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カワサキニンジャ1000(2012年式)。記事とは関係ありません。 |
【「転々としてきた牧師」てんてんてん】
東京神学大学の卒業生の初任地を学長が決める伝統が今も続いているかどうかは知らないが、私の頃はそうだった。私の初任地は自分で選んでいない。夏期伝道実習先ですらなかった。完全な初対面。赴任時24歳。35歳年上の主任牧師の下で働き始めた。24+35=59。そうか、主任牧師は今の私の年齢だったか。
東神大在学中の奉仕教会は、出身教会の牧師から命じられた旧ホーリネス教会に2年半、東神大から斡旋された旧メソジスト教会に3年半。私の初任地を決めた学長は左近淑先生。私の卒業年の1990年の秋に59歳で突然亡くなられた。私は後ろ盾を失う形で「改革派・長老派」を打ち出す初任地での働きを開始した。
私が初任地に赴任したのが1990年4月。その教会の主任牧師のお連れ合いが岡田稔先生のご長女だったことから、私と改革派教会のつながりが生まれた。岡田稔先生(1902-1992)は、神戸改革派神学校初代校長で、戦後最も早く日本基督教団から離脱して日本キリスト改革派教会を創立した人々の神学的牽引役。
しかし今書いていることに改革派教会は関係ない。私の初任地の主任牧師は「弟子訓練」の影響を受けて「7つの燭台計画」という論文を書き、これから6つの教会を開拓し、相互関係を維持するために改革派教会のウェストミンスター信仰規準(信仰告白、大・小教理問答)を用いるという幻を抱いておられた。
こだわるべき主義主張は私に無かったし、初めて赴任した教会で59歳の主任牧師の下で24歳の伝道師にできるのは「助けること」と「仕えること」だけだと思ったので、教会内外から多くの批判を受けていた(その事情も赴任後に認識した)「7つの燭台計画」を面白がって、どうしたら実現できるかを考えた。
私なりの結論は「無理」だった。日本基督教団の内部でウェストミンスター信仰規準と長老主義の理念を具体的な形にするのは無理。しかし、私はまだ20代の駆け出しの牧師。初任地の教会や主任牧師が私の人生の責任を取ってくれるとは思えなかった。それで、改革派教会に個人的にお世話になることにした。
これが、1997年に私が日本基督教団から日本キリスト改革派教会に移籍した理由の1つ。私が考えたわけでない「7つの燭台計画」なる幻の実現の道すじを考える中で、長老主義の意味での「中会ないし連合長老会(プレスビテリ)」の意義を知ったこと。その実現の場は日本基督教団の中には無いと悟ったこと。
その私を使えると神さまが思ってくださったようだった。1998年7月に日本キリスト改革派教会で最初に赴任した教会が「東部中会」所属。その4年後の2006年に東部中会から「東関東中会」が分離・新設。その分離作業を管理する委員会の書記に私が任命された。2004年には私が「新しい中会」側の教会に転任。
私が神学研究に没頭しはじめたのも「新中会設立」の流れに巻き込まれたことと関係ある。「改革派教会の《中会》は(日本基督教団の《教区》などと違って)神学的一致が必要だが、神学力が不足しているあなたがたに新中会設立は無理」と罵倒する人々がいて、黙ってもらうために神学せざるをえなかった。
こういうことを時々書きたくなるのは、悔しい思いを持っているからである。私の経歴が「転々としている」という印象になることは分かっている。「新しい教会」を生み出すことと「新しいプレスビテリ」を生み出すことのために努力した、つもりだった。私の名前や働きを思い出してもらいたいのではない。