2025年4月30日水曜日

私の蔵書

私の書庫をChatGPTにフェルメール風に描いてもらいました。
あながち虚構ではありません。


【私の蔵書】

蔵書は趣味ではなく、実際に必要。註解書に引用される参考文献だけでも、と買ってきたが、道なお遠し。『使徒教父文書』は不所持だったが、教会の書架で見つけた。『古代教父著作集』も、『アウグスティヌス著作集』も、トマス・アクィナス『神学大全』も、『キリスト教神秘主義著作集』も、少しは所持しているが揃わない。

『宗教改革著作集』は半分ぐらい。ルターは英語版著作集をパーフェクトではないが1セットどっさり譲り受けたのと、日本語版も第1集は揃えたが、第2集はちょっとだけ。カルヴァンは改革派教会の教師時代にそれなりに揃えたが、きりがない。オランダ語版『キリスト教綱要』を所持していることは自慢したい。

このたび『改革派教会信仰告白集』を譲り受けたことは歓喜の極み。16・17世紀の改革派神学、特にアルミニウス論争やオランダの「第二次宗教改革」あたりは、私にとってかなり前からファン・ルーラーの次ぐらいに関心がある分野なので強化を望んでいた。ウェスレーは『日記』と『著作集』を持っている。

19・20世紀の現代神学は主専攻でもあり、蔵書の中で占める割合が最も多い。オランダのカイパー、バーフィンク、ベルカウワー、そしてファン・ルーラー。ドイツ及びドイツ語圏のトレルチ、ブルンナー、ティリッヒ、バルト、ボンヘッファー、モルトマン、ゼレ。ハンス・キュンクの本も大量に譲り受けた。

哲学書や歴史書はなるべく所持したいが、独学で理解できるほど甘くない。プラトン、アリストテレス両著作集は譲り受けた。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は無理して揃えた。カントは著作集は不所持。ヘーゲルは古い著作集だが揃っていない。文学の著作集はドストエフスキー、太宰治。あとは文庫版や小冊子。

転任のたびに蔵書を減らしたいと願うが、いっこうに減らず、ますます増える。最初に書いたとおり、註解書に引用される文献だけでも、と本を買い集めて来た。毎週の説教は待ったなし。私の「クラウド」が常に手元にないと仕事にならない。雲(クラウド)のような先人がたの知恵を「秒で」拝借できる。

いま強化したがっているのはジャック・デリダ。何度も読み返したのは『ヘーゲルの時代』(白井健三郎訳、国文社、新装版1984年)。他のデリダの本は独学では歯が立たないが、好きなタイプなので、せめて日本語版を揃えたい。こういう考え方自体をやめないかぎり蔵書は減らない。「やめとけ」という。