2025年4月22日火曜日

ボッシュの言う「使徒の神学」はファン・ルーラーだ

日本基督教団富士見町教会(千代田区)
*ChatGPTにアール・ヌーヴォー風に描いてもらった。

【ボッシュの言う「使徒の神学」はファン・ルーラーだ】

今日は東京教区東支区教師会(牧師会)があるのでまもなく出かけなくてはならないが、未明まで長文メールを書いていたため眠い。先日オランダの古書店から届いたヘンドリク・クレーマーの『教会とヒューマニズム』の支払い方法が旧時代のままで、困って相談したら助けてくださった牧師への礼文だった。

そのメールはプライベートな内容なので公開できない。デイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』にファン・ルーラーの名が出て来ないことに不満を抱いた私だった。その理由が見えて来た。日本語版下巻(新教出版社、2001年)211頁の「使徒の神学」が、名を伏せられているがファン・ルーラーだ。

「使徒の神学」に関してボッシュが「ベルコフ、1979、411-13参照)」と記しているのは、ヘンドリクス・ベルコフの『キリスト教信仰』英語版(1979年)第1版のことだが、私の手元にある同書第2版(1986年)では、おそらく増補改訂の影響で、413頁から415頁までへと移動している。そこを読む必要がある。

いま大急ぎで、ベルコフの当該箇所をざっと読んだ。クレーマーが「宣教」という意味でアポストラート(使徒性)を用い、それをファン・ルーラーが教義学的に「宣教(アポストラート)の神学」(ボッシュ日本語版では「使徒の神学」)として基礎づけ、WCCの文脈でホーケンダイクがその線を打ち出した。

しかしベルコフはファン・ルーラーがすでに「急進的」であり、ホーケンダイクは「もっと急進的」と評価。教会を相対化して、社会活動の拠点にしようとした元凶のように言う。そのベルコフの判断は彼の師匠ミスコッテに由来。「使徒の神学」へのベルコフの批判がミスコッテの引用で締めくくられている。

このミスコッテがファン・ルーラーのライバルだった。オランダ改革派教会(NHK)の「教会規程」の改訂作業や解説書を作成する委員会で激闘する関係にあった。ベルコフはライデン大学神学部のミスコッテの後継者。ボッシュはベルコフの本を読み、ファン・ルーラーの本は読んでいない。偏りがあると言える。

ああ、もう出かけなくてはならない。忘れないうちに書きとめておきたかった。眠いけど休めない。行くので。サボりたいけど。

(2025年4月22日 11:45 a. m.)