日本キリスト教団上総大原教会(千葉県いすみ市大原9696) |
ルカによる福音書2章1~14節
関口 康
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」
上総大原教会の皆さま、クリスマスおめでとうございます。今年のクリスマス礼拝に説教者としてお招きいただき、ありがとうございます。今日もよろしくお願いいたします。
しかし、今日は12月24日、クリスマスイヴです。クリスマスは明日です。その意味では今行っているのはクリスマスイヴ礼拝なのかもしれません。
最初に個人的な話になって恐縮ですが、私にとってクリスマスイヴは2年前から特別な意味を持つようになりました。2年前の2015年12月24日に千葉県柏市の借家に家族で引っ越しました。そしてその1週間後の12月31日に教会の牧師を辞職し、19年間所属していた教派を退会しました。
よりによってクリスマスに牧師交代を求める教会に言いたいことはありますが、言うのを我慢しているだけです。2016年4月から2017年3月まで高等学校で聖書を教える常勤講師になりました。2017年4月以降は日本キリスト教団の無任所教師になりました。
つまり、私にとっての2年前のクリスマスイヴはのんびり楽しい日などでは全くなく、複雑な思いを抱えながら家族と共に新しい旅を始めた記念すべき日となりました。2人の子どもはすでに大学生と高校生でした。「妻がみごもって」はいませんでしたが、私と妻は「泊まる場所」を探しまわるヨセフとマリアさながらでした。
クリスマスとは何でしょうか。身も蓋もない言い方をしてしまえば、ひとりの赤ちゃんが生まれた日です。ただそれだけです。今でこそ世界中で大騒ぎする日であることになっていますが、特に名もない一般家庭に初めての子どもが生まれた日です。しかも旅先の宿も得られず、医者も看護師もいず、出産環境も劣悪極まりない中で、ほとんど人知れず生まれることになった子どもです。
それだけではありません。よく知られているとおり、マリアは未婚の母となりました。フィアンセのヨセフはマリアに宿る子どもが自分の子どもでないと知り、疑念と不安に陥りました。その事態を彼らは「天使のお告げ」でなんとか乗り越えました。
長旅を強いられたのは、その後のことでした。苦労して苦労してやっと生まれた子どもの出産祝いに駆けつけてくれたのは近所で徹夜で働いていた羊飼いたちと、遠い東の国から来た占星術師たち、そして「天使」でした。
彼らは野原や砂漠で子どもを産んだわけではなく、雨風しのげる屋根のついた場所だったではないか、それは幸せなことではないかという話になるでしょうか。誰もいなかったわけではなく、羊飼いや博士がいたではないか、何より「天使」が来てくれたではないか、それは幸せなことではないかという話になるでしょうか。
そういうふうに明るくポジティヴに解釈するのは、ある意味で自由です。しかし、新約聖書、とくにマタイによる福音書とルカによる福音書が、イエス・キリストの降誕の出来事について、これでもかこれでもかと描き出す状況はきわめて暗くネガティヴな意味しか持っていないと、私には思われてなりません。
乱暴な言い方はしたくありませんが、どうしても明るくポジティヴに解釈したい方は、その方自身が実際に同じ状況を味わってごらんになればよいのです。とか言うと「私は味わいました」「私もです」と次々に手を挙げてくださる方がおられるかもしれません。身に覚えのない妊娠。臨月の長距離旅行。家畜小屋での出産。「こんな幸せなことは他にない」などと言えるでしょうか。
最初のクリスマスの出来事を描いている聖書の個所の主人公は、その日にお生まれになったイエス・キリストではありますが、イエスさまはただ泣いておられただけです。その日に苦しんだり悩んだりしていたのは母マリアであり、父ヨセフです。その意味ではマリアとヨセフも主人公であると言ってよさそうです。
今日みなさんに開いていただいた個所に描かれているのもまさにその状況ですが、このたび改めて読み直してみて、興味深く思えたのは「天使」の役割です。天使はマリアにもヨセフにも現れました。マリアの親戚のエリサベトにも夫ザカリアにも現れました。ベツレヘムの羊飼いたちにも東方の占星術師たちにも現れました。
全員に共通しているのは、彼らが眠ると夢に「天使」が出てくる点です。しかし今日の個所に出てくる天使は、「羊飼いたちは眠っていた」とは書かれていませんので、起きているときには天使は現れないということではありません。
しかし、そのことよりも大事なもうひとつの共通点は、「天使」がそれぞれの人に現れるときは必ずその人々が元気になるような、励ましや慰めの言葉を語っていることです。救いの希望、解放の喜び、約束の実現が語られています。天使が出てくる夢を見た人々は、きっと寝覚めが良かったと思います。もう一度目をつぶって夢の続きを見てみたいと思うほどに。
しかしまた、これもある程度共通していることですが、「天使」が出てくる夢を見て、天使の言葉に慰められたり励まされたりした人々の実際の現実は、暗くてネガティヴなものだったということです。それは、布団に潜って目をつぶっても一晩中眠れないほどの悩みや苦しみを抱えていた人々でした。
みなさんの中に不眠で悩んでいる方がおられませんでしょうか。眠れるのがどんなに幸せなことかと思っておられる方が。イエス・キリストがお生まれになるというこの出来事に際して「天使」の夢を見た人々は、不眠に苦しんでいる方々と大なり小なり似ている状況の中にいました。その意味では、彼らが見た「天使」は、夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か見分けがつかないような存在だったかもしれません。
そして、さらにもうひとつの共通点があります。それは、彼らが見た「天使」は、彼らをとにかく「イエス・キリストのもとへと招く」存在だったという点です。もっとも、マリアとヨセフにとっての天使の存在は「イエス・キリストのもとへと招く」というよりも「イエス・キリストを生むことを促す」存在だったと言うほうが正確かもしれません。「安心してその子を産みなさい」とマリアに対してもヨセフに対しても天使が励ましてくれました。
私は今日、ベツレヘムの家畜小屋での出来事を「最初のクリスマス礼拝」と名付けることにします。その「最初のクリスマス礼拝」へと多くの人々を招くために「天使」が活躍しました。その関連で、ルカによる福音書にとても興味深い言葉が書かれています。「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」(1章26節)。
原文に「天使ガブリエル」(αγγελος Γαβριηλ)とはっきり書かれていますので、ガブリエルは「天使」です。「天使」は人間ではありません。しかし「神から遣わされた」とあるとおり、「天使」は神でもありません。しかし、いわゆる動物ではないし、植物でもありません。人間と同じような理性や感情を持つ存在として聖書に登場します。
そして私がこのたび最も興味深く思ったのは、その「天使ガブリエル」が「ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」と書かれていることです。これで分かるのは、天使は具体的なこの町あの町に「遣わされる」存在だということです。
私は詳しくありませんが、天使の背中に羽根がついている西洋中世の絵画があるのをよく見ます。天使に羽根が生えているかどうかは分かりませんが、どこへでも自由自在に飛んでいくことができるのかもしれません。しかし、それは鳥も同じです。それで分かるのは、「天使」はまさに鳥と同じで、同時に違う場所に存在することができないということです。存在できるのは一か所一か所です。
たとえば、私がいま住んでいる千葉県柏市と、上総大原教会がある千葉県いすみ市に、同じひとりの天使が、同じ時刻、同じ瞬間に同時に存在することはできません。「天使」が電車やバスに乗ったり、自分で自動車を運転したりするどうかは分かりませんが、何らかの移動手段が必要です。その移動のために時間や交通費がかかります。
「夢」の中に現れる天使に移動手段が必要なのかと私に問われても答えられません。しかし「天使」は「ナザレの町」や他の町へと「遣わされる」存在であることの意味を考えているだけです。そして、いま私が最も申し上げたいのは、その「天使」が果たした役割は「最初のクリスマス礼拝」へと多くの人を招くことだったということです。
「天使」の呼びかけに応えて実際に集まったのはイエス・キリストの両親になったヨセフとマリア、ベツレヘムの羊飼い、東方の占星術師だけだったかもしれません。クリスマス劇(ページェント)では羊飼いと占星術師が一緒に並んで立つ場面がたいていありますが、彼らが同じ時刻に同時にいたとは限りません。全員合わせても10人に満たない小さな小さな礼拝だったかもしれません。
あとは家畜小屋の動物たちがいたかもしれませんが、「最初のクリスマス礼拝」の出席者数にカウントしてよいかどうかは分かりません。しかし、そこで行われたのは確かにイエス・キリストを拝む「キリスト礼拝」であり、「教会の原形」でした。そのことを想起しうることが新約聖書に確かに記されています。
しかし、その「最初のクリスマス礼拝」の主人公であるイエス・キリストは、ただ泣いておられただけです。あるいは、眠っておられただけです。ご自分でしゃべることがおできにならない。「最初のクリスマス礼拝」の説教者はイエス・キリストではありません。いわばイエス・キリストの代わりに雄弁に語ったのが「天使」でした。救いの希望、解放の喜び、約束の実現を説教したのは、他ならぬ「天使」でした。
私はいま申し上げていることで「もしかしたら天使は普通の人間だったのではないか」というような推論を述べようとしているのではありません。天使は天使のままで全く問題ありません。そういう話のほうが面白いです。そして、天使が「神」ではないことは聖書においてははっきりしています。つまり、「天使」はわたしたちの信仰の対象ではありませんので、「天使を信じる」必要はありません。
私が申し上げたいのは、そういうことではありません。私が申し上げたいのは、今日の個所に出てくる「天使」が果たした役割としての「最初のクリスマス礼拝」に多くの人々を招くことは、十分な意味でわたしたちにもできる、ということです。真似することができます。
そう思いまして、私は今日のクリスマス礼拝のチラシを自分で500枚作り、先々週の12月10日(日)の午後2時半に大原駅に着き、途中1時間の休憩を含めて午後6時まで、配布させていただきました。教会のみなさんにご負担をおかけしたくありませんでしたので、代務者の岸憲秀牧師には許可をとりましたが、教会の皆さんには内緒で「勝手に」配らせていただきました。チラシの印刷費や往復交通費は、私の友人の方々が応援してくださいました。感謝してご報告させていただきます。
「教会の礼拝にぜひ来ていただきたい」というわたしたち教会の願いは、ただ人が多ければ活気があってよいとか、そういう理由ではありません。孤独な人、寂しい人、助けを求めている人が、この町にもどの町にも大勢いることを、わたしたちは知っています。そういう方々にとって教会がきっと助けになります。しかし、教会に来れば必ず友達ができるという意味でもありません。教会に行っても、もしかしたら「天使」しかいないかもしれません。
しかし、その「天使」が、救いの希望、解放の喜び、約束の実現を雄弁に語ってくれるとしたら、どうでしょうか。厳しい現実の中で眠れぬ夜を過ごしている人々に「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げる「天使」がいてくれたら。
そのときわたしたちの人生は、しっかりとした支えを得ることができます。ぜひ教会に来てください。
(2017年12月24日、日本キリスト教団上総大原教会クリスマス礼拝)