一昨日(2013年7月10日)の記事でぼくが、パネンベルクのトレルチ論まで持ち出して、
「妥協」(Kompromiss)という言葉を、神学的なコンテクストでポジティヴな意味で用いてよいかどうかについて書いたのは、
否定的な意見があることを重々承知しつつの問題提起でした。
これは教義の問題でもありますが、それ以上に生理的嫌悪感を表明する人が出てくる問題になりうることも承知しています。
しかし、現実には「妥協」は避けられないし、打ち消しがたいと言わざるをえない面もあります。
ところが、教会に行くと生理的嫌悪感をもって退けられる。
そうすると、どうなるか。それで教会を去る人もいると思いますが、教会に残る人もいる。
「妥協」は公言すると生理的に嫌悪される。百歩譲ってもらえて「語ることはやむをえなくても、その場合はネガティヴな意味でのみ語れ」と言われる。
そうすると、どうなるか。教会の中で妥協が「地下に潜る」と思うんです。
教会の闇の部分(というのがもしあるとしたら)に「妥協」が隠れる。
「妥協」を禁じれば、教会は、より胡散臭い団体になり下がる可能性が出てくるのではないかと、ぼくには思えるのです。
ぼく自身も、「妥協」の無際限な肯定を推奨ないし是認すべきであると言いたいわけではありません。
「寸分の妥協も許さない」というのは、モットーやスローガンとしては成り立ちえますし、好ましいことでさえあると思える。
しかし、現実には、パーフェクトには不可能。
だとしたら、「妥協」の事実を公開し、公の目で監視・管理すべきではないだろうかと、そういうことを考えているだけです。
「正々堂々と妥協する」というのは、言い方としては明らかにおかしいわけですが、
しかし、これは宗教と政治の関係、教会と国家の関係といったコンテクストの話として、理解してもらう必要があります。
日本の教会が自前のキリスト教主義政党を持っていない以上、
たとえばの話、どこかの政党と「(妥協的に)協力」しなければならない場合が、あるかもしれません。
ドイツのように、キリスト教主義政党があれば、
パネンベルクのように「妥協という言葉は使うべきではない」とストレートに言いうる、かもしれない。
だけど、日本にはそれがない。
「宗教」の団体である教会が「宗教の倫理」としてのキリスト教倫理を政策的に実現するために、
政党は不要であるという理屈が成り立ちうるか。ぼくには「否」と思える。
しかし、我々のパートナーは、自民党なのか、公明党なのか、社民党なのか、みんなの党なのか、共産党なのか、もろもろの党なのか。
政党の支持は各個人の事項なのだから、いかなる意味でも教会は教会員に「呼びかけ」をしてはならない、という話になるのか、ならないのか。
こういう感じの問題群にかかわる問題提起のつもりです。
「胡散臭く」はないと思いますが、「キナ臭く」はなるかもしれません。