2013年11月29日金曜日

二重予定論をファン・ルーラーはどのように受けとめたか

つい先ほどのことですが、京都在住の神学生の方からツイッターでご質問をいただきましたので、ツイッターでお答えしました。

質問は「二重予定論をファン・ルーラーや現代の改革派神学者はどのように受けとめているか」です。ぼくからの返信内容を以下にまとめておきます。ツイッターの性質上、粗い回答であることは、どうかお許しください。

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ご質問ありがとうございます。

二重予定論は、バルト(主義者)と非バルト的改革派神学者とで、思想構造が全く違うことは明白です。ご承知のとおりバルトは「神は、イエス・キリストを遺棄に定めることによって、人間(全人類)を救いに定めた」という二重予定的万人救済論です。

このバルトの二重予定的万人救済論は、説教とかでしゃべりやすいし、とっても耳触りがいいので、20世紀の中盤から終盤にかけて、すっかりもてはやされましたが、どうも詭弁くささがぬぐえません。非バルト的な改革派神学者は、彼の二重予定論に立つことはできません。

さりとて、現代の(非バルト的な)改革派神学者は、16世紀のカルヴァンの「プリミティヴな」二重予定論のテキストをコピーして配布して、「これを受け容れなさい。そうすれば、きみも改革派教会のメンバーになれるからね」と言っているだけでもありません。

カルヴァンのいわゆる絶対的予定論(神が仁王立ちして人をヤギとヒツジに分けるの図)の危険性を最も早期に認識し、立ち向かう必要を自覚したのは、アルミニウスとその支持者(レモンストラント)です。レモンストラントとの論争の中で改革派教会は二重予定論の改善を続けてきました。

それで質問への答えですが、たとえばファン・ルーラーは二重予定論をどう考えたか。カルヴァン同様、あの人この人が選ばれているかどうかは「経験」で認識できるという立場でした。しかし、彼にとって重要な問題は、「永遠の選び」の永遠性は時間性とは矛盾するものだ、ということです。

我々がしばしば陥る罠は、「永遠の選び」と言いながら、それをまるで時間的な大昔のことであるかのようにイメージしているということです。ですが、「永遠」には過去も現在も未来もありません。「永遠」と「時間」は根本的に次元が違うのです。

ですから、ファン・ルーラーは先輩神学者ノールトマンスの「神はいちばん最後の瞬間に永遠のご決意をなさるのだ」という言葉に同意します。時間的な大昔に、ではなく、「いちばん最後の瞬間」に神の定めが明らかにされる。これはア・プリオリな決定論や運命論・宿命論とは異なる話です。

ぼくに分かるのはファン・ルーラーくらいです。他の現代の改革派神学者の二重予定論は分かりません。ファン・ルーラーの予定論テキストの一つを拙訳で公開していますので、ご一読いただけますとうれしいです。

「神の選び」(1958年)
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1958.html

ファン・ルーラーの二重予定論に対する見解を垣間見ることができるテキストの拙訳をもう一つ公開していますので、こちらもご一読いただけますと幸いです。

「ウルトラ改革派とリベラル派」の「3、予定理念からの論理的演繹」
http://aavanruler.blogspot.jp/2013/03/1970.html

とりあえず以上です。長々とすみませんでした。

お答えになっていないようでしたら、どうかお許しください。

神学の勉強がんばってください。心から応援しています。ご質問ありがとうございます!

2013年11月28日木曜日

ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由

言い訳は見苦しいかぎりですが、

ファン・ルーラーの翻訳がなかなか進まない理由。

ファン・ルーラーは深い人なんです。

徹底的にどこまでも掘り下げようとする人です。

そのファン・ルーラー先生にすっかり触発されて、

ぼくまで掘り下げたくなってしまうんです。

書き方がけっこうアフォリズムで、

短くて鋭い言葉をパッパッパッと提示していくところは読むたびにうなるのですが、

説明も注釈もなしにパッパッパッとテンポよく来るもんだから、

日本人読者、というのはぼくのことですが、ぜんっぜん分かんないことだらけなんです。

とくに歴史上の人名とか、過去の神学概念。

それが注釈なしに出てくるもんですから、イチイチ調べなくちゃならない。

調べなくちゃならないって言っても、ぼくも怠慢なのが悪いんですが、

いろんな図書館を探し回るほどの機動力があればいいんですが、

それよりもネットで探して買っちゃう。

だけど、お金もかかるし、外国の書店から本が届くまでに時間がかかる。

今は子どもたちの教育費にお金がかかる時期なので、新しい本は全く買えない。


たとえば、この写真の本ですが、

左から

コクツェーユス『契約論』(現代オランダ語版)
ファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)
『リュースブルク全集』全四巻
ファン・ニーウェンホーフェ『リュースブルク研究』
シュレーダー『ファン・ローデンステイン研究』
ファン・ヘンデレン他編『第二次宗教改革研究』

みたいなものを集めてきましたが、これらの本は、

ファン・ルーラーの論文の中に「コクツェーユスは」とか「リュースブルクによると」とか「ファン・ローデンステインの言葉で言えば」とか「第二次宗教改革」の話がパッパッパッと出てくるので、

仕方なく購入したものです。

だって、訳書だって責任は重大ですよね。

訳者には意味も内容も分からないけど原著者が書いているから、そのまま「横のものを縦にしました」というわけには行かない。

ぼくは自分のブログには「そんなの知らねーよ」くらいの乱暴な言葉はいくらでも書いてきましたが、

もし将来、自分の訳した本が出版される日が来て、それを買ってくださる方がいて、その方から質問を受けたときに「そんなの知らねーよ」とお答えしたりは、ぜったいしません。そんな感じになるくらいだったら、出版しないほうがいいんです。

だけど、コクツェーユスも、リュースブルクも、ファン・ローデンステインも、第二次宗教改革も、一つ一つがものすごく深い思想世界を持っていますので、

そこにも引き込まれながら、それでもなお「本題の」ファン・ルーラーにぼくの集中力を戻していくというのが一苦労なんです。

たとえば、ぼくが持っている『リュースブルク全集』(写真中央の四巻本)は、とても美しい状態で保存されていた古書なのですが、

それは1940年代に出版された古い全集だったことが購入後に分かり(だから購入を後悔しているという話ではありません)、

今ではもっと新しい全集が出版されている、とか、

そういう情報を得ると、ファン・ルーラーとは全く無関係の問題なのですが、それはそれで興味がわいてきますし。

左から二番目のファン・アッセルト『コクツェーユス研究』(英語版)についても、

この本の原著オランダ語版の原題はAmicitia Deiというのですが、

このラテン語の読み方をぼくらはアミキティア・デイだと思っていたら、

5年前に石原知弘先生と一緒にファン・アッセルト先生ご自身から「いやいや、その発音はアミシティア・デイだ」と教えていただいたり。

それで、また調べ直したら、同じラテン語でもキリスト教用語限定の発音方法があり、その場合はciはキではなくシだということが分かるとか。

もう、それはそれで面白くて仕方ないのですが、「本題の」ファン・ルーラーはそっちのけになってしまいます。

出版関係の方々にとっては、ぼくのような人間のすることは、利益には全くつながらないものなので、もうどうしようもないですね。

ぼくはスピードとか成功とか成果とか、そういうものとは全く無縁な人生です。マッドですね。松戸のマッド。

2013年11月27日水曜日

ぼくは「ブロガー牧師」ではありません

ぼくの管理しているブログの投稿数は、時々チェックしています。 

すべてぼくの自筆です(自筆って日本語で間違ってないですよね)。 

ぼくの管理しているブログの投稿数(2013年11月27日現在)

関口 康 日記          投稿: 1020 件
今週の説教           投稿: 210 件
超訳聖書             投稿: 3 件
カール・バルト研究会     投稿: 17 件
ファン・ルーラー著作集草稿 投稿: 20 件

だそうです。合計: 1270件ですね。我ながら呆れます。

投稿ごとに長短がありますが、平均の長さはどれくらいでしょうかね、全く見当つきませんが。 

完全に当てずっぽうですが、

昔ながらの400字詰め原稿用紙4、5枚にはなるんじゃないでしょうか。

40字×40行にフォーマットしたA4判用紙1枚程度。 

あれってA5判の本の2ページ分てことでしょ、雑に計算すれば。 

だったらぼくはもう、2540ページくらいの本を書いた計算になるのかな(ならないよ!)。

ぼくの「視野」からカルヴァン先生がいなくなりました


今日の午後、一時間ほどかけて、牧師室(書斎)の本棚の整理をしていました。

字で説明するのは難しいのですが、牧師室は「コ」の字型になっていて、

「コ」の字の上の横棒に「デスクと応接室」があり、

「コ」の字の縦棒と下の横棒に逆L字形に「本棚」があるという構造になっているため(この説明で分かります?)

「デスクと応接室」の側から見える本棚は、ほんの一部分だけです。

それで工夫を要するのは、「デスクと応接室」の側から見える部分、つまり、デスクで仕事中の「視野」にどんな本を置くか、です。

これまでも、いくつかのパターンがありました。しかし、今日の整理の目的は、はっきりしていました。

それは、デスクで仕事中の「視野」を「組織神学」の本で埋め尽くすことでした。

その代わりに犠牲になったのがカルヴァンです。

これまでは、さすがにカルヴァンは外せないでしょうと、常に見える位置に必ず置いていました。

しかし、本日の大移動により、

カルヴァンは16世紀に生きた「過去の人」で、つまり「歴史神学」の研究対象であるということで、

「壁の向こう」にある歴史神学コーナーへとおいやられてしまいました。

しかし、正直に言いますと、

カルヴァン先生の視線から解放されて、ほっと安堵しています。

まあ、みんなカルヴァン先生の(不肖の)後継者ですけどね。

學生時代の思ひ出


講義名は忘れましたが、

『宗教の神学』(ヨルダン社、1985年)を出版なさった直後である、

ということだけは、よく覚えています。

当時の肩書きは、なんでしたっけ、

たぶん「国際基督教大学教会牧師、宗教部長、教授」くらいですかね、

そういうお立場で、

ご自身の母校でもある東京神学大学で、

ぼくらを相手に講義してくださったときの

毎回うれしそうなお顔を、今でも忘れることができません。

今からだいたい30年前ということですよね、

なんだか大昔のことになりました。

その講義の中で繰り返し強調されていたことは、

「戦前にバルト、バルトと言っていた日本の牧師や神学者たちが、

戦争が始まりそうになった途端、

口をつぐんでしまい、戦争協力にひた走った」ということです。

「あんな人たちはインチキなんだよ」と、おっしゃっていました。

今のぼくらの眼前の光景は、どうなんでしょうね。

ぼくは、自分が卒業した学校から

本当に「卒業」してしまう人間であるということを

改めて昨日、強く自覚しました。

学校なんかにいつまでも縛られて生きていきたいとは思わないもの。

同窓会とかまっぴら。

幼稚園から大学まで、そういうのに出たことないです。

あ、ちょっと脱線しました。

今が「戦前」だとは考えたくないです。

そんなこと、考えたいわけないじゃん。

イヤです、ありえねえ。これからも戦争しない国でいてください日本。

だけど、いよいよ変な感じになってきました。

それはぼくだけの個人的で特殊で異常な感覚じゃないと思う。

かなり多くの人と共有できている感覚だと思う。

だけど、もう「口つぐんでる」んじゃないかなという雰囲気を感じるのは、

ぼくの気のせいでしょうか、

「バルト、バルトと言っていた」人たち。

ぼくの恩師に喝破してもらいたいです、

「あんな人たちはインチキなんだよ」ってね。

ま、「ぼくの気のせい」ということにしておきますね、とりあえず。

ぼくは「カール・バルト研究会」やってますけどね、

バルトの神学には批判的です。「批判的カール・バルト研究会」です。

でも、彼の行動は尊敬しています。

尊敬したうえで、ぼくなりに見習っているつもりです。

2013年11月26日火曜日

違憲状態国会の違憲状態議員による強行採決は犯罪だ

違憲状態国会の違憲状態議員による強行採決は犯罪だ。

司法がんばれ。東京地検特捜部がんばれ。

法の精神を守れるのは、あなたたちだけだ。

まして特定秘密保護法案だ。

違法国会の違法採決で成立した法で、違法政府の秘密をすべて隠せてしまう。

そんな法案の強行採決などしてしまえば、この国はその日から無政府状態だ。

そういうことができてしまうなら、

その政府とその法案に賛成した国会議員を、心底から軽蔑する。

この本はぼくの宝物です(読めないけど)

今日は疲れちゃいましたので、そろそろ休みます。

今日の最後にオタク的なコレクション紹介。


レオンハルト・ラガツ著
『神の国のための戦い ブルームハルト父子、そしてもっと先へ!』
(初版1922年、第二版1925年)

「こんな本を持ってるぜぇ」と見せびらかしたいだけです。

ぼくはドイツ語は苦手ですので。

2013年11月25日月曜日

実践神学概論の参考書

神学の第四部門としての「実践神学」の一教科としての「実践神学概論」に該当する文献で

ぼくが持っているのは、この写真に写っている本です。


8冊ありますが、翻訳本を含んでいる8冊ですので、実際には5冊です。

左から

ロスカム・アビンク『神学諸科解題』
『実践神学 ロスカム・アビンク教授退任記念論集』
ヘイティンク『実践神学』(オランダ語版、英語版)
ブラウニング『基礎的実践神学』
イミンク『信仰論』(オランダ語版、英語版、日本語版)

ロスカム・アビンク教授(1914-1996)はフローニンゲン大学で教えました。

ヘイティンク教授(1938-)はアムステルダム自由大学で教えました。

ブラウニング教授(1934-2010)はシカゴ大学で教えました。

イミンク教授(1951-)は現在プロテスタント神学大学の学長です。

それぞれの実践神学概論に、その著者独特の文体や論調があり、個性の強さを感じます。

強いて言えば、論理的に最も整理されているのは、ヘイティンク先生の『実践神学』だと思います。

聖書コーナーです


あくまでも相対的な話ですが、

オランダ語の教義学の本の話よりは、もう少し共感を得られやすい写真を公開します。

「聖書コーナー」です。

カイパーとバーフィンクの本です


本棚の話題は反応が温かいので、もう少し続けます。

この写真に写っている範囲内にあるのが、

「アムステルダム自由大学」を設立したカイパーと、

カイパーの同僚バーフィンクの本です。

ぼくが持っているカイパーの本は、

左から

『一般恩恵論』全3巻(オランダ語)
『天使論』(オランダ語)
『聖霊論』(英語版)
『カルヴァン主義』(オランダ語版、英語版、日本語版)

などです。

カイパーについて書かれた本(伝記、思想)もあります。

真ん中の黒っぽい四巻本から始まり、その右にあるのが

バーフィンクの本です。

その四巻本が『改革派教義学』(オランダ語)です。

その右側に、同書の英語版を並べています。

あとは

『啓示の哲学』(オランダ語版、日本語版)
『改革派組織神学』(日本語版、原題『神の偉大さ』)
『賛美の供えもの』(オランダ語版)

です。バーフィンクの伝記や研究書もあります。

2013年11月24日日曜日

惜しみなく分け与えなさい

テモテへの手紙一6・17~21

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。」

いまお読みしました個所も「聖書はすごい」と思わされるところです。二千年も前に書かれたものなのに、まるで今のわたしたちの状況を手に取るように見ているかのようなことが書かれています。

今は深刻な格差社会です。アメリカで年収が上がっている人は上位1%だけだそうです。100人に1人は右肩上がりの裕福な生活をしているのかもしれませんが、99人はそうではないのです。日本も今すでに、ほとんど同じ状況ではないかと思います。

1%の人になるための競争を、早い人は幼稚園の頃から始めています。負けないように、蹴落とされないように、必死でがんばっています。がんばることが悪いと言いたいのではありません。しかし、お金は天下の回りものだと、昔から言われてきたではありませんか。ある人の分が多ければ、他の人の分は少なくなるのです。

今の日本の経済政策はお札をたくさん印刷してお金を増やし、それで経済を活性化することだそうですが、それはただのごまかしです。いま本当にしなければならないことは、上位1%の人たちの年収を守ることではなく、99%の人々になるべく公平に配分することです。

みんなが完全に等分に分ければよいというような単純な話ではありません。しかし、持っている人が持っていない人に対して「あの人たちは頑張らなかったからこうなったのだ。自業自得なのだ」とだけ言って済ますことはできません。そちらのほうも単純な話ではないのです。

しかし、そのように単純に考え、実際にそのような言葉を口にし、持っていない人を見くだし、傷つける。まさにそれが、今日の聖書の個所で言われている、この世で富んでいる人が陥る「高慢」の意味だと思います。

「不確かな富に望みを置くのではなく」と書かれています。「富」はたしかに「不確かな」ものです。株をなさる方々は、株の価値は秒単位で変動しているものであることをご存じでしょう。悪口を言いたいわけではありませんが、株で利益を得ようと思うことは、賭博をするのと変わりません。会社で無理やり株を買わされている方々も多くおられると思うので、本当にこれは悪口で言っていることではありません。ただ、株の運命そのものは、一寸先は闇です。これは悪口ではなく事実です。

株も投資も非常に危険なものです。賭博は論外中の論外です。人より多くのお金を持つことが悪いわけではありません。しかし、大切なことは、いかに人より多くのお金を持つかではなく、そのお金で何をするかです。人それぞれの生き方や価値観をとやかく言うと叱られますので、そういうことはしないでおきます。そこから先は、自分の頭と心で考えてくださいとしか言いようがありません。

今申し上げていることは、教会の皆さんに申し上げていることではありません。教会の皆さんはよく分かっておられる、あえて言う必要がないことばかりです。多くの財産を手にすることが悪いわけではありません。しかし、厳粛な事実は、それらはすべて、いつまでも自分のものであり続けるわけではないということです。わたしたちの命には必ず終わりの日が来るからです。そのときには、誰かに手渡さなければなりません。

しかし、それを誰に手渡すのでしょうか。わたしたちは10月に、キリスト教葬儀社の方に来ていただいて「遺言セミナー」をしました。講師の方から「遺言をちゃんと書いてください」と教えられました。何も書かなければ、法律に基づいて、自動的に財産分与がなされます。それでも構いません。しかし、世のため、人のために遺す分はないのでしょうか。あるいは、神さまのため、信仰のために遺す分は。

こういう話をしますと「おやおや、牧師が信者に金銭を要求しているぞ」というような話になってしまいかねないので、私は本当はこんなことをあんまり言いたくないのです。しかし、教会は非営利団体です。皆さんの献金、あるいは寄進のみによって支えられている存在です。それ以外にどうすることもできません。皆さんの生活に負担をおかけしようなどという気持ちは全くありません。しかし、教会「も」助けていただきたいのです。今はこのようなことを真剣にお願いしなくてはならない状況でもあります。

長男が中学に入ったときからですから、もうかれこれ7年前からということになります。妻が仕事をするようになりましたので、私が家事をするようになりました。結婚して22年になりますが、最初の15年間は、私は家事を全くしませんでした。だから、今はお詫びのような気持ちでやっています。ほとんど毎日買い物に出かけ、妻が留守の日はごはんを作り、皿を洗い、洗濯し、掃除し、朝はゴミ出ししています。

偉そうに言うつもりはありません。当たり前のことなのです。それを15年間も全くしたことがなかったことのほうが問題です。妻には本当に申し訳ないことをしました。

自分で家事をするようになって、「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置く」(17節)という御言葉の意味が沁みるように分かります。高級な食材を使えば美味しい料理ができるのは当たり前です。私が追求しているのは、いかに安い食材で美味しい料理を作れるかです。お肉や野菜の安売りの日は何曜日かというようなことも、だんだん分かってきました。そういうことを全く知らないで生きてきたことのほうが問題です。大失敗です。

「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」の意味は、「わたしたちに高級なものをいつもくださり、贅沢な生活をさせてもらえる神」ということではないと思うのです。そういうのは全く正反対です。楽しくありませんし、実は豊かでもありません。いろいろと自分で考える必要がないからです。

私は今、楽しくて仕方がないです。自分でいろいろなことができるようになりました。ありがたいことです。遅ればせながら、毎日の家事に人生の喜びを見いだしている今日この頃である、ということを、この機会にお話ししておきます。

(2013年11月24日、松戸小金原教会主日夕拝)

ぼくの「ファン・ルーラー文庫」は四種に分類できます


ぼくの「ファン・ルーラー文庫」は次の四種に分類できます。

(1)左端から緑色の本までが旧・新の「著作集」。

(2)その隣から中央の赤い本まで「論文集」。

(3)その隣から右から四分の一あたりまでが「黙想集」。

(4)残りはファン・ルーラーを取り上げた「研究集」です。

ある出版社の方が、ファン・ルーラーの新しいほうの「著作集」(写真の中の緑色の本)を全訳しようと提案してくださったことがあるのですが、

それを実現するためには改革派神学とオランダ語に習熟した最低10人くらいの人材が一致協力して訳業に専念できるようなシステムが必要だと、ぼくは思います。

22世紀ですね。

2013年11月23日土曜日

みなさん、オランダ語を勉強しましょう!

前の記事にアップした本棚の写真の下の三段分がすべて

カール・バルトの本と、バルトについて書かれた本です。


「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」

という言葉は、バルトにも当てはまると思います。ビビるほどの量ではありません。

我々が一人の学者を偶像にしないためにできそうなことは、

複数の神学者たちの本を「揃える」ことかもしれません。

日本では知られていない神学者たちが、

カルヴァンやバルトほど本を書きました。我々が知らないだけです。

複数の神学者の本を「揃える」ことで、何が起こるのか。

メディアなどが作りだした「偉大な」神学者の相対化です。

日本で知られている「偉大な」神学者の代表は

アウグスティヌス、トマス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルトでしょうか。

彼らを相対化することができるようになります。

ベルカウワーもファン・ルーラーも、ドイツ語でも書きましたが、

二人ともオランダ人ですので、著作の大半はオランダ語です。

オランダ語はドイツ語に似ています。ドイツ語の基礎が分かれば、すぐ読めるようになります。

講談社オランダ語辞典は画期的でした。これなしには、ぼくは読めません。

みなさん、オランダ語を勉強しましょう!

どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません

ふいに思い出したのは、学生時代の先輩の言葉です。

三鷹の学生寮のぼくの部屋の本棚を見て

 「きみは揃いものが好きなんだね」

と言われたことがあります。

その先輩が誰だったのかは覚えていません。その人の顔が思い浮かびません。

でも、先輩のおっしゃったこと、当たっていました。

ぼくは揃えたくなる人間です。「収集癖」のようなものが、たぶんあります。

なぜ揃えたくなるのかは分かりません。その理由を知りたいわけではありません。

ただ、分かったことがあります。

それは、どんなに偉大な先生でも  一生の間にできる仕事は限られている、ということです。

当たり前のことですが、揃えてみて納得できました。


この写真の上の段は、ベルカウワー(1903-1996)の本とベルカウワーについて書かれた本です。

下の段は、ファン・ルーラー(1908-1970)の本とファン・ルーラーについて書かれた本です。

いずれもパーフェクトなコレクションではありませんが、かなり網羅できていると思います。

ベルカウワーとファン・ルーラーは二人ともオランダの改革派神学者でした。

ほぼ同時代に活躍しましたが、所属教団が異なるため、主張に違いはありました。

二人の関係を研究することは、大きな意義があります。

それよりぼくがいま言いたいことは、二人の著作の量です。

「すごくたくさんある。だけど、この程度のものだ」

ということです。

どれほど偉大な神学者でもバケモノではありません。人間です。

人ひとりの一生の間に書き残しうる言葉には、限界があります。

「揃えて」みて初めて、そのことが分かりました。

それでぼくは、ほっとしたのです。

神学をなめてはいけません。しかし、むやみに恐れることもありません。

何を言ってるのか分からなくなってきましたので、このへんで終わります。

2013年11月22日金曜日

ぼくに安住の地は無いような気がします

いま気づきました。

ぼくは今週月曜日のブログ

「まあ、ぼくは『岡山県人』ですから、

 千葉の空気も、東京の空気も、読んであげる義理はありません。」

と得意気に書きましたが、

その三日後の、昨日木曜日のブログには、

岡山の空気をけがすようなことを書いてしまっています。

あーあ、こうしてぼくは日々、世間を狭くしています。

外国語できないから「日本から出て行け」とか言われても無理だし。

ぼくに安住の地は無いんですね、たぶん。

しゅるしゅる(煙)。

2013年11月21日木曜日

違憲状態国会が決めた法律に逆らうと禁固刑何十年という話になるのはグロテスクすぎます

違憲状態選挙で選出された(確定)

違憲状態議員による(確定)

違憲状態国会で(確定)

明白に違憲的ななんちゃら法案が審議され(いま)

その法案が「数の力で」成立した場合でも(?)、

その法律に従わなければ、禁固刑何十年(ええーっ?!)という話、

バカバカしすぎて、グロテスクすぎて、ついて行けないです。

ただちに解散総選挙すべきだと思います。

ただし、一票の格差の問題は解決したうえでの再選挙です。

または、なんちゃら法案は審議未了廃案とする。

どちらかです。

ぜひお願いいたします。

【追記】

ぼくごときの意見を無視するのは、そりゃいとも簡単なことですよ。

だけど、ぼくが書いたことは、ごく普通の庶民感覚だと思いますよ。

まさか強行採決するんですか。

違憲状態国会の強行採決。ずいぶんアナーキーですね。前代未聞ですな。

そういうことすると、皆さんの輝かしい経歴に傷がつくんじゃないですかね。

もう二度と法律だの憲法だのという言葉を口にできなくなるんじゃないですか。

恥ずかしいと思わないのかな。結局、権力の亡者だったのか。がっかりですね。

2013年11月20日水曜日

2012年12月衆議院議員選挙「違憲状態」についての最高裁大法廷判決に寄せて

1票の格差:12年衆院選は違憲状態 最高裁大法廷(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/m20131120k0000e040232000c.html

ついに最高裁判決出ました。

竹崎博允裁判長は、ぼくらの高校、岡山朝日高校の先輩だったんですね。知りませんでした。

竹崎博允 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/竹崎博允

今日の判決によると、選挙そのものは有効だそうですので、

せめて「違憲状態議員」と「合憲議員」の区別はされるべきだと思います。

この判決が出ても議席に堂々と座れる人の神経を、ぼくは疑います。

「違憲状態議員」は自主的に傍聴席に座るべきです。

それが不服なら自主的に議員バッジを外すべきです。

考えてもみてください。

「違憲状態議員」を含む国会で決められた法律に、

ぼくらは、どの顔して従えばいいのか。

冗談じゃない。

「違憲状態議員」たちを、どの国民が尊敬できるのか。

ぼくには無理です。

というか、その人自身、国会議員としてのプライドを持てるのか。

ぼくには甚だ疑問です。

早く解散総選挙してあげるほうが、その人たちの尊厳を守れると思います。

松戸小金原教会の月報『まきば』最新号が完成しました


松戸小金原教会の月報『まきば』2013年11月号が完成しました。

巻頭言 今月の言葉

 「被造物だけではなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいます」 (ローマ8:26)

牧師 関口 康

わたしたちは教会のために産みの苦しみを続けているでしょうか。教会に通うことは自分の満足や安心を求めるためであるというだけでは済まないのです。

わたしたちは自分のことで精一杯です。他人の世話までできる余裕はありません。しかし、わたしたちが悩んだり困ったりしたときに教会が助けになった経験をもっているなら、同じような悩みや苦しみを今味わっている人たちのためにも教会が必要だということが分かるはずです。遠くの教会まで苦労して通っていた人たちにとって、自分の家の近くに教会があることの意味や価値が分かるはずです。

いや、今は自動車・バス・電車でどこでも行ける。近所の教会などなくてもよい。もしそのような考え方が、教会も伝道もすっかりあきらめた結果として出ているものだとすれば、反省し、悔い改めなければならないことです。

パウロは教会をあきらめませんでした。どんなことがあっても伝道を続けました。パウロの言う「目に見えないものへの希望」とは伝道の希望です。まだ存在しない教会が、新しく生み出されることの希望です。まだ洗礼を受けていない人が、教会に通い、神の前で喜びと感謝をもって生きはじめることの希望です。

東関東中会の教師会を行いました

茨城県立県民文化センターのイルミネーション

今日(2013年11月19日火曜日)は、ひたちなか教会(茨城県ひたちなか市)で東関東中会の教師会を行いました。

開会礼拝の説教は勝田台教会の坂井孝宏先生でした。素晴らしい説教でした。

その後、日本キリスト改革派教会『教会規程』とカルヴァン『キリスト教綱要』を学びました。有意義な時間でした。

帰りに見かけた茨城県立県民文化センター(水戸市)のイルミネーションが美しかったです。

2013年11月18日月曜日

千葉の東京 Tokyo in Chiba

東京ディズニーランドが千葉にあることが「偽装」だというなら、東京大学(柏)も、東京歯科大学(千葉)も、東京電機大学(千葉NT)も、東京基督教大学(印西)も、千葉にあるのはすべて「偽装」ですかね。

こういうことをあんまりうるさく言い過ぎると、ギスギスしそう。ネット時代に地名の意味はだんだん薄れてきている気がします。

「新東京」とか「新都心」とか「副都心」というのは、まだちょっと遠慮がある感じですよね。堂々と「東京」を名乗りながら千葉、というのは、ぼくはもう慣れましたが、いまだにネタにされ続けられるところがありますね。

柏・松戸が十分東京であることはぼくもそうだと思います。が、それでどうなるかっていうと、柏・松戸在住の「若い元気なクリスチャン」は、柏・松戸にある教会の前を華麗にスルーして、自動車・バス・電車で東京の教会まで行っちゃうんですよね。悲しい、悲しい、悲しい、悲しい現実です。

しかし、その「若い元気なクリスチャン」だった人たちも、やがて華麗に加齢する。その頃になってやっと、「ああ、しんどい。遠くまで行くの、やんなっちゃった。苦労して東京の教会まで行っても、東京の教会は若い人たちばっかりで、ぼく/あたしの居場所が無くなっちゃったわ。...あれ?よく見ると、うちの近くにも教会あるじゃない、気づかなかったわ(50年くらい前から同じ場所にあるんですが...)。ま あ、仕 方 な い、こ こ で も い い わ。」(ゲシュペルトは筆者)とか言って、来てくれたりします。

これは教会だけの話でなく、病院や商店や学校なども基本的にだいたい同じことが当てはまります。ちょっと大きめの手術をすることになった人は、ほぼ必ず、東京の有名な病院のスーパードクターにやってもらうために、何日でも何か月でも待ちます。松戸・柏にも名医はたくさんいると思うのですが、病院や医師までブランドものです。

商店も基本的に同じことが当てはまると思います。全国チェーンのタコ焼き屋の「松戸小金原店」と、東京の「原宿店」とで、タコ焼きの味が違うとは考えにくいのですが、松戸・柏の「若くて元気な」人たちは、「松戸小金原店」の前を華麗にスルーして、「原宿店」のタコ焼きをハフハフしたりします。

学校も然り。場合によっては小学校くらいから、何時間もかけて東京の有名校に通わせられている子どもたちがいます。それが悪いとは思いませんが、「地元の学校は荒れている」という神話を信じるゆえにそうする、という親もいます。しかし、それは神話です。べつに荒れてません。

こういうことを書くと嫌われることは分かっているのですけどね。

まあ、ぼくは「岡山県人」ですから、千葉の空気も、東京の空気も、読んであげる義理はありません。

ネット時代の教会と牧師

以下、思いつくままに書きます。

注意していただきたいのは、これはぼく自身の直接的な体験ではないという点です。あくまでも可能性であり、一種のフィクションです。悪しからず。

(1)教会関係とネット関係

毎週日曜日に教会に集まる同士(とくに牧師と教会員)と、牧師自身のネット関係の仲間は、別々のほうがいいような気がします。

なぜなら、教会の中にはネットを使わない人がいますので、いわば必然的に、教会員「の一部」と牧師がネット関係にあることになるからです。

そうなりますと、牧師の言葉や牧師経由の情報が「伝わっている人」と「伝わっていない人」が教会の中に併存する格好になることは、必然的です。

それは、教会の中に不信感、不和、対立を引き起こす遠因ないし直接の原因になりかねません。

(2)ネット経由の情報は「パソコン(モバイル含む)の前」でしか得られない

ネット時代の牧師は、(ぼくら日本キリスト改革派教会でいえば)大会や中会の委員会や、その他ありとあらゆる方面からの情報が、今やメールはじめネット経由で送られてきています。

「ネット経由で送られる情報」を入手するための「唯一の」方法は、「パソコンの前に座ること」です。他にどうすることもできません。

しかし、「パソコンの前に座る牧師」の姿が、見る人によっては、非常に「不愉快な存在」に見えてしまうらしいのです。その感情たるや、「人間を相手にするのではなく、パソコンを相手にしている不埒な牧師」だ、みたいな感じのようです。

イヤ、違うんですが。「大昔の」手旗信号とか、モールス信号とか、交換電話とか、わりと最近のファックスとかと、ネットは、基本何も変わらないんですが。

「パソコンの画面を見つめるだけで、ぼく/あたしの顔を見てくれない」とか文句言いたい気持ちも、まあ分からないでもないですが、それ、毎日通っておられる病院のお医者さんへの不満ですよね。そのお医者さんたちに文句言ってくださいね。

(3)ネット時代の「忙しい」牧師は、ハタから見ると、「何もしていない」ように見える

教会は、いますでに、あらゆる情報をネット経由でやりとりしはじめています。

たとえば、ぼくら日本キリスト改革派教会の「東関東中会」では、

中会の会議や各委員会の開催通知、議案書、会議録略報、あるいは緊急連絡や訃報などはPDFやワード文書形式でメールに添付されて送られてきます。プリントアウトやファイリングは各人に任されています。

他にも、多くの委員会が各自のメーリングリストなどを設けて日常的に議論が交わされていますし、最近はfacebookなども積極的に利用されるようになりました。

あるいは、これは大会や中会のケースではありませんが、個人的なグループなどでは、スカイプやハングアウトなどのビデオ通話で、会議や勉強会が行われるようになりました。

このような動きはネットコミュニケーションの発達に連動しているものでもありますが、同時にそれは「教会の伝道不振」という時代的背景を持っています。

それはどういうことかといえば、早い話、各個教会も中会も大会も献金収入が減る一方で、経済的に追い詰められているため、会議や委員会のたびに支出される「日当、交通費、食事代、宿泊費」といったものを切り詰めることに必死です。

その中でのネットコミュニケーションの活用は、きわめて危機的な財政難にある各個教会、中会、大会を「助ける」意義もあるのです。

ところが、ここに大きな問題が発生します。

上記のような多岐にわたるネットコミュニケーションは、すべてパソコン(モバイル含む)の前で行われます。

そして、その姿を「客観的に見れば」、

牧師が書斎にひとりで引きこもり、パソコンの前に座って、目と指を不断に動かし続け、独りごとを言い、時々爆笑したり、大きな声でしゃべっている、

というふうな絵になります。

しかも、多くの牧師は、教会に近接した場所に自宅(牧師館)があり、長時間の通勤などをしていません。

そのため、「ネット時代の忙しい牧師」は、ハタから見ると、「自室に引きこもってパソコンをいじっているだけのヒマな人」に見えてしまうのです。

すると、どうなるか。

「ヒマそうな牧師」は、教会からの尊敬の対象にはなりにくくなります。

「ぼくたち/あたしたちは、毎日毎日、汗水たらして長時間の通勤を耐え、

ひどい人間関係の中でもみくちゃにされ、イヤな仕事をこなしている。

それなのに、うちの牧師は、自室にこもってパソコンをいじっているだけ。

冗談じゃないわ。あんな牧師に耐えられるか」

というような話になりかねません。

イヤイヤ、そんなことないから。

めっちゃ忙しいですよ、まあたしかに「パソコンをいじっている」だけですが。


2013年11月17日日曜日

神に計画があり、万事が益となります

ローマの信徒への手紙8・28~30

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今日の個所に記されているのは多くの人の心を慰めてきた有名な御言葉です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)と記されています。

「神を愛する者たち」と言われているのが、被造物がその出現を待ち望んでいるとパウロが書いていた「神の子たち」(19節)のことです。それはわたしたちです。イエス・キリストと結ばれるために洗礼を受けた者たちです。それは教会です。

しかもそれは、教会という団体を指していると同時に、この団体の中にいる一人一人のキリスト者を指しています。その場合の個人と団体との関係は、「鶏が先か、卵が先か」という問題ほどには難しくありません。教会の場合は個人が先です。個人としての一人一人のキリスト者が集まって教会をつくるのです。その逆はありません。そこに一人もキリスト者はいないけれども、教会が存在するということはありません。

しかし、パウロは「神を愛する者たち」とは「御計画に従って召された者たち」であると、ただちに言い換えています。「御計画」とは神の御計画です。わたしたちの神は心をもっておられる存在です。その神が、御自身の心の中に、この地上に教会をつくる計画をもっておられるのです。その意味は、神がこの世界に教会が必要であると信じておられるということです。そして、その神が御自身の必要と御計画に基づいて、神を愛する者たちを神のみもとに召し集められるのです。

この「召された」という点は重要です。わたしたちは自分で教会を探して、ここに来たと思っています。電話帳を調べたかもしれませんし、最近ではインターネットで調べたという方も多いでしょう。チラシを見てくださった方もおられるかもしれませんし、聖書を本屋で買って読んだ、キリスト教の本を読んだ、キリスト教のラジオ番組を聞いたという方もおられるかもしれません。あるいは、教会の人から誘われた。親に連れて来られ、自分も信じるようになった。そのように、わたしたちが教会に通いはじめるまでには、いろいろなきっかけがあったと思います。

しかし、それがどのようなきっかけだったにせよ、わたしたちは、とにかく自分でここに来たのだと、最初は誰でもそう思います。遠くの町から引っ越してきたとき、いくつかの教会をまわってみて、自分にいちばん合いそうな教会はここだと思って通うことにした。そのように最初は誰でも思います。そのように考えること自体が間違っているわけではありません。当然のことです。

しかし、そのわたしたちが教会に通いはじめて、しばらくすると、分かって来ることがあります。それは、わたしは自分で教会に来たと思っていたけれども、実はそうではなかったということです。神がわたしを教会へと召されたのだということが分かってきます。神御自身があらゆる手段を用いて、わたしたちを教会へと導いてくださったのだ、ということが分かってきます。

それはよく考えてみれば、ものすごく分かりにくい、めちゃくちゃに現実離れした考え方ではないということをお分かりいただけるはずです。先ほど電話帳だ、インターネットだ、チラシだ、本だ、ラジオだと言いました。あるいは教会の人から直接誘われた。それらはすべて教会自身ができるだけ多くの人たちに教会の存在を知っていただきたいという強い願いをもって行っていることです。ここに教会が存在していること自体も、教会の建物も、ずっと前からここにあったわけではなく、教会のみんなで力を合わせ、献金を集めて作っているものです。

そういうことは、教会に初めて来たばかりの頃のわたしたちには分からなかったことです。最初はみんなお客さんでした。お客さんであることが悪いわけではありませんが、だんだん教会の内部事情が分かってくるときが来ます。

神を信じることも、教会に通うことも、自分で始めた、自分で決めたと、最初はみんなそう思うのです。しかし、実際はそうではなく、わたしたちは招かれ、召され、集められたのです。すべての人、すべての生き物が自分で自分を生み出すことはできず、必ずその親から生まれるように、わたしたちの信仰も、教会生活も、自分で生み出したものではなく、神が生みだしてくださったものなのです。

もちろん、いま申し上げていること自体が信仰です。わたしたちは神を信じる信仰へと導かれないかぎり、そのような考え方をもつことができません。信仰がなければ、わたしたちはあいかわらず、自分でここに来た、自分で教会を選んだと思うでしょう。しかしその思いは、信仰を与えられたときに初めて、実はそうではなかった、神が私をここへと召し集めてくださったのだという思いへと置き換えられるのです。

いま、少し長く説明させていただいたのは「召された」という言葉の意味です。パウロが言いたいことは、教会は神がつくってくださったものであり、わたしたちは神によって教会に集められたのだ、ということです。それは神がこの世界に教会が必要であるとお考えになったからです。

それでは、なぜ神はこの世界に教会が必要であるとお考えになったのでしょうか。その答えはこうです。神は、御自身の手によって創造されたこの世界と人間から、御自身が愛される存在でありたいと願われたのです。神は「神を愛する者たち」をこの世界に生み出すことを願われたのです。

人間の親子の関係を考えてみれば、いま申し上げていることは、ある程度はご理解いただけるはずです。親が自分の子どもたちに願うことは、それはやはり自分のことを愛してもらいたいということだと思います。自分の子どもに嫌われたい、憎まれたいと願う親は、通常はいません。全くいないとは言い切れませんが、多くはないと思います。ほとんどの親は子どもから愛されたいと願うでしょう。

もちろん、そのように、親が子どもから愛されるために親がしなければならないことは、子どもを愛することです。自分が愛した分だけ、相手から愛してもらえるでしょう。親は子どもを愛さないが、子どもからは愛されたいというのは虫が良すぎます。親と子どもの関係は、ギブアンドテイクです。親から子どもへの愛は一方通行の場合もあると思います。しかし、親から愛されなかった子どもが、それでも親を愛するということは通常ないと考えるべきです。

神は世界と人間を心から愛してくださっています。わたしたち一人一人を愛してくださっています。しかし、親から子どもへの愛は一方通行である場合もあると、たったいま申し上げました。そのようなことが神とわたしたち人間との間にもありえます。そのようなことが現実にあります。

わたしたちの命は神が創造されたものです。わたしたちの存在と人生を創造されたのは、神です。そして、わたしたちは生きている間、あらゆる種類の恵みと祝福、楽しみと遊びを神から与えられています。

しかし、そのようなことは全く考えたこともないという人は、残念ながら少なくないのだと思います。わたしたちは神から愛されているとか、神の恵みをいただいているとか言われても、その意味がよく分からないと感じる人は、おそらく多いのだと思います。神からどれだけ愛されていても、その愛に気づくことがなく、ありがたいとも思わないので、「神を愛する」ということの意味が分からないのです。

教会とか牧師とか、そういう人たちが、聖書の言葉に基づいてそのようなことを言っていることについては、それを全く知らないわけではないし、少しくらいは耳を傾けることもやぶさかではない。しかし、だからといって、それを信じなさいとか受け容れなさいとか言われても困る、と感じる人は、多いのだと思います。

なぜ困るのでしょうか。その理由は分かります。なるほどたしかにわたしたちには恵みというようなものも与えられているのかもしれない。しかし不幸もたくさんあるではないか。わたしたちの人生は苦労だらけ、不幸だらけではないかと考えてしまうからだと思うのです。神が世界を愛し、人間を愛しておられるというなら、なぜこの世界と人間には苦労があり、不幸があるのか。それを説明してくれなければ納得できないし、信じなさいと言われても不可能だ。そのようにはっきりおっしゃる方もおられます。

その言い分を、私自身は全く分からないと感じるわけではありません。ある意味で、よく分かる話です。しかし、ここから先は少しだけ、私の考えを言わせてください。私はいま、牧師という立場で教会に関わらせていただいています。その私が知っていることは、いま教会に集まっておられるみなさんがどういうきっかけで教会に通うようになられたのか、ということです。

私はみなさん全員のことを何もかも知っているわけではありません。また、私が知っていることをべらべらしゃべることはできません。しかし、はっきり言えることは、ほとんどの人は、「私は幸せな人生を送ることができています。だから神を信じます」という理由で教会に通い始め、信仰をもって生きるようになったのではない、ということです。「私は幸せだから、神を信じます。不幸だから神を信じることができません」とおっしゃる方は、ほとんどいません。私自身はそのような方と出会ったことがありません。

現実はむしろ正反対です。多くの人は、不幸のどん底にいたときに救いを求め、助けを求めて教会に来られたのです。大切な家族を失った。自分が病気になった。人生に空しさを感じた。世間に絶望した。何が真実で、何が嘘っぱちかが分からなくなった。そのようなときに、聖書を読みたい、神の御言葉を知りたいと願って、教会に来られたのです。

そうでもないという方がおられるかもしれません。それはそれで問題ありません。人生に不幸など無いに越したことはありません。しかし、不幸を体験したことがないという人は、どこにもいないのです。病気になったことがないという人はいません。苦しんだことも泣いたこともないという人など一人もいません。わたしたちが人間であり、傷つきやすい肉体をもつ存在であるかぎり、ほとんど毎日のように疲れを感じ、不満を抱え、助けを求めて生きているのです。

それこそが今日の個所でパウロが言っている「万事」の具体的な内容です。わたしたちが人生の中で体験するあらゆることが「万事」です。世界に起こるすべての不幸、すべての絶望を含むあらゆる出来事が「万事」です。

その「万事」が「益となるように共に働く」のだとパウロは書いています。わたしたちの人生に襲いかかる不幸が、かえってわたしたちを、神を信じ、神に依り頼む信仰に導き、教会へと招き入れるのです。そのような方法で神はわたしたちを「神を愛する者」へとつくりかえてくださいます。神がこの私を心から愛してくださっていることが分かるようにしてくださるのです。

(2013年11月17日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年11月16日土曜日

「○○フォーティーエイトになりました!」とは決して言いたくないです

今日は独りでひっそり自分の誕生日を祝いました。

一昨年も昨年もfacebookの皆さまから怒涛のバースデーメッセージをいただいて、うれしかったです。

誕生日を非公開に設定してみたら、一日中し~んとしているので、それはそれで寂しい誕生日でした(ウソです、ぜんぜん寂しくありません)。

48歳になりました。

昨年の誕生日の時点で、「来年関口は『ぼくは○○フォーティーエイトになりました!』とか騒ぐに違いない」と予測されていましたので、それだけはするまいと、かたく心に誓いつつ、去る一年を過ごしてまいりました。

人生はややしんどいですが、とりあえず前に進んで行くしかありません。

ぼくは今の10代、20代くらいの人たちを応援したいです。

30代以上の人たちは、どうぞご自由に、自分の力で生きて行ってください。よろしくお願いいたします。

それではまた。

もうすぐ日付が変わりますので、これにて終了します。

2013年11月14日木曜日

余裕のやっちゃんです

全く個人的なつぶやきなのですが。

ぼくの属する「東関東中会」は、

これまでは毎年の第二回定期会を11月23日(祝)に固定してきましたが、

今年はいろいろ考えて11月4日(月)に行い、もう終わってしまいました。

それで何が起こったか。

今とっても精神的に余裕がある状態なんです。ぽけーっとしています。

中会会議というのは「決めごと」をする場ですので、

会議までは心理的に混乱状態ですが、

会議が終われば決議内容を実行に移すだけです。すっきりさわやかです。

というわけで、今年に限っては、クリスマスまでポカン顔の関口です。

教会の牧師室や牧師館の、掃除とか片づけとか、しています。

まるで、いつでも引っ越しできるような、さわやかさです。

余裕のよっちゃん、というやつです。ぼくはやっちゃんですけどね。

「教会を動かす」の含意は「教会をよくする」です

前稿の続き。

「教会を動かす」の含意は、もちろん「教会をよくする」です。

歴史が証明するとおり、巨悪がはびこるのは社会だけでなく教会も然りです。

ぼくは悪人かもしれませんが(だとしたら、すいません)、ぼくは巨大ではないので「巨悪」ではありえません。ぼくが片付けば済むならいつでも退場しますけど、何の変化もありません。

ぼくのことはともかく、社会だけでなく教会にも巣食う巨悪の根源を正当な手続きで排斥し、かつ教会をよくすることが「動かす」です。

でも、教会は簡単に動かせません。

教会を利用してビジネスをしようと思いついた人は、たいていあきらめて出て行きます。営利目的で教会を乗っ取るのは容易ではないというか、全く不可能だからです。

教会はカネにはなりません。特定政党や特定企業に利用されることも断固拒否します。

それは教会の保守性(「この世で最も保守的な存在としての教会」トレルチ)の良い面だと、ぼくは思います。

しかし、悪い面もあります。

健全な批判精神を持っている人たちが、多くの場合、教会の周辺においやられてしまいます。

何も変えたくない、変わらないでほしいと願っている人たちが、ど真ん中に居座る。

ど真ん中に居座って、それで何かを懸命にしてくれるならいいけど、何もしない。

偏執的にミクロ的な一真理に固執し、不毛な同語反復を続け、さまざまな可能性に目を向けず、自派の存続を揺るがす人たちを組織票で抹殺する、といったやり方を好む。

これも「教会」ですよね。だけど、動かさなくてならないと思う。

世界で最も保守的なものを変革できれば世界は変革しうるんじゃないかな

昨日は「教会(キルへ)はインドのカースト制度を除けば多分この世の中で最も保守的なものである」というエルンスト・トレルチの言葉(1921年)に改めて接し(久しぶりに読みました)、

ちょっとファイトの念が燃えはじめたぼくだったりします。

なんていうか、

それって逆に考えれば、

トレルチをして「この世で最も保守的」と呼ばしめた「教会」を変えることができるほどの説得力ある言葉と生き方が見つかれば、そのとき世界は変わるってことですよね。

「教会」という、この押しても引いても梃子でも動かない、がっかりするほど鈍重なものを動かすことができる力があれば、世界は動くってことですよね。

そして、その言葉、その生き方、その力は、「教会」の中にいる者たちにしか手に入れることはできませんよね。教会に関わったことない人たちに、教会を動かす力はない。

「世界が変わらない、動かない」と嘆く気持ちは、ぼくも同じ。

だけど、それを言うなら、ぼくらはまず「教会」を変え、動かしてみせなくちゃね。

それができたら、世界も動いてますよね。

こういう考え方、間違ってますかね。

2013年11月13日水曜日

国や社会の形成にとって教会は必要不可欠だと思う

以下、今日読んでいる本から引用します。

日本語版原文では改行なしでつながっていますが、読みにくいので、適当に改行を加えました。

「さてしかしながら、われわれの関連にとって決定的に重要なのは、教会型に基づく社会哲学は、分派型に基づく社会哲学と全く別のものであるという事態である。

結局、完成された理論としての社会哲学をもっているのは教会だけである。というのは、教会のみが学問に対する関心と、この世を支配するのに役立つその学問の力に対する関心をもっているからである。

教会の学問性つまり教会哲学と神学は、それ自体が教会の相対的世界性の一部であり、この世界性と一緒になって一層広範に発展したのである。

しかしことに内容的な面で矛盾しているところが見られる。教会はこの世との妥協を企て、しかも自らの罪の赦しの理念や恩寵の理念を用いてこの妥協をかなりうまく実現することができた。教会はこうして、相対的自然法の諸々のこの世的な秩序を冷静に認めることができた。

また教会はそれらのおかげで、持続するこの世の中で継続的な労働を営む準備をすることができた。

教会は、その全体的な施設の理念、恩寵の理念、権威の理念それ自体において保守的である。それは、インドのカースト制度を除けば、多分この世の中で最も保守的なものである。

教会は、国家と社会における諸々の世俗的な秩序との関連においても保守的である。教会は一般に国家の権威と世襲的な社会組織の安定性に対して、それらによって束縛されることはないが、親和性をもっている。」

1922年(91年前)に発表された文章です。論者の炯眼に圧倒されました。

ただし、読み方というか解釈には、工夫というか予備知識がかなり必要な文章ではあります。

なかでも、「教会」(キルへ)と「分派」(ゼクテ)の明確な区別は、日本のキリスト教界にはピタリとは当てはまりません。

この人の分類法で考えていけば、日本のキリスト教界にあるのはほとんどすべて「分派」(ゼクテ)だ、という判断になるでしょう。

彼にとって「教会」(キルへ)とは、「学問への関心」をもち、「世界と妥協する」存在なのです。

しかし、そのことを踏まえたうえでも、ぼくはやはり、この論者が定義する意味での「教会」の存在が日本に必要だと考えさせられました。

この論者に言わせると、「教会」はインドのカースト制度に匹敵するくらいの「保守的な存在」だということになるようですが、それは当たっているとぼくは思う。

しかし、教会が「保守的」であること自体が悪いことだとは、ぼくは思わない。

一つの国や社会が形成されていくためには、教会のように「腰の据わった存在」が必要不可欠だと思うのです。

反論はあるでしょう。

この文章が発表されてから10年ほど後のドイツに出現したあの極右政党と「教会」(キルへ)との「妥協」はあってはならなかった。それも、そのとおりです。

上記の引用はエルンスト・トレルチの論文「キリスト教社会哲学」の一節です。

(佐々木勝彦訳、『トレルチ著作集』第3巻、ヨルダン社、1983年、24~25頁)。

1922年といえば、トレルチがプロイセン文部省次官を辞した1921年と、57歳で死去する1923年との間に発表されたもの、ということになります。

当時、ベルリン大学哲学部の教授でした。トレルチの個人史においても、ドイツの政治史においても、重要な意義を持つ論文だと思います。

2013年11月12日火曜日

「超訳聖書」のブログを立ち上げました

三つしか記事がありませんので、独立させるのは早いかもしれませんが、

頭と心の整理の必要もあり、「超訳聖書」のブログを立ち上げました。

超訳聖書
http://chouyaku.blogspot.jp/

「萌訳聖書」というタイトルにしてほしいという要望があるんですが、どうしたものか...

何度も書きますが、するどいツッコミには耐えられません。

ケンカ腰でかかってくるタイプの批判は無視しますので、悪しからず。

とにかく、ぼくは自分の読み方に、何のこだわりもありません。

また、最新の聖書学的知識などは、持っていません。

強いて言えば、ぼくが試しているのは「文体研究」のようなことです。

まあ、でも、まだほとんど何もできていませんので、

先走ったことを書くのはやめておきます。

2013年11月11日月曜日

のれんに腕押し、ぬかにクギ

だけど、日本だけではないと思いますが、

「プロテスタント」教会は、いろいろグループで細分化しているので、

他からの批判も自己批判もできにくい構造になっていると思うんです。

のれんに腕押し、ぬかにクギで、ひらひらかわすことばかり得意で、

自分にとって都合の良い「教会批判」にはやたら関心が強い割に、

自分に都合の悪い「教会批判」は、自分のこととして聞こうとしない。

ぼくは今、このことを他人事として書いてるわけではないですよ。

他人事になるわけないじゃん、生まれて(あと数日で)48年、

日本の「プロテスタント」教会から離れたことは一度もない人間なので。

ぼくは牧師の子弟ではないですが、

日曜日に教会にいなかった日は両手の指で数えられるほどしかないです。

年数で競うつもりはない、ということは、前から繰り返し書いています。

70代、80代の人に、40代、50代の者たちが、年数で勝てるわけないよね。

「外部」から文句言われるのはイヤですけどね。本当は聞きたくもない。

「何が分かるんだ」と言いたくなる衝動にかられることもあるほどです。

だけど、「身内」をかばい続けるのは、少々疲れました。

ホントに疲れました。

疲れても牧師。

死ぬまで牧師。

やりますよ、牧師。

ためいきもつかないぞ。

ぼくとかがためいきつくと、

「自分はもっとたいへんだ」と、

たいへんアピールしたくなる人たちがいるもんね。

ためいきついてません。ついてませんついてません。

茶坊主、お見合い、どうぞどうぞ

先週の「第19回 カール・バルト研究会」で結構盛り上がったのは、

「茶坊主」の話でした。

その内容を書くと角が立つので、書きませんけどね。

今の日本の(プロテスタント)教会は、

バレーボールの「お見合い」状態なのかもしれません。

ていうか、ダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ」だな。

発信力が強かった世代の人たちがほとんど引退状態にあり、

発信力が弱い、または発信力が無い人たちが、ど真ん中に居座っている。

引退状態にある世代の人たちの発信力にいつまでも期待し、ぶらさがる。

そういうの恥ずかしいと思わないのかな。ぼくは恥ずかしいんだけど。

2013年11月9日土曜日

忘れた頃の「超訳聖書」です

忘れた頃の「超訳聖書」です。

するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。

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ローマの信徒への手紙8章18~25節

使徒パウロ/著  関口康/超訳


そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。

だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、

ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。

だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。

ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。

全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。

人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。

そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。

じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、

もうそれは神さまだとしか言いようがないね。

ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、

つい言いたくもなるけどね。

だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。

だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。

あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、

そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、

なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。

その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、

キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で

神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。

それってやっぱりスゴイことなんです。

ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。

この世界がぼくらのことを期待してくれててね、

「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、

「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、

さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、

ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。

産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。

ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。

赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、

出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。

だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、

赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。

「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。

いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。

何を言いたいのかって?

ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。

そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。

そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。

「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。

自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。

だけど、ぼくらは教会続けますよ。

信仰とか捨てられないですよ。

そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。

それはやっぱり、さっき言ったことですよ、

全世界がぼくらに期待してるんだってば。

だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。

神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。

そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。

全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、

そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。

全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、

そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。

だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。

信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。

目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。

もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、

ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。

いつまでも待ちますよ。

ぼくは教会をあきらめない。

Christliche Anthropologie in de Konflikten der Gegenwartは「現代の闘争の中におけるキリスト教人間像」だろうか


サブタイトルは、Christliche Anthropologie in de Konflikten der Gegenwartだったのか。初めて知りました。

それが「現代の闘争の中におけるキリスト教人間像」と訳されています。辞書的意味に忠実に訳されてはいるということは、よく分かります。

しかし、ちょっと厳しすぎる言い方かもしれませんが、訳者の視線は、この本をまだ読んだことがなく、ドイツ語を読むことができない人たちに、ではなく、この本をドイツ語原著で熟読していて、ドイツ語の構文を知っている「身内」に向かっているのではないかと、なんとなく訝しく思えてきます。

いま書いていることは誤訳の指摘ではないし、訳者に対する批判でも攻撃でもありません。ただ、いろいろ感想を述べているだけです。

とはいえ、Konfliktは「闘争」だろうか。「の中における」という日本語に奇妙さはないだろうか。inを間に挟んだ二つの文は、いつでも後者を先に、前者を後に訳さなければならないか、などなど、いろいろ考えさせられています。

たとえばの話、「キリスト教的人間論の今日的議論」と訳すのは間違っているでしょうか。原著者がサブタイトルに込めている意味は、その程度のことだと思うのですが。

この訳書が出版された時期の背景的なことを想像すれば「闘争」と訳したかったのかもしれないことは分からなくもないですが、最大で「葛藤」くらいではないでしょうか。

なんか、そんなことを考えました。

忘れた頃の「超訳聖書」です

忘れた頃の「超訳聖書」です。

するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。

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ローマの信徒への手紙8章18~25節

使徒パウロ著/関口 康「超訳」


そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。

だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、

ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。

だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。

ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。

全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。

人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。

そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。

じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、

もうそれは神さまだとしか言いようがないね。

ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、

つい言いたくもなるけどね。

だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。

だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。

あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、

そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、

なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。

その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、

キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で

神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。

それってやっぱりスゴイことなんです。

ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。

この世界がぼくらのことを期待してくれててね、

「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、

「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、

さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、

ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。

産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。

ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。

赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、

出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。

だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、

赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。

「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。

いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。

何を言いたいのかって?

ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。

そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。

そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。

「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。

自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。

だけど、ぼくらは教会続けますよ。

信仰とか捨てられないですよ。

そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。

それはやっぱり、さっき言ったことですよ、

全世界がぼくらに期待してるんだってば。

だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。

神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。

そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。

全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、

そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。

全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、

そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。

だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。

信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。

目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。

もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、

ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。

いつまでも待ちますよ。

ぼくは教会をあきらめない。

2013年11月8日金曜日

「第19回 カール・バルト研究会」報告


好例の集合写真を撮り忘れましたので、

代わりに本の写真を。

今日(2013年11月8日金曜日)21時から23時30分まで

「第19回 カール・バルト研究会」を

グーグルプラス・ハングアウトで行いました。

今日のテキストは

カール・バルト『教義学要綱』(井上良雄訳、新教セミナーブック、新教出版社)の

第10章「イエス・キリスト」の後半部分でした。

ここに来てバルト神学の問題性が一気に噴出するといった感じで、いろいろと考えさせられました。

本日の参加者は下記(五十音順、敬称略)。

小宮山裕一(茨城県ひたちなか市)
関口 康(千葉県松戸市)
中井大介(大阪府吹田市)途中まで
藤崎裕之(北海道亀田郡)

次回は、な、なんと「第20回」です。

「第20回 カール・バルト研究会」は11月29日(金)21時から23時までです。

どなたもぜひご参加ください。

2013年11月7日木曜日

ぼくは「プア充」です

http://www.kotomatome.net/archives/33810872.html

島田某氏(面識なし)の書きっぷりは

あんまりぼくの好みじゃないんですけど、

「プア充」という言葉の流行源になっておられるらしいと、

FBのお友達から今日教えていただき、微妙な気持ちでいます。

ぼくは自他ともに認める(かどうかは不明)「プア充」の体現者です。

生涯2回経験した「海外旅行」は、すべて他の方のお金で行かせてもらいました。

ぼくの年収をFBとかに書くと教会の名誉にかかわるので書きませんが、

たぶん驚かれるほどです。

そういう人間なのですが、

ぼくを見て「かわいそう」と哀れんでくださる方はいないですね。

それは「プア充」だからだと思いますよ。自慢じゃないですけどね。

「プア充」、ですか、あはは。大笑いですね。ナニ言ってんだか。

それ、ぼくらのことですよ。

ぜひ「牧師」になってください。

よろしくお願いいたします。

土下座。

「現代人に納得できる教義学」を求めて(3)

「現代神学」という四文字熟語を使用することにぼくは心理的抵抗があります。なぜなら、神学が現代において営まれているかぎり、それは「現代神学」だからです。たとえテキストが過去の神学者の著作であっても、それを現代人が読み、現代人に理解できる言葉を用いて解釈している時点で「現代化」が起こっています。

「現代神学の元祖はシュライアマハーである」というシナリオは、いつ誰が書いたのでしょうか。おそらくそれを書いた人の「現代」は今の我々の「大昔」です。タイムラグというのは、時間の微妙なずれを指す言葉ではないでしょうか。「現代神学」という語のずれまくり感は、ハンパないレベルです。

神学エンチュクロペディーを学んだ人は、神学に聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学の四部門あり、組織神学は「現在」にかかわる部門であるという事情をご存じでしょう。そして言わずもがなですが、論者の「現在」が論者の「現代」です。つまり「組織神学」が「現代神学」であるとも言えるのです。

しかし「組織神学」は現代的な学問であるというようなことを仮にぼくがどこかで語ったとして、それをどなたがまともに聞いてくださるだろうかと考えるだけで頭が痛い。そもそも神学そのものが現代社会から失われている。まして「組織神学」など見る影もない。意図的に看板を下げる大学が増えている。

そんなこんなを考えているとき、ずっと前に買い集めたまま、ほとんど全く読まずに放置していた数冊の本に目がとまりました。新教出版社の「現代神学の焦点」シリーズです。ぼくが持っているのは9冊だけです。このシリーズが完結したのかどうかさえ知りません。

巻数順に並べた「現代神学の焦点」シリーズ

ぼくは「現代神学の焦点」シリーズの価値が分かりませんでした。とりあえず買いました。しかし、どう読んだらいいのかが見えませんでした。十巻を超えるシリーズのわりに、テーマの並べ方がランダムで、全体の統一性が全くない気がして読みづらかったです。

しかし、わりと最近(時期の特定はできないです)、「現代神学の焦点」シリーズの並べ方の順序を、何気なく変えてみたのです。あくまでも一つの可能性としてではありますが、伝統的な教義学ロキの順序を真似て、本棚上で並べ変えただけです。

ぼくがやったことは、「現代神学の焦点」シリーズの並べる順序を変えてみたことだけです。巻数順なら「理性、復活、未来、人間、新約聖書、平和、神、苦しみ、旧約聖書」の順ですが、「理性、旧約聖書、新約聖書、神、人間、苦しみ、復活、平和、未来」の順にしてみました。

伝統的な教義学の順序に並べ変えた「現代神学の焦点」シリーズ

すると、どうでしょう。ただシリーズ本の並べ方を変えてみただけなのに、これまでは買ったはいいけど本棚の埋め草になっているだけで何の興味もわいてこなかったこの新教出版社「現代神学の焦点」シリーズが、急に生き生きと立ちあがった気がしました。「ああ、これは一線級の教義学だ」と思いました。

もちろんぼくは、このシリーズの複数の著者のうち何人かは、自分の著作を「教義学呼ばわり」されることを快しとしないであろうことを分かっているつもりです。「ぼく/あたしの本はヴィッセンシャフト(学問)だよ。ドグマティーク(教義学すなわち独断論)ではないよ」と猛然と反発するに違いない。

でも、それは「組織神学」ないし「教義学」の本質を根本的に誤解しているゆえに生じる反発なのだと、ぼくには思えてなりません。今は「組織神学」と「教義学」を交換可能な同義の概念として用いますが、その意味の「教義学」は本質的に、本の並べ方を学ぶ学問であると言ってよいようなものなのです。

「教義学とは本の並べ方を学ぶ学問であると言ってよいようなものである」と書いた点について、これ以上広げる予定はない。ネガティヴな意味で書いたわけではないし、皮肉でも自虐でもないです。「本の並べ方」を軽んじるなかれ。それは今や「図書館情報学」等の名称で自立した一大学問になっています。

「図書館情報学」の中身をぼくは知らないので、クマンバチの巣に手をつっこむのはやめておきます。くわばらくわばら。ただ、「組織神学」と同義語として用いる意味の「教義学」は、知の全体系をトータルに把握しうるキャパシティをもつ巨大図書館の「本の並べ方」を研究することに似ています。

「現代人に納得できる教義学」を求めて(2)

しかし、本当に難しいのはここから先です。「解説」とは意味不明の言葉を理解可能な言葉へと置き換えることを意味すると考えた上で、そのことをキリスト教の教義学にも当てはめて考えようとするとき、非常に難しい問題にぶつかります。それは「教義学」そのものが現代社会から失われているという問題です。

ただし、それはとても難しい問題ですので、ぼくが今ここでスラスラと論じることができるようなことではないです。ただ、現象としてはかなり既出であり、ほとんど自明でさえあることなので、ちょっと例を挙げるだけで「あああ」という声が上がるのではないかとも思っています。

ぼくがすぐ思いつく代表的な「現象」は、たとえば聖書の言葉や神学の概念を「現代的な学問」である心理学や社会学や歴史学などの各領域で固有な定義づけがなされている言葉へと「翻訳」することで、「はは、なるほど」と納得するという流れです。でもそういうのはぼくが求めていることではありません!

神学の概念を心理学や社会学や歴史学の概念へと全く置き換えてしまうのであれば、それは「神学を放棄すること」であり、「神学が心理学や社会学や歴史学へと吸収されること」をやはり意味せざるをえません。それでよいなら「神学」は不要です。神学部・神学大学・神学校などは、もちろん不要です。

しかし、「神学部・神学大学・神学校などは、もちろん不要です」は、その前の「それでよいなら」という仮定の話の続きです。このような仮定はぼく自身も不快なので、自分で不快だと思いながら書くべきではないのかもしれません。神学は不要とは思っていないから、ぼくは神学にとどまり続けてきました。

ぼくに「神学者」を名乗る資格はないです。しかし、カール・バルトが使った言葉をそのまま借りて言えば「自分が神学者であることをはずかしいと思うような小児病」をバルト自身は「ある程度脱却したつもり」だと書いたのとよく似た心境を今のぼくが持っていることは、なんと驚くべきことに、事実です。

「現代人に納得できる教義学」を「求めている」ぼくが「求めていないこと」は、神学という学問が心理学や社会学や歴史学などへと吸収されてしまうことです。そのことを、ぼくは全く求めていません。神学の問題は神学が解決しなくてはなりません。教義学の刷新の結果が神学の喪失であってはなりません。

だからこそ、ぼくは「現代人に納得できる教義学の実現は非常に難しい」と言っているのです。問題は、どうしたら神学を喪失しないで教義学を現代的なものへと刷新しうるか、です。心理学や社会学や歴史学をワルモノにするつもりはありませんが、これらの学問と神学とは、厳密に区別されるべきなのです。

その意味では「神学」と「キリスト教学」も、やっぱり違うものなのだと思います。いっそ、キリスト教学が「現代的な装いへとカムフラージュされた神学」であればよいのに!しかし、どうもそうではなさそうです。キリスト教学は、意図的に、全速力で神学のもとから走り去ろうとしているように見えます。

「現代人に納得できる教義学」を求めて(1)

ぼくくらいの年齢になれば、全く新しいことを考えて書くことよりも、「事実上長年それを続けてきたが、しかし、それを字に書いてまとめたことはまだない」というようなことを、字に書いてみるという感じのことのほうが多くなってくるのではないかと思います。

実は、また新しい論文を書こうとしています。

具体的にどのような論文を書こうとしているかについては、まだ十分には考え抜いてはいませんが、キリスト教の教義学の方法論に関することになるだろうと言っておきます。

早い話にしてしまえば、「現代人に納得できる教義学」です。キリスト教の教義をビジュアルに表現するとどうなるか、というあたりが特にツボです。

というようなことを、若い友人の牧師と夜遅くまで話していました。ぼくが気になるのは「天使」とか「キリストの昇天」などです。「復活」は微妙です。

ぼくの問題意識は、たとえば映画やアニメでそれらを表現する場合、わりと従来なされてきたように、SFチックな描き方で本当によいのだろうかということです。

古い教義学は聖書の出来事を「超自然」(スーパーナチュラル)と表現します。しかし、それを映画やアニメで表現すると、やたら荒唐無稽になります。そういう映画やアニメを見れば見るほど、あまりにもアホらしく感じて愛想をつかす人が続出します。スペクタクルな描き方であればあるほど信仰の対象になりにくいです。

「『復活』は微妙です」と書いたのは、復活の事実性を否定したくないからです。だけど、キリストの復活や人類の復活を、ゾンビのように墓穴からズズズと這い出てくる血まみれの死体のようなものをイメージすべきとは、たぶんだれも考えていない。だけど、だったら何をイメージすればいいのでしょうか。

ぼくのイメージする「現代人に納得できる教義学」の20世紀的前例はブルトマンの「非神話化」です(ブルトマンは教義学者ではなく聖書学者ですが)。聖書は古代の神話的表象で書かれているが、現代人はそれを受け継いでいない。現代人に固有の表象へと聖書を「翻訳」しなおすことが「非神話化」です。

しかし、どうでしょう、20世紀においてブルトマンの「非神話化」は聖書学の枠内にとどまってしまい、教義学の刷新には至らなかったのではないでしょうか。「聖書学VS教義学」という不幸な対立図式もありました。しかし、今は21世紀です。「非神話化された教義学」が求められていないでしょうか。

一例:「イエスは聖霊によって、肢である私たちに、天の賜物を注いで下さいます。聖霊降臨は、イエス昇天後の神の恵みの第一の現われです」。

これは、ある文章を分かりやすく解説するのを目的として書かれた文章です。しかし今日では、この解説文を分かりやすく解説する文章が必要であることは明白です。

平たく言えば、言葉が足りていないと言わざるをえません。解説が解説になっていない。今日では意味不明の文章の解説文を、今日では意味不明の単語やセンテンスを用いて書いている。それを読んだり聞いたりする側の人に理解できないことは当然であるばかりか、おそらく語る者も意味を理解していない。

英英辞典というのがありますよね。オランダ語にも蘭蘭辞典あります。日本語で言えば、国語辞典。同じ言語の中でより難解なほうの言葉をより平易な言葉で解説している辞書。どれもとても便利なものです。しかし、時々「解説になっていない解説」がありますよね。ちょっと笑ってしまうようなケースです。

「A」という単語があり、その意味解説のところに「B」と書いてある。つまり、「AはBである」と説明されている。しかし、「B」の解説内容がイマイチよく分からない。それで同じ辞書の「B」の項をめくってみると、その解説文に「BはAである」と書いてある。つまり、何の解説もできていないのだ。

同じようなことが、従来のキリスト教教義学の中で繰り返されてきたと、ぼくは考えています。一方に「AとはBである」と書いてある。そのBの意味が分からないのでBとは何かを同じ本の中で調べてみると、「BとはAである」と書いてある。結局AもBも意味不明のままである。ケムに巻くとはこのことを言うのです。

意味不明の言葉で意味不明の言葉を解説すべきではありません。それは読者を迷路に陥れるのを楽しむタイプの人の趣味かもしれませんが、それは一種の異常心理のようなものです。そんなのは「解説」ではありません。それは当たり前のことなのだけど、そういうことを堂々とやっている人を見ると、ぼく的にはぞっとします。

「解説」というのは、読者に理解できない言葉を、理解できる言葉へと置き換えることでなければ、無意味ですよね?

教会の説教が「聖書の解説」という側面を持ち、教義学が「古代宗教思想の現代語での解説」という側面を持つのであれば、それは現代人に理解できる言葉で書かれる必要がありますよね?

「神学者の哀歌」というタイトルの本を書いてみたいです

嗚呼、堂々めぐり。

神学者の生涯とか、その神学者の著作を紹介しようとする場合、

「本がたくさん売れた!」とか「時代を動かした!」とかみたいな

サクセスストーリーっぽいのなら、ある意味で書きやすいわけです。

サクセスでなくても、アンサクセスストーリーであっても、

とにかく「動き」があると紹介しやすいです。

ですが、神学者は思想家なのだと思います。

「実践を伴わない思想」は見向きもされないのかもしれませんが、

その批判にあまりにも強迫観念を持ちすぎて、

「書斎に不在の思想家」ばかり増えてしまうのは、どうなのでしょうか。

「他人の本を読まない神学者」とか、ちょっと笑ってしまいます。

神学者は書斎に引きこもることを恥じるべきではないでしょう。

あなたがそれを恥じると、他のだれも書斎に引きこもれなくなりますよ。

しかし、「思想」でサクセスするというのは、よほどのことです。

「思想家のサクセスストーリー」というのは、世にも恐ろしい話です。

ファン・ルーラーのことを考え続けています。

彼にはサクセスストーリーがないんですよ。だから困っています。

ヨーロッパのキリスト教国家体制がどんどん崩壊していく最中で

オランダの国立大学神学部教授として「神学」を守るため奮闘しました。

しかし、それは

全体的で長期的で不可逆的な下降線の中での最終防衛戦のようなもので、

結果は敗北でした。彼の最期の思いは無念ではなかったかと思います。

こういう敗者の紹介というのは、どのようにしたらよいのでしょうか。

「神学者の哀歌」というタイトルの本を書いてみたいです。

2013年11月3日日曜日

ぼくは、好きな人の批判しかしません

ずっと、どうしようか迷ってましたが、

やっぱり書いておきます。

ぼく、ですね、

他人が書いたブログ記事を批判することはありますけど、

その「記事」(テキスト)を批判することと、

その記事を書いた「人」(パーソン)を批判することは、

別のことだと思っています。

ぼくは、嫌いな人の批判はしないんです。面倒だから関わりたくない。

ぼくは、好きな人の批判しかしません。

そゆことすると、その相手からは嫌われるんですけどね(大粒の涙)。

いま書いた原理からいえば、

ぼくが「記事」(テキスト)を批判するときは、

それを書いた「人」を尊敬している、または尊重しているときです。

こんなにエライ人がこんなヒドイ文章を書いているのは、脇が甘すぎる。

こんなボロボロの穴だらけの文章を書いているようでは、

悪意ある敵対者からどんどん攻め込まれて、

せっかく続けている尊い働きが続けられなくなりますよ、

というようなことを言いたいときに、

他人の文章(テキスト)を叩きたくなります。

それは、その文章の書き手(ライター)に対する、

ぼくなりの尊敬と愛の証しなのです。

牧師も「教師」ですからね、

つい赤ペン添削を始めてしまうのは、職業病です。

そうそう、

あとね、ぼく、「弱い者いじめ」もしないんです。

自分より弱い相手だと思ったら、その人のことは批判しません。

ぼくが批判する相手は、ぼくより強い人だと、ぼくが認める相手です。

ぼくの批判の対象になった方は、

ぼくが最強の相手だと認める存在だと自覚してください。

なんちゃって。

2013年11月1日金曜日

「聖おにいさん」について初めてコメントします

「聖おにいさん」についてぼくは一度もコメントしたことがない、ということに、ふと気づきました。

うちに全巻ありますよ。家族はよく読んでいます。でも、ぼくが最後まで読んだのは第一巻だけだと思います。

腹が立つとか反発したくなるとかは全くないのですが、ぐっと引き込まれて読みふけってしまうような感じでもない。それで、コメントしようと思い立つほどまでのモチベが生まれてこなかったのでしょうね。

そのモチベは今もないです。かろうじて目を通したはずの第一巻をもう一度手にとって開いてみようという気にもなれない。

とか書くと、すぐにでも「趣味・嗜好の違いってことでいいんじゃないの?」と指南されそうですけど、そういうのはイイや(笑)。まあ、そういうことなんでしょうけどね。

ただ、それって、どういう生理反応なんだろうなと、考えてみているだけです。ぼくが「聖おにいさん」に、それほどの興味を持てない理由。

画風も関係しているのでしょうけど、かなり気温低いですよね、あの漫画の世界って。「さむ~い」感じ。いや、「つめた~い」、かな。二人とも汗流したりしているような絵もあったはずですが、それでも寒そう。

全く当てずっぽうですが、それが作者の体温なのかもしれません。

イエスとブッダでしたっけ(どんな呼び方されてましたっけ)、両者を友達付き合いさせて、その二人の姿を、やや遠くから俯瞰する絵を描き続けているわけですよね。どちらにもコミットしない、というスタンスで。

なんかそのへんかなあという気が、今しました。

その、「自分自身はどちらにもコミットしようとしないで、両方を並立的に俯瞰できるスタンスって何なの?」みたいな気持ちが、読んでいるあいだじゅう、ぼくの胸中で騒ぎ続けた感じを、なんとなく思い出しました。

話は飛躍しますが「ワンピース」って、やたら気温高いじゃないですか、コミットメント感ばりばり、という意味で。

あっ、そうか、

「ワンピース」読んでサウナ感味わって、「聖おにいさん」読んで水風呂感を味わえばいいのか。

面白いことをひらめきました。

でも、たぶん、当分の間は、どちらのマンガも読みません。一生読まないかもしれないな。

さすがに、ちょっと年老いすぎました。