ローマの信徒への手紙1章16~17節
関口 康
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
おはようございます。関口康です。この教会で3度目の説教をさせていただきます。「3度目の正直」と言います。賭け事や勝負事に関する諺です。1度や2度は当てにならないが、3度目があれば確実であるという意味です。「まぐれではない」ということでしょうか。
これからお話しすることはどうでしょうか。3度目のチャンスを皆さまから与えていただきました。今日もどうかよろしくお願いいたします。
聖書のどの箇所についてお話しするかは、2度目に説教をさせていただいたときに決めていました。3度目があるかどうかは分からなかったわけですが、神が道を開いてくださるならこの箇所にしようと決めていました。
「わたしは福音を恥としない」(16節)とパウロが書いています。しかし、この一文にも、原文では「なぜなら」(γαρ)と記されています。それが新共同訳聖書では訳されていません。原文通りに訳せば「なぜなら私は福音を恥としないからである」となります。
この訳されていない「なぜなら」の意味はすぐにお分かりになるでしょう。前の文章の内容を受けているということです。どこからの内容を受けているかといえば、14節と15節です。
なぜこのようなことを申し上げるかといえば、今日の箇所に書かれていることの意味を正確に把握したいと思うからです。「わたしは福音を恥としない」を言い換えれば「私にとって福音は恥ではない」ということでしょう。
しかし、疑問を感じる方がおられませんでしょうか。なぜパウロはこのようなことをわざわざ言わなくてはならないのかと。福音というのは恥ずかしいものなのかと。
ここに記されている意味の「福音」は、いわば聖書の教え全体を指しています。もちろん「福音」は狭い意味では救い主イエス・キリストに関する教えです。しかしイエス・キリストの教えは旧約聖書の教えとの関係の中で成立するものですので、旧約聖書を含む聖書全体の教えが「福音」です。
そして「福音」と「説教(宣教)」は区別しなければなりません。ですから、ここでパウロが書いていないのは「私は説教(宣教)を恥としない」または「私にとって説教(宣教)は恥ではない」ということです。
しかし、そういう話ならば理解できるという方がおられるかもしれません。「説教(宣教)」はいわば教会の教師である者の仕事です。説教者にとっての自分の職業です。「私は自分の仕事を恥としない」ということであれば、そのまま裏返せば「自分の仕事に誇りを持っている」という意味になります。
「そういう話であればよく分かる。自分の職業にプライドを持って生きるのは当然のことである」というふうに受け入れることができる、分かりやすい話になるかもしれません。
しかし、パウロがここに書いているのはそういう話ではありません。「わたしは福音を恥としない」というのはそういう意味ではありません。それならば、これはどういう話なのでしょうか。
そのことを正確に把握するために、先ほど申し上げたことが関係してきます。新共同訳聖書では訳されていない「なぜなら」の存在です。それが直前の14節と15節の内容を受けていると申し上げたことです。
それは具体的に言えば「ギリシア人」にも「未開の人」にも「知恵のある人」にも「知恵のない人」にもパウロには「果たすべき責任」があると述べていることです。さらに「ローマにいるあなたがた」にも「ぜひ福音を告げ知らせたい」とパウロは願っています。
これで分かることは、パウロが人間をいくつかの区分に分けているということです。現代社会の中でこういう言い方をするとすぐに大きな問題になりますので、よくよく気を付けなければなりません。しかし、とにかくパウロが挙げているのは「ギリシア人」と「未開人」と「知恵のある人」と「知恵のない人」、そして「ローマにいるあなたがた」です。ここで「知恵」とは「教養」のことです。
ただし、最後の「ローマにいるあなたがた」は他の区分に属する人々と区別しなくてはなりません。と言いますのは、「ローマにいるあなたがた」とパウロが書いているのは地域の話だからです。
いわば「東京都民」と言っているのと同じです。東京都民の中にいろんな人がいるわけです。私のように岡山県の出身者もいれば全国各地の出身者もいます。外国の方々もたくさんいます。東京に住んでいれば、みんな東京都民です。いわばそれだけのことです。
しかしパウロが「ギリシア人」と「未開人」と「教養人」とそうでない人を挙げているのは、地域の話ではありません。ここでわたしたちは普通の常識とは全く違うことを考えなくてはなりませんが、パウロが「ギリシア人」と言っているのは「ユダヤ人ではないすべての人々」です。それが西暦1世紀のパウロの人間観・世界観です。「ユダヤ人」と「ギリシア人」の2種類で全人類が構成されています。
そして、パウロにとって「ユダヤ人」とはユダヤ教徒のことです。つまり、ここで「ギリシア人」はユダヤ教徒ではない人すべてを指しています。そしてもちろん、それはあくまでも当時の話です。
当時の「ユダヤ人」の意味は、幼い頃から聖書に親しみ、その教えに基づく倫理観や生活感覚を身に着けていた。あるいは実際には聖書の教えからかけ離れた生活をしているとしても、知識として知っていた。それがパウロにとって「ユダヤ人」です。そして、それ以外のすべての人が「ギリシア人」です。そういう意味でパウロが書いているということを理解しないかぎり、ここでパウロが何を書いているのかがさっぱり分からないということになるでしょう。
その「ギリシア人」にパウロは福音を告げ知らせたいと願っています。つまり、その意味は、聖書の教えに接したり親しんだりした経験が全くなく、その教えに基づく生活などいまだかつて一度もしたことがないし、そんなことをしようと思ったこともないような人々にこそ福音を告げ知らせたいし、その責任があるとパウロは言っているのだ、ということです。
そしてパウロは、そのためにローマに行きたいと願いました。その人々の生活領域の只中へと突入することを願いました。この点はとても重要です。
聖書の教えをよく知り、忠実に実践している人々の中にもっぱらとどまり、その人々とだけ人生を共にし、他の人々とは一切付き合わないというような生き方のほうが、パウロにとっては楽な生き方だったはずです。
なぜなら、今申し上げた意味での「ギリシア人」にとって「福音」は、自分が実際に長年生きてきた生活領域においては未知のものであり、違和感しかなく、非常識で現実離れしていると認識する対象になりやすいからです。「間違っているとまでは言わないが、我々の常識とは違う」というような理由ではねのけられたりします。
しかし、そのような自分が実際の生活を営んでいる範囲の人々から「非常識」と言われてしまうようなことを、それでも続けていくのは、恐ろしくもあり、恥ずかしくもあるというのは、わたしたちにも理解できることでしょう。このあたりに「恥」の問題が浮上してくると私は考えます。
しかし、パウロは、だからこそ「なぜなら、私は福音を恥としないからである」と公に宣言します。「恥としない」というギリシア語の言葉は「告白する(公に宣言する)」という別のギリシア語の言葉の言い換えであると言われます。つまりパウロは、聖書の教えとしての「福音」を非常識とする人々を念頭に置いたうえで「私にとって福音は恥ではない」と宣言しています。
しかし、これこそが大事なことだと私が申し上げたいのは、パウロがそのことを、その人々の中へと入って言おうとする点です。その人々から距離を置き、遠くから言っているという態度とは違います。パウロはローマに到着した後も「福音を恥としない」点は変わりなかったはずです。
文明が進んでいる「ギリシア人」にも、そうでない「未開人」にも、「教養ある人」にも、はっきりいえば「教養がない人」にも、とパウロが書いている点にも、ある意味で同じことが当てはまります。知恵や知識、教育や教養については、生まれつきの要素や本人の努力の要素が全く関係ないということは考えにくいでしょう。しかし、だからといって社会や政治によって強いられる要素が全くないということは、昔も今もありえません。
パウロが「教養人」と書いているのは当時の支配階級のエリートのことです。そして、その支配階級から閉め出された人々が「教養のない人」です。つまり、この区別は当時の社会と政治が意図的に作り出したものです。「努力した人」と「努力しなかった人」の区別ではありません。
言っておきますが、パウロは「教養ある人」には伝道しないと言っているのではありません。また、「ギリシア人にも」と言っているときも、ユダヤ人のことは全く見向きもしないと言っているのではありません。
パウロは常に一方だけを選んで他方は必ず切り捨てるという思考も態度も採りません。常に往復運動(Back-and-forth movement)をし続けた人です。「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」抱え込んで生きようとした人です。この点は重要です。
しかし、だからこそパウロは「ギリシア人」だけではなく「未開人」にも福音を告げ知らせたいし、その責任があると考えました。「教養人」だけでなく「教養のない人にも」と。しかも、その人々の中にパウロ自身が入っていきます。自分の体と心はしっかり文明人と教養人の中にとどめ、未開人や教養のない人を遠目で見て哀れんでいるというようなこととパウロの生き方は異なります。
しかも、パウロにとっての「未開人」は、今のわたしたちが現代の科学文明の進み具合が遅いという意味でとらえる存在とは違います。それは西暦1世紀と21世紀の混同です。パウロの関心は、言葉が通じるかどうかです。もっといえば聖書を理解できる力があるかどうかです。
一を聞いて十を知る人に聖書の話をするのは簡単です。そうでない人々にこそ福音を告げ知らせることのほうが大変です。言葉が通じない相手には言葉を教えることから始めるのです。その言葉を用いて聖書を教えるのです。そのために、その人々の中へと自ら入っていくのです。自分の教養をひけらかすためではありません。同じ次元に立ち、同じ次元で生き、その人々に「伝わる言葉」で福音を伝えるためです。
未開人や教養のない人の中へと自ら入っていくことの中に「恥」の要素が姿を現すかもしれません。なぜ私が行かなければならないのか、もっと若い人に行ってもらえばいいではないか、など。しかし、「福音」を告げ知らせるためなら、わたしはどんなことでもする。そう言い切ることができ、実践することができたのがパウロです。
わたしたちはどうか、教会はどうか、私自身はどうかと、繰り返し問い返すことが大切です。
(2018年3月18日)