2013年7月9日火曜日

パネンベルクのトレルチ論を読み返している理由

いまごろになって、パネンベルクのトレルチ論(W. パネンベルク「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」『キリスト教社会倫理』聖学院大学出版会、1992年、107~153ページ)を読み返していることには、理由があります。

読書マニアのつもりはないし、修論執筆の頃の郷愁にふけっているわけでもありません。

ごくざっくり言えば、

パネンベルクが紹介しているトレルチの論文「倫理学の根本問題」(ヨルダン社版『トレルチ著作集』第3巻所蔵)が直接的に扱っているのは、

カール・バルトの恩師でもあるマールブルク大学のヴィルヘルム・ヘルマンの主著『倫理学』なんですけど、

ヘルマンがアルブレヒト・リッチュルから受け継いだ新カント主義の見方に立ちつつ、

「キリスト教倫理」の主観化・内面化(権威や束縛からの自由とか自立とか)を促進しようとしたことに対して、

トレルチは、シュライアマハーの影響のもと、「キリスト教倫理」というのは、文化とか政治とかいった、もっと客観的・外面的な問題を扱う学問ではないかと言いたかったわけです。

で、トレルチは、これもごく単純にいえば、ヘルマンの「主観主義」とシュライアマハーの「客観主義」は相互補完的な関係にある、というくらいの趣旨で、両者の統合を模索しようとしました。

しかし、その「模索」たるや「言うは易し、行うは難し」なものでして、アロンアルファでくっつければ済む、みたいな話じゃないわけです。

だって、「権威からの自由や自立」(個人的主体性の確立)と「政治や文化のキリスト教化」(歴史的宗教文化の普遍化)というのは、水と油の関係でもあり、ベクトルが正反対を向いてるようでもある、でしょ。

でも、その矛盾・対立する両側面を同時に言えるようじゃなきゃプロテスタンティズムじゃない、みたいなことをトレルチ先生は考えたわけです。実に勇敢な先生だったと思います。

こんなことが今ぼくの問題になっているのは、名指しは避けますが、キリスト教倫理における主観性と客観性の関係について葛藤したことがないかのように見える人がいましてね。

その人どうも「キリスト教倫理」を語りたがっているようなんですが、

基礎づけがデタラメというか、何を言いたいのか分からない。

客観的な話にはほとんどならず、主観的な話をして終わり。

挙句の果てには「教会は政治や社会について発言すべきでない」みたいなことを言い出す。

これじゃあどうしようもないと、ぼくは思っているわけです。

もちろん、難しいんですけどね。だけど、「難しい」から「発言しない」わけには行かないんじゃないのかな。

そんなこんなの動機で、パネンベルクのトレルチ論を読み返しています。

分からず屋がいるとね、苦労しますよ。

あ、愚痴っぽくてすいません。