「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」
今日の個所でパウロが語っていることの要点は、人が救われるのは神を信じる信仰による、ということです。そして、そのような信仰による救いの模範を示したのが、わたしたち自身を含むすべての信仰者の父であるアブラハムである、ということです。
初めに申しておきたいことは、パウロあるいは聖書が「人が救われるのは神を信じる信仰による」ということを書いている場合の「信仰」の意味は「信頼」であるということです。その意味は「神を信頼すること」です。ですから、もしそのように言い換えるとしたら、「人が救われるのは神に対する信頼による」ということになるでしょう。
そして、その意味での「信頼」は、肩や体全体から力が抜けています。気楽ですし、のんびりしています。がんばって、気張って、一生懸命、熱心に、というようなことではありません。そのような力の入り方は「信頼」とは正反対の方向を向いています。
私ががんばって、がむしゃらに、猛烈に、食いついて、しがみついて、ではなく、神はいつも私と共にいてくださると安心していられるような関係。それが、パウロが「人が救われるのは神を信じることによる」という場合の「信じる」の意味です。それは「信頼」です。
このことを理解していただくためのたとえとして思い当たるのは、わたしたち人間の親子や夫婦の関係の中で求められる「信頼」です。そのことを考えていただけば、私の意図を理解していただけるのではないかと思います。
ぜひ実際の場面を想像してみていただきたいのです。たとえばの話ですが、子どもが親を信頼するとか、親が子どもを信頼する。そのことを口に出して言う場合に、「子どもが親を熱心に信頼する」とか「親が子どもを一生懸命信頼する」と言うのは、どう考えてもおかしいわけです。
夫婦の関係についても同じです。「夫が妻を熱心に信頼する」とか「妻が夫を一生懸命信頼する」とか言うのは、明らかにおかしい言い方です。
なぜおかしいのでしょうか。そのような場面で「熱心に」とか「一生懸命」とか言えば言うほど、その関係は危機的な状況にあるということを強調しているかのように響いてしまうからです。実は全く信頼しあえない関係になっている。不信感が募るばかりである。それなのに無理やり信頼している。だから「熱心に」信頼するとか、「一生懸命」信頼するとか言っているかのようです。
神と人間との関係について語る場合も同じことが当てはまります。わたしたちは「熱心に信じる」とか「一生懸命信じる」とかいう言葉を必ず使わなければならないかのように、どこかで思いこんでしまっているかもしれません。しかし、考えてみれば、そのようなことを言えば言うほど、かえっておかしいのです。神と人間の関係はそのようなものではありません。握りこぶしも力こぶも要らないのです。
これはよく用いられる比喩なのですが、人間を動物にたとえるのは嫌かもしれませんが、神と人間の関係は猿の親子ではなく、猫の親子であると言われます。猿の子どもは、親猿にしがみつきます。しかし、猫の場合は、親猫が子猫の首根っこをくわえて運びます。猫の子どもはぶらさがっているだけです。パウロが書いている「信仰」とは、そのようなことです。肩からも、体全体からも、力が抜けているのです。
「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」(13節)とあります。「その約束は律法に基づいてではない」とあるのは、もう少し噛み砕いておく必要があるでしょう。
パウロが書いていることは、神とアブラハム、また神とアブラハムの子孫との間に交わされた約束は、もしアブラハムたちが律法を完璧に守るならば、彼らに世界を受け継がせることにする。しかし、もしそうでないならば、彼らに世界を受け継がせることはしない、という約束ではないということです。律法を完璧に守るかどうかは、その約束を履行するかどうかの条件ではない、ということです。
なぜそれが条件ではないのでしょうか。その答えははっきりしています。そのような条件は、だれもクリアすることができないからです。律法を完璧に守ることができる人は、誰一人いないのです。ですから、完璧な人間でなければ世界を受け継ぐことができないというならば、世界を受け継ぐことができる人は誰もいないと言っているのと同じなのです。
世界を受け継ぐ人がだれもいないとしたら、人間は世界の外に出ていかなければならないと言っているのと同じことになります。しかし、わたしたちは世界の外に出ていくことはできません。それは死ぬことを意味しています。神はわたしたちが死ぬことを望んでおられません。生きることを望んでおられます。わたしたち人間は、だれひとり律法を完璧に守ることはできません。それでも生きろと、神がわたしたちにおっしゃっているとしたら、わたしたちが律法を完璧に守れるかどうかを神は問わないとおっしゃっているのと同じことになるのです。
人間が守ることもできないような律法を、神はなぜ人間に対して教えようとなさるのでしょうか。この問いに対する答えについてお話しする時間はありませんが、ハイデルベルク信仰問答(問115の答え)に書かれていますので、ぜひご参照ください。
「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります」(14節)とパウロは続けています。この「律法に頼る者」とは、自分は律法を完璧に守ることができると思いこんでいる人のことです。実際には不可能なのに、可能であると言い張っている人です。あるいは、実際にはいろんな面で律法を守れていないのに、私は守っている、だれからも、神からも責められたりとがめられたりする筋合いにはないと言い張っている人です。
そのような人が世界を受け継ぐのであれば、なるほど信仰は無意味です。できないことを「できます」と言い張り、できていないことを「できています」と言い張る人がいれば、うそをついているか、勘違いしているか、そのどちらかです。そのようなデタラメが通用するなら、信仰は要らない。パウロはそう言っているのです。
「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです」(16節)と話は続いています。これがパウロの結論であり、聖書の結論です。ぜひご理解いただきたいのは、この結論はわたしたちの慰めになるということです。なぜ慰めでしょうか。神はわたしたちに、できもしないことを無理やり押しつけられるようなお方ではないということを、わたしたちが百パーセント信じることが許されているということを意味しているからです。
戒律ずくめでは息が苦しくなります。できないことを押しつけられて、できないと罵られ、貶され、見捨てられる。もし神がそういうお方だとしたら、わたしたちの心は決して休まることも安らぐこともありません。そういうのはブラック会社と同じです。しかし、神はブラックなお方ではありません。失敗を許してくださる、完璧さなどはお求めにならない、心の広い寛大なお方なのです。
わたしたちは完璧でなければいけないのでしょうか。一番でなければダメでしょうか。なぜ二番ではいけないでしょうか。そもそもわたしたちは、どんなことでも勝ち負けを決めなくてはならないのでしょうか。競争しなければ気が済まない、競争に勝たなければ気が済まない。そのようにどんどん自分を追い込んで、追い詰めて生きていくことは、つらいでしょうに。
なんでもかんでも勝負事として考えようとする人たちがいます。勝ったときは狂喜乱舞かもしれませんが、負けたら地獄です。まだ若くて元気なときはそれでもよいかもしれません。しかし、肉体的にも精神的にも衰えていく。勝つことはほとんどなく、来る日も来る日も負け続きになる。そうすると、どんどん気持ちが萎えてきて憂うつな日々を過ごさざるをえなくなる。わたしたちの心に喜びも平安も無くなってしまいます。
パウロは続けます。「死者に命を与え、存在しないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです」(17節)。
ここで言われている「死者に命を与える」というのは「死者の復活」の意味にもなりますが、旧約聖書の創世記に書かれている、粘土をこねて人間の形にこしらえたその鼻の中に神が息を吹き入れてくださると、その粘土が人間になったというあの話を思い起こさせる言葉でもあります。
問題は、創世記に書かれていることをわたしたちがどのように理解し、受け容れるかです。人間は永遠に存在してきたわけではなく、人間が最初に生み出された瞬間がある。その人間に最初の命を与えてくださったのは神である。そのようなことを聖書は語ろうとしているのです。
「存在しないものを呼び出して存在させる」とは天地創造のことです。わたしたちの神は、そのようなことをなさった偉大な力をお持ちの方です。そもそもわたしたちは元々は存在しませんでした。私は47年前には存在しませんでした。70年、80年生きられた方でも、70年前、80年前は存在しませんでした。わたしたちはまるで、自分が存在しなかったことはいまだかつてなかったかのように思い込んでいるかもしれませんが、それは錯覚です。
わたしたちの命は、わたしたちが一生懸命がんばった結果として与えられたものではありません。わたしたちが努力したから、わたしたちが生まれたわけではありません。それと同様、わたしたちの努力の結果としてわたしたちが救われるというなら、神の恵みは要りません。神は要らないのです。
しかし、そういう話になっていくのは、そもそもの前提が間違っているからです。わたしたちの命も、人生も、そして救いも、すべて神からいただいたものなのです。わたしたちにそれを、感謝して受けとればよいのです。
(2013年7月21日、松戸小金原教会主日礼拝)