![]() |
聖書とアンセルムスとアウレンとファン・ルーラーの贖罪論を学んでいる |
![]() |
アンセルムス『クール・デウス・ホモ』岩波文庫版 |
【ファン・ルーラーは「ラテン型」贖罪論を選ぶ】
ファン・ルーラーの「イエスの苦しみの意味」(1956年)を読む。『著作集』4a巻収録。キリストの苦しみと死による救いは「何からの」救いかについて従来説を7つ挙げ、「答えが多様なのは、教会は飽くことなく問い続ける謎を扱っているからだ」と言う。並の勉強量の人には言えない言葉。公平かつ寛大。
ファン・ルーラー自身はアンセルムスの充足説に感謝すると言っている。それはグスタフ・アウレンの3類型の「古典型」でも「主観型」でもなく「ラテン型」の贖罪論だが、ファン・ルーラーとしては改革派教会信仰告白諸文書が「ラテン型」贖罪論に基づいていることも、それを選ぶ理由の中に挙げている。
罪(zonde ゾンデ)を負い目ないし罪悪感(schuld スフルト)としてとらえるのがファン・ルーラー神学の特徴。新共同訳聖書で主の祈り(マタイ6:12、ルカ11:4)が「負い目」。オランダ語聖書でマタイ6:12はschuld。キリストの贖罪で我々から取り除かれるのはschuldであるとファン・ルーラーは考えた。
キリストの贖罪によって「負い目」(schuld)を取り除かれた我々は 「ふつうの地上の世間の生」(het gewone aardse, wereldse leven)に戻される。より高次元の超自然性は追加されず、負い目を取り除かれるだけなので、新しい一日を白紙の状態から始めようではないかとファン・ルーラーは呼びかける。
グスタフ・アウレンの『勝利者キリスト』(原著1931年)の英語版(1961年)と日本語版(1982年)も読み返している。アウレンはルーテル教会の立場からアンセルムスから改革派教会にうけつがれた「ラテン型」贖罪論を批判。どの立場を選ぶかは最終的には各自に任されているとしか私には言いようがない。