2025年6月20日金曜日

「教会の外に救いなし」のキプリアヌスの生涯を調べる

私の書斎のキプリアヌスについて書かれた本


【「教会の外に救いなし」のキプリアヌスの生涯を調べる】

手持ち資料を頼りにキプリアヌスについてまだ調べている。あるのは『偉大なる忍耐・書簡抄』日本語版(初版1965年)、F. L. クロス『教父学概説』(1969年)、E. ファーガソン編『初期キリスト教辞典』(1990年)、「聖なるキュプリアヌスの行伝」『殉教者行伝 キリスト教教父著作集22』(1990年)。

西暦200年頃生まれ。誕生日不明。アフリカのカルタゴの比較的裕福な家庭出身。学者として名声を得た後、45歳頃キリスト教入信。私財を売り払って施し、教会の長老になる。48歳か49歳の頃カルタゴの司教に選ばれる。入信からの期間が短すぎたため反対者が多かったが、教会員からの厚い支持を得ていた。

50歳(西暦250年)のとき、ローマ皇帝デキウスがローマ古来の宗教を再興するための政策として大規模なキリスト教迫害開始。自分は目立つ人間だと自覚していたキプリアヌスは、身をさらすと教会員が危険な目に遭うと考えて潜伏。書簡を用いて牧会しようとした。このあたりは評価が分かれそうなところ。

多くの教会員が帝国軍の迫害に堪えられず、数週間で棄教。後日、教会への復帰を求める人たちにキプリアヌスは、最初は厳しい態度を取るが、やがて方向を改める。自分も潜伏したことと態度の軟化が関係あったかどうかはまだ分からない。「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ」と言える状況だったかどうか。

キプリアヌスは55歳から2年間、異端や分派で洗礼を受けた人が教会復帰する場合には「再洗礼」を授けるべきかどうかでローマ司教ステファノ1世と論争。キプリアヌスは「授けるべき」、ステファノは「授ける必要はない」。論争中ローマ総督に逮捕され、斬首。F. L. クロスによると「258年9月14日」死去。

ここから先は私の想像を多く含む。キプリアヌスにとって洗礼において大事なことは、水そのものの効力でなく、三位一体の神への信仰告白が伴っているかどうか。「偽りの水を恐れるな!」と喝破する線。私はこういう人は嫌いではない。『行伝』に描かれているキプリアヌスの殉教前のやりとりも意志の人。

「なぜなら教会の外に救いはないからである」の一文を含む「第73書簡」は西暦256年の半ばに書かれたものとされる。この内容も「洗礼」の問題。三位一体の神への信仰を伴わない入会儀礼は「洗礼ではない」ので、異端や分派から「教会」に来た人に「洗礼」を授けるべきであるという論理。整合性がある。

キプリアヌスの生涯は実に興味深い。ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国』(新教出版社、2014年)で取り上げられていた西暦2世紀から3世紀にかけてローマ帝国で大流行した疫病の罹患者への献身的対応とキリスト教宣教の進展との関係の件は、キプリアヌスとの関係が重要であることに気づいた。