2018年2月18日日曜日

信仰の力

ローマの信徒への手紙1章8~15節

関口 康

「わたしはギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも果たすべき責任があります」

皆さま、おはようございます。日本キリスト教団教師の関口康です。1月28日に続き、再びお招きいただきましたことを感謝いたします。今日もどうかよろしくお願いいたします。

前回はマタイによる福音書20章1節以下の「ぶどう園の労働者のたとえ」についてお話しいたしました。天国とは、9時から働いた人々にも、12時から働いた人々にも、15時から働いた人々にも、17時から働いた人々にも、全く同じ賃金をもらえるところであるとイエス・キリストがおっしゃったことについてお話ししました。

このたとえ話はわたしたちが教会を考えるときの材料になります、と申し上げたつもりです。教会そのものは天国そのものではありません。しかし、教会は天国を目指す人々の集まりではあるはずでしょう。もしそうだとしたら、17時から来た人々にぶどう園の園主が9時から来た人々と同じ支払いをしたことに、9時から来た人々が腹を立てるようであってはならないはずです。

教会生活が長くて教会への貢献度が高い人々は、天国の中の特別ルームに迎え入れていただけるというような考えは、イエス・キリストの教えの中にはありません。どの人も全く同じです。最近教会に来はじめたばかりの人たちも、子どもたちも、教会生活が長い人々と同じように扱っていただけるのが天国です。もしそうだとしたら、天国を目指す人々の集まりとしての教会もそうでなければならないでしょう。

それで、このたび二度目のお招きをいただきましたとき、聖書のどの箇所についてお話しするかを考えました。内容が前回から完全に続いていなくてもよいだろうとは思いましたが、全くちぐはぐでないほうがよいとも考えました。それで今日の箇所を選ばせていただきました。使徒パウロのローマの信徒への手紙の冒頭の挨拶が終わった直後の、本文の書き出しの部分です。

使徒パウロは新約聖書に登場する、イエス・キリストの福音を宣べ伝える伝道者として最大の人物です。私はいま「伝道者」と言いました。教会で「伝道者」といえば狭い意味での教職者を指す場合が少なくありません。私も「伝道者」という言葉をその意味で用いることがよくあります。

しかし、これは気を付けなければならないといつも思っているのは、狭い意味での教職者だけを「伝道者」と呼んでしまいますと、教職者以外の人々は伝道しなくてもよいというような誤解を与えてしまうかもしれないということです。伝道は教会全体のわざです。すべての信徒が伝道者です。

しかしその一方で、「伝道」とは何かという問いに対する答えが必ずしも明確でないというのが、わたしたちの実際の状況ではないでしょうか。「伝道」とは「何をすること」でしょうか。そのことにわたしたちははっきり答えることができるでしょうか。

言葉の定義の問題を申し上げたいのではありません。教会の信徒すべてが「伝道者」であると言われた場合、わたしたちひとりひとりが「伝道」しなければならないと言われた場合、それは具体的に「何をすること」なのかをはっきり認識できているでしょうかと申し上げています。

そこがぼんやりしているようであれば、教会の存立危機事態に至っていると言わざるをえません。何のために教会が存在するのかを教会自身が認識できていない状態なのですから。しかし、それは何なのか、「伝道」とは何を意味するのかということについて、わたしたちが頭をひねって各自の考えを出し合うだけでは問題は解決しないことも事実です。

その答えを得るために、何よりもまず、聖書を開かなければなりません。聖書は「伝道」について何を教えているかについて、わたしたちは聖書から学ぶ必要があります。そういうことを考えた結論として今日の箇所を選ばせていただきました。

使徒パウロはローマに行きたがっています。「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(10節)とパウロ自身が書いています。

もっとも、ここで「何とかして」と訳されているギリシア語には「いろいろ努力や工夫をこらして」という意味はありません。そうではなく、幸運、ラッキーを待ち望む意味です。「何とかする」のはパウロではなく神です。「神の御心によって」と書かれているとおりです。人間の努力の可能性の話ではなく、神の奇跡の可能性の話です。

つまりパウロが書いているのは、客観的な可能性としては断念せざるをえない状況だが、もし神が奇跡を起こしてくださるならば行くことができるでしょうというような意味です。もしわたしたちがそのような状況の中に立たされたときに「それは大いに可能性があるぞ」ととらえるか、「ほとんど可能性がないぞ」ととらえるかで判断が全く異なるでしょう。そこで問われるのは信仰です。そこで求められるのは信仰の力です。

しかしそれはパウロに海外旅行の趣味があって、ローマの美しい景色を見たいという関心に基づく願いだったわけではありません。何のためにローマに行きたいのかといえば、それが「伝道」です。

しかし先ほども申し上げたとおり、私は言葉の定義の問題を申し上げたいのではありません。伝道を「宣教」を呼んでも構いませんし、他のどんな言葉でも構いません。しかし、もしパウロがローマに行きたがっている理由を「伝道」と呼ぶとすれば、その具体的な内容は何なのか、つまりパウロは「何をしに」ローマに行きたがっているかが今日の箇所に書かれていますので、それをお話しさせていただこうと願った次第です。

その「伝道」について、私の読み方では3つのことを、パウロが書いています。もっと細かく分析することが可能かもしれませんので、「大きく分けて」3つであると申し上げておきます。

パウロがローマに行きたいと願っている第一の理由は、「あなたがたに会うこと」によって「霊の賜物をいくらかでも分け与えて力になること」です。それがパウロにとっての「伝道」の第一の意味です。この場合の「あなたがた」の直接的な意味はローマのキリスト者ですが、それは要するに教会を指しています。

つまり、パウロにとって「伝道」の第一の意味は「教会の人々と出会い、霊の賜物をシェアしあうことによって教会の人々を力づける」を指しています。「力づける」と訳されているギリシア語には「固める」という意味もあります。

「それは伝道ではない。伝道とは教会の外に出て行き、まだキリスト者でない人々と出会うことを意味するのではないか。そうでないかぎり新しい魂を獲得することはできないのではないか」というご意見があるかもしれません。それはかなり鋭いご指摘なので尊重されるべきです、しかし、そこでわたしたちはよく考える必要があります。

最初のほうで申し上げましたが、「伝道者」という言葉を聞くと多くの場合、狭い意味での教職者のことを思い出すというのは、わたしたちの悪い癖です。伝道は教会全体のわざです。逆の言い方をすれば、狭い意味での教職者ばかりが何人集まったところで伝道は進みません。はっきりいえば何もできません。

教区や支区で牧師会を何回開こうと、牧師ばかり集まる有志の勉強会を何回開こうと、それは伝道ではありませんし、伝道になりません。伝道に備えての訓練の意味はあるかもしれませんが、伝道そのものではありえません。伝道は、教会全体の助け合いの中でしか成立しません。伝道のためには教会の皆さんに動いていただく必要があります。

パウロは伝道するためにこそ、教会のみんなを励ましました。教会が元気にならないと伝道は進みません。その理由は、新しい魂を獲得して連れてくる先はどこなのかということを考えていただけばすぐにお分かりになるはずです。それは教会です。

「教会に来てください」とお誘いしたはいいけれど、その教会にちっとも元気がない。教会に来るとその人はきっと躓いてしまうだろうということが目に見えているようであれば、伝道は進みません。

第二の理由を申し上げます。それは「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合うこと」(12節)です。これは第一の理由と同じことを別の言葉で言い換えただけにも見えますが、ここで重要な言葉は「信仰によって互いに励ましあうこと」です。

それは第一の理由の中の「霊の賜物をシェアしあうこと」と内容において重なる部分もありますが、全くイコールとも言いがたいところがあります。「霊の賜物」のほうが「信仰」よりも広い内容を持ちます。「信仰」は「霊の賜物」の一つです。

パウロが「霊の賜物」について書いている有名な箇所はコリントの信徒への手紙一12章から14章にかけてです。その中でとくに有名なのは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13章13節)という御言葉です。その中に「信仰」があります。いつまでも残るのが「信仰」です。

パウロが「信仰によって互いに励まし合うこと」を第二の理由として挙げていることの意味は重大であると私は思います。「互いに励まし合う」(συμπαρακαλεω)はギリシア語では一つの単語です。「共に(シュン)傍らに(パラ)呼ぶ(カレオー)」です。

パウロはローマのキリスト者と同じ信仰をもって共に立っているという意識を持っていました。しかしそれだけでなく、ローマに直接行って物理的な意味でローマのキリスト者と同じ場所に立って共に励まし合いたいと願いました。手紙だけでは伝えきれない溢れる思いを直接会って伝えたいと願っていました。それも「伝道」です。

そしてパウロは第三の理由として「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があること」そして「ローマにいるあなたがたにも福音を告げ知らせること」を挙げています。順序が最初でないから重要でないとは言えません。しかし、この順序には何の意味もないとも思いません。

教会を励まし、教会をしっかり固めることが先決問題です。そのために求められるのが信仰です。わたしたちは「神を信じる」必要があります。「信仰は問いません」というのは教会ではありません。教会は「信じるか信じないか」を問います。教会は信仰共同体です。それが新しい魂の獲得の土台作りになります。

「新しい魂の獲得が先か、教会形成が先か」は鶏卵論争になるかもしれません。しかし、全く新規の開拓伝道でないかぎり、教会は新しい魂の獲得より先に存在するのですから、教会形成を優先することは間違っていません。パウロにとって「伝道」とは単独プレイではなく、常に教会全体との共同作業であったことが記憶されるべきです。

(2018年2月18日)