何年か前の高橋哲哉氏の本や、
読書会で読んでいる青野太潮先生の『十字架の神学をめぐって 講演集』や、
ファン・ルーラーの論文やで、
「贖罪論一元主義」というべきものへの批判が語られるのを読むたびに、
我が意を得たりとぼくは思う。
先日の読書会でも(問われたので)お答えしたが、
「贖罪論一元主義」になってしまうと「教会が胡散臭いものになる」と、ぼくは考えている。
個別の問題にかかわるのを面倒くさがっているだけのように見える。
宗教の欺瞞性が露骨に顔をのぞけているように見える。
どれほど涙を流しながら「贖罪」を説教していようと、ね。
教会を去る人が多いのは何故かとか、
日本の教会が広がらないのは何故かとか、
そういう言説が「流行る」今日この頃。
個別の問題に興味を持ってもらえない。
具体的な問題解決にかかわってもらえない。
不思議な話と不思議な儀式してるだけ。
ぼくもやだな。行きたくないね。時間の無駄と思うわ、たしかに。
牧師が「口動かしてるだけのヒマ人」なのは、個別の問題にかかわるためでしょ?
カラダ動かしてるかどうかは無関係。
カラダ動いてなくても、「個別の問題にかかわること」はできるから。
そもそも「偏執」や「同語反復」って、ぼくらの仕事ですかね。
同じこと繰り返すだけなら初音ミクちゃんに言ってもらうほうがいいね。