2018年9月23日日曜日

罪人を招く


マタイによる福音書9章9~13節

関口 康

「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。』」

もう皆さんお忘れになったかもしれませんが、4月の初めに皆さんとお約束したことをどうするかについて、いま迷っています。何の約束をしたかを私から言わなければそのままになりそうな雰囲気もあると感じているほどですが、1年間かけてローマの信徒への手紙を最初から最後まで取り上げますと私はたしかに申しました。

しかし、それを途中から変更しました。「たまにはイエスさまの御言葉を聴きたい」というご意見を、ある方からいただいたからです。そういうご意見はすぐに取り入れるのが私のポリシーであるということは、すでに申し上げました。しかし、いま悩んでいるのは、その「たまには」をいつまで続けるかということです。

イエス・キリストの御言葉は新約聖書の中にたくさんあります。しかし、その中のどの御言葉を取り上げるかについては迷いませんでした。なるべく有名な言葉で、心に深くとどまるのは、マタイによる福音書の5章から7章までに記されているいわゆる山上の説教だろうと、すぐに思い当たりました。

しかし、山上の説教すべてを細かく取り上げますと、それはそれでとても長い時間がかかることになり、「たまには」の趣旨に反すると思いましたので、山上の説教の中でも特別に印象的な言葉だけを取り上げることにしました。

それが「心の貧しい人々は、幸いである」(5章3節)であり、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(5章44節)であり、主の祈り(6章9~13節)であり、「思い悩むな」(6章25節)であり、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(7章7節)でした。

本当にものすごいことをイエスさまがおっしゃっていると、私自身何度読み返してもそう思います。これらの御言葉のすべてに必ず当てはまると一概に言うことは難しいかもしれません。しかしそれでもはっきり言っておくほうがよいだろうと思うのは、わたしたちはなぜ、イエスさまの山上の説教の中の、特にこれらの御言葉のひとつひとつに心を揺さぶられ、感動するだろうかということです。

その答えははっきりしています。これらすべてはわたしたちにとって難しいことであり、ほとんど不可能なことばかりだからです。なかでも最も難しく、最も不可能だと思えるのは「敵を愛しなさい」というイエスさまの教えでしょう。絶対に愛することができない相手が「敵」なのだから、その相手を愛することは本来不可能なことなのです。しかし、これだけではありません。「思い悩むな」もそうでしょうし、「求めなさい」もそうでしょう。

たとえば、私が「思い悩むな」というイエスさまの御言葉について皆さんにお話ししたのは先々週の9月9日(日)です。二週間経ちましたが、そのあいだ、思い悩まなかった方がおられるでしょうか。皆さんにお尋ねすると、その中に私が入っていないことになってしまいます。私自身はどうだったかを問う必要があります。はっきりいえば、自分で説教しながら説教者自身が毎日思い悩んでいました。説教者失格かもしれません。

しかし、わたしたちは安心してよいのだと思います。イエスさまは、わたしたちにできそうなこと、努力次第で何とかなるようなことをおっしゃっているわけではないのだと思うからです。「こんなことは誰でもできる簡単なことでしょう。どうしてできないのですか、だらしない」とわたしたちを責めるために、イエスさまがこのようなことをおっしゃっているのだろうかということを、よく考える必要があります。

もうひとつの問いとして、イエスさまご自身はおできになったのかという疑問をわたしたちが持つことはありうるかもしれません。もし仮にイエスさまがご自分にもおできにならないことを教えておられるとしても、わたしたちにイエスさまを責める資格はないでしょう。しかし、ここははっきり、イエスさまにはおできになったと言うべきです。だからこそ、お教えになりました。

しかし、問題はここから先です。イエスさまは、御自分にはおできになることはすべての人にも必ずできることだ。できない、できないと言っているのは努力が足りない人だ。全くけしからんとお考えになったうえで、このようなことをおっしゃっているでしょうか。

さらにもう一歩踏み込んで、それではイエスさまは、ご自身がお教えになったこれらのことは、わたしたちにとって、あるいは多くの人にとって、まだできていないが、将来はできるようになる努力目標のような意味でおっしゃっているのだろうか、ということも考えてみる必要があるでしょう。

さて、ここで話を元に戻します。私は何の話をしていたかと言いますと、私はローマの信徒への手紙を1年間かけて取り上げることを約束しながらそれを途中で変更してイエス・キリスト御自身の言葉を取り上げましたが、それをいつまで続けるかで悩んでいるという話でした。結論をいえば、そろそろローマの信徒への手紙のほうに戻りたいと私自身は願っています。具体的にどうするかはまだ決めていません。

ただし、誤解されたくないと思っていることがあります。それは、このたび山上の説教を取り上げたことは、なんら脱線ではないということです。これは神学や聖書学の次元の話にもなります。イエスの教えとパウロの教えは矛盾しているとか対立していると主張する人たちがいますが、それは言い過ぎです。

パウロもイエス・キリストの教えを信じ、受け入れ、その上に立って生き、教えた人です。最近『パウロ』という岩波新書を出版なさった青野太潮(あおのたしお)先生という聖書学者が、イエスの教えとパウロの教えは「無条件の赦し」という点で一致していると主張しておられますので、参考になります。パウロの手紙を学びながら「たまには」イエスさまの御言葉を学ぶのは、なんら脱線ではありません。

ローマの信徒への手紙でパウロは何を言っていたでしょうか。わたしたちは罪人であるということです。例外はありません。例外なく罪人であるわたしたちを罪の中から救い出すために、イエス・キリストが来てくださったということです。十字架のうえでわたしたち罪人の身代わりに死んでくださることによってイエス・キリストはわたしたちを罪の中から贖い出してくださったということです。それゆえ、わたしたちが救われるのは、わたしたちの努力や行いによるのでなく、イエス・キリストを信じる信仰によるということです。

しかも、その場合の信仰は「行いなしの信仰」です。信じることもわたしたち人間の行為のひとつであるとしても、だからといって、その自分がなす行為そのものでわたしたちが救われるのではありません。それだと結局、自分で自分を救うことになります。そうではなく、わたしたちの信心の努力がわたしたちを救うのではなく、わたしたち自身は特に何もせず、いわばただ見ているだけのような「信仰」を、神がわたしたちにプレゼントしてくださり、与えられた信仰によって、イエス・キリストにおいて神がわたしたちを救ってくださるのです。

それと同じことを、わたしたちは、特に新約聖書の中の福音書と呼ばれる書物の中に記されているイエス・キリストの教えとご生涯を学ぶときにも当てはめることができます。そして、その意味では、先ほどいくつか挙げさせていただいた問いの答えが、ある程度見えてきます。

イエスさまはわたしたちにできそうなこと、可能なことをお教えになったわけではおそらくないし、努力目標でもないことをおそらくおっしゃっているということです。そして、もしそうであれば、なぜイエスさまは、わたしたちにできないことを求めておられるのかという問いの答えも見えてきます。

それは、できないことを突き付けられるときにこそ、わたしたちは自分の罪を自覚できるということです。「自分の罪を自覚する」ということは、その聖書的な意味は、「私は救われなければならない存在であること」を自覚するということです。それは「私には救いが必要であり、救い主が必要である」という自覚です。

最後になりましたが、今日朗読していただいた聖書箇所について短く触れます。イエスさまは、当時のユダヤ社会の中で嫌われたり差別されたりしていた人々、その中でも特に「罪人」と呼ばれていた人々と共に、躊躇なく食事をなさいました。それでイエスさまにつまずく弟子がいましたし、誤解する人もいましたが、イエスさまは意に介されませんでした。

それはなぜでしょうか。理由ははっきりしています。イエスさまご自身がはっきりおっしゃっています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。

わたしたちがよく知っている言葉に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という中国由来のことわざがあります。イエスさまの教えとそれは、意味することも歴史的背景も全く違います。しかし、共通する要素は「立ち位置はどこか」ということです。

イエスさまがおっしゃっているのは、「ああいう人たちも救われたほうがいいよねえ」と思っているだけで、遠巻きにして見ているだけで、自分自身は決して近づかないし、自分たちの仲間に決して加えようとしないことの反対です。

イエスさまと同じことがわたしたちにもできるでしょうか。私にはとても難しいことだと思えてなりません。なぜなら、宗教というのは人の心の深いところにかかわるものだからです。だからこそ、デリケートな感性の問題に必ずなります。生理的な「肌感覚」の次元が必ず問題になります。

生理的に受け付けないとなると、それ以上はどうすることもできず、からだがすくみ、足が止まり、身動きがとれなくなってしまう性質がわたしたちにあることを無視することができません。「ああいう連中」(こういう言い方自体が大問題ですが)と同じ空気を吸いたくない、同じ場所にいるだけで我慢できない、逃げ出したくなるというような感覚とそれは紙一重です。それを「悪い」と責められても困ってしまう面があります。

しかし、だからといってわたしたちは手をこまねいているわけには行きません。長年聖書を学び、神をよく知っていて、なおかつ共通理解を持ちうる仲間内で小さく固まっているだけでは「伝道」は不可能です。それだけははっきりしています。窓を開けなければ新しい空気は入って来ません。外に出ていかなければ新しい出会いはありません。他流試合が必要です。

わたしたちには難しいことであり、不可能なことであるかもしれませんが、そのわたしたちと共にイエスさまがいてくださいます。

イエスさまと共に大胆に、外に飛び出していきましょう。新しい出会いを求めていきましょう。

(2018年9月23日)