2013年7月9日火曜日

ただ積んでおいただけの本を、これから読む



自慢する思いなどは持っていませんが

ぼくはもう何年になるのか分からないくらい、キリスト教書店に足を運んでいません。

最近の様子が全く分かりません。

それでも全く不自由していないので、それはそれで問題だと認識しています。

その昔に買った本ばかりを読んでいます。20年前とかに買ったものです。

当時はほとんど読む力がなく、ただ積んでおいただけの本を、これから読む。

そういう感じでしょうか。

本て、ある年齢に達するとか、ある経験を経なければ、決して理解できないものって、ありません?

逆に言えば、それを経験した瞬間に、それまで理解できなかったことが急に理解できるようになる、とか。

なんか、いま、ぼくそういう時期なんだと思います。

やっと著者たちと同じくらいの年齢になった、とでも言うのでしょうか。

偉い人と自分を並べて言うのはおこがましいかぎりですが、

今のぼくが47歳ですが、昨年46歳になったときに友人の牧師から

「カール・バルトが『教会教義学』を書き始めた年齢になられたのですね」

とか言われて、どっきりしました。

だからナニと言いたいのではありませんが(ぼくには本は書けません)、

その年齢に達して、やっと「ああそういうことか」と分かるようになった部分が、

たしかにあると言えば、ある。

「新しい本を買って情報をアップデートする」というのとは違うと思うのですが、

「これまで読めなかった本が少しは読めるようになった」というのは、

結局これまでは本を持っていても理解できていなかったということ以外に意味しえないわけだから、

新たに本屋に行くのと大差ないんですよね、実は。

でも、今日は、ダメダメ状態です。

午前中からずっと、パネンベルクの『キリスト教社会倫理』(聖学院大学出版会、1992年)の

「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」という論文を久しぶりに読んでいるのですが、

(トレルチの倫理はぼくの修士論文のテーマでした)

アタマに入ってこないというか、思考停止の感じです。

気が散ってるのかな。きっとそうだな(にがわらい)。