2025年5月10日土曜日

誇る者は主を誇れ

松戸朝祷会(カトリック松戸教会 千葉県松戸市松戸1126)

教会堂外見
礼拝堂
マリア像
朝祷会讃美選集

奨励「誇る者は主を誇れ」

コリントの信徒への手紙二10章12~18節

関口 康

「誇る者は主を誇れ」(17節)

過去の記録を調べたところ、松戸朝祷会で奨励させていただくのは3回目であることが分かりました。最初は2014年12月6日、2回目は2016年6月4日、そして今日です。9年ぶりです。

最初の私は千葉県松戸市民でした。2回目の私は千葉県柏市民でした。そして3回目の今日は東京都足立区民です。

短期間に目まぐるしく移動したのは、教団の指示で動いた、というようなことではありません(そのような指示を出す仕組みは日本基督教団にはありません)。悪い意味で私がどこに行ってもうまく行かず、転々としてきました。

前回お話しさせていただいた2016年の翌年、2017年の私は無職でした。ハローワーク松戸に1年間通いました。翌年の2018年4月から昨年2024年2月まで、東京都昭島市の教会の牧師でした。その最初の1年間は、牧師をしながらアマゾンの倉庫で週30時間の肉体労働のアルバイトをしました。

翌年(2019年度)から2013年度までの5年間は、やはり牧師を続けながら、東京都東村山市にある学校で非常勤講師(聖書科)をしました。2020年度から2年間は、昭島教会牧師も東村山の学校も続けながら、神奈川県茅ヶ崎市にある学校でも非常勤講師をしました。当時は、東村山に週2日、茅ヶ崎に週2日、計4日、牧師が週日に教会を不在にしました。

茅ヶ崎に通った2年間は、最初の頃は電車、途中から原付バイクで通勤しました。片道70キロ。原付バイクで2時間半から3時間。朝4時半ごろ昭島教会を出発して、午前7時ごろ湘南海岸に到着し、昇ったばかりの太陽を見つめていました。

すべては生活のため。食べるため。子どもたちの教育のため。俗臭芬々(ぞくしゅうふんぷん)に違いありませんが、それが私の現実でした。

先ほど朗読していただいた聖書箇所は使徒パウロの手紙の一節です。注目していただきたいのは12節です。

「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」(12節)。

12節に言葉遊びがあると解説する註解書を読みました。日本語訳で読んでも分かりませんが、ギリシア語から直訳すると「自分たちを(エアウトゥース)他の人々(ティシン)に推薦する(スニステーミ)人々は、自分たちに(エアウトイス)自分たちを(エアウトゥース)比較しているので、そんな人たちの計測(メトレオー)や比較(スンクリノー)の中に自分(パウロ)たち(エアウトゥース)を置くのは無意味(ウー・スニエーミ)である」となります。

自分たちが有利になるように決めた評価規準で自分たちを測って「私は優秀である」と誇っているような人たちの中に入って、その人たちの評価基準で評価してもらうことには意味がない、ということです。

どの評価規準であれ、それを決めるのは権力を持っている人たちです。今の国や社会で言えば税金とか、学校の偏差値とか、学費とか。そういうものを決める人たち自身が不利になるような規準をその人たち自身が決めるわけがないので、巻き込まれた時点で初めから負けているということです。

私も学校で働いたときは、授業だけでなくテストをして成績を出さなくてはならなかったので、そのときは評価する側にいました。テストは成績上位者と下位者がくっきり識別できるような問題を出さなければならないことが(文部科学省の指導で)決まっているので、いやでも応でも、そういう問題をつくらざるをえませんでした。パウロが書いていることは事実です。

イエス・キリストの教会には、別の評価規準があります。「私は何々大学の出身で、一流会社に就職し、財をなし、広い家を建て、家族に恵まれ、幸せな生活をしております」と誇る人が悪いとは言いません。しかし、パウロはそのようなこととは全く違うことを言いはじめます。どちらを選ぶかは、自分で決めるしかありません。

たとえばこの手紙の11章26節以下には、パウロ自身が受けた「難」がたくさん紹介されています。

「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともある」。

パウロは、自分の弱さや、ダメだったことや、苦しかったことを誇ります。パウロが言おうとしていることの中心にあるのは、「誇る者は主を誇れ」(17節)ということです。

私もそうだと申し上げたいです。良かったことはなく、ダメだったことばかりです。しかし、こんなに弱くてダメな私を神が用いて、神のみわざとしての「神の宣教」(ミッシオ・デイ)を進めてくださっていることを、私は誇ります。

弱くてダメな私ですが、これからも松戸朝祷会の仲間に加えていただきたく、よろしくお願いいたします。

(2025年5月10日 松戸朝祷会 於 カトリック松戸教会)