2018年8月19日日曜日

敵を愛しなさい


マタイによる福音書5章43~48節

関口 康

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

4月から続けて学んで来ました使徒パウロのローマの信徒への手紙の学びを先週から中断して、マタイによる福音書に基づくイエス・キリストご自身の御言葉に目を向けています。今日の箇所に記されているのは、イエスさまがおっしゃった言葉の中で最も有名な言葉です。

どの御言葉が最も有名で、他はそうでないという言い方は一概にできないことは分かっているつもりです。多くの人の心にとどまり、忘れることができない、まさに衝撃的な言葉として有名であると申し上げておきます。

それは、先ほど朗読していただきました箇所の中にある「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)という言葉です。この中でも特に有名なのは、前半の「敵を愛しなさい」という言葉です。

これがなぜ多くの人の心にとどまり、忘れることができない言葉であるかといえば、このようなことは、わたしたちには絶対にできないことだからです。

東京都三鷹市にある東京神学大学に私が入学したのは、今から34年前の1984年です。当時はご存命だった北森嘉造先生から学部1年の最初に受けた講義の中で、この「敵を愛しなさい」というイエスさまの御言葉について北森先生がおっしゃったことを、私は忘れることができません。

北森先生はこうおっしゃいました。「敵とは、絶対に愛することができない相手のことである。絶対に愛することができない相手のことを『愛しなさい』と言われているのは、だれにも絶対にできないことを『しなさい』と言われているのだ」と北森先生は説明されました。34年前の記憶ですので、完全に正確ではないかもしれませんが、間違ってはいないと思います。

北森先生のおっしゃるとおりであると私は受け容れてきました。北森先生がおっしゃったから正しいと受け容れてきたのではありません。イエスさまがおっしゃったのはわたしたちにできる範囲のことではないということを、北森先生の説明で気づかされ、納得したという意味です。

だれにも絶対にできないことを「しなさい」と言われるのは、たしかに無茶苦茶なことです。支離滅裂だと感じる方がおられるかもしれません。しかし、もしこれが、努力すればできる範囲内のことを「しなさい」と言われているのだとすれば、努力してできるようになった人と、努力しないからいつまでもできない人に分かれるでしょう。

そして、努力してできるようになった人は、努力しないからいつまでもできない人に優越感を抱き、見くだすようになるかもしれません。いつまでもできない人は、できるようになった人に劣等感を抱き、卑屈になるかもしれません。

しかし、もしこれが、だれにも絶対にできないことであるとすれば、だれひとり優越感を抱くことはできないし、だれひとり劣等感を抱く必要はありません。「あなたは、まだできないのか。早くできるようになりなさい」などと、だれひとり指導的な立場に立つことができません。それでいいのだと思います。

しかし、ここで絶対に(という言葉をあえて使います)間違えてはならないことがあります。それは、イエスさまがおっしゃった「敵を愛しなさい」という教えがだれにも絶対にできないことであるとしても、だからといって「しなくてもよい」ということにはならないということです。できないことはしないというのは、失敗して恥をかき、屈辱を感じるのが嫌だからです。初めからしない、手を出さない。それで守れるのは自分のプライドだけです。自分の優越感だけです。

牧師も教師です。学校の教員と全く同じではないかもしれませんが、教える立場にあるという点では同じです。自分にできないこと、自分ができていないことを人に教えるとどうなるかを、よく知っています。「まずあなた自身が手本を見せてください。あなた自身ができるようになってから言ってください」と必ず言われます。

そう言われたときに教師がとってはならない最も悪い態度は、自分はできているふりをすることです。できていないのに。うそをつくことです。それは詐欺です。二番目に悪い態度は、自分ができないことについては「これはしなくてもよいことだ」と教えはじめることです。もしかしたら、こちらのほうがもっと悪いかもしれません。

このあたりでそろそろ、イエスさまはなぜこのようなことをおっしゃったのかという点に話を移していきます。今日の箇所に目を落としていただきますと、イエスさまは「敵を愛しなさい」とおっしゃる前に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」(43節)とおっしゃっていることが分かります。

しかし、いわゆる「引証付き」の聖書をお持ちの方はすぐにお分かりになるのは、イエスさまが引用しておられるのは旧約聖書のレビ記19章18節ですが、そこには「敵を憎め」という言葉は見当たらないということです。それどころか、レビ記19章18節に記されているのは「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」という御言葉です。

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というのは、ご承知の通り、イエスさまが強調してお語りになった教えです。日本最古のプロテスタントのミッションスクールである明治学院(の高等学校)の校訓がこの教えです。英語でLove your neighbor as yourselfです。これは、旧約聖書の教えでもあり、イエス・キリストを通して新約聖書に受け継がれ、キリスト教会がとても大事にしてきた教えです。

しかし、ここでわたしたちが考えなければならないのは、「隣人とはだれのことか」という問題です。「隣人とはだれのことか」という問いかけを聴くだけで教会生活が長い方々は、ルカによる福音書10章25節以下に記されているイエスさまがおっしゃった「善きサマリア人のたとえ」をすぐに思い起こされるに違いありませんが、今日はそこまで話を広げないでおきます。しかし、内容は共通しています。そのことだけ申し上げておきます。

「隣人」とはだれのことでしょうか。旧約聖書のレビ記19章18節に、その定義はありません。しかし、「復讐してはならない」とは記されています。この復讐の問題が、理解の鍵になります。

復讐といえば、個人的な仇討ちから国と国との戦争までの範囲のことを考えなければならない問題ですが、旧約聖書の教えは両方を含んでいます。そして、古代社会の状況を考えれば、「隣人」の意味として、自分と同じ民族、自分と同じ国の人々すなわち同胞の範囲を超えた人々のことを指すことはまずありえないと考えられます。

つまり、少なくとも旧約聖書においては「隣人を愛しなさい」という教えは、守るべき家族、愛するべき同胞を愛することを指していたと思われます。

そしてその場合、だからといって、対立する敵国と戦争することによって復讐を果たしなさいというようなことを旧約聖書が教えたわけではないということも、先ほど指摘したレビ記19章18節を見ると分かります。

しかし、ここから先は難しい問題に立ち入ることになります。実際に復讐を果たすことをしてはならないと禁じられることと、それを果たすことをしなくとも心の中で感情的に相手に対して激しい怒りを覚え、憎しみを抱くことまで禁じられることとは別問題であるということです。

旧約時代に実際にどうであったかは私には分かりません。しかし、今日の箇所でイエスさまがおっしゃっていることの中に「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていることから考えると、旧約時代において自分自身の同胞を愛することは、たとえ復讐を果たすことを実際にはしなくても、心の中で感情的に同胞以外の人々や敵国の人々を嫌い、憎しむこととがセットになっていたかもしれません。

急に話を飛躍させますが、野球でもサッカーでも、自分が心から愛するチームを持っている人の中に、そのチーム以外のチームを憎むことがセットになってしまう人がいます。人間の心理の中にそのような要素や現象があるように私には思えます。心理学を勉強なさった方は、その現象を学術的に何と呼ぶかをご存じかもしれません。

イエスさまが禁じておられるのは、それです。自分の愛すべき同胞、守るべき家族を愛することの裏側に姿を現わす、まさに自分の愛すべき同胞、守るべき家族の命を脅かす「敵」に対する「怒り」や「憎しみ」が禁じられています。

全くの素人考えですが、愛の感情と憎しみの感情は似ているところがあるような気がします。両方とも、強ければ強いほど心臓がドキドキします。血圧が上がります。興奮します。心臓にも脳にも負担がかかります。冗談のような言い方をしていますが、実際にはふらふらの状態です。重くなればまっすぐ立っていられません。身体も心も病んでしまいます。

「敵を愛すること」は北森先生が教えてくださったとおり、絶対に不可能なことかもしれません。「自分を迫害する者のために祈ること」も非常に難しいことであるのは間違いありません。

しかし、とにかく「祈ること」だけならば、かろうじてできるはずです。怒りと憎しみの感情が抑えられないほど湧いてきて、興奮して相手につかみかかり、大声で怒鳴りつけ、刃物を取り出して相手を切りつけたくなったとき、その衝動を抑えるために、自室に引きこもり、目を閉じ、腕を組み、神に祈る。そこまでならば、かろうじて、なんとかして、できるはずです。

そういうのは事なかれ主義の臆病者のすることかもしれません。「自分の家族や同胞の命を脅かす存在に対して激しい怒りと憎しみを抱き、勇敢に立ち向かうことこそ正義ではないか」という考えもあるでしょう。

しかし、とにかく落ち着く。冷静になる。「興奮しているこの私を、とにかく何とかしてください」と神に祈る。自分のために祈る。自分の助けを求める。「自分を迫害する者」のために祈るよりも前に。

乱暴なまとめ方かもしれませんが、今日の説教の結論は、とにかく落ち着け、ということです。興奮するな、ということです。冷静になれ、ということです。自分を落ち着かせるために自分のために祈れ。

そのことまでならば、なんとかなるでしょう。そこまでできたなら、これから私はどうすればよいかということが、興奮しているときよりも、はっきり分かるようになるでしょう。

(2018年8月19日)