から私も嫌われるだろう。教会自身に固有の目的がある。教会のすべての目的は常に外部にあるのであって、教会は手段であるというわけではない。教会は、説教、聖礼典、カテキズム、教憲教規が重んじられる場である。

どれほど語学をきわめても、神学を理解することはできない。「教会」に主体的に参加しないかぎり。ファン・ルーラーの文章を読むたびにその確信を深める。

(2025年3月7日 5:35 a. m.)

2025年3月6日木曜日

ファン・ルーラーはホーケンダイクの指導教授だった

デイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』英語版

【ファン・ルーラーはホーケンダイクの指導教授だった】

先週2025年2月24日(月)日本基督教団東京教区東支区社会部主催の社会セミナーが富士見町教会(千代田区)で盛会のうちに終了した。私は主催者の中の人。講演者、川上直哉先生に心から感謝。詳細はクリスチャン新聞3月9日号をぜひご一読を。私が今から書こうとしているのは、関連事項ながらやや別件。

川上直哉先生は、現在爆売れ中の快著『私の救い、私たちの希望』(ヨベル、2004年)のご著者。まさに時の人。私は面識が無かったので、川上先生をお迎えするにあたり、まずはご著書を読み始めた。同時に、副題にあるデイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』の日本語版と原著英語版を入手した。

ところが、そこに躓きの石。ボッシュのセンパラ(フルネームで言いなさい)に「ファン・ルーラー」が登場しない。南アフリカ・オランダ改革派教会のボッシュが「宣教の神学者」ファン・ルーラーを知らないはずがない。ファン・ルーラーは同時代の神学者から無視され続けた人。そのたぐいかと落胆した。

しかし、それは誤解だった。ボッシュのセンパラ(省略やめなさい)に「ファン・ルーラー」が登場しないのは客観的事実。だが、ボッシュが紹介する多くの神学者たちの中にファン・ルーラーと深い関係にある人がいた。その人の名はJ. C. ホーケンダイク(Johannes Christiaan Hoekendijk [1912-1975])。

ホーケンダイクは戸村正博訳『明日の社会と明日の教会 (新教出版社、1966年)等で日本でも昔から知られてきたオランダ改革派教会(NHK)の神学者。ホーケンダイクの博士論文の指導教授がファン・ルーラーだったことが分かった。ファン・ルーラーはボッシュの本に登場しないが、しっかり仕事していた。

「宣教(apostolaat)」概念でクレーマーとファン・ルーラーはつながる。ホーケンダイクとファン・ルーラーは師弟関係。世界教会協議会(WCC)初代総幹事ヴィサー・トーフトもオランダ改革派教会(NHK)。クレーマーとヴィサー・トーフトの名前が『日本基督教団史』(教団出版局、1967年)に出てくる。

2008年12月11日(木)オランダ留学中の石原知弘牧師の案内で、ユトレヒト大学図書館内のファン・ルーラー文庫(Van Ruler archief)に行き、閲覧させてもらったのは日本の終戦(1945年8月15日)についてファン・ルーラーが書いたメモ。バイブルサイズくらいの用紙に小さい字でびっしり書かれていた。

私はこれからもファン・ルーラー研究を続ける。オランダ語は一向に上達しないが、翻訳は語学が得意な人にお任せしたい。私の関心は彼の思想、発言、行動、影響にある。ファン・ルーラーは1970年12月に62歳で亡くなった。インターネット時代は知らないが、アポロの月面着陸(1969年7月)は知っている。

また原稿を2つ抱えている。私にオファーは二度と無いと思っていたのでありがたいが、うれしい悲鳴。ひとつは「戒規」に関する件。とてつもなく深刻な問題であることを改めて認識し、頭を抱えている。もうひとつはファン・ルーラーの紹介。光栄なことだ。私の人生が問われる。蘭学事始、はじめの一歩。

2025年3月5日水曜日

「宣教」か「伝道」か

ヘンドリク・クレーマー『宣教の神学』『信徒の神学』日本語版

【「宣教」か「伝道」か】

日本語版があるヘンドリク・クレーマー『信徒の神学』『宣教の神学』独語版("Theologie des Laientums" und "Die Kommunikation des christlichen Glaubens")をドイツの古書店に注文完了。「宣教」か「伝道」か。ファン・ルーラーはクレーマーの「宣教」(apostolaat)概念を継承。

ファン・ルーラーのapostolaatを「伝道」と(誤って)訳すと袋小路に陥る。「宣教」は包括概念なので、それを「伝道」と誤訳してしまうと、それと区別される狭義の「伝道」について「福音の宣べ伝え」など奇異で不適切な用語を造語せざるをえなくなり、ボタンの掛け違えが起こる。実際に起こっている。

ファン・ルーラーのapostolaatを「伝道」と訳したい人は「キリスト教会の、政治・社会の諸問題に対する取り組み」を意図的に締め出すことに躍起である。しかし、ファン・ルーラーが継承したヘンドリク・クレーマーの「宣教」(apostolaat)概念に教会の政治・社会への取り組みは明確に内包されている。

上記の事実について文献的な確証を得るために、クレーマーの『信徒の神学』と『宣教の神学』のドイツ語版を注文した。ネットは便利。ポチッと押すだけ。あとは待つのみ。早く来い来いクレーマー。「宣教」か「伝道」かだのいう空虚な議論を終わらせたいとひそかに願う。とネットに書く毎度のパターン。

北村慈郎先生の名誉回復を求めます

北村慈郎牧師を表敬訪問しました(2024年10月2日~3日)


主張「北村慈郎先生の名誉回復を求めます」

関口 康(日本基督教団足立梅田教会牧師)

学生時代から尊敬する小海基先生からご依頼いただきましたので、本稿の執筆をお引き受けしました。私が高校からストレートで1984年4月に東京神学大学の学部1年に入学したとき、小海先生は大学院2年生でした。学生寮での自主的な勉強会でバルトやボンヘッファーの神学について小海先生から手ほどきを受けました。40年越えの関係です。

私は昨年(2024年)3月1日付けで足立梅田教会牧師に着任しました。私に足立梅田教会を転任先として紹介してくださったのは東京神学大学の学長です。足立梅田教会に来るまでの私は、この教会が北村慈郎先生の牧者としての歩みの「原点」であったことを知りませんでした。

加えて、私は1990年4月に日本基督教団(以下「教団」)補教師准允、1992年12月に正教師按手を受けて計7年間、教団所属教師として四国教区や九州教区の教会で働きましたが、1998年7月より2015年12月まで日本キリスト改革派教会(以下「改革派教会」)の教師であり、2016年春に教団教師に戻った者です。北村先生の教師免職が執行された2010年時点の私は完全な「部外者」で、大変失礼ながら、対岸の火事を見る思いで報道に接しました。

しかしながら、北村先生の「戒規」は、決しておおげさではなく、私の「人生」に大きな影響をもたらしたことを申し上げねばなりません。この件は、昨年(2024年)10月2日(水)から3日(木)にかけて、私が北村先生のお宅を訪ねて直接打ち明け、ご了解いただいたことです。

それは、私が1997年に教団から改革派教会に移籍した理由は、1995年1月の阪神淡路大震災発生後に発生した「ナイフ事件」の当該教師に何らの戒規もなされない教団のシステムに恐怖に近い感情を抱いたからだった、ということです。

私も神の御前で、ひとりの罪人である。その私が何をしようと免職できない教団にとどまるのは危険であると認識し、「戒規」が可能な改革派教会に移籍しました。それが私自身を含む、神の言葉の説教者の暴走を食い止める唯一の手段であると、当時の私は考えました。

それで、改革派教会の教師だったころ、同僚の牧師相手に繰り返し話していたのは、「私が教団を離脱した理由は他人に向けてナイフを取り出した教師すら免職する仕組みがないことに尽きる。教団でもし、1件でも教師免職が行われたら逆立ちして歩いてもよい」ということでした。絶対にありえない、という意味でした。

私が逆立ちして歩かなくてはならなくなったのは(逆立ちはできないのですが)、2010年の北村先生に関する報道に接したときでした。教団を批判する理由が無くなったと認識しました。以上の経緯と、「教師免職」の英断に至られた教団への敬意と、教団は「免職」を行いえない欠陥システムであると思い込んでいたことへの謝罪を、教団教師検定委員会から課題として出された小論文に明記したうえで、教師転入試験にパスして教団教師に戻ったのが2016年春でした。つまり、北村先生の「免職」のおかげで、今の私は教団の教師なのです。

しかし問題は、北村先生に対して教団がおこなった戒規の内実です。申し上げたとおり、私は完全なる「部外者」でしたので、事実経過を精査する立場にありませんでしたし、意見を述べる立場にも、賛否を問われる立場にもありませんでした。それは現在も大差ありません。

比較的詳細な情報を知りうるようになったのは、昨年3月に足立梅田教会に着任してからです。おりしも昨年(2024年)9月に1年遅れの「足立梅田教会創立70周年記念礼拝」を行うことになり、説教者として当教会第2代牧師である北村先生をお招きすることになりました。打ち合わせの際、北村先生ご自身や足立梅田教会の教会員の方々から、北村先生に対して教団がおこなった「戒規」があまりに一方的で卑劣なものだったと教えていただき、由々しきことだと思いました。

つまり、私が支援会の活動に心惹かれるようになったのは、「聖餐を開くか閉じるか」の議論にかかわりたいからではなく、教憲教規違反の被疑者として訴えられた一教師に対して現実に執行された「免職」の正当性に疑義を抱く人々の声に、もっと多くの人が耳を傾けるべきだと考えるに至ったからです。

この点をご理解いただけないかぎり、あっという間に、私まで色付けされてしまうでしょう。実際、足立梅田教会の礼拝説教者として北村先生をお迎えすることを教会ブログで公表しただけで、「関口牧師はオープン聖餐派ですか」という問い合わせが複数の方面から届きました。なんというステレオタイプ。なんという愚かな決めつけ。このような憶測と偏見に基づく監視と弾圧が北村先生ご自身と支援者がたを苦しめる元凶だったのだろうと、わが身で知ることができました。

私は一度ウェストミンスター信仰基準と礼拝指針に同意した者であり、日本基督教団に戻ったからといってその点は撤回していませんので、聖餐論に関して疑義を受ける立場にはありません。失礼なことを言わないでほしい。

日本キリスト改革派教会で信徒や教師に「戒規」を執行する場合の基準は、同教会の教会規程第2部「訓練規定」です。1968年の大会で同規定が設けられ、何度かの大改正を経て今日に至ります。私が改革派教会に在籍していた時期に当たる2008年にも大改訂が行われました。私が教団に戻った2016年以降の「訓練規定」がどうなっているかは知りません。

私が、北村先生に対する教団の仕打ちについて、北村先生ご自身や支援者がたからお話を伺いながら思い起こすのも、改革派教会の「訓練規定」の内容です。

たとえば2008年改正版の同規定第20条に「小会および中会は、その管轄下の人々の信仰と行状についての好ましくない報道に接したときは相当な注意と十分な思慮分別をもって判断し、必要と認めるときはかれらに満足な釈明を求めなければならない」とあります。この「かれら」に当てはまるのは、北村先生と支援者がたでしょう。免職戒規の執行前もその後も「満足な釈明の機会」を設けられたことがないゆえに、抗議を続けておられるわけでしょう。

日本基督教団の「教団(総会)」と「教区(総会)」と「各個教会の役員会」との関係が、改革派長老派教会の「大会・中会・小会」のような3段階の法治システムになっていないことをもちろん私は承知しています。しかしだからといって、教団の一教師を免職する際に、当該教師が牧会している教会の教会総会の承認を受け、所属教区も同意していることを、教団のごくわずかな人々が教師免職に値する重大な教憲教規違反であると判断し、北村先生ご自身との面接すらせずに免職を言い渡すというのは、少なくとも改革派教会では絶対にありえないことですし、30余派の旧教派の寄り合い所帯の日本基督教団だから許されるという論理も、私には容認しがたいです。

しかし、日本基督教団の教憲教規であれ、改革派教会の教会規程であれ、「法」であることには変わりありませんので、条文を持ち出して云々するのは、不毛な解釈論争を招くだけで徒労に終わることを私も知っています。

それよりも私がご紹介したいのは、私が改革派教会にいたころ直接かかわった教師戒規の実例です。伝聞ではなく実際の審議に参加しました。「実例」の紹介は個人の特定につながるので慎重にしなければなりませんが、日本基督教団においては北村慈郎先生以外の教師免職の「実例」がない以上、他の教団教派の「判例」を参考にせざるをえないではありませんか。

2つの例を紹介します。1件目は「試問なき洗礼を授けた教師」への戒規です。この例は教師免職の例ではありませんが「聖礼典(サクラメント)」の理解に関係する例なので、挙げます。

教会員のご家族で臨終間近の未信者の病床に当該教師と長老が訪問しました。教師の問いかけへの反応はほとんどない状態だったそうです。しかし教師は、その未信者に病床洗礼を授け、その方はまもなく召されました。その場に立ち会った長老が小会記録に「試問なき洗礼を執行した」と記録したところ、中会の記録調査委員会で問題にされ、中会会議の審議を経て当該教師に戒規が執行されました。戒規の内容は、私の記憶によると、陪餐停止を含む一時的な職務停止と、中会の関係委員会との定期面接と、ウェストミンスター信仰基準の洗礼論についての論文を書くこと、でした。

2件目は「他人の説教を盗用した教師」への戒規の例です。当該教師は、加藤常昭牧師の説教集からの、句読点たがわぬ書き写しを、長年にわたり常習していました。その書き写し説教に感動を示す信徒が多かったので、やめられなくなったようです。当該教師が最後に牧会した教会の長老が説教盗用の事実に気づき、詳細な調査報告書を作成して中会に訴えた結果、当該教師に対し、即時免職の戒規が執行されました。

その際、当該教師もご家族(特にお連れ合い)も、免職の戒規に服することに同意しておられました。教師本人が抵抗しているのに一方的に免職を言い渡すことが改革派教会で行われたことは、1970年代にいわゆる異言問題に関することで1例ある(ただし教師自身が退会届を提出)以外はほとんどないと思われます。

日本キリスト改革派教会にいたころ私の目の前で見た教師戒規の2例が、北村先生に対して教団がおこなった戒規とどういう関係にあるかを論じるのは難しいです。「別ルールである」と言われてしまえばそれまでです。しかし、今の私の目で見ると、北村先生に教師免職の戒規が執行されたまま、再審理も名誉回復もなされないのは、あまりに行き過ぎの仕打ちに見えて仕方ありません。

その一方で、教団執行部側に強い影響力を持っていた教師たちがかなり次々と性的なトラブルを起こしたことが教会内で発覚したにもかかわらず、教師免職ではなく教師隠退や転任という形で救済されているという情報を耳にすると、北村先生だけがなぜ免職なのかが、私にはいよいよ理解不可能になります。

私個人の感覚で言わせていただけば、北村先生がなさったことに対する教師免職という戒規は、量定としては重すぎるものであり、なにがなんでもどうしても、というならウェストミンスター信仰基準の聖餐論についての論文を書いていただくぐらいで十分だと考えますが、日本基督教団のルールにそぐわないことは、もちろん理解しています。北村先生に対しても失礼な言い方で、申し訳ありません。

先ほど紹介した改革派教会での1例目の戒規の件では、「試問なき洗礼」の是非が問われました。現在の日本基督教団で同様の問題が問われているかどうかを私は知りませんが、そもそも「洗礼に先立っての試問」が、教団の教会の中で、どの程度まで厳密に行われているかを調査するほうが有意義であるように思えます。

そのときも「あの長老が小会記録に『試問なき洗礼を執行した』と書かなければ済んだのに」とつぶやく人たちの声を耳にしました。これと同じような声が、日本基督教団の中でも、とくに「洗礼と聖餐の関係」の問題については、いくらでもつぶやかれているのではないでしょうか。性的なハラスメントや説教盗用のような問題には逃げ腰のように私には見える日本基督教団が、聖礼典(サクラメント)の問題に限っては、北村先生の免職戒規を取り下げようとしないのは、バランスが悪すぎるように見えて仕方がありません。北村先生の免職戒規が取り下げられ、名誉回復がなされることを、私個人は祈ってやみません。

(『北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会通信』第35号、2025年3月5日発行、13₋16頁掲載)

2025年2月28日金曜日

「板書説教」自己評価 6か月点検

ホワイトボード

【「板書説教」自己評価 6か月点検】

昨年(2024年)夏から始めたホワイトボードとマーカーを用いた「板書説教」が半年以上。悪い面もあるに違いないが、いま問題にしなくてもいい。以下良いと思える面。順不同。

①同音異義語が多い日本語で、耳で聞くだけで理解できる説教を続けることに限界を感じたことがある説教者たちの活路になる。

②説教中の板書が許可されれば、聖書原典のヘブライ語やギリシア語や、キリスト教の専門用語や現代社会の専門的な知識などの解説に躊躇なく踏み込んで説教することができる。

③板書の手書き速度が説教の進み具合をゆったりしたものにし、理解できないまま置いてきぼりにされる出席者がいなくなる。

④前記③の言い換えだが、事前に印刷したプリントを配布したり、パワーポイントとプロジェクターで「文字や画像や動画」を映写しながら説明する方法と比べて、「板書説教」はのんびりしていて、人にやさしい説教になる。漢字の書き順や難読漢字など「今さら聞けない」知識を派生的に得られたりもする。

⑤「板書説教」は字に書いて説明しうること、つまり「言語化可能」という意味で「理性的・合理的」でありうる。説教者自身が理解できていないことを語っているのではないかと疑われる支離滅裂な説教は、そもそも言語化できていないので板書不可能。「板書説教」を聞いた後味は、モヤモヤが少ないはず。

⑥高齢や他の理由で音声が聞き取りづらい方々が「板書説教」や「説教のブログ公開」を喜んでくださっている。「説教で何が語られたかを理解したい」という願いがある。そのニードにスピーディーに、人にやさしく温かく応えられるのは「板書説教」。紙のプリントや、動画やビデオ通話の追随を許さない。

⑦「板書説教」は小学校から高校までの1教室(30~40名程度)か、大学の大教室(200名程度)と同じような造りの礼拝堂に向いているとは言える。「板書説教」が向いている礼拝堂かどうかで関係するのは、収容人員の問題ではなく「残響」の問題。音楽ホールの方向に近づいている礼拝堂は向かないと思う。

⑧「板書説教」は、主日礼拝を行う礼拝堂とは別に「ホワイトボード『もある』部屋」で行われるのでは、あまり意味はない。主日礼拝そのもののど真ん中で「板書説教」が行われてこそ意味がある。説教の声出しの調子も確実に変わる。音楽ホールで歌うように語る声出しの調子で「板書説教」は成立しない。

⑨コロナ後も教勢が戻らない教会が多いと聞く。巨大な礼拝堂を造ったはいいが、がらんどうに少人数という教会があるだろう。けなしているのではない。少人数だろうと集まっておられる方々に敬意を表する。ひとりひとりの心に届く語り方やふさわしい声出しができていない説教者がいないかと心配になる。

⑩「板書説教」は私が始めたことではない。足立梅田教会の初代牧師がお始めになった、当教会の伝統のようなもの。しばらく途絶えていたことを私が再開したにすぎない。初代牧師が青山学院高等部の聖書科教員をなさっていたため、キリスト教学校の「聖書の授業」や「学校礼拝」との区別や温度差がない。

⑪もうひとつ加える。「ホワイトボードにマーカー」ではなく「黒板にチョーク」にするかどうか迷った時期がある。まだ黒板がないので新規購入するかどうかで迷った。しかし、ホワイトボードで通すことにした。チョークをたまに手を滑らせて床に落とすと砕け散る。マーカーは落としてもびくともしない。

2025年2月26日水曜日

立派な信仰

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「立派な信仰」

マタイによる福音書15章21~28節

関口 康

「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」(28節)

今日の説教題は「立派な信仰」です。

この表現が朗読箇所の28節に出てきます。つまり、聖書の言葉です。主イエスの言葉です。

しかし、この題をご覧になったとき、皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。次の5つのうちからお選びください。

①ぞっとした、②悲しくなった、③腹が立った、④教会に行きたくなくなった、⑤翻訳の誤りかもしれないので説教を聞いてみたいと思った。

⑥どれでもない、も加えておきます。説明が必要でしょう。

昨日観ていたインターネットの番組でも、繰り返し語られていました。今はどういう時代なのかを考えるときに引き合いに出されるのが「宗教ゼロ」という言葉です。

ヨーロッパがそういう状態だと言われます。宗教だとか信仰だとか言われても何をどう考えればよいか分からないし、身につかない。この感覚は、私もかなりの面で共有しています。

それなのに教会の看板に大きな字で「立派な信仰」と書いてある。まったく理解に苦しむ、というような否定的な感情を呼び起こすために、この言葉を選ばせていただきました。お詫びしなくてはなりません。

翻訳の問題かどうかは、日本聖書協会の歴代聖書を読み比べるだけで分かります。

明治元訳(1887年)

大正改訳(1917年)

口語訳(1954年)

新共同訳(1987年)

聖書協会共同訳(2018年)

婦(をんな)よ、爾の信仰は大いなり。

をんなよ、汝の信仰は大いなるかな。

女よ、あなたの信仰は見上げたものである。

婦人よ、あなたの信仰は立派だ。

女よ、あなたの信仰は立派だ。

原文は「Ὦ γύναι, μεγάλη σου ἡ πίστις」(オー・グナイ、メガレー・スー・ヘー・ピスティス)。「立派」「見上げたもの」「大いなるもの」と訳されているのはμέγας(メガス)の女性単数与格μεγάλη(メガレー)です。

これは、メガロポリス、メガバイト、メガトンパンチなどの「メガ」(mega)の語源です。国際単位の10の6乗(100万)。「キロ」は10の3乗(1千)。「ギガ」は10の9乗(10億)。「テラ」は10の12乗(1兆)。

呼びかけの言葉も、翻訳が難しいです。直訳的な意味は正しくても「をんなよ」「女よ」「婦人よ」はなんだか失礼だし、「女性よ」もかなり微妙。「おねえさん」や「おくさん」は論外。そもそも「あなた」と呼ばれるのが不愉快だと言われることもあります。「お前」あたりは論外中の論外。

「おたくさま」は、意外なほど可能性があるかもしません。「おたくさまの信仰はメガトンパンチ級ですね」。

内容に入ります。登場するのは主イエス、弟子たち、そして「カナンの女」です。説明が必要なのは「カナンの女」です。結論から言えば、当時の差別語です。意図的に用いられています。

「カナン」は、エジプトにいたユダヤ人たちがモーセに率いられて戻って来た先祖の地の古い呼び名です。ならば「カナン人」がなぜ差別語なのかといえば、いま申した歴史が関係します。

エジプトから戻って来たユダヤ人の戦争相手が「カナン人」だったからです。あくまでユダヤ人の立場からすれば、ということになりますが、彼らがいなかった間にカナンに住むようになった人たちが「カナン人」です。現代のパレスチナ問題さながらです。

しかし、この女性がユダヤ人と戦争した時代の「カナン人」の純血を受け継いでいるという話ではありません。もっと広い意味です。そして差別的な意味です。説明自体に苦しみを感じます。「外見や方言などで、見る人が見れば分かる違いを持った人」というぐらいにとどめます。

この女性と主イエスが出会った場所は「ティルスとシドンの地方」(21節)。巻末の聖書地図「6」の最北端です。この女性がしたのは、主イエスに向かってひたすら叫び続けることでした。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(22節)。

「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」(23節)とあります。立ち止まられたかどうかも顔を向けられたかどうかも記されていません。どちらもなさらなかった可能性を私は考えます。実際の場面を想像すると、対応なさらなかった理由がなんとなく分かります。

私が抱くイメージは、通りすがりで手早く解決するとは考えにくい深刻な問題を抱えている相手に安易にかかわることが、かえって相手を傷つける場合がある、ということです。

しかしそれでも、どうして立ち止まってくださらないのですか、振り向いてもくださらないのですか、冷たすぎますよ、イエスさま、と言いたくなる場面であることは間違いありません。

主イエスの弟子たちが「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と言っています(23節)。この「ついて来ます」で立ち止まっていなさそうな様子が伝わってきます。弟子たちが厄介な存在を嫌がって舌打ちしたかどうかも記されていませんが、それに近い感じです。

そのとき主イエスが「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった(24節)とありますが、これが弟子たちに対してであって、その女性に対してではなかったことは慰めです。本人に直接言っていません。こういうことを言ってはいけません。

しかし、女性がひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と懇願したとき(25節)、主イエスは口を開いてくださいました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)と。

ひどい答えかどうかは考え方次第です。主イエスは人を「魚」や「麦」にたとえるおかたですから、「小犬」もたとえではないでしょうか。「大きな犬」ではなく「小犬」が選ばれていることに、ユーモアの要素が含まれているかもしれません。「子供」も、「小犬」と背格好が同じぐらいの幼児をイメージしてみると良さそうです。

「大変申し訳ありません。残りのパンが1個しかありません。うちの子(大きな子供を含む)が、お腹が空いたと泣いておりまして、小犬さまにお譲りできるものがありません」ぐらいではないでしょうか。「お引き取りください」とはねつけるような言い方ではありません。

しかし、そのときこの女性から返ってきた答えに主イエスが感動されました。「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」(27節)。

こう言いたいのではないでしょうか。

「確かに私は、あなたが守るべき神の家族の一員ではないかもしれない、ただの通りがかりの小犬です。そんなことは分かっています。しかし、あなたのパンが必要な者です。そしてパン屑もパンです。だれかの残りものだろうと、床に落ちていようと、そんなことどうでもいいです。私はあなたの食卓に共にあずかるべき者です。あなたのものは、私のものです。ここから一歩も下がれません」

この確信に満ちた求めを「これはメガトンパンチの信仰だ」と言って受け入れてくださったのです。

「立派な信仰」のイメージが変わったでしょうか。良い方向でご理解いただけますと幸いです。

(2025年2月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年2月25日火曜日

「聖書協会共同訳」の略称を考える

 

【「聖書協会共同訳」の略称を考える】

日本聖書協会の歴代聖書(明治元訳、大正改訳、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳)は約30年周期であることを日曜日の講演で教えられた。最新の聖書協会共同訳が2018年。30年後は2048年。もし私が次の改訳まで生きていられたら83歳。それまでにファン・ルーラーの主張を理解してもらう必要を感じる。

あと、「聖書協会共同訳」(7字)は長すぎるので略記を考えざるをえない。字数無制限の講演レジュメやブログでは問題にならないだろうが、SNSや週報などはせめて3字で略記したい。「聖共訳」(せいきょうやく)か「協共訳」(きょうきょうやく)か。2018年発行だから「十八訳」(じゅうはちやく)か。

略記の問題は面白半分で書いていると思われたくない。今はまだ礼拝では新共同訳を使っているが、そろそろ聖書協会共同訳を買って持っている人が増えてきている。そのため毎週の週報に両方の頁番号を書いているが、「(新共同訳P~、聖書協会共同訳P~)」と、そのことだけで貴重な紙面を費やしている。

アルファベットでも適切ならば問題ない。「聖書協会共同訳」の英語表記はJapan Bible Society Interconfessional Versionだろうか。「JBSIV」か、または「I」のあとに「C」を入れて「JBSICV」か。どうもピンと来ない。単に新しいという意味で「協会新訳」でも良さそうに思うが、原形をとどめていない。

意外と良さそうかもしれない案を思いついた。「せいしょきょうかいきょうどうやく」をローマ字で書いた頭文字をとって「SKK訳」でどうだろう。役員会で提案してみようかな。内部で理解できれば問題ないだろう。全国統一表記でなくていい。どこかで決めて強制する方式ではなく自由度が高いほうがいい。

2025年2月20日木曜日

私が3歳になるまでカール・バルトは生きていた

 【私が3歳になるまでカール・バルトは生きていた】

インターネット普及で個人的に助かっているのは、教義学者や聖書学者の略歴が詳しく分かること。我々が学生のころ講義やゼミで紹介された本の著者が、当時はご存命だったとか、もっと前の人だとかが分かる。なぜその情報が必要かは、言うまでもないだろう。どの本もその時代の中で書かれたものだから。

たとえばカール・バルトは1886年5月生まれ。1968年12月に亡くなる。私は、とだれでも自分と結び付けて考えるだろう。私は1965年11月生まれ。私が3歳までバルトは生きていた。日本の60年安保の情報はバルトの耳に入っただろう。だが、5歳の私が父の膝に座ってテレビで見た70年安保をバルトは知らない。

聖書学者も当然、時代の中で考えている。だれからともなくよく聞いた言葉は「アポロが月に行く時代に奇跡や復活を信じるのは愚か」(大意)。おっしゃるとおりと思っている聖書学者と、違いますと思っている聖書学者がいるだろう。どちらにせよ、実際にアポロが月に行かなくてはこの話は成り立たない。

神学に限ったことではない。ヘーゲルやマルクスの研究者が、いま起こっている事件や問題について「ヘーゲルなら」「マルクスなら」「だれそれ先生なら」こう考え、こう発言し、こう行動するだろうという本を書く。別に構わないと思うが、あくまで各著者の想像力による拡張であって、それ以上ではない。

大げさに話を広げるつもりはない。今書いていることの趣旨は、聖書やキリスト教の研究者がたの誕生日や逝去日や略歴は、著述された内容と無関係ではありえず、むしろ直接かかわる重要な要素なので、そういうことをインターネットで知ることができるようになったのはありがたい、ということだけである。

2025年2月12日水曜日

スーパーカブに乗れるようになりたかった

カワサキニンジャ1000(2025年2月11日撮影)

【スーパーカブに乗れるようになりたかった】

35年ぶりに原付ライダーになったのが2021年10月。ほぼすぐに昭島(当時在住)から茅ヶ崎まで直線距離約50キロ(も)ある非常勤先の週2通勤に原付で行くようになった。原付の2段階右折はむしろ助かったが、30キロ制限にかえって危険を感じたので、二輪免許を取得したくなった。コロナとの関係は結果論。

取得したくなったからと言ってすぐ二輪教習を始められるほど当時も今も余裕ある生活ではない。きっかけは実兄が自分のスーパーカブ110を譲ってもいいと言い出してくれたこと。二輪教習を始めたとき考えていたのは、本当の話、排気量を50ミリリットルから110ミリリットルまで増やしたかっただけだった。

でも、免許の区分が狭すぎるとすぐ欲が出て来てもっと大きいのに乗りたくなりそうな気がしたし、子どもの頃から大型バイクに憧れていたので、免許はそのうち取りたい、でも乗るのは一生スーパーカブ110だろうと思っていた。その読みが甘かったことに気づいたのは、CB400での教習が始まってからだった。

手こずりまくったのがとにかくクラッチ。エンスト連発、立ちごけ連発。やっとカラダで覚え始めたのが教習の1段階が終わるころ。これで卒業後スーパーカブ110に乗ってしまうと、せっかく覚えたことが全部無駄になる気がした。それで、実兄に断りを入れて400ミリリットルのバイクをネットで探し始めた。

中古のバイクがどこで買えるかを知らなかった。ネットで探すしかないと思っていた。行きつけのセブンに若いニンジャ400ニキの店員さんがいて仲良かったので「どこで買ったの」と聞いたら「レッドバロンです」と教えてくれた。ニキの紹介だったので話がスムーズに進んだ。持つべきものは友だと思った。

そもそもの動機が「原付の30キロ制限の壁を突破して、せめて50キロで走れるようになりたかった」だけなので、いちばん安いバイクにしようと思っていたし、古い価値観の人間なのでフルカウルとかはこっぱずかしいので「普通の」にしようと思っていた。ネイキッドという呼び方を知らなかった。しかし。

私が普通二輪教習を始めたのが2023年5月。実兄からスーパーカブ110を譲ってもらって乗る予定を変更して中免のバイクを買おうと決心して探し始めたのが同年5月ごろ。その頃すでに中古ネイキッドが目を疑うほど値段が高く、とてもじゃないが買えやしない。消去法でフルカウルを選ばざるをえなくなった。

国内4メーカーのネットカタログや中古車サイトを調べて最終選考に残ったのがCBR400Rとニンジャ400。セブンのニンジャ400ニキ店員が紹介してくれたレッドバロンに良さそうなCBR400Rがあったので「あれにしよう」と店まで行った。店長の話を聞いているうちにニンジャ400Rになった。店長に感謝している。

ニンジャ400Rは長く乗るつもりだった。400Rで首都高を初めて走ったとき「大型にする!」と思った。区間が悪すぎたかもしれない。恐怖の「C2」だった。昭島から犬吠埼まで行った帰り、四ツ木ICから入って湾岸線に行こうとしたら、海から突風。清新町ICで降りる。距離わずか10キロで、首都高ギブアップ。

同じ教習所で大型教習開始。バイク店長に相談したら1000を見せてくださった。試乗はしなかったが、座り心地やハンドルの高さが400Rに似ていて上位互換だと思ったので即決。排気量を50ミリリットルから110ミリリットルに増やしたかっただけの話が、1000ミリリットルまでうなぎのぼりすることになった。