で、
ぼくにとって、というか、
もちろんトレルチにとってもパネンベルクにとっても、なんですが
最も深刻な問題は「妥協」(Kompromiss)なんです。
以下、ちょっと長いですが、パネンベルクの文章の引用。
「宗教的な目的と世俗的な文化的諸目的との一般的両義性は、トレルチによればキリスト教においても問題にならざるを得なかった。しかし、その宗教が『すべてを包括する創造的な神の意志』から出発しているため、『その宗教的目的は、ただ単に世界内的諸目的の代替とか除去とかを意味することができない』ということが、すでに一般に通用している。『そのようにして、まさにキリスト教の神信仰が、神によって創造された世界を積極的に評価することによって、神との交わりという絶対的な目的の中に世界内的な諸目的を受け入れることを可能にせざるを得ない』。そこからトレルチは、繰り返し新たに“妥協”を見出すことを倫理的課題であると推論している。その妥協とは、『国家、法、学問、芸術といったものの職務の中』にある世界内的諸目的と、世界内的諸目的の統一化にとって不可欠であることがその力である宗教的目的の諸要求との間の妥協である。
この観点は、キリスト教会と諸集団の社会教説に関するトレルチの大著にとって基礎的な観点になったものである。(中略)
この妥協という構想は、一見してきわめてもっともなことと見える。しかしその理論的な基盤は、この研究の進行途中で繰り返し気付かされてきた不明瞭さに苦しんでいる。このことを示す最初の間接的証拠は、宗教的な目的設定とこの世的な目的設定との妥協という一方にある組織的な構想と、他方トレルチが、終末論的ラディカリズムからその後の時代における世界とその所与の積極的な受容へと到るキリスト教の歴史的発展の連続性を説明するために提供した明白な解明との間に不一致があることである。神がこの世界の創造者であり、この世界の救いを意図しておられる限りにおいて、あの発展は、キリスト教の神思想そのものに基礎づけられていた。そうであるとすると、キリスト教が、その使信が踏み入っていくところの文化世界を自己の内に統合するために、その文化世界の諸条件に関係するとしても、それはかならずしも妥協を意味するとは思われない。その統合がどのように遂行されるかということによって初めて、キリスト教信仰に対立する所与や所見との妥協を代価として支払ったかどうかという問題が決定される。しかしそうした妥協は、当然、倫理的課題として説明されることはできない。そうではなく、それは倫理的挫折、つまり眼前に見出される文化的所与をキリスト教的に『変革する』という課題に挫折したことを示すことになる。トレルチは、『妥協』という表現をより広い意味に使用して、キリスト教が文化世界の事実的諸条件と関係するそのあらゆる関与を『妥協』と呼んでいる。しかし、もしそれが神思想そのものによって要求されているならば、すでに述べたように、『妥協』という概念は惑わしを与えるものになるであろう。妥協概念は、キリスト教の歴史の中で繰り返し遂行されてきた『文化総合』に関するあまりにも外面的な描写を提供しているが、しかしその『文化総合』の信憑性は、そのキリスト教的真正性に関する確信に依拠している。」
(W. パネンベルク「エルンスト・トレルチにおける倫理学の基礎づけ」『キリスト教社会倫理』聖学院大学出版会、1992年、136~138ページ)
ここでパネンベルクが要するに言おうとしていることは、トレルチが使った「妥協」という言葉は、誤解を招きやすいので使わないほうがよい、ということです。
パネンベルクの意図を要約すれば、
「創造者」への信仰はキリスト教の神思想そのものであり、その思想は文化世界の統合という目的を包括するものなので、その目的を遂行することはなんら「妥協」ではない。
「妥協」という言葉の含意は、あくまでも倫理の挫折、すなわち、文化のキリスト教化の失敗でなければならない、というようなことになると思います。
ですが、ここでぼくは「う~ん」と考えこんでしまいます。
「妥協」という言葉をウスギタナイもののように毛嫌いし、神学的思想世界から排除する人がいるのは仕方ないとしても、
でもですね、ずっと前からぼくはしつこく言っているように、例の映画のセリフ:「正しいことをしたかったら偉くなれ」みたいなことは、もうあんまり言いたくも聞きたくもないけど、しかし、しかし、どうしようもないほど紛れもない事実だったりする。
立法・行政・司法の中枢部に入っていくことなしには、法律ひとつ、条例ひとつ、変えることもできないし、守ることもできない。
こんなことを書くと即座に「だったら、あんたが入っていけば~?」とか言われてしまうのでホントは書きたくもないんですが、
でも、「妥協」という言葉を見るだけで総毛立つものを感じるらしい人たち、あるいは「妥協」しているとその人たちの目に見えてしまった途端、排除と軽蔑の対象とみなし、徹底的に攻撃しはじめる人たちに接すると、ぼくは黙っておれなくなる。
こんなふうにして、ぼくは、「妥協」というのはキリスト教倫理の課題ではありえず、あくまでもキリスト教倫理の挫折である他はない、というパネンベルクの考えに、どうしても納得できないんです。
「妥協」という倫理的な“任務”は、我々にありうるのではないか。
結果、それは“汚れ仕事”っぽいことになるかもしれませんが、そういうことなしには、何もできずに終わってしまうだけではないか。
具体的に「何」をすることが(ポジティヴな意味での?)「妥協」なのかについては、ぼくには分かりません。
いま考えているのは、「妥協」“という言葉”をポジティヴに“使用”してもよいかどうか、という程度の話です。