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各個教会は「教室」の規模がいいと思う |
【がらんどう】
未明3時ごろ、寝付けなくて、ふだん観ないテレビに画面を切り替えたら、NHK「ヨーロッパ トラムの旅」でポーランド・クラクフ。名所の多くが教会堂で、興味をひかれたが、あの古くて大きな会堂を維持するための費用はどれぐらいかとか、ミサ出席者はどれぐらいかとか考えてしまい、余計に目がさえた。
キリスト教と教会の「見せ方・見え方」を気にしないネット発信者はいないと思う。私なりに気を遣っているつもりだが、格調の問題は難しい。日本の「歴史的な」教会でもプロテスタントで200年はまだない。古ければ古いほど格調が高いと言えるかどうかも謎。「教会は見世物ではない」と言いたくもなる。
テレビを観なくなって久しいが、ネットの番組も最近までほとんど観なかった。やっと後者をいくつか観るようになったが、課金のハードルが大きく、情報のつまみ食いをしがち。いったん課金すると何年分も観られるが、消費スピードが速いし、発信者の思考パターンにそのうち飽きて、観るものが無くなる。
私の毎週の「板書説教」をユーチューブで配信すればいいのではとすすめてくださった方がおられる。うれしい気持ちでお聴きしたが、ありえない。人によるだろうが、私に限っては、教会の説教も、学校の授業も、ビデオカメラが回っていないからできる。「見世物ではない」と同じ言葉を繰り返したくなる。
だいぶ前から言ったり書いたりしてきたことだが、無名で影響力がない人間なので何度言っても構わないだろう。日本だけかどうかは分からない。長年の悲願と、多くの信仰の先達の尊い捧げものの蓄積であろうことは考慮するとしても、大きな礼拝堂を建てるだけ建てて、文字通りのがらんどうになっている。
「ここから先はある人々以外は入ってはいけない」領域とか「専門家以外決して触れてはならない」器物が設けられたりしている(そうでない教会も多い)ためデリケートで、かつ巨大な建物を維持するために、人を増やして献金を集めなくてはならないという、火を見るより明らかな本末転倒が起こっている。
「3密を避ける」原則は、いったん導入されるとなかなか元に戻らない。献堂時に「詰めれば何人座れる礼拝堂」だったとしても、今はその半分以下で「満堂」という感覚ではないか。問題は、現状の感覚の「満堂」に達している教会が今どれほどか。「ハードルが高すぎる」と苦しんでいる教会が多くないか。
足立梅田教会で、3密を避けつつ「満堂」を目指せば、最近の中高の1クラスの生徒数ぐらい。互いを尊重しながらのコミュニケーションがスムーズ。当教会創立者が長年青山学院高等部の聖書科教諭をなさったことと関係ある気がする。創立者も「板書説教」をなさっていた。しばらくぶりに私の代で再開した。
私が過去に、トータルで6年間、複数のキリスト教主義学校で聖書の授業をしながら考えたのは、各個教会の礼拝堂はキリスト教主義学校の「教室」に近いのか、それとも「チャペル」に近いのか、ということ。「どちらでもあるが、どちらでもない」というのが最適解だろうが、けむに巻く論法は好まない。
私は、各個教会は「教室」の規模がいいと思う。大会議なり冠婚葬祭なり音楽コンサートなりは、各専門業者所有の建物がいくらでもあるだろう。「(巨大な)礼拝堂を用いてそれら(冠婚葬祭やコンサート)をすること自体が伝道である」という論法を過去20年ぐらい聞かされてきたが、それは事実だろうか。